公爵夫人(55歳)はタダでは死なない

あかいかかぽ

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 バルコニーの真下で何かが動いた。一瞬だったので見間違いかもしれないが、ダチョウに乗ったガイの頭に見えた。

 署名はあっけないほどすぐに終わった。レインが今日中に役所に提出してくれるという。不備がなければ、これで夫婦の共同作業は終了である。
 レオノール氏の申し出については、明後日までに結論を出すことになった。受け入れる場合は、その日、トールの法律事務所で契約をするらしい。
 サラにはもう関係のないことになる。
 多少の慰謝料、または株を受け取ったら、さようならだ。

 さっさと貸馬車でおさらばしようとしたら、ガイも乗り込んできた。

「見事だったな」

「あら、なんのことかしら」

 バルコニーでの会話を聞いていたと、ガイは正直に告白した。そのうえで、サラの手腕を褒めたのだ。

「復讐の天使になれそうかしら」

「そうだな。サラがなりたいのなら」

「……少し考えるわ」

 公爵の孤独を利用して、優しい素振りで気を引いて、こっぴどく振る。これまでの経緯を考えたら、この程度では復讐にならないだろう。
 正直、あまり気分のいいものではなかった。復讐の天使を職業にする自信が急速に萎んでいった。

 そう言うと、消極的な返答にもかかわらず、ガイは小さく笑った。

「職業斡旋所に寄ってもらえます?」

 馭者が「了解した」と答える前に、ガイが訂正した。

「いえ、山に向かってください」

「「山?」」

「サラの山に」

(わたくしの山?)

「山に、なにしに?」

「地図しか見てないから実地調査をしたい」

「調査?」

 馬車は軽快に山に向かう。離婚成立と同時にサラが取り戻す山に。

(山小屋でも建てたいのかしら)

「あのう、道が分かれてるんですが」

 馭者の問いかけにガイは即座に指示を出す。

「その農道を道なりに進むと川にぶつかる。川にそって遡ってくれ」

 地図が頭の中に入っているらしい。

 やがて道はなくなり、雑草は茂り、川は細くなり、地面は荒れ、樹木が密になり、野兎がぴょんぴょんと逃げ出し、ダチョウが興奮して追いかけて行った。
山のふもとに辿りついたのだ。

「この一帯はもうサラの領地になるんだな」

「ええ、でも、ご覧のように手付かずの状態で」

 足もとを蛇が横切っていく。

「土地に価値はないのよね。山小屋を建てるにしても、切り開かないと」

「だが、ピーちゃんとモアりんには過ごしやすいかもな」

「そうね」

(モアりん……?)

 ダチョウ親子を自由に遊ばせ、馬と馭者を休ませているあいだ、サラとガイはふたりで周囲を散策した。

「ヤギや羊を飼おうかしら。雑草を刈る手間が省けそうだし」

「……まさか、本当にここに住むつもりじゃないだろ」

「あら、じゃあ、ガイはどんなつもりで、山を見に来たの?」

「うーん……いざというときの役に立つかも、と」

「?」

 いつになく歯切れが悪かった。

「サラがここに住みたいというなら反対する気はない。だが町で働くなら不便だと思うぞ」

「あ、そうね。働かないと。いけない、急がないと職業斡旋所がしまっちゃうわ」
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