えみりちゃんのいぬ

ぬえもと

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そのよん

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 自らを犬と呼称した男は、その言葉を体現するかのように、咲里に対し従順だった。
 一緒に寝ようと迫ってくるのを「やめて」とはっきり拒絶すれば、渋々ながらも大人しくソファーで眠り、一人にしてくれと言えばきちんと一人にしてくれる。
 やっていけるかと心配していた咲里を尻目に、案外二人の共同生活は順調な滑り出しを見せていた。
 男は過度に咲里に干渉しようとはせず、必要とするときだけそれを察したかのようにどこからともなく姿を現わす。それ以外では姿を消し、けれど夜になれば、きちんと家に戻ってくる。まさに、飼い犬のように。
 しかし、ずっとソファーで眠らせるのはいかがなものかと、日曜日の朝、咲里は母親の部屋を覗き込みながら、そんなことを思った。

(どうせなら、ベッドごと変えちゃおうかな)

 少し手間はかかるだろうが、壁紙を張り替えて、この部屋の家具を全て入れ替えてしまえば、匂いに敏感なあの男も気にならなくなるのではないだろうか。

(……ついでに、服も)

 初めて会った日も含め、三日間。
 男はずっと、初対面の時と同じ黒のスーツを着用していた。
 いつの間に風呂に入って服を洗濯をしているのかすら定かではないが、不思議と男の体も服も小綺麗なまま。けれどずっと同じ服というのは、こちらとしてはいたたまれない気持ちになってくる。
 元暮らしていた家に荷物を取りに行くそぶりもなく、男は自分に対する関心が極端に薄いようだった。そのくせ、咲里には妙に恭順に尽くそうとする。

(……お金なら、あるし)

 これまで恐ろしくて手をつけていなかったが、リビングの隅には現金が大量に入ったボストンバッグが置かれている。自分のためにあのお金を使おうとは未だに思えなかったが、男のためなら手をつけてもいいんじゃないかと、そんなことを考えられる程度には、咲里は男に対し気を許すようになっていた。
 でも一応は、使ってもいいか聞いてみなければと思いながら、咲里は着替えをすませるとリビングへと続く階段をゆっくりと降りていく。
 咲里がリビングの扉を開けると、そこには既に湯を沸かし、着々と朝食の準備を進めるスーツに身を包んだ仏頂面の姿があった。この光景も、今となっては見慣れたものだ。
 咲里の侵入に気付いた男が、顔をこちらに向ける。
 
「……おはよう、ございます」

「……ああ」

 声をかければ、どことなく男の無表情が和らいだ気がした。
 手伝いを申し出ても無駄なことは既に分かっているので、若干の申し訳なさを感じながらも大人しくダイニングテーブルに座る。膝の上でもじもじと指先を弄びながら、咲里は恐る恐る口を開いた。
 
「あの、……お願いが、あるんですけど」

 手持ち無沙汰にシンクにもたれ、トースターの中で焼かれる二枚の食パンを見ていた男が、咲里の方を向いた。急かすことはせず、ただじっと咲里の言葉を待つ眼差しはぎらぎらと物騒に輝いている。何度見ても、この鋭い眼光だけは慣れない。けれど、男が咲里に対し敵意を抱いてはいないことは十分に理解できていたので、咲里は安心して話し出すことが出来た。

「その、あのお金、使っても大丈夫ですか……?」

「ああ」

 二日前と同じ位置に置かれたままのバッグを指差せば、男は相変わらず興味なさげに相槌を打つ。

(何に使うのか、聞かないんだ)

 別に無駄遣いをする気は一切ないのだが、こうまで無防備だと逆に不安になってしまう。咲里は人から、こんな風に尊重されたことがない。たまらず口が、考えるより先に言い訳の言葉を並べ立てていた。

「ち、違うの。あの、……前に隣の部屋の匂い、嫌だって言ってたから。……それで、その、ベッドとか、家具とか、一式買い換えたら、匂いも薄くなって、使えるかな、って。いつまでもソファーで寝かせるのも、申し訳ないし、……消臭剤も置いて、そしたら、気にならなくなると……思って、それで……ついでに、あなたいつも同じ服だし、服とかも、買いにいけたらなって……、思って。でもあの、私、あなたの好みとか分からないし、お店、結構遠いし、だからその、このあと、一緒に――」

 続きを言おうとして、ずかずかと無言のまま大股でこちらに向かってくる男の姿を認識した瞬間、咲里はたまらず固まってしまった。
 余計なお世話だっただろうか。魔法のようにどこからともなく札束と食材を取り出してみせる男なのだ。もしかして、その服は好みで着ているだけで、変えようと思えば変えられるものなのだろうか。部屋ももしかすると、好きにしようと思えば買いに行くまでもなく自由自在に模様替え出来るのではないだろうか。
 なんでそんな単純なことを思いつかなかったのだろうかと、咲里はじっと背を屈め、座り込む咲里の目を覗き込んでくる漆黒の眼差しに怯えていた。
 咲里を射抜く瞳は相変わらず夜の闇のように暗く、底知れぬ威圧感がある。

(……絶対、怒らせた)

 この二日間で、咲里は思い上がっていた。舞い上がっていた。この人に少しでも喜んで欲しいだなんて、そんなことただの自己満足でしかないのに。
 余計なお世話だと、罵りの言葉が飛んでくるのを覚悟して、咲里はきつく目を閉じ鼓動を早める胸の前で両手を強く握りしめた。

「咲里」

 予想外に柔らかな色を含んだ声に、咲里は震えながらゆっくりと瞼を押し上げていく。
 完全に瞳が開ききるのと、男が座る咲里を抱きしめるのはほぼ同時だった。
 
「嬉しい。……すごく」

 どこまでもまっすぐな言葉に、顔が火を吹いてしまいそうだった。
 咲里は身動きも取れぬまま、すんすんと匂いを嗅ぐようにして首筋に埋められた顔に、ろくに抵抗もすることが出来ずにただされるがままになることしか出来ない。
 こういう時は、どういう対処が適切なのだろうか。
 首筋に男の息の当たる感触が、どうにもこそばゆい。
 そういえば、二日前の朝にも似たようなことをされたっけなと、男の胸の中でじっと固まったまま、咲里はそんなことを思う。こうされていると、本当に彼は大きな犬のようだ。ご主人様の一言に一喜一憂し、自分の匂いをつけようと執拗にすり寄ってくる。

(そういえば、くろもよく、こんなことをしてたっけ)

 男の様子は、咲里が帰宅するたび足元にすり寄ってきた愛犬の姿を想像させる。
 実際、この男は犬などではないからこそ、咲里はこんな羞恥を味わっているわけなのだが。犬にされれば微笑ましいものでも、成人男性にされてしまえば恥ずかしいことこの上ない。

「あ、あの。離して、もらえますか……?」

 居た堪れなくなり、咲里はぼそりとそんな言葉をこぼす。
 すると、男は渋々咲里の体から手を離した。そのまま何事もなかったかのようにキッチンへ戻っていく男の顔は、変わらずいつもの仏頂面だ。けれど、どことなく雰囲気が柔らかい。

(そんなに喜んでくれるとは、思わなかった)

 それ以上に、拒絶されないことに安堵する。
 黙々とトーストが焼けるのを待ち続けている男を見ていると、自然と咲里の口元には笑みが浮かんでいった。

(やっぱり、変な人)
 
 変な人だ。損得勘定抜きで、咲里を受け入れるだなんて。
 けれどそれが心底心地いいと、名も知らぬ同居人に、咲里は心の中で感謝を伝えた。

 朝食を済ませ、昼食を終えると、二人は庭に停めてあったクーペに乗り込んだ。
 助手席に座った咲里はきつく膝の上で、財布の入った小さな鞄を抱きしめる。
 この中には、今までの咲里には考えられないほどの大金が入っているのだ。
 家を出る前、咲里は申し訳なさを感じながらボストンバッグの中からほんの少しだけお金を抜き取り、自身の財布にしまおうとして、やっぱりあなたが持っていてくださいと、札束の隙間から取り出した五万円を即座に男に渡そうとした。
 だが、男は受け取りを拒絶した。
 これはあんたのものだから、あんたが持っているべきだ、と。
 
(これは私のお金じゃない。……この人のお金で、この人のものを、買うだけ。それ以外では、絶対使わない)

 そう肝に銘じ、咲里は深く息を吐いた。
 だが、葬儀が終わってからずっと家に引きこもっていたため、久しぶりの外、そして初めて誰かと一緒に車に乗って遊びに行くという状況に、咲里は気分が舞い上がるのを隠せない。長らく降り続いていた雨も止み、燦々と降り注ぐ太陽の光を享受しながら、咲里は眼を細める。

(家具は処分が大変だし、今日は服を買うだけにしよう)

 ついでに家具の下見もすればいいと、咲里はちらりと運転席に座る男の横顔を盗み見た。

「どこに行けばいい」

 シートベルトを締めながら、男は淡々と尋ねる。
 最寄りのショッピングセンターの名前を口にすると、男は微かに眉を寄せた。

「……あの、嫌だったら別の場所でも」

「違う。……ただ、昔」

 そこまで言って、男は口を閉ざした。
 片方の腕をハンドルにかけた状態で、もう片方の腕で左耳を抑え、男はしばし黙り込んでしまった。心なしか、顔色も悪い。

「……大丈夫、ですか?」

「……なんでもない。気にするな」

 そう言って頭(かぶり)を振った男の顔は、元の無表情に戻っていた。
 なんでもないと突っぱねられてしまえば、かける言葉はないわけで。
 迷いを振り切るようにしてアクセルを踏み込んだスーツ姿の男の横顔を、咲里は呆然と見守ることしかできなかった。
 知っている場所だったのだろうか。備え付けられたカーナビの電源は一度もつけられることはなく、車は咲里の提示したショッピングモールへと無事到着した。
 日曜日だけあって、施設は賑わいを見せている。男は道中どこか苛立たしげだったが、いざ到着してしまえば、いつもの落ち着きを取り戻していた。
 男とともにショッピングモールの中に入った瞬間、少しのざわめきとともに、周囲の女性たちの視線が一気に横に並び立つ男に集中する。タイトなスーツを着こなす長い体躯に、俳優のように整った顔立ち。

(かっこいい、よね。……やっぱり)

 そういえば、最初はホストだと思ったんだっけと思いながら、職業名前年齢ともに未だ不詳の男から逃れるようにして、咲里は顔を伏せる。
 絶対、釣り合っていない。なんでこんな人気の多い場所を指定してしまったのだろうと思いはするも、服と家具を同時に見られるであろう場所が、咲里にはここくらいしか思い浮かばなかった。

(実際にくるのは、初めてだけど)

 あまりの人の多さに、たまらず萎縮してしまう。
 咲里が普段行く場所など、おばさまたちの憩いの場になっている近所のスーパーくらいのものだ。こんなに人が多い場所に、咲里は誰かと一緒に遊びに来たことなんてない。

(……今日も別に、遊びってわけじゃない)
 
 生活必需品を買いに来ただけ。
 本当に、それだけだ。

「咲里」

 不意に頭上から響いた声に、下げていた顔を上げる。
 見上げた先の無表情からは、何も読み取ることができない。

「どこに行きたい」

「えっと、とりあえず、男性ものの、服が売っている場所に」

「分かった」

 ゆっくりと咲里が吐き出し終わるのを確認してから、男は自然な動作で咲里と手をつないだ。瞬間、周囲から黄色い歓声が上がる。それ以上に、咲里自身が叫び出してしまいたい気分だった。
 指と指を絡め合う繋ぎ方は、どう考えても親子や親戚の関係でするものではないような気がする。
 
「えっと、あの」

「……はぐれたら、困る」

 困惑する咲里を宥めるようにして、きつく指と指を絡められれば、返す言葉は何もなかった。無言で咲里が頷くのを確認した瞬間、男はゆっくりとその長い足を前へと踏み出した。咲里の歩く速度に合わせ、ゆっくりとした歩調で。
 周囲からの視線など全く眼中に入っていないとでも言いたげに、男はマップ片手に淡々と歩いていく。繋いだ腕から伝わる熱が、どうにも落ち着かない。

「あんたは、どういうのが好みなんだ」

 周囲の店を品定めするかのように見渡しながら、男はいつもの調子で淡々と言葉を吐き出していく。

「……え?」

「服」

 言われて、ああ、と納得する。
 けれど、どうして咲里に服の好みを尋ねる必要があるのだろうか。
 今日は男の服を買いに来たのであって、そこに咲里の感情は関係ないはずだ。

「あの、なんで、……私の好みを、聞く、……必要が、あるんですか?」

「あんたの、好みになりたい」

 言葉が、出なかった。
 身をかがめ、まっすぐに咲里を見抜く目は相変わらず底なしの闇のようだ。この世全ての苦痛を凝縮したかのように暗く淀み、けれど咲里を見る瞬間だけは輝きをますそれは、咲里の心の奥底へと深く突き刺さる。
 あんたの好みになりたいという言葉に、嘘偽りは何一つとしてないような気がした。
 じりじりと、どこまでも純粋な好意の炎に、身を焼かれていく。
 咲里の周りにあったのは、憐憫、嘲笑、侮蔑、そんな薄暗い感情ばかりだった。
 なのに、男は咲里が心底大事だとでも言うように、絡めた指に力をこめる。
 
「そう……ですか」

 耳まで赤く染め、どこか上機嫌に頬を緩める男に相槌を打つのが、今の咲里には精一杯だった。



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