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後日談
えみりちゃんといぬ(きゅう)
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不機嫌さを隠しもしない重低音に、咲里と店員の女性だけでなく、それまでどこか生暖かい空気に包まれていた店内が一瞬で凍りついた。
声を発することすらも出来ず、咲里はくろの顔を直視したまま絶句してしまう。
あからさまに気分を害したことを隠しもせず、くろは眉間に皺を寄せながら店員を睨みつけている。
頭の上から、思い切り冷水を掛けられたような気分だった。
「彼氏じゃ、ない」
周囲が黙り込んでいるのを、どう解釈したのか。
そんな風に言われるのは心外だとばかりに、再度言い含めるようにしてゆっくりと発言しながら、くろの眉間の皺はますます深まっていく。
「え、あ、えっと。……その」
気まずそうに口を閉口させている店員に、何を思ったのか。
くろは軽く溜息を吐いたのち、戸惑う咲里を押すようにして腰に手を当てると、そのまま咲里を連れて店の扉をくぐった。
背後で、扉の閉まる微かな音がする。
そのまま日傘をさし、行きの時と同じく繋ごうと伸ばされた反対の腕を、咲里は咄嗟に避けていた。
下を向き、胸の前で静かに硝子細工の入った紙袋を抱きしめる。
背を、嫌な汗が伝う。観光客の喧騒が、どこか遠い違う世界の音のように感じられる。どんな顔をしてくろを見ればいいのか、分からなかった。
「あ、あの、私、その、手を繋いだら、荷物、片手で持たなきゃいけないし、それで、落としちゃったら、ショックだし。……そ、その、だから」
「わかった」
咲里の言動にこれといって気分を損ねることもなく、くろは微かに口角を吊り上げ、穏やかに微笑んでいた。むしろ、いつもより浮き足立っているようにすら見える。
だからこそ、余計に混乱する。
胸の前で抱きしめた紙袋が、歩くたびにくしゃりと歪な音を立てた。
――彼氏じゃ、ない。
二人連れだって歩きながら、呪いのように胸の内でくろの言葉を繰り返しては、ぐさり、ぐさりと傷をえぐられていく。
しばらく足を動かして初めて、咲里は先ほどのくろの言葉に、自分でも思っていた以上に動揺していたことに気付かされた。
周囲の景色が、全くもって頭の中に入ってこない。
この数日、本当に恋人が出来たようだと浮かれていた自分が馬鹿みたいで、どうしようもなく惨めに思えてくる。くろが先ほどの言動を現状気にも留めていないであろうことが分かるからこそ、余計に。
だがそもそも。よくよく思い返してみれば、一方的に咲里が思い込んでいただけで、くろは何も悪くない。咲里が勝手に期待して、勝手に失望した。
あまりの浅ましさに、反吐が出そうだった。
(……それに、嫌われていないのは、分かる)
殴ることも罵倒することもせず、日々甲斐甲斐しく世話を焼き、体を重ね、あれほどまでに好きだと連呼されれば、いくら鈍い咲里でも察しが付くというものだ。
さっき店で買い物をした時だって、今だって。
咲里のために虐殺とも言えるほどに人を殺め、先日怯える咲里を前にした時、咲里を守ろうとするくろの殺意も、この身で感じたのだからわかる。本物だった。間違いなく、どうしようもなく大事にされている。
(だけど、……『彼氏』じゃ、ない)
では、くろにとって咲里はなんだというのか。
簡単なことだ。
(……飼い主と、犬)
端的に表してしまえば、その一言で片がつく。
くろの振る舞いは、主人に仇なすものを殺める番犬のそれと大差ない。
不意に、脳裏に九条と名乗った男の言葉が過ぎった。
――あれは、人間じゃない。君は何か、よくないものに憑かれてる。
人の常識では計れない、何か。日に日に言動が人間に近付こうが、どれほど優しくされ、途方もない愛情を向けられようが、その根本までは変えられない。
人間には、なれない。
そんな事実をまざまざと突き付けられたような気がして、咲里は一人歯を食いしばった。
(最初は、くろがずっと傍にいてくれるだけで、……よかったはずなのに)
望み通り、くろは咲里の元に戻ってきてくれた。それだけでよかった。そう思っていた気持ちは、決して嘘なんかじゃない。
けれど、今の咲里は――
一刻も早くあの男から離れたほうがいいという提言は、あながち間違いではなかったのかもしれない。
良くないものであることも、人間ではないこともわかっていたはずなのに。
考えれば考えるほど、出口のない迷宮の奥へと迷い込んでいく気がした。
*****
しばらく適当に店を回ってみたものの、こんな精神状態で観光に集中できるわけもなく、適当に頃あいを見計らうと、二人はそそくさと旅館に戻ることにした。
チェックインの手続きを済ませ、仲居に連れられて薄暗い廊下を歩いていく。
開けられた扉の先に広がっていた光景に、咲里はたまらず固まってしまった。
平然と靴を脱ぎ、式台に足を載せ、和室へと続く襖を開けるくろを見上げたまま、咲里は静かに息を呑む。
「夕食は何時頃にお持ちいたしましょうか」
「あぁ。……あんたはどうする?」
(玄関が、……広い)
振り返ったくろに返事を返すことも忘れ、咲里は客室の雰囲気に完全に圧倒されていた。紙袋を抱く腕が、小刻みに震える。その一瞬、咲里の頭から何もかもが吹っ飛んだ。
ロビーに入った時も場違いではないかと思ったが、その比ではない。
正方形状の土間は薄ら暗かった通路とは対照的に、どこかオレンジがかった照明により暖かな雰囲気に包まれている。
その先に広がっている和室も、蛍光灯の白とは違う柔らかな橙色に包まれており、何より広い。
(これ、何畳なんだろう……。うちのリビングと同じくらい? ううん、それよりもっと広いんじゃ……。窓もなんかすごく、大きいような……。け、景色が、すごい)
入り口から見ただけの所感でこれなのだから、おそらく中はもっとすごいはずだ。
「咲里」
「え!? な、なんでしょう、か」
「夕飯。何時頃がいい?」
「あ、えっと、じゃあ、七時頃で、……お願いします」
(ご、ご飯も、持ってきてくれるんだ……)
「かしこまりました」と礼をし去っていく仲居の背を半笑いで見守ったまま、そんなバカなことを考える。ぱたんと扉が閉められる音で、ようやく咲里は正気を取り戻した。
「どうかしたのか」
「え、あ、いえ、だ、大丈夫です」
たまらず敬語になってしまう咲里に、くろは珍妙なものでも見るかのようにして首をかしげていた。
「気に食わなかったか」
どこか思いつめた様子で目を伏せてみせたくろに、咲里は慌てて首を横に振る。
挙動不審に視線を泳がせながら、咄嗟に口を開いた。
「そういうわけじゃ、なくて……! ちょっと、思ってたより広くて。……びっくりしたって、いうか。……あの。……もしかしてここ、一番高い部屋とか、なんじゃ」
「違う」
淡々と言い切ってみせるくろに、ほんの少しだけ安堵したのも束の間。
「上から二番目に高い部屋だ。……一番高い部屋は、空いていなかった」
(空いてたら、一番高い部屋にするつもりだったんだ)
どこかしょげた様子で呟くくろに、そんなことを思った。
くろには悪いが、空いていなくてよかったと安堵してしまう。
(これ以上いい部屋だったら、その場で卒倒しそう……)
あまりの場違いさに顔を真っ青にして倒れる自分をありありと想像できてしまい、咲里は苦笑する。今だって、正直肩身が狭い。けれどくろが咲里のためを思って行動してくれたこと自体は、純粋に嬉しかった。
ちくりと胸を刺す痛みから目を背け、咲里もくろに習って靴を脱ぎ、恐る恐る客間の敷居を跨ぐ。
部屋の隅に置かれていた座卓に紙袋を置き、咲里はそっと外の景色を見るため広縁に足を踏み入れた。
昼の青と夕日の赤が混ざりあい、絶妙なコントラストを生み出す山々に囲まれた街並みに、咲里は一人感嘆の溜息を吐いた。
先ほどまで歩いていた商店街はどの辺だろうかと、ガラスに手をつき、まじまじと電車の外を見る子供のように、童心に帰って景色を眺めてみる。
(たぶん、あのあたりかな)
よくよく見れば、昼間咲里たちが乗ってきた電車が走っているのも見て取れた。
となると駅はどこだろうかと、そのまま視線を線路沿いに動かしていると、不意に背後に熱を感じた。
咲里が振り返るより早く、くろの腕が咲里の腹部に回される。
雁字搦めに体を抱き、くろは甘えるようにしてぐりぐりと咲里の首筋に顔を埋めた。その度、男の髪がもどかしく咲里の肌を刺激する。
咄嗟に身じろげば、逃したくないとでも言うように抱擁が強まっていく。
すんすんと鼻を鳴らし、咲里の体臭を嗅いでは安堵したかのように溜息を吐く。
「咲里」
振る舞いも、声色も、表情も。
何もかもが、溶けそうなほどに甘やかだった。
だからこそ、余計苦しくなる。これ以上を求めるべきではない、現状で満足しなければならないと必死に蓋をしてきた思いを、力づくでこじ開けられそうになる。
「嬉しかった」
それが例え、主人に尻尾を振る犬としての愛情の延長線だとしても。
「っ……」
くろが先ほどの硝子細工のことを指しているのだと理解するのに、それほど時間は掛からなかった。けれどどうして、今になってそんな残酷なことを言うのだろうか。
咲里の中に芽生えた疑問に、答えるようにして。
「前、図書館に行った時じゃれたら、あんた少し怒っただろう。……だから、外では我慢した」
褒めてくれとでも言いたげに目を細めるくろに、一層胸が締め付けられていく。
所在なく手を彷徨わせては下ろしていたのにはそんな意味があったのかと、熱くなった頭の片隅でそんなことを考えた。
咲里が動けずにいるのをいいことに、くろは我慢した分の感情をそのままぶつけるようにして、容赦なく咲里の体に触れてくる。
大人しく体を抱きしめていたはずの腕は、次第に大胆になっていき、服の上から体の線をなぞるようにして不埒な動きを始める。
咲里の体を捕らえるように窓ガラスにその体を押し付け、興奮しきった様子で首筋に軽く噛み痕を残していく。その度くろの腕の中で、咲里は小さく肩を震わせた。
「えみり」
熱の込められた吐息が、耳元で咲里を犯す。
それほど冷えてはいないはずなのに、手をついた窓ガラスが酷く冷たく感じられた。羞恥を堪えるようにしてきつく手を握りしめれば、くろの腕が咲里の指先を包み込む。
ゆっくりと視線を上げれば、熱を帯びた黒い目と視線がかち合った。
数秒、時間が止まったのかと錯覚する。
熱に突き動かされるままに近づいてくるくろの顔に誘われるようにして、咲里もそっと顔をくろの方へ向けていく。
だがあと少しで唇が触れるという直前、くろはそっと体を起こしていった。
予想外に呆気なく解放されたことに、咲里の方が何だか拍子抜けしてしまう。
そういえば、前にもこんなことがあったようなと、咲里の体から腕を離し、気まずそうに視線を逸らすくろの顔を眺めたまま、しばし呆然としてしまう。
名残惜し気に離れていく熱に、酷く物足りなさを感じる自分がいた。
「……荷物、整理してくる」
小さく咳払いをし、くろは逃げるようにして咲里に背を向けた。
(……やっぱり、私が言ったからなんだよね。そういうことするの、週に一回にしようって)
確かに、あの時はそれでいいと思っていたのだ。
実際、少し間が空いたことにより体を重ねることに対して恐怖心を感じていたし、あの空白の一週間は本気でただ添い寝をしてもらっていただけで満足していた。
――でも、今は。
(自分の気持ちは、自分が一番よくわかってる)
けれど言い出した手前、なんと切り出せばいいのかわからず、咲里はふてくされたように座卓の上に置いた紙袋の前に正座した。
傷つけてしまわないように慎重に袋から硝子細工を取り出し、そっと机の上に置いてみる。
オレンジがかった照明の光を反射しもやもやと行き場なく燻る咲里の心とは対照的に、人形は店にあった時と変わらず、むしろそれ以上の輝きでもって咲里の瞳の中に映り込んでくる。
ゆっくりと息を吐き出しながら座卓の上に頬をつけ、戯れに不機嫌そうな犬の鼻先をつついたところで、硝子細工は咲里に返す言葉を持たない。
そのままの姿勢で、咲里は気付かれないように背後に視線を向ける。
視線の先、そこには神妙な顔でスーツケースの中を整理するくろの姿があった。
(……ばか)
そのまま座卓の上につっぷし、咲里は深々と溜息を吐く。
くろは何も悪くない。
悪いのは、自分勝手に暴走してしまっている咲里の方だ。
けれど。分かっていても、なんとなくムカムカする。
彼氏ではない――犬に徹するというのならば、ご主人様の心境くらい察してくれと、他力本願なことを思う自分が本当にどうしようもなく、面倒に思えて。
咲里は再度、行き場のない思いをぶつけるようにして今度は少しだけ強めに、人形の鼻先をつついた。
声を発することすらも出来ず、咲里はくろの顔を直視したまま絶句してしまう。
あからさまに気分を害したことを隠しもせず、くろは眉間に皺を寄せながら店員を睨みつけている。
頭の上から、思い切り冷水を掛けられたような気分だった。
「彼氏じゃ、ない」
周囲が黙り込んでいるのを、どう解釈したのか。
そんな風に言われるのは心外だとばかりに、再度言い含めるようにしてゆっくりと発言しながら、くろの眉間の皺はますます深まっていく。
「え、あ、えっと。……その」
気まずそうに口を閉口させている店員に、何を思ったのか。
くろは軽く溜息を吐いたのち、戸惑う咲里を押すようにして腰に手を当てると、そのまま咲里を連れて店の扉をくぐった。
背後で、扉の閉まる微かな音がする。
そのまま日傘をさし、行きの時と同じく繋ごうと伸ばされた反対の腕を、咲里は咄嗟に避けていた。
下を向き、胸の前で静かに硝子細工の入った紙袋を抱きしめる。
背を、嫌な汗が伝う。観光客の喧騒が、どこか遠い違う世界の音のように感じられる。どんな顔をしてくろを見ればいいのか、分からなかった。
「あ、あの、私、その、手を繋いだら、荷物、片手で持たなきゃいけないし、それで、落としちゃったら、ショックだし。……そ、その、だから」
「わかった」
咲里の言動にこれといって気分を損ねることもなく、くろは微かに口角を吊り上げ、穏やかに微笑んでいた。むしろ、いつもより浮き足立っているようにすら見える。
だからこそ、余計に混乱する。
胸の前で抱きしめた紙袋が、歩くたびにくしゃりと歪な音を立てた。
――彼氏じゃ、ない。
二人連れだって歩きながら、呪いのように胸の内でくろの言葉を繰り返しては、ぐさり、ぐさりと傷をえぐられていく。
しばらく足を動かして初めて、咲里は先ほどのくろの言葉に、自分でも思っていた以上に動揺していたことに気付かされた。
周囲の景色が、全くもって頭の中に入ってこない。
この数日、本当に恋人が出来たようだと浮かれていた自分が馬鹿みたいで、どうしようもなく惨めに思えてくる。くろが先ほどの言動を現状気にも留めていないであろうことが分かるからこそ、余計に。
だがそもそも。よくよく思い返してみれば、一方的に咲里が思い込んでいただけで、くろは何も悪くない。咲里が勝手に期待して、勝手に失望した。
あまりの浅ましさに、反吐が出そうだった。
(……それに、嫌われていないのは、分かる)
殴ることも罵倒することもせず、日々甲斐甲斐しく世話を焼き、体を重ね、あれほどまでに好きだと連呼されれば、いくら鈍い咲里でも察しが付くというものだ。
さっき店で買い物をした時だって、今だって。
咲里のために虐殺とも言えるほどに人を殺め、先日怯える咲里を前にした時、咲里を守ろうとするくろの殺意も、この身で感じたのだからわかる。本物だった。間違いなく、どうしようもなく大事にされている。
(だけど、……『彼氏』じゃ、ない)
では、くろにとって咲里はなんだというのか。
簡単なことだ。
(……飼い主と、犬)
端的に表してしまえば、その一言で片がつく。
くろの振る舞いは、主人に仇なすものを殺める番犬のそれと大差ない。
不意に、脳裏に九条と名乗った男の言葉が過ぎった。
――あれは、人間じゃない。君は何か、よくないものに憑かれてる。
人の常識では計れない、何か。日に日に言動が人間に近付こうが、どれほど優しくされ、途方もない愛情を向けられようが、その根本までは変えられない。
人間には、なれない。
そんな事実をまざまざと突き付けられたような気がして、咲里は一人歯を食いしばった。
(最初は、くろがずっと傍にいてくれるだけで、……よかったはずなのに)
望み通り、くろは咲里の元に戻ってきてくれた。それだけでよかった。そう思っていた気持ちは、決して嘘なんかじゃない。
けれど、今の咲里は――
一刻も早くあの男から離れたほうがいいという提言は、あながち間違いではなかったのかもしれない。
良くないものであることも、人間ではないこともわかっていたはずなのに。
考えれば考えるほど、出口のない迷宮の奥へと迷い込んでいく気がした。
*****
しばらく適当に店を回ってみたものの、こんな精神状態で観光に集中できるわけもなく、適当に頃あいを見計らうと、二人はそそくさと旅館に戻ることにした。
チェックインの手続きを済ませ、仲居に連れられて薄暗い廊下を歩いていく。
開けられた扉の先に広がっていた光景に、咲里はたまらず固まってしまった。
平然と靴を脱ぎ、式台に足を載せ、和室へと続く襖を開けるくろを見上げたまま、咲里は静かに息を呑む。
「夕食は何時頃にお持ちいたしましょうか」
「あぁ。……あんたはどうする?」
(玄関が、……広い)
振り返ったくろに返事を返すことも忘れ、咲里は客室の雰囲気に完全に圧倒されていた。紙袋を抱く腕が、小刻みに震える。その一瞬、咲里の頭から何もかもが吹っ飛んだ。
ロビーに入った時も場違いではないかと思ったが、その比ではない。
正方形状の土間は薄ら暗かった通路とは対照的に、どこかオレンジがかった照明により暖かな雰囲気に包まれている。
その先に広がっている和室も、蛍光灯の白とは違う柔らかな橙色に包まれており、何より広い。
(これ、何畳なんだろう……。うちのリビングと同じくらい? ううん、それよりもっと広いんじゃ……。窓もなんかすごく、大きいような……。け、景色が、すごい)
入り口から見ただけの所感でこれなのだから、おそらく中はもっとすごいはずだ。
「咲里」
「え!? な、なんでしょう、か」
「夕飯。何時頃がいい?」
「あ、えっと、じゃあ、七時頃で、……お願いします」
(ご、ご飯も、持ってきてくれるんだ……)
「かしこまりました」と礼をし去っていく仲居の背を半笑いで見守ったまま、そんなバカなことを考える。ぱたんと扉が閉められる音で、ようやく咲里は正気を取り戻した。
「どうかしたのか」
「え、あ、いえ、だ、大丈夫です」
たまらず敬語になってしまう咲里に、くろは珍妙なものでも見るかのようにして首をかしげていた。
「気に食わなかったか」
どこか思いつめた様子で目を伏せてみせたくろに、咲里は慌てて首を横に振る。
挙動不審に視線を泳がせながら、咄嗟に口を開いた。
「そういうわけじゃ、なくて……! ちょっと、思ってたより広くて。……びっくりしたって、いうか。……あの。……もしかしてここ、一番高い部屋とか、なんじゃ」
「違う」
淡々と言い切ってみせるくろに、ほんの少しだけ安堵したのも束の間。
「上から二番目に高い部屋だ。……一番高い部屋は、空いていなかった」
(空いてたら、一番高い部屋にするつもりだったんだ)
どこかしょげた様子で呟くくろに、そんなことを思った。
くろには悪いが、空いていなくてよかったと安堵してしまう。
(これ以上いい部屋だったら、その場で卒倒しそう……)
あまりの場違いさに顔を真っ青にして倒れる自分をありありと想像できてしまい、咲里は苦笑する。今だって、正直肩身が狭い。けれどくろが咲里のためを思って行動してくれたこと自体は、純粋に嬉しかった。
ちくりと胸を刺す痛みから目を背け、咲里もくろに習って靴を脱ぎ、恐る恐る客間の敷居を跨ぐ。
部屋の隅に置かれていた座卓に紙袋を置き、咲里はそっと外の景色を見るため広縁に足を踏み入れた。
昼の青と夕日の赤が混ざりあい、絶妙なコントラストを生み出す山々に囲まれた街並みに、咲里は一人感嘆の溜息を吐いた。
先ほどまで歩いていた商店街はどの辺だろうかと、ガラスに手をつき、まじまじと電車の外を見る子供のように、童心に帰って景色を眺めてみる。
(たぶん、あのあたりかな)
よくよく見れば、昼間咲里たちが乗ってきた電車が走っているのも見て取れた。
となると駅はどこだろうかと、そのまま視線を線路沿いに動かしていると、不意に背後に熱を感じた。
咲里が振り返るより早く、くろの腕が咲里の腹部に回される。
雁字搦めに体を抱き、くろは甘えるようにしてぐりぐりと咲里の首筋に顔を埋めた。その度、男の髪がもどかしく咲里の肌を刺激する。
咄嗟に身じろげば、逃したくないとでも言うように抱擁が強まっていく。
すんすんと鼻を鳴らし、咲里の体臭を嗅いでは安堵したかのように溜息を吐く。
「咲里」
振る舞いも、声色も、表情も。
何もかもが、溶けそうなほどに甘やかだった。
だからこそ、余計苦しくなる。これ以上を求めるべきではない、現状で満足しなければならないと必死に蓋をしてきた思いを、力づくでこじ開けられそうになる。
「嬉しかった」
それが例え、主人に尻尾を振る犬としての愛情の延長線だとしても。
「っ……」
くろが先ほどの硝子細工のことを指しているのだと理解するのに、それほど時間は掛からなかった。けれどどうして、今になってそんな残酷なことを言うのだろうか。
咲里の中に芽生えた疑問に、答えるようにして。
「前、図書館に行った時じゃれたら、あんた少し怒っただろう。……だから、外では我慢した」
褒めてくれとでも言いたげに目を細めるくろに、一層胸が締め付けられていく。
所在なく手を彷徨わせては下ろしていたのにはそんな意味があったのかと、熱くなった頭の片隅でそんなことを考えた。
咲里が動けずにいるのをいいことに、くろは我慢した分の感情をそのままぶつけるようにして、容赦なく咲里の体に触れてくる。
大人しく体を抱きしめていたはずの腕は、次第に大胆になっていき、服の上から体の線をなぞるようにして不埒な動きを始める。
咲里の体を捕らえるように窓ガラスにその体を押し付け、興奮しきった様子で首筋に軽く噛み痕を残していく。その度くろの腕の中で、咲里は小さく肩を震わせた。
「えみり」
熱の込められた吐息が、耳元で咲里を犯す。
それほど冷えてはいないはずなのに、手をついた窓ガラスが酷く冷たく感じられた。羞恥を堪えるようにしてきつく手を握りしめれば、くろの腕が咲里の指先を包み込む。
ゆっくりと視線を上げれば、熱を帯びた黒い目と視線がかち合った。
数秒、時間が止まったのかと錯覚する。
熱に突き動かされるままに近づいてくるくろの顔に誘われるようにして、咲里もそっと顔をくろの方へ向けていく。
だがあと少しで唇が触れるという直前、くろはそっと体を起こしていった。
予想外に呆気なく解放されたことに、咲里の方が何だか拍子抜けしてしまう。
そういえば、前にもこんなことがあったようなと、咲里の体から腕を離し、気まずそうに視線を逸らすくろの顔を眺めたまま、しばし呆然としてしまう。
名残惜し気に離れていく熱に、酷く物足りなさを感じる自分がいた。
「……荷物、整理してくる」
小さく咳払いをし、くろは逃げるようにして咲里に背を向けた。
(……やっぱり、私が言ったからなんだよね。そういうことするの、週に一回にしようって)
確かに、あの時はそれでいいと思っていたのだ。
実際、少し間が空いたことにより体を重ねることに対して恐怖心を感じていたし、あの空白の一週間は本気でただ添い寝をしてもらっていただけで満足していた。
――でも、今は。
(自分の気持ちは、自分が一番よくわかってる)
けれど言い出した手前、なんと切り出せばいいのかわからず、咲里はふてくされたように座卓の上に置いた紙袋の前に正座した。
傷つけてしまわないように慎重に袋から硝子細工を取り出し、そっと机の上に置いてみる。
オレンジがかった照明の光を反射しもやもやと行き場なく燻る咲里の心とは対照的に、人形は店にあった時と変わらず、むしろそれ以上の輝きでもって咲里の瞳の中に映り込んでくる。
ゆっくりと息を吐き出しながら座卓の上に頬をつけ、戯れに不機嫌そうな犬の鼻先をつついたところで、硝子細工は咲里に返す言葉を持たない。
そのままの姿勢で、咲里は気付かれないように背後に視線を向ける。
視線の先、そこには神妙な顔でスーツケースの中を整理するくろの姿があった。
(……ばか)
そのまま座卓の上につっぷし、咲里は深々と溜息を吐く。
くろは何も悪くない。
悪いのは、自分勝手に暴走してしまっている咲里の方だ。
けれど。分かっていても、なんとなくムカムカする。
彼氏ではない――犬に徹するというのならば、ご主人様の心境くらい察してくれと、他力本願なことを思う自分が本当にどうしようもなく、面倒に思えて。
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