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「間違いなくサインいたしました。ポータリーの姓を書くとき、少し躊躇して歪んだことまで覚えています」

 レインの視線を、トールは軽く首を振って払った。

「事務所を家探ししてもそんなものはありませんよ。では逆に質問します。手付金を支払われましたか。代理人を雇うさいには手付金が必要です。もし支払っているのなら、領収書を持っているはずです。見せてください」

「それは……すべて後払いでいいとおっしゃったから……」

「記憶にありませんね。ちなみにこちらがポータリー公爵との契約書です。一昨日の日付です。貴女が昨日いらしたときにお断りしたのは、私がすでに公爵の代理人になっていたからです」

「そんな……」

 サラは絶句した。

(そんな素振りは微塵もなかった。今日の午前中に公爵邸に行って、即座に乗り換えたんだわ。日付は捏造よ)

 そうだとしても立証することは出来ない。家探ししても出てこないと自信たっぷりに言うくらいだから、契約書はもう燃やされてしまったのだろう。こうなっては孤軍奮闘するしかない。サラはテーブルの下で拳を握りしめた。

「もし乗り換えが本当に起こったのならば法律家の倫理に反しますね。証拠はありますか、サラさん」

 レインはあくまでも中立を貫こうとしてくれる。せめて彼だけでも敵に回さないようにしなければ。感情的になってはならない。

「いいえ、こちらは提出できものがありません。けっこうですわ。トールは夫側の代理人でかまいません」

「わかりました。ではまずは公爵側の離婚請求の理由をうかがいましょうか」

 公爵とサラの視線がかちあった。

(夫の顔を真正面から見るなんて、何年ぶりだろう)

 公爵の口元がかすかに痙攣しているのが目に入った。笑いをこらえているのだ。

「ポータリー公爵、私が申し上げてよろしいですか。補足があればお願いします」

 トールは厳かに話し始めた。

「ポータリー公爵ご夫妻の婚姻期間は35年に及びます。互いに深い愛情をもって慈しみあった婚姻生活でしたが、少々の問題をはらんでおりました。ですが努力と才知で公爵は危地を乗り切ってきたのです。このたび、あえて公爵が離婚を切り出されたのはやむに已まれぬ事情があったからです。その事情とは」

トールは一拍おいて再び口を開いた。ドラマティックな演出のつもりなのだろう。

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