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 その手をトールのうなじに回って引き寄せた。
 瞠目するトールにかまわず、ガイはおのれの唇をトールのそれに──

(……)
(…………)
(………………)
(……………………?!)

 抗う素振りを見せたのも最初だけ、トールはガイの動作に呼吸を合わせていく。

(          )

 ガイの手はトールの背を滑り降り、腰に回った。ふいにトールの身体からこわばりが溶けていった。

(                 )
(   えーと   )
(わたくし、なにを見せられているのかしら……?)

 やがて名残惜しそうに離れた唇からは、吐息がこぼれ落ちた。

「……おまえ、個人事務所を立ち上げる気だろう。私を潰すか。ガイの愛情表現はひねくれているな」

「お互い様だ。トールは俺を見下すことで、俺への愛に気付かないふりをしてきただろう。もうそんなことはさせない」

「一筋縄でいくほど私はヤワではない」

「俺は正攻法で押すだけだ」

(…………)
(ガイの好きな人って……)
(そう……)
(わたくし、一日で二回振られたんだわ)

 そのあと、どうやって事務所を出て、どうやって公爵邸に向かったかは覚えていない。
 公爵とポールになにかを指示してなにかを教えてなにかをネタにして笑いあった。
 よく覚えていない。
 耳がときどき聞こえなくなるようだ。ディナーの味も甘いのかしょっぱいのか区別がつかない。記憶が飛んでいる自覚はある。自覚があるのは良い傾向だ。少なくとも痛みは感じない。痛いという自覚はないのだから、痛くないのだ。

(愛しいガイが幸せになるのなら、心から祝福しなくては)
(それが愛ですもの)
(………………………………)
(……愛じゃなかったのかしら)
(愛なんて知りようがないわ。心から祝福なんてしてやるもんですか。わたくしは聖人ではないのよ。綺麗ごとなんてナメクジに食われてしまえばいいのよ。……ああ、そういえば、しばらくナメクジを駆除してないわね。明日は早起きして庭園を確認しなきゃ)

「サラさま、紅茶をお持ちしました」

 ちょうど喉が渇いているタイミングで、カーンがミルクティーを用意してくれた。

「朝食はどうなさいますか?」

「朝食?」

 いつのまにか翌朝になっていたようだ。だが食欲はない。

「ミルクティーでいいわ。ねえ、カーン、ちょっと訊ねたいんだけど」

「はい」

「紅茶とミルクはお似合いよね。これ以上の組み合わせはないと思わない?」

「完璧だと思いますが、紅茶はたいへん包容力があります。たとえばレモンにも愛想がいい。ブランディなどのお酒も相性がよいですね」

「でもやはりミルクが一番じゃない?」

「どこかのお国ではフルーツのジャムを入れるそうです。あと私の祖国ではミルクのほかにシナモンとクローブとカルダモンなどのスパイスを加えてチャイという飲み物にします。とても美味しいです。ご用意しましょうか」

「まあ、わたくしは世界をまるで知らないわね。美味しそうだこと」

「少なくとも紅茶に涙を入れても美味しくはなりませんよ」

 言われてサラは自分の状態を把握した。泣いていると一度自覚してしまうと、とまらなかった。わんわんと声を上げて子供のように泣いた。ぜんまい仕掛けの壊れた玩具になったようだった。泣き止むころには気分が爽快になり、そしてチャイは予想以上に美味しかった。
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