えみりちゃんのいぬ

ぬえもと

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後日談

えみりちゃんといぬ(じゅう)

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 沈黙に耐え切れずおもむろにテレビの電源を付けてみたところで、ちっとも気分は晴れない。
 数秒番組を見つめた後、すぐにチャンネルを回し、最終的にはありきたりなバラエティ番組に腰を落ち着け、机に突っ伏したまま行儀悪く眺めてみる。
 そんなことをしばし続けていたところで、不意に咲里の耳にノックの音が飛び込んできた。

 テレビの電源を切った後、咲里が立ち上がろうとする前に、先にくろが引き戸を開けてしまう。
 開け放たれた戸の先にいたのは、先ほど二人を客室へと案内した仲居だった。
 背後に見える料理の載せられたワゴンに、いつの間にやら夕食の時間が迫っていたことを思い知らされる。

「お食事が済みましたら、内線でご連絡をお願いいたします」

 そんな言葉を残し、仲居は手早く配膳をすませると、そそくさと部屋を後にした。
 座卓の前、くろと向き合う形で腰掛けた咲里は、眼前に広がる料理のかつてない豪勢さに、たまらず息を呑む。

(宝石箱)

 テレビで何度も耳にした月並みな表現ではあるが、とっさに咲里の脳裏に浮かんだ単語はそれだった。何だかよく分からないが、小綺麗な皿に盛り付けられた季節の野菜に、地魚と貝のお造り。端に置かれていた湯飲みのようなものの蓋を開ければ、中には魚介類がふんだんに盛り込まれた冷製の茶碗蒸しが入っている。
 そんな豪勢な料理の中央で、一際咲里の視線を釘付けにするものが一つ。

(……カニ)

 中央で絶大な存在感を放っていたのは、赤々とした焼きカニだった。
 元はといえば、咲里がテレビに映ったカニに涎を垂らしていたのが今回の旅行の一因ではあるので、出てきたこと自体に別段驚きはないはずなのだが、いざ本物を前にすると少々怖気付いてしまう。
 
(こ、これは、どうやって食べれば)

 盛り付けられたカニの横に、フォークとスプーンの中間のような金属製の棒が置いてあるので、おそらくこれでほじって食べろ、ということではあるのだろうが。
 金属製の細長い棒を持ったまま、生まれて初めて目にする本物の蟹を前に、咲里はしばし静止する。
 そんな咲里に何を思ったのか。

 突如頭上が暗くなったと顔を上げれば、それまで咲里の前に腰掛けていたはずのくろの姿が、咲里のすぐ横にあった。
 おひつの横に陣取るようにして正座した男は、咲里の腕からそっとカニスプーンを奪うと、器用な手つきで皿の上にほぐした身を並べていく。

「え、あの、それくらいは自分で――」
 
 あたふたとくろの真顔と手先を交互に眺め、咲里は咄嗟にくろを止めようとした。
 だが最後まで言い切る前に、くろは金属棒を皿の上に置く。
 思い留まってくれたかと咲里がほっと息を吐いたのも束の間、くろの腕が箸を手にした。一体何をするつもりかと顔を上げた瞬間、黒い瞳と視線がかち合う。

「咲里」

 くろの手にする箸が、今しがた殻から分離させたばかりの蟹の身を掴む。

「あーん」

 浮かべられた微笑みに、正座した膝の上で両手を握りしめたまま、咲里は絶句した。顔から、火が出そうになる。
 口を開けろとでも言いたげに身を乗り出され、たまらず後ずさりそうになる咲里とは対照に、箸を向ける男は心底上機嫌だ。
 距離が、近い。物理的にも、精神的にも。

(く、くろのスキンシップが過多なのは、いつものこと、だけど)

 それにしても、近い。
 普段からことあるごとにスキンシップを図り、咲里の世話を焼きたがる男ではあるが、まさかその仏頂面から「あーん」なんて文言を聞くことになるとは思わなかったと、咲里は言葉を返すことすらも忘れ、口を強く引き結んだまま、まじまじと男の顔を見つめた。

(いつも、私が食べてるの、楽しそうに見てるとは、思ってたけど)

 流石に、直接食べさせようとしてきたことはない。
 それもこんな、いかにも恋人のような雰囲気を醸し出して。
 一体、どういった心境の変化だと言うのだろうか。

(たぶん……、そんなこと、全く意識、してないんだろうけど)

 彼氏じゃないと言ったその口で、こんな風に恋人としか思えない振る舞いをする。
 だからこそ、咲里の方も割り切れなくなる。ただの飼い犬としての愛情の延長線ではないのだと、そんな無謀なことを期待してしまう。

「こ、子供じゃ、ないんだし。……じ、自分で」

 数秒間の沈黙ののち、咲里は苦し紛れにそんなことを口にした。途端、あからさまに傷ついた顔をするくろに、咲里はまたしても言葉に詰まってしまう。

「……嫌なのか」

「……そういう、わけ、じゃ」

 なんだかんだと言い訳を並べ立ててはみても、くろに好意を向けられ、甘やかされること自体に嫌気がさしたわけではない。
 結局のところ、単純に恥ずかしい。その一点に尽きる。

(……い、一回だけ、なら)

 咲里は何も、くろを失望させたいわけじゃない。
 覚悟を決めると、咲里は瞳を閉ざし、恐る恐る口を開いていった。
 以前、「もっと食え」と言うくろに、餌付けでもされているようだと思ったが、これでは「よう」ではなく、本当に餌付けではないかと、咲里は羞恥に震えながら必死に何も考えないように口を動かしていく。

「美味いか」

 ごくりと飲み込んだ後、浮き足立つくろの声に釣られるようにして、恐る恐る瞼を持ち上げていく。
 正直味なんてまともに分からなかったが、心底幸福そうに瞳を細めるくろを前に、咲里は頬を赤く染めたまま、咄嗟に首を縦に振ることしか出来なかった。
 そんな主人に何を思ったのか。そのまま再びほぐした身を箸が掴もうとする直前、咲里はくろの肩を押し、咄嗟にその身を押し留めていた。

「い、一回だけ!! い、嫌じゃない……けど!! は、恥ずかしい、から!! ……だから、あの、か、勘弁、して、ほしい、……です」 

「……そうか」
 
 箸を手にしたままあからさまに残念そうな顔をするくろに、全く罪悪感を抱かなかったかと言えば嘘になる。だが、咲里にだって譲れないものがある。
 途方もない羞恥心を抱えたまま最後まで完食できるほどの度胸は、生憎と持ち合わせてはいない。

「蟹。……ありがとう。でも、もう大丈夫だから」

 顔を赤らめたまま、苦し紛れにそんなことを口にすれば、くろは渋々といった体ではあったが大人しく引き下がった。

(……し、心臓に、悪い)

 そんなことを思うのは何度目になるのだろうか、なんてことを頭の片隅で考えながら、くろが元いた場所に戻るのを確認して、咲里は箸を手に取る。
 自分の手で食事を口に運んでいても、眼前に腰掛ける男の顔を見るたび先程の行為を思い出してしまい、咲里は一人、挙動不審にもがき、震える。

 食事を終える頃にはさすがに幾分かは落ち着きを取り戻していたが、混迷を極める咲里の頭とは反対に、家にいた頃と変わらず飛び込んでくる窓の外の蝉の声が、なぜだか無性に腹立たしく思えてならなかった。

「あの、わ、私、お風呂入ってくるね」

 空になった食器類を前に、その場に残るのがなんとなく忍びなく思えて、咲里は咄嗟にそんなことを口走る。
 だが、そのまま客室を後にしようとしたところで、立ち上がった咲里の腕を男の腕が掴む。
 咄嗟に振り返り視線を下にやれば、不機嫌さを隠しもしない黒い目と視線がかち合った。

「どこに行くんだ?」

「……あの、だから、お風呂に」

 玄関を指差したまま固まると、咲里を引き止める腕に込められた力が一層増した。

「風呂なら、部屋にある」

「え」

 でも、客室に付いてるお風呂って、普通の家にあるみたいなお風呂なんじゃ。
 そんな言葉を吐き出そうとした、咲里の考えなど予想済みだとでも言うように。

「露天風呂、部屋についてる」

 どこか拗ねたような無表情を見つめたまま、咲里はしばし静止する。
 くろの口から吐き出された短文を脳が処理するのに、普段の何倍もの労力を必要とした。
 忘れていたが、ここは上から二番目に高い部屋。
 すなわち、単に部屋が広いだけでなく、それ相応の設備が備わっているから高いのであって、そりゃ個室に露天風呂くらい付いててもおかしくはないかと、くろの顔を凝視したまま、咲里は挙動不審に瞬きを繰り返す。
 部屋に立派な風呂が付いているということは、それ即ち、逃げる口実が、ない。
 くろに掴まれた右手首が、酷く熱を帯びていた。

「え……、あ、えっと、あの」

「そんなに、大浴場に行きたいのか」

「……そういう、わけ、じゃ――!?」

 最後まで言い切らないうちに、咲里は強い力で腕を引き寄せられていた。
 視界が、ぐるりと回転する。
 ほんの数秒前までは咲里の眼下にあったはずの端正な顔が、次に顔を上げた時には、咲里の頭上数センチの距離にあった。
 投げ出されていた咲里の手首――その血管の筋を、くろの指先がなぞるようにして撫であげていく。
 押し倒されていると理解するのに、そう時間は掛からなかった。

「あんたは、俺以外の奴に、肌を、見せる気なのか」

 咲里が逃げるのを阻むようにしてその体にまたがり、微かに体重をかけ、くろは低い唸り声を零す。鋭い眼光が、至近距離で真っ直ぐに咲里の瞳を捉えている。
 咲里を射殺さんばかりのくろの勢いに、咲里は完全に呑まれていた。
 何か言わなければと思うのだが、くろの頭越しに天井を見上げたまま真っ白になった頭は突然の暴挙に、口を開けては何度も間抜けな息を吐き出し、結局は何も口にすることなく閉ざすことしかできない。

 そんな咲里の反応を、どう受け取ったのか。
 咲里の腕からそっと手を退けたかと思えば、その首筋に顔を埋めながら、ゆっくりとスカートの内側に手を差し込んでいく。自分のものとは違う節くれだった指が内腿に触れた瞬間、咲里は小さく体を震わせた。
 咲里の反応に呼応するかのようにして、くろの舌が咲里の肌を這い登っていく。
 必死に呼吸を落ち着けようと一際大きく口を開けた瞬間、咲里の口にくろのものが触れる。舌を絡め、容赦なく奥へと踏み込もうとするくろを、咲里はただ無心で受け止めていた。
 ほんの少し前、奪うことを躊躇った唇を躊躇なく塞ぐ男は、一体何を思っているのだろうか。
 少なくとも、今くろの頭は咲里を貪り尽くすことしか考えていないのだろう。
 野生の獣か何かのように甘噛みを繰り返す男はまるで、これまで必死に堪えていた何かを、思い切り暴発させてしまったかのように見えた。

 そんなことを頭の片隅で考えながら、咲里は男からもたらされる愛撫に応えるようにして、そっとくろの腕を掴む。
 口付けを深め、咲里の服をはだけさせ、くろは執拗にその肌に噛み跡を残しては、またしても唇を奪う。やがて、それまでただ肌を這い回っていた指がショーツのクロッチを這う感触に、咲里は軽く身震いを起こした。

「……ぁ、っ」

 喉から、か細い嬌声が上がる。
 その一瞬、はたと、くろの攻勢が止んだ。
 身動きを止め、熱の篭った目で咲里の顔を凝視したまま、くろは数度荒い呼吸を繰り返す。

 そんなくろを、咲里はただ胸で息をしながら呆然と見守っていた。

 しばしの沈黙の後、先ほどまでの行為などなかったかのように、くろは素知らぬ顔で咲里の乱れた衣服を整え始める。
 情欲のこもった顔で、しかして極めて冷静な対処をして見せる男を、どんな顔をしてみればいいのか、分からなかった。

「……悪かった」

 咲里から意図的に視線を逸らし、一番上のシャツのボタンを閉めると、くろはゆっくりと腰を上げる。
 謝罪の言葉とともに去ろうとする、そんなくろの姿を視界に収めた瞬間、咲里の中で限界まで張り詰めていた何かが、ぷつりと無残に切れる音がした。
 くろの腕を、今度は咲里が掴み引き止める。
 触れた肌は、先程の行為の名残なのか、いつもよりも熱を帯びているような気がした。

「……咲里?」

 振り返ったくろは、きょとんと瞳を開き、次いで申し訳なさそうな顔で咲里の顔を凝視する。

(……ちがう)

 悪いのは、咲里だ。くろが最後まで踏み込もうとしないのは咲里との約束のせいで、彼氏じゃないという言動にショックを受けてしまっているのも含めて、全部が全部咲里の勝手だ。何もかも、咲里が悪い。
 だから、ここまでしておいて止めるなんて生殺しではないかと怒るのは、お門違いというものだ。
 分かっていても、先程の行為の名残を残しのぼせ上がった頭は、納得出来ないと自分勝手に暴走を始める。

(謝罪の言葉なんて、いらない)

 欲しいのは、悔恨でも懺悔でもなくもっと単純で、どこまでも本能に忠実なものだ。
 だから――
 
「……お風呂、一緒に、入って」

 下を向いたまま、咲里はそんな言葉を吐き出した。
 くろの体が硬直するのが、掴んだ腕越しにはっきりと認識出来る。
 顔を、上げられない。くろがどんな表情をしているのか、顔を上げるのが心底恐ろしくて仕方がなかった。
 正直、血迷っているとしか思えない。

「ちが、あの、へ、変な意味じゃ、ない、から……!!」

 違う、そうじゃない。
 
(そ、そういう意味じゃなかったら、どういう意味に……)
 
 せっかくなけなしの勇気を振り絞って言ってみたものの、冷静になってみれば何てことを口走ってしまったんだという後悔しかない。
 常々馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、まさか自分がここまで先のことを考えない大馬鹿だったとは思わず、咲里はくろの手から指を離し、その場で下を向いたまま激しい羞恥と絶望に打ちひしがれる。

(……一緒にお風呂って、何を。……じ、実際そんなことになったら、たぶん。……ううん、絶対死ぬと思う。無理……、いや、でもたぶんくろも、おかしな言動だと思っただろうし、迷惑だろうし、きっと断って――)

「……わかった」

「え……、っ」

 長い長い沈黙の後零された想定外の肯定に、咲里は決して上げまいと思っていたはずなのに、咄嗟に顔を上げてしまう。
 だが咲里が表情を確認するより先に、くろは咲里から顔を背けていた。
 そのまま咲里に背を向けたまま、部屋の隅に取り付けられた内線で食事の片付けを頼む声色からは、男の考えは何一つ読み取れなかった。

 
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