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さらに窮屈な部屋
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パシン。バシン。
秀英の右の甲を、李医師がパシンと叩いていた。ほぼ同時に、左の甲を、小月が盆でバシンと殴っていた。
李医師と小月は、皇帝に暴力を振るってしまったのだ。だが、まだこの時点ではことの重大さは誰も認識できていない。
「仕留めたぞ」
「よかった、血を吸う前で」
李医師と小月がほっと安堵する眼前で、藩右丞相と張左丞相と張包と宦官と衛士は、呆然となっていた。何が起きたのか理解が追いついていないのだ。やがて、
「いってえ……」
秀英の声に反応して張包と張左丞相が豹変した。張包が小月と李医師の首を上から押さえつける。張左丞相はおのれを盾にして皇帝の前に立つ。藩右丞相は驚いて椅子ごと後ろにひっくり返った。
「何をするか、貴様ら!」
「うわわ」
「これはまじないの一種で、あの……」
「問答無用! 包よ、そやつらを陛下から遠ざけよ」
「は!」
「お、おーい、誰か助け起こしてくれえ」
小月は秀英の顔を盗み見た。秀英はまだかたまっている。
「あら、お取り込み中かしら」
「まあ、父上、何で床に寝ておりますの。せっかく会いにきましたのに。起きてくださいませ」
胡貴妃と藩貴妃が競り合うように室内に入ってきた。殺伐とした空気が芳しい香りに満たされる。もはや腕を伸ばす余地がないほど、狭苦しい。
「何しにやってきた、娘よ」
「明小月殿が戻られたと聞いて、胡貴妃と連れだって参りました」
藩貴妃は団扇で顔を隠している。だが赤くなっている耳は隠せてはいない。ちらと小月を横目で眺めて、視線が合うと、あわてて団扇で目元を隠した。
その様子を見て、胡貴妃がくすくすと笑う。
「私も小月様に会いたくて、我慢できませんでしたの」
藩貴妃が胡貴妃の耳元で何かを囁く。鈴が二つ転がるような軽やかな笑い声。なにやら二人だけにしかわからない楽しみが出来たようだ。
秀英が唐突に叫んだ。
「狭い狭い狭い! 政堂に移動するぞ、ここは狭すぎる!」
「その前に、李医師と小月殿を連れて行きます」
張包は衛士に目配せをした。衛士が李医師を強引に立ち上がらせる。小月のほうは、張包がひょいと持ち上げるようにして立たせた。
「何故、私が陛下を叩いたのか、理由を尋ねないのですか」
小月が問うと、張左丞相がこめかみを震わせた。
「いかな理由があろうと、玉体を傷つけることは赦されぬ!」
「まあ待て」
張左丞相の後ろから秀英が顔を覗かせた。
「納得のいく理由があるというなら聞いてみたい。それからな、小月。小月のは叩いたのではなく、殴ったと表現すべきだ。さあ、みんな、政堂へ移動するぞ。話の続きはそこでしよう。ここは息苦しい」
秀英の指図で全員が移動することになった。藩貴妃と胡貴妃のほか、廊下で待っていた黄太監や侍女達、室内にいた宦官や衛士までがぞろぞろと着いて歩く。入口を守っていた衛士も当然のように後尾につく。
控えの間から政堂への距離は短い。二十歩にも満たない距離の半ばで、突然、李医師が倒れた。彼を確保していた衛士が、ああああ、と奇妙な声を漏らした。
「どうした?」
皆が一斉に振り返った。視線の先には、床で丸まっている李医師がいた。両手で体を抱きしめてぶるぶると痙攣している。縁起ではない。顔色が真っ青になっている。
「な、なんだ……?」
張包の声が上ずった。緊張が走る。小月が身を寄せ、脈診を試みた。脈を診るまでもなく、何十例も実検した小月である。診断に迷いはない。
「流行り病です。発症しました。彼をどこか横になれる場所へ移してください」
小月以外の全員が後退った。
「小月、離れよ」
秀英が血相を変える。
「近寄っても触っても伝染りません」
「何を言う。まじないが効いていない証ではないか」
「いえ、逆です。まじないに効果があることがはっきりしたのです」
「どういうことだ?」
「あああ! 寒い……寒い……寒……!」
李医師がうわ言を繰り返す。手の指は鉤のように折れ曲がり、ままならない苦痛を訴えていた。肩を揺すり、声を掛けたが、わからないようすだ。
張包が一歩近づき、李医師の顔を覗き込む。
「発作か? 急にこんな……」
「張包さん、彼をどこか横に慣れるところに。これは高熱が出る前触れです。数刻のうちに体中が燃えるように熱くなって大量の汗が吹き出します」
「うむ」張包が李医師を抱え上げた。
高熱と平熱を繰り返すものの、体力があれば七日程度で峠を越える。さらに適切な看病をすれば死ぬことはない。
「若い李医師ならきっと大丈夫。体力もあるし……」
張包が呟く。「思っていたよりも随分と体が軽いんだが……?」
小月は息を飲んだ。南街区での忙しさと食料事情を考えると李医師の体力がごっそりと削られていてもおかしくない。
真っ先に張包が願い出た。
「陛下、正悟殿の一室を使わせてください。それと南岩医師に診せる許可を」
秀英が頷く。一瞬の逡巡もなく、抱えているものの重さも感じさせないほど、張包の足は速かった。
「あ、私も──」
後を追おうとした小月を秀英がとめる。
「小月には聞かねばならないことがある」
秀英の右の甲を、李医師がパシンと叩いていた。ほぼ同時に、左の甲を、小月が盆でバシンと殴っていた。
李医師と小月は、皇帝に暴力を振るってしまったのだ。だが、まだこの時点ではことの重大さは誰も認識できていない。
「仕留めたぞ」
「よかった、血を吸う前で」
李医師と小月がほっと安堵する眼前で、藩右丞相と張左丞相と張包と宦官と衛士は、呆然となっていた。何が起きたのか理解が追いついていないのだ。やがて、
「いってえ……」
秀英の声に反応して張包と張左丞相が豹変した。張包が小月と李医師の首を上から押さえつける。張左丞相はおのれを盾にして皇帝の前に立つ。藩右丞相は驚いて椅子ごと後ろにひっくり返った。
「何をするか、貴様ら!」
「うわわ」
「これはまじないの一種で、あの……」
「問答無用! 包よ、そやつらを陛下から遠ざけよ」
「は!」
「お、おーい、誰か助け起こしてくれえ」
小月は秀英の顔を盗み見た。秀英はまだかたまっている。
「あら、お取り込み中かしら」
「まあ、父上、何で床に寝ておりますの。せっかく会いにきましたのに。起きてくださいませ」
胡貴妃と藩貴妃が競り合うように室内に入ってきた。殺伐とした空気が芳しい香りに満たされる。もはや腕を伸ばす余地がないほど、狭苦しい。
「何しにやってきた、娘よ」
「明小月殿が戻られたと聞いて、胡貴妃と連れだって参りました」
藩貴妃は団扇で顔を隠している。だが赤くなっている耳は隠せてはいない。ちらと小月を横目で眺めて、視線が合うと、あわてて団扇で目元を隠した。
その様子を見て、胡貴妃がくすくすと笑う。
「私も小月様に会いたくて、我慢できませんでしたの」
藩貴妃が胡貴妃の耳元で何かを囁く。鈴が二つ転がるような軽やかな笑い声。なにやら二人だけにしかわからない楽しみが出来たようだ。
秀英が唐突に叫んだ。
「狭い狭い狭い! 政堂に移動するぞ、ここは狭すぎる!」
「その前に、李医師と小月殿を連れて行きます」
張包は衛士に目配せをした。衛士が李医師を強引に立ち上がらせる。小月のほうは、張包がひょいと持ち上げるようにして立たせた。
「何故、私が陛下を叩いたのか、理由を尋ねないのですか」
小月が問うと、張左丞相がこめかみを震わせた。
「いかな理由があろうと、玉体を傷つけることは赦されぬ!」
「まあ待て」
張左丞相の後ろから秀英が顔を覗かせた。
「納得のいく理由があるというなら聞いてみたい。それからな、小月。小月のは叩いたのではなく、殴ったと表現すべきだ。さあ、みんな、政堂へ移動するぞ。話の続きはそこでしよう。ここは息苦しい」
秀英の指図で全員が移動することになった。藩貴妃と胡貴妃のほか、廊下で待っていた黄太監や侍女達、室内にいた宦官や衛士までがぞろぞろと着いて歩く。入口を守っていた衛士も当然のように後尾につく。
控えの間から政堂への距離は短い。二十歩にも満たない距離の半ばで、突然、李医師が倒れた。彼を確保していた衛士が、ああああ、と奇妙な声を漏らした。
「どうした?」
皆が一斉に振り返った。視線の先には、床で丸まっている李医師がいた。両手で体を抱きしめてぶるぶると痙攣している。縁起ではない。顔色が真っ青になっている。
「な、なんだ……?」
張包の声が上ずった。緊張が走る。小月が身を寄せ、脈診を試みた。脈を診るまでもなく、何十例も実検した小月である。診断に迷いはない。
「流行り病です。発症しました。彼をどこか横になれる場所へ移してください」
小月以外の全員が後退った。
「小月、離れよ」
秀英が血相を変える。
「近寄っても触っても伝染りません」
「何を言う。まじないが効いていない証ではないか」
「いえ、逆です。まじないに効果があることがはっきりしたのです」
「どういうことだ?」
「あああ! 寒い……寒い……寒……!」
李医師がうわ言を繰り返す。手の指は鉤のように折れ曲がり、ままならない苦痛を訴えていた。肩を揺すり、声を掛けたが、わからないようすだ。
張包が一歩近づき、李医師の顔を覗き込む。
「発作か? 急にこんな……」
「張包さん、彼をどこか横に慣れるところに。これは高熱が出る前触れです。数刻のうちに体中が燃えるように熱くなって大量の汗が吹き出します」
「うむ」張包が李医師を抱え上げた。
高熱と平熱を繰り返すものの、体力があれば七日程度で峠を越える。さらに適切な看病をすれば死ぬことはない。
「若い李医師ならきっと大丈夫。体力もあるし……」
張包が呟く。「思っていたよりも随分と体が軽いんだが……?」
小月は息を飲んだ。南街区での忙しさと食料事情を考えると李医師の体力がごっそりと削られていてもおかしくない。
真っ先に張包が願い出た。
「陛下、正悟殿の一室を使わせてください。それと南岩医師に診せる許可を」
秀英が頷く。一瞬の逡巡もなく、抱えているものの重さも感じさせないほど、張包の足は速かった。
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