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一宦官の困惑
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***この話のみ宦官視点になります。
三年前に先帝が崩御、皇位継承の係争で皇子が相次いで亡くなったことは不幸なことではあったが、最後の希望であった皇子が即位して以来、大毅国は安定と繁栄の道を歩んでいる。
即位したときは頼りなかった少年も今年十六歳、すでに名君の片鱗をうかがわせる。
理知的で公明正大、法治の精神を抱き、広く意見を求め、旧習を固守することなくあらためるべき所をあらためた。摩擦や軋轢を避ける均衡の感覚も優れている。治水工事は成功し、東北の飢饉には即座に免税と援助を施し、長年の懸念だった隣国との和議もなった。
皇帝付きの宦官は尊崇する今上陛下にお仕えすることに至上の喜びを感じていた。
その宦官は顔を俯けて、思わず知らず浮かび上がる笑みを隠すようにして、明小月を促した。
「天子がお待ちです。急ぎましょう」
目の端で少女を観察する。姿かたちばかりは名家の令嬢を象ってはいるものの、立ち居振る舞いには洗練さの欠片もない。視線はきょろきょろと落ち着きがない。にわかもいいところだ。このような田舎娘を宮廷に招いて、皇帝陛下はいったい何の用があるのだろうか。
大門をくぐり、まっすぐに続く煉瓦の道を辿る。左右に聳える壁の高さは二丈(約6メートル)、外界を遮断して青い空を切り取っている。澄み渡った大空に白い鳩が過る。
「わあ、こんなに広い建物を見たのは初めてです。なのに道にゴミ一つ落ちていないんですね」
「宮城でございますれば」天子の通り道にゴミが落ちていてたまるか。宦官や女官がのみなみ死罪になるわ。内心で吐き捨てた。
「あとどのくらい歩くのですか」
「そこの扉をくぐり、橋を渡り、回廊に沿って北に向かってまっすぐ歩いた先の階段を上がると琥珀殿という……」
「競争しましょう」
「え……あ、ええ……?!」
「長い裾は歩きにくいわ」
明小月は足にまといつく長裙を捲りあげて、兎のように駆けだした。
「あ、お待ちください」
懸命に後を追った。だが田舎娘の脚力には敵わない。すれ違った数人の衛士は異様さを感じ取ったのだろう、みな恐懼して道を譲った。
「お、お待ちを……」
飛ぶように軽やかに階段を上る後ろ姿は、琥珀殿の薄暗い空間に吸い込まれた。琥珀殿の中には皇帝陛下の玉座がある。今、その玉座には陛下が──。
おのが死を覚悟した。自分だけではない、儀礼を弁えぬ明小月も不敬の罪で死を賜るに違いない。
息も絶え絶えに広間に飛び込んだ我が耳に、皇帝の玉音が届いた。
「私の皇后になってほしい」
天子は小月に手を伸べていた。
私は目を疑った。玉体の尊顔を拝してはならぬという掟を、すっかり忘却していた。
十八州九十九県、天下万民を統べる大毅国第七代皇帝陛下が、天意の顕現者が、尊崇奉るお方が、かようなおかしな真似などなさるはずがない。なんの後ろ盾もない僻地出身のお転婆娘に求婚するなど、あってはならぬことだ。
「こうごう……?」
明小月は首を傾げて皇帝を見上げる。天子は愛しげに少女を見やる。
「……私と夫婦になってほしいと言ったのだ」
私は首を左右に振った。もってのほかだ。死罪を覚悟でお諫めせねば。だが声は出なかった。人は衝撃を受けると声も出ないものなのだと私はそのとき初めて知った。
もし皇帝の申し出を受ければ、この娘は救いようがないほど愚かだと証明することになる。とはいえ、世の中の婦女は皇帝陛下の御前では、たいていは愚かなのだ。
「私は……」小月はどこか呆けたような声で天子の手を取った。
三年前に先帝が崩御、皇位継承の係争で皇子が相次いで亡くなったことは不幸なことではあったが、最後の希望であった皇子が即位して以来、大毅国は安定と繁栄の道を歩んでいる。
即位したときは頼りなかった少年も今年十六歳、すでに名君の片鱗をうかがわせる。
理知的で公明正大、法治の精神を抱き、広く意見を求め、旧習を固守することなくあらためるべき所をあらためた。摩擦や軋轢を避ける均衡の感覚も優れている。治水工事は成功し、東北の飢饉には即座に免税と援助を施し、長年の懸念だった隣国との和議もなった。
皇帝付きの宦官は尊崇する今上陛下にお仕えすることに至上の喜びを感じていた。
その宦官は顔を俯けて、思わず知らず浮かび上がる笑みを隠すようにして、明小月を促した。
「天子がお待ちです。急ぎましょう」
目の端で少女を観察する。姿かたちばかりは名家の令嬢を象ってはいるものの、立ち居振る舞いには洗練さの欠片もない。視線はきょろきょろと落ち着きがない。にわかもいいところだ。このような田舎娘を宮廷に招いて、皇帝陛下はいったい何の用があるのだろうか。
大門をくぐり、まっすぐに続く煉瓦の道を辿る。左右に聳える壁の高さは二丈(約6メートル)、外界を遮断して青い空を切り取っている。澄み渡った大空に白い鳩が過る。
「わあ、こんなに広い建物を見たのは初めてです。なのに道にゴミ一つ落ちていないんですね」
「宮城でございますれば」天子の通り道にゴミが落ちていてたまるか。宦官や女官がのみなみ死罪になるわ。内心で吐き捨てた。
「あとどのくらい歩くのですか」
「そこの扉をくぐり、橋を渡り、回廊に沿って北に向かってまっすぐ歩いた先の階段を上がると琥珀殿という……」
「競争しましょう」
「え……あ、ええ……?!」
「長い裾は歩きにくいわ」
明小月は足にまといつく長裙を捲りあげて、兎のように駆けだした。
「あ、お待ちください」
懸命に後を追った。だが田舎娘の脚力には敵わない。すれ違った数人の衛士は異様さを感じ取ったのだろう、みな恐懼して道を譲った。
「お、お待ちを……」
飛ぶように軽やかに階段を上る後ろ姿は、琥珀殿の薄暗い空間に吸い込まれた。琥珀殿の中には皇帝陛下の玉座がある。今、その玉座には陛下が──。
おのが死を覚悟した。自分だけではない、儀礼を弁えぬ明小月も不敬の罪で死を賜るに違いない。
息も絶え絶えに広間に飛び込んだ我が耳に、皇帝の玉音が届いた。
「私の皇后になってほしい」
天子は小月に手を伸べていた。
私は目を疑った。玉体の尊顔を拝してはならぬという掟を、すっかり忘却していた。
十八州九十九県、天下万民を統べる大毅国第七代皇帝陛下が、天意の顕現者が、尊崇奉るお方が、かようなおかしな真似などなさるはずがない。なんの後ろ盾もない僻地出身のお転婆娘に求婚するなど、あってはならぬことだ。
「こうごう……?」
明小月は首を傾げて皇帝を見上げる。天子は愛しげに少女を見やる。
「……私と夫婦になってほしいと言ったのだ」
私は首を左右に振った。もってのほかだ。死罪を覚悟でお諫めせねば。だが声は出なかった。人は衝撃を受けると声も出ないものなのだと私はそのとき初めて知った。
もし皇帝の申し出を受ければ、この娘は救いようがないほど愚かだと証明することになる。とはいえ、世の中の婦女は皇帝陛下の御前では、たいていは愚かなのだ。
「私は……」小月はどこか呆けたような声で天子の手を取った。
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