えみりちゃんのいぬ

ぬえもと

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後日談

えみりちゃんといぬ(じゅういち)

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 もしかしたら、幻聴だったのかもしれない。
 そんな咲里の期待を、真っ向から裏切るようにして。

「風呂。……片付けを、見届けてから行く。あんたは、先に入っていてくれ」

「……うん」

 受話器を置いたまま静止するくろに頷きを返し、咲里は逃げるようにして脱衣所に飛び込んだ。閉ざした扉に背を預け、胸元に手を当てた状態で何度も深呼吸を繰り返す。

(ど……、どうしよう)

 自分で言い出したくせに、先の展開を何一つ考えていなかった。
 そもそも、くろが乗ってくるとは思わなかったのだ。

 ――くろがこちらに来る前に、手早く入浴を済ませてしまえば。

 一瞬そんな卑怯な逃げ道が思い浮かんだが、それでは何も解決しない。結局振り出しに戻るだけだ。何のためにあんな恥ずかしい発言をしたのかと、咲里は必死に自分を叱咤した。

(それに、裸、……何回も見られてるし)

 何度も体を重ねているわけだし、今更裸くらいで動揺してどうする。
 そもそも初めての時のことを思い返してみれば、一緒に風呂に入るくらい随分瑣末なことに思えてきた。比喩ではなく、文字通り隅々まで体を洗われ、風呂場のタイルの上に押し倒された時の、あの感覚。
 思い返した瞬間ボッと、一瞬にして頬に熱が宿る。

 迷いを振り切るようにして手早く衣服を脱ぐと、咲里は覚悟を決めて露天風呂へと続く扉を開けた。
 外からは見えないように竹垣で仕切られた空間を、隅に置かれたランタンの微かな明かりが照らす薄闇のなか、咲里は恐る恐る浴槽の中に足を踏み入れた。浴槽の中は腰掛けられるようになのか、二段構造になっている。材質はおそらく檜、だろうか。
 詳細は不明だが、軽く泳げそうな程に広い浴槽は、一人で入るには些かの罪悪感を覚えてしまう。
 行き場なく堂々巡りを繰り返す感情を落ち着けるようにして、咲里は広い浴槽の端に、膝を抱え縮こまった。
 先ほどまで煩く鳴き喚いていた蝉の声も途絶え、時折木々の揺れる微かな音に混じり、微かな蛙の鳴き声が聞こえてくるだけだ。そんな中で、咲里は必死に気持ちを落ち着けようと何度も深呼吸を繰り返す。だがどれほどもがいてみたところで、ちっとも心臓の鼓動が落ち着くような兆しは訪れなかった。

 そんな無為な行為を幾度となく繰り返し、体が湯の心地良いぬくもりに侵食された頃合いを、見計らうようにして。

「咲里」

 露天風呂へと続くガラス戸を、男の腕が遠慮がちに叩いた。
 動揺から、水面がばしゃんと耳障りな悲鳴を上げる。

「……入っても、いいか」

「ど、どうぞ」

 声が、震える。必死に扉から視線を逸らし、咲里は強く瞳を瞑った。
 がらりと、扉の開閉音が静寂の中に響き渡る。
 数秒の沈黙の後、耳を刺す水音、くろの質量に呼応して水面が上がる感覚に、咲里は顔を背けたまま瞠目した。

(お、落ち着いて、平常心、平常心)

 水面の上昇が落ち着いた頃、必死にそう言い聞かせて、咲里はゆっくりと頭を動かしていく。
 視界に飛び込んできたのは、咲里とちょうど反対側の隅に座り、湯船の縁に行儀悪く頬杖を付き、先ほどの咲里よろしく必死に視線を逸らしているくろの姿だった。
 いつもなら真っ先に咲里の体に触れてくるであろう男の、酷く距離を置いた振る舞いに、咲里はどこか拍子抜けする。

「あ、あの」

 重い沈黙に耐え切れず恐る恐る声を上げれば、くろはゆっくりと視線を咲里の方へと向けた。
 いつも通りの無表情と目が合った瞬間、これ以上ないと思っていた限界点を超えて、急激に体温が上昇していく。

「旅行。……連れてきてくれて、ありがとう」

 尻すぼみにそんなことを口にすれば、くろは「あぁ」と気の無い返事を返す。
 それきり、二人の間には再び沈黙が戻ってきた。

(どうしよう、……会話が、続かない)

 むしろ、ふい、とあからさまに逸らされた視線に、心の傷が深まったような気がする。

(……くろは、私との約束を、守ろうとしてくれてるだけ)

 分かってはいる。それでも、こうして一緒に湯船に浸かるところまで来たのだったら、普段の押しの強さを遺憾なく発揮してほしいと感じてしまうのだが、想定していたよりもくろの理性は強固だったらしい。
 くろの重すぎる忠誠心が、今の咲里には仇となっていた。

(……そ、そっちが、その気なんだったら)

 一度は冷静になったはずの頭が、湯船の熱にあてられるままに暴走を始める。
 くろの理性を決壊させるには、まだ何かが足りない。だったら――

 熱源に突き動かされるまま、咲里はゆっくりと腰を上げた。
 先ほどから、視界が酷くグラグラと揺れている。熱い。
 たぶん、少しのぼせたのだと思う。
 不意に頭上に落ちた影に、くろが頭を上げる。
 これ以上ないほどに見開かれた男の目が、酷く滑稽に映った。

 その口が、制止の言葉を紡ぎ出す前に。
 くろの両肩に手を付き、咲里はくろの唇を奪った。

 そう言えば、自分からキスをするのは初めてだったっけと、そんなことを思いながらきつく目を閉ざし、無心で口付けを深めていく。記憶の中にある先程のくろの口付けを頼りに、ぎこちのない技量で必死に舌を絡めようとする咲里は、くろからすればさぞ滑稽なことだろう。
 冷静になった瞬間、途方もない罪悪感と羞恥心に駆られることは分かりきっていたが、一度堰を切った感情を止める術を、咲里は知らなかった。
 
 くろが腰掛けている浴槽の中の段差に片膝を乗せ、乗り出した勢いに身を任せる。
 くろは最初、あからさまに口付けを拒もうともがいていたが、咲里が離れようとしないのを見て覚悟を決めたのか。それまで虚空を彷徨わせていた腕を咲里の腰に回すと、もう片方の腕を咲里の後頭部に添え、食らいつくようにして咲里の口を嬲り始めた。
 歯列をなぞり、零れ落ちた唾液を舐め上げ、その吐息すらも奪うようにして。

「っ、ぁ」

 熱情に応えるようにしてくろの肩に置いた手に力を込めれば、腰に回された腕が力を増す。仕掛けたのは咲里のはずなのに、今では完全に攻勢が逆転していた。
 ただ、されるがままに奪われ、翻弄される。
 口付けの狭間に目にした黒い目に薄暗い情念を認識した瞬間、咲里の背をぞくぞくとした快感が駆け抜けていった。

 腰が、抜ける。

 そのまま力強く引き寄せられれば、咲里はくろと向き合うような形で膝の上に座り込むことになる。
 最後に名残惜しげに咲里の口の端を舐めあげると、くろはゆっくりと口付けを中断した。
 くろの胸に体を預けたまま、咲里はしばし欠如した酸素を補おうと深呼吸を繰り返す。咲里が息を落ち着け心地よいまどろみに支配される頃合いを見計らって、不意にくろが口を開いた。

「……週に、一度なんじゃなかったのか」

 責めているとも訝しんでいるとも判別が出来ない淡々とした声色が、咲里の耳を犯す。それでも咲里を離そうとしないということは、おそらく怒ってはいないのだろうとアテを付け、咲里は恐る恐る口を開く。

「――前に」

 ゆっくりと、深呼吸を繰り返す。くろの右肩に額を押し当てたまま、羞恥をもみ消すようにして数度ぐりぐりと頭を横に振った。

「……前に、そういうことをするの、週に一回にしようって。……そう言ったときは、まだ覚悟ができて、なくて。……その、今だってもちろん恥ずかしくて。……らしくないのは、分かってる、の。……で、でも」

「……でも?」

 途切れた言葉の先を、促すようにして。
 くろの手が、下を向いた咲里の頬をなぞる。

「さっきだって、い、今も、こんなの正直、生殺しっていうか! そ、そこまでするんだったら、さ、最後まで、……っ!! その、だから、私が言いたいのは、つまり、その……っ」

 顔が、熱い。

「……もう、我慢しなくて、いい、……から」

 力なくくろの肩に額をくっつけたまま、咲里は荒い呼吸を繰り返す。
 
(言って、……しまった)

 膨らんだ風船が、勢いよくしぼんでいくように。
 全てを吐き出し終わった瞬間、咲里は激しい後悔に苛まれ始める。

(言い出しておいて、自分勝手だって思われた……? それとも、重い……?)

 どのみち、面倒なことに変わりはない。

 ただでさえ情緒が不安定だというのに、しばしの沈黙の後、宥めるようにして頭を撫でる穏やかな手つきに、余計に己の子供っぽさを認識させられた気がして。
 咲里は無性に、泣きたくなった。

「あんたの気持ちは、分かった。――ただ。……今日は、しない」
 
 咄嗟に、顔を上げる。
 その時の衝撃を、どう表現すれば良かったのか。

 咲里がくろのスキンシップに慄いた回数は、数知れず。しかしその逆――、これまでくろが、咲里のスキンシップを拒絶したことなどなかったのに。
 おそらく、ショックがそのまま顔に出ていたのだろう。

(そんな顔、できたんだ)

 サーっと、面白いほどに血の気を失っていくくろの顔を見た、咲里の第一印象はそれだった。
 人間、極限状態になると突拍子もないことを考え始めるらしい。

「違うんだ。咲里、違う。どう、説明すれば……。……つまり、俺はあんたを、抱き潰したくないだけで、別に、……興奮していない、わけでは――」

「……うん」

 それは、この身で体感しているので十二分に分かっている。

(さっきから、おしり、当たってる、し)

 今日はしないと主張するくろの意思に反し、咲里の臀部に当たっている男の剛直は、これ以上焦らすなとばかりに激しく脈打ち、存在を主張している。
 それこそ、少し咲里が動くだけで、すぐにでも入ってしまいそうなほどに。

「……くろの、ばか」

 馬鹿なのは言われるまでもなく咲里の方で、むしろ気遣おうとしてくれているくろは被害者の側だ。
 けれど――

 体を侵食する熱に突き動かされるまま、咲里はきつくくろの体に抱きついた。
 しごくようにして、意図的に割れ目に竿を押し当てたまま腰を揺すれば、咲里の腰を掴むくろの腕に込められた力が増していく。
 控えめに腰を前後に動かすたび、水面がたぷんとゆるやかな音を立てた。

「っ……、え、みり」

 顔を赤らめ、苦しそうに呻きながらも、くろは咲里を咎めることはしない。
 むしろ、進んで咲里の腰を揺すっているようにすら見える。
 抱きしめ、押し付け、荒い息を吐き出しながら期待の籠った目で咲里を見るその眼差しは、到底先ほど「今日はしない」と断言した人物と同じものとは思えない。
 興奮してくれているのだという事実に、咲里の中に暗い悦びがこみ上げてくる。

「……は、ぁっ」

 くろの肩に噛みつき、必死に声を抑えながら、咲里は行為を加速させていく。
 抽送を繰り返すたび、割れ目を切り開こうとする鈴口が蕾を刺激し、咲里は快感に打ち震えた。どちらのものともしれないお湯ではないぬるついたものが、腰を揺する度に量を増す。
 何もかもが、ぐちゃぐちゃだった。夏の夜も、温泉も、くろの体温も、咲里自身も、何もかもが熱い。灼熱が、咲里の身を焼き尽くす。

 咲里は、意地になっていた。
 いつも好き勝手に貪り咲里を翻弄している、そのお返しだとでもいうように。

「……挿れても、いい?」

「っ――。あんたは……っ、俺が、どれだけ……、っ」

 そんな言葉を残した後、くろは小さく舌打ちを零す。

「っ――、ぁ」

 それまで腰を掴んでいた腕が、咲里の臀部を掴み上げる。
 咲里の腰を上げさせると、割れ目を広げるようにして何度も左右に揉みあげていく。水の中では音なんて聞こえるはずもないのに、その度、ぬち、ずちゅ、という淫猥な音が咲里の脳を犯した。
 のけぞった咲里を咎めるようにして、くろの口が咲里の唇を塞ぐ。

 口づけを深めたまま腰をがっしりと押さえ、くろはゆっくりと咲里の腰を下ろしていった。
 今更逃げることなど許さないとばかりに奥深くまで埋め込まれていく楔の感触に、咲里は悶絶する。
 それほどほぐされてはいない筈なのに、散々焦らされた体はいとも簡単に男のものを咥えていく。
 隘路が肉棒を締めれば締めるほど、腰を掴むくろの腕に力が増していく気がした。
 途方もない多幸感が、脳をおかしくさせる。

「えみ、り……、っ」

 口付けの間に囁き声を漏らしながら、くろは緩やかな律動を始めた。
 挿入を繰り返す度、水面がちゃぷちゃぷと小さな音を立てる。
 惜しむように慎重に引き抜いては、形を覚えさせるようにしてゆっくりと奥まで差し込まれる剛直は、貪り、奪う、これまでのくろとのまぐわいとは違う感覚でもって、咲里の中を開発していく。
 時の流れが、酷く緩やかなものに感じられる。
 戯れに口付けを深め合いながら、互いの熱を享受するだけの交わり。

 行為自体は酷く穏やかなはずなのに、――だからこそ、一層与えられる熱を愛おしく感じる。

 動物的な衝動ではなく、理性でもって体を繋げていく。
 くろは、ただの加減のつもりだったのかもしれない。
 けれど今日のくろは、今の咲里には残酷過ぎるほどに、――人間的だった。

「咲里」

 甘やかな声が、名を呼ぶ。
 そのあまりの甘美さに目を閉ざせば、一際慎重に奥へ奥へと剛直が埋め込まれていった。口付けが、深くなる。
 律動が、絶頂へと向けて激しさを増す。
 鈴口が再奥を突いた瞬間、抑え込まれていた腰がびくびくと痙攣を繰り返した。
 震える咲里の体をきつく抱きしめ、その口を塞いだまま、くろは躊躇なく咲里の奥で吐精する。
 内側からも外側からも咲里を包み込む暖かな熱の感触に、無性に泣きそうになった。

 ――ああ、でもそんなことよりも、今は。

「……く、ろ」

 行為の余韻の心地好い気怠さの中、くろの胸に体を預けたまま、咲里は呆然と男の名を口にする。

「どうした」

「……あ、つい」

 がくんと、体から力が抜ける。

「咲里!?」

 今まで聞いたことのないくろの素っ頓狂な声を最後に、咲里の意識はぷつりと途切れた。

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