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張左丞相
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「食事が届きました。でももう時間がありませんね。あとにしましょうか?」
「行儀が悪いけど……お腹にたまるものを、お願い」
安梅に分けてもらった皿を見て、小月は涙ぐみそうになった。滋養のある食事など数日ぶりだ。卓に並べられたさまざまな料理。南街区に今すぐ持って行きたい。
だがそれは叶わない。ゆえに、しっかりと咀嚼した。美味しくて、今度は本当に泣けてきた。全て吸収しておのれの血肉にして、戦わなければならない。
「さあ、出来ました。鏡をご覧ください」
鏡の中には、煌びやかな小月が映っていた。安梅と韓桜はようやく安堵の息をつく。
「では今度は私達から伺います。今までどうやって過ごしていたんですか」
心配したんですよ、と言葉は続く。『不埒な男に誘拐されたか弱い小月』という発想は、最初から侍女の頭にはなかったようだ。
「心配をかけてごめんなさい、実は」
南街区に入り込んで李医師と一緒に病人を診ていたと答えると、二人は顔を曇らせた。
「小月様らしいですね。病のまっただ中にいて病を撥ね除けるとは、頑健ですわ」
「蓋をする、で思い出したけれど、蚊に刺されないように気をつけてね」
「蚊……?」
仮説だけど、と断りをいれたうえで、蚊媒介説を手短に説明した。
「おお! 小月様が美しい蝶になられた。陛下もお喜びくださるだろう。陛下はただいま 殿においでです。さあ、向かいましょうか」
呼びに来た黄太監が甲高い声をあげた。
小月は、彼の声を、初めて耳障りだと感じた。安梅と韓桜の笑顔も作りもののように見える。
「ふう」
大きく息を吐いた。緊張しているのだ。戦う相手はここにはいないのに。
黄太監に先導され、女官を引き連れて、小月は正悟殿に赴いた。
「今しばらく待て。評議中だ」
正悟殿の階の上から、後ろ手に組んだ張包が見下ろしている。
またこの男が行く手を遮るのか。小月は階を登りながら内心で吐息を漏らした。
「張包さん。李医師をいますぐ牢から出してください」
「なぜ」
「優秀な医者だからです。流行り病の治療のために彼がどれだけ尽力してきたのか、私はつぶさに見てきました。南街区の中では今も苦しんでいる人が大勢います。李医師を必要としている人がいるのよ」
「それは理解している。だが、黄太監から聞かされているはずでしょう。李高有一人が犠牲になれば丸く収まるのです」
「それで良いと思ってるの?」
「……私の意見はどうでもいいでしょう」張包は小月から目をそむけた。
ガツン。
「うお!」張包は臑を抱えて蹲った。
「小月様、お鎮まりください!」黄太監が色を変える。
「不作法でごめんなさい。わざとじゃないのよ」
押し退けて進もうと思ったら、張包の体躯がびくともしなかったのだ。足に絡まる長裙に苛立って跳ね上げたら偶発的に張包の臑を蹴ってしまったのだが、故意だと思われてもかまやしない、と小月は扉に手をかけた。だが扉は小月には重たすぎる。左右に控えていた衛士は瞠目して突っ立ったままだ。
「ちょっと手伝ってください」
「あ……いや……」
「評議が終わるまで中で待たせてちょうだい」
衛士は怯えた様子で、そろそろと扉を開いた。
秀英はどこだろう。正悟殿の政堂はがらんとしている。
耳を澄ますと、声が聞こえた。以前、張包と秀英が流行り病の対策を議論していた一室からだ。狭い控室だった記憶がある。
「小月様、お控えください」
追いかけて来た黄太監と侍女が小月の無礼を止めようとしたが、構わずに一直線に向かった。控室の入口は衛士が塞いでいる。
ちょうどその時、手前の房から蓋椀を三つ載せた盆を掲げて、宦官がしずしずと歩いてきた。
「陛下の喉を潤すためのお茶でしょうか」
「そうです」
「では、私が運びます」
小月は困惑する宦官の手から盆を奪った。衛士の顔が一瞬曇ったが、小月の後ろに黄太監を見つけて、しぶしぶ小月だけを通した。
「失礼いたします」
部屋は窮屈だった。あの夜も狭いと思っていたが、今日は秀英の他に壮年の男性二人、卓を挟んで座っているうえに、壁際には宦官と衛士が一人控えている。
窮屈に感じるのは人数ではなく、壮年男性の存在感のせいだと小月は悟った。
秀英はすぐに小月に気づいて目を見開いた。
茶を卓に置こうとしたが、卓の上は散らかっている。
秀英は立ち上がると「少し休憩にしよう」と言って、小月の盆から椀を取った。壮年の男性二人も順に椀をとって、蓋をずらして茶を飲み始めた。本当に喉が渇いていたようだ。
「む、お前か」
壮年の一人が小月をねめつけた。
小月は軽く頭を下げて、挨拶をした。頭の飾りが重くて、少しふらつく。床面すれすれの長い裙を踏みそうになった。
「陛下の趣向は変わっておられる」
壮年男性の一人は藩右丞相。片方の口端を歪めて笑った。
藩貴妃の宮で不快な出会いをしたことを、小月はよく覚えている。
もう一人は初めて見る顔だった。藩右丞相と同じくらいの年齢に見える。片方の眉を吊り上げて、
「藩右丞相から聞いていた、生意気な小娘とはお前か。……皇帝陛下が皇后に望んでいた明小月という娘だな。わしは張武光。張包の父だ」
小月はふらつきながら張左丞相に会釈をした。
藩右丞相とともに皇帝を支える左丞相だ。目つきの厳つさが張包にそっくりだった。
「行儀が悪いけど……お腹にたまるものを、お願い」
安梅に分けてもらった皿を見て、小月は涙ぐみそうになった。滋養のある食事など数日ぶりだ。卓に並べられたさまざまな料理。南街区に今すぐ持って行きたい。
だがそれは叶わない。ゆえに、しっかりと咀嚼した。美味しくて、今度は本当に泣けてきた。全て吸収しておのれの血肉にして、戦わなければならない。
「さあ、出来ました。鏡をご覧ください」
鏡の中には、煌びやかな小月が映っていた。安梅と韓桜はようやく安堵の息をつく。
「では今度は私達から伺います。今までどうやって過ごしていたんですか」
心配したんですよ、と言葉は続く。『不埒な男に誘拐されたか弱い小月』という発想は、最初から侍女の頭にはなかったようだ。
「心配をかけてごめんなさい、実は」
南街区に入り込んで李医師と一緒に病人を診ていたと答えると、二人は顔を曇らせた。
「小月様らしいですね。病のまっただ中にいて病を撥ね除けるとは、頑健ですわ」
「蓋をする、で思い出したけれど、蚊に刺されないように気をつけてね」
「蚊……?」
仮説だけど、と断りをいれたうえで、蚊媒介説を手短に説明した。
「おお! 小月様が美しい蝶になられた。陛下もお喜びくださるだろう。陛下はただいま 殿においでです。さあ、向かいましょうか」
呼びに来た黄太監が甲高い声をあげた。
小月は、彼の声を、初めて耳障りだと感じた。安梅と韓桜の笑顔も作りもののように見える。
「ふう」
大きく息を吐いた。緊張しているのだ。戦う相手はここにはいないのに。
黄太監に先導され、女官を引き連れて、小月は正悟殿に赴いた。
「今しばらく待て。評議中だ」
正悟殿の階の上から、後ろ手に組んだ張包が見下ろしている。
またこの男が行く手を遮るのか。小月は階を登りながら内心で吐息を漏らした。
「張包さん。李医師をいますぐ牢から出してください」
「なぜ」
「優秀な医者だからです。流行り病の治療のために彼がどれだけ尽力してきたのか、私はつぶさに見てきました。南街区の中では今も苦しんでいる人が大勢います。李医師を必要としている人がいるのよ」
「それは理解している。だが、黄太監から聞かされているはずでしょう。李高有一人が犠牲になれば丸く収まるのです」
「それで良いと思ってるの?」
「……私の意見はどうでもいいでしょう」張包は小月から目をそむけた。
ガツン。
「うお!」張包は臑を抱えて蹲った。
「小月様、お鎮まりください!」黄太監が色を変える。
「不作法でごめんなさい。わざとじゃないのよ」
押し退けて進もうと思ったら、張包の体躯がびくともしなかったのだ。足に絡まる長裙に苛立って跳ね上げたら偶発的に張包の臑を蹴ってしまったのだが、故意だと思われてもかまやしない、と小月は扉に手をかけた。だが扉は小月には重たすぎる。左右に控えていた衛士は瞠目して突っ立ったままだ。
「ちょっと手伝ってください」
「あ……いや……」
「評議が終わるまで中で待たせてちょうだい」
衛士は怯えた様子で、そろそろと扉を開いた。
秀英はどこだろう。正悟殿の政堂はがらんとしている。
耳を澄ますと、声が聞こえた。以前、張包と秀英が流行り病の対策を議論していた一室からだ。狭い控室だった記憶がある。
「小月様、お控えください」
追いかけて来た黄太監と侍女が小月の無礼を止めようとしたが、構わずに一直線に向かった。控室の入口は衛士が塞いでいる。
ちょうどその時、手前の房から蓋椀を三つ載せた盆を掲げて、宦官がしずしずと歩いてきた。
「陛下の喉を潤すためのお茶でしょうか」
「そうです」
「では、私が運びます」
小月は困惑する宦官の手から盆を奪った。衛士の顔が一瞬曇ったが、小月の後ろに黄太監を見つけて、しぶしぶ小月だけを通した。
「失礼いたします」
部屋は窮屈だった。あの夜も狭いと思っていたが、今日は秀英の他に壮年の男性二人、卓を挟んで座っているうえに、壁際には宦官と衛士が一人控えている。
窮屈に感じるのは人数ではなく、壮年男性の存在感のせいだと小月は悟った。
秀英はすぐに小月に気づいて目を見開いた。
茶を卓に置こうとしたが、卓の上は散らかっている。
秀英は立ち上がると「少し休憩にしよう」と言って、小月の盆から椀を取った。壮年の男性二人も順に椀をとって、蓋をずらして茶を飲み始めた。本当に喉が渇いていたようだ。
「む、お前か」
壮年の一人が小月をねめつけた。
小月は軽く頭を下げて、挨拶をした。頭の飾りが重くて、少しふらつく。床面すれすれの長い裙を踏みそうになった。
「陛下の趣向は変わっておられる」
壮年男性の一人は藩右丞相。片方の口端を歪めて笑った。
藩貴妃の宮で不快な出会いをしたことを、小月はよく覚えている。
もう一人は初めて見る顔だった。藩右丞相と同じくらいの年齢に見える。片方の眉を吊り上げて、
「藩右丞相から聞いていた、生意気な小娘とはお前か。……皇帝陛下が皇后に望んでいた明小月という娘だな。わしは張武光。張包の父だ」
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