52 / 55
他にも方法が……
しおりを挟む
「い、いやだ……自力で……飲む」
「おお、良かった。意識が戻った」
李医師は南岩の介添えをうけて飲み干すと、「寝る」と言って、ぱたりと横になった。
何かあれば連絡を、と告げて退出しようとした時、南岩が周囲を憚るように話し出した。
「ついうっかり口を滑らせてしまったことをお許しください、小月様。回復された藩貴妃様に詰め寄られまして。意識が朦朧としていたのにどうやって水を飲ませてくれたのかと。どうやら漏斗を疑っておいででしたので、小月様が口移しで、と言わざるを得ず。衝撃だったようで顔を真っ赤にされておりました。なので、あれは正式な医療行為であると嘘をつきました。私以外誰も見ていないことを確認され、誰にも口外しないことを約束させられました。藩貴妃は自尊心の高い方ですので、もしや何かいやがらせをされるやも……」
「いやがらせ……」
視線が合った時にさっと目を逸らされているくらいしか、思い当たることがない。団扇で常に顔を隠しているので表情はわからなかった。今は藩貴妃と話し合う暇はないが、全てが落ちついたら謝罪したほうがいいだろう。
そしてその日の夕方、後宮に悲鳴が響き渡った。女官の一人が発症したのだ。後宮では胡貴妃と藩貴妃の二人が対策の指導していたが、それ以前に蚊に刺されていたのでは防ぎようがない。女官の間に恐慌が起こって、我先にと除虫草を毟り取っていったため、花苑は無残な状態になった。除虫草を手に入れられなかった者が小月のもとに殺到した。
小月は、まずは花苑を管理している女官の全宝を訪ねた。花苑を荒らされて落ち込んでいるかと思ったが、全宝はせっせと作業に励んでいた。
「虫除けの草が全部なくなってしまったと聞いたのだけど」
「ええ、まあ。酷い有様です」
「そのねっとりしたものは何?」
「少し前、雨が続いたことがあったでしょう。そのせいで土が腐って小蝿が大量発生したんです。だから……」全宝は作業の手を緩めることなく小月の問いに答えた。「このねばねばしてるのはもちの木の樹皮で作った粘液です。これを樹下や壁に塗っておくと虫がくっつくんですよ」
「虫がくっつく? これもそう?」
傍らの小鉢から酒の香りがする。
「実は私の実家は酒作りをしてまして。酒蔵には蚊がうようよいたんです。あいつら好きなんですよ、発酵の匂いが。これで誘き寄せましょう。小蝿も蚊も、一網打尽です」
「……はあ」
「どうかしましたか?」
「ううん、感心したのよ」
小月は心の底から感嘆していた。
思い浮かべたのは、胡貴妃の描いた絵、剣を握っていた皇帝。一閃のもとに疫鬼を成敗していた。現実ではこうはいかない。世の中にある知識や知恵は無尽蔵にあって、その一つ一つは小さな効果しか産まない。だが小さな砂鉄も、集めて鍛えれば立派な剣になる。
皇帝が振るう剣は、民の知恵であり、慈恵であり、恭順でもあるのだ。皇帝と民が同じ方向を向いているとき、剣は強度を増す。
「小月様、これを風呂の湯に混ぜると疲れが取れますよ」
ぼうっとしていた小月を案じたのだろう、全宝が果実を差し出してきた。小月は恭しく両手で押し戴いた。人の善意が嬉しかった。
宮廷は建物自体が大きく、水の溜まる箇所が多い。梯子を使って屋根に上り、崩れた壁を修復し、水が溜まらないように一つ一つを潰す仕事は宦官に割り振った。日が暮れても作業は続いた。
「思い出した!」進捗を確認していた小月が張包を呼んだ。「牢の中で蚊の翅音を聞いたわ。あそこは湿気がこもっていて排水が上手くいってない。牢内で繁殖しているのかも」
張包以下禁軍は血相を変えて牢獄に走った。
護摩祈願を明日に控えた夜、小月が特命長官になって初めての『流行り病対策会議』が開かれた。皇帝と左右の丞相、そして小月と張包、五人が政堂で膝を詰める。
張左丞相は南方の戦地での経験談を得々と語った。
「虫除けの草がないなら、このように、肌に泥を塗ればいいのです。その昔、南方の戦場で得た知恵です」
だから張親子は顔に土がついているのか。「汚れていますよ」と指摘しなくて良かった、と小月は思った。これで禁軍と張左丞相配下の兵は全員泥塗れになるな、と思いながらも採用した。
「除虫草の不足を埋め合わせる有用な知恵ですね」
すると藩右丞相が「さすがに泥がよく似合う。こちらにも妙計があるぞ」と、にやりと笑んだ。従者に運ばせた食器や祭具を卓に載せる。どれも黄金色に輝いていた。
「ほほう、相当溜めこんでいたな。私財を投じて国を救うとは感心しきり」
張左丞相は手を叩いた。乾いた泥が飛び散る。
「銅製品が買い占められて市場から消えたと聞きましたので、持参しました。飲み水用の水瓶を清水に保つには、小月殿が提案したように、銅製品を入れておくのが一番でしょう。後宮でお使いください」
秀英は食器を手に取った。「見事な装飾だ。さすが藩右丞相。しかし、どれも金製品に見えるが」
「おお、良かった。意識が戻った」
李医師は南岩の介添えをうけて飲み干すと、「寝る」と言って、ぱたりと横になった。
何かあれば連絡を、と告げて退出しようとした時、南岩が周囲を憚るように話し出した。
「ついうっかり口を滑らせてしまったことをお許しください、小月様。回復された藩貴妃様に詰め寄られまして。意識が朦朧としていたのにどうやって水を飲ませてくれたのかと。どうやら漏斗を疑っておいででしたので、小月様が口移しで、と言わざるを得ず。衝撃だったようで顔を真っ赤にされておりました。なので、あれは正式な医療行為であると嘘をつきました。私以外誰も見ていないことを確認され、誰にも口外しないことを約束させられました。藩貴妃は自尊心の高い方ですので、もしや何かいやがらせをされるやも……」
「いやがらせ……」
視線が合った時にさっと目を逸らされているくらいしか、思い当たることがない。団扇で常に顔を隠しているので表情はわからなかった。今は藩貴妃と話し合う暇はないが、全てが落ちついたら謝罪したほうがいいだろう。
そしてその日の夕方、後宮に悲鳴が響き渡った。女官の一人が発症したのだ。後宮では胡貴妃と藩貴妃の二人が対策の指導していたが、それ以前に蚊に刺されていたのでは防ぎようがない。女官の間に恐慌が起こって、我先にと除虫草を毟り取っていったため、花苑は無残な状態になった。除虫草を手に入れられなかった者が小月のもとに殺到した。
小月は、まずは花苑を管理している女官の全宝を訪ねた。花苑を荒らされて落ち込んでいるかと思ったが、全宝はせっせと作業に励んでいた。
「虫除けの草が全部なくなってしまったと聞いたのだけど」
「ええ、まあ。酷い有様です」
「そのねっとりしたものは何?」
「少し前、雨が続いたことがあったでしょう。そのせいで土が腐って小蝿が大量発生したんです。だから……」全宝は作業の手を緩めることなく小月の問いに答えた。「このねばねばしてるのはもちの木の樹皮で作った粘液です。これを樹下や壁に塗っておくと虫がくっつくんですよ」
「虫がくっつく? これもそう?」
傍らの小鉢から酒の香りがする。
「実は私の実家は酒作りをしてまして。酒蔵には蚊がうようよいたんです。あいつら好きなんですよ、発酵の匂いが。これで誘き寄せましょう。小蝿も蚊も、一網打尽です」
「……はあ」
「どうかしましたか?」
「ううん、感心したのよ」
小月は心の底から感嘆していた。
思い浮かべたのは、胡貴妃の描いた絵、剣を握っていた皇帝。一閃のもとに疫鬼を成敗していた。現実ではこうはいかない。世の中にある知識や知恵は無尽蔵にあって、その一つ一つは小さな効果しか産まない。だが小さな砂鉄も、集めて鍛えれば立派な剣になる。
皇帝が振るう剣は、民の知恵であり、慈恵であり、恭順でもあるのだ。皇帝と民が同じ方向を向いているとき、剣は強度を増す。
「小月様、これを風呂の湯に混ぜると疲れが取れますよ」
ぼうっとしていた小月を案じたのだろう、全宝が果実を差し出してきた。小月は恭しく両手で押し戴いた。人の善意が嬉しかった。
宮廷は建物自体が大きく、水の溜まる箇所が多い。梯子を使って屋根に上り、崩れた壁を修復し、水が溜まらないように一つ一つを潰す仕事は宦官に割り振った。日が暮れても作業は続いた。
「思い出した!」進捗を確認していた小月が張包を呼んだ。「牢の中で蚊の翅音を聞いたわ。あそこは湿気がこもっていて排水が上手くいってない。牢内で繁殖しているのかも」
張包以下禁軍は血相を変えて牢獄に走った。
護摩祈願を明日に控えた夜、小月が特命長官になって初めての『流行り病対策会議』が開かれた。皇帝と左右の丞相、そして小月と張包、五人が政堂で膝を詰める。
張左丞相は南方の戦地での経験談を得々と語った。
「虫除けの草がないなら、このように、肌に泥を塗ればいいのです。その昔、南方の戦場で得た知恵です」
だから張親子は顔に土がついているのか。「汚れていますよ」と指摘しなくて良かった、と小月は思った。これで禁軍と張左丞相配下の兵は全員泥塗れになるな、と思いながらも採用した。
「除虫草の不足を埋め合わせる有用な知恵ですね」
すると藩右丞相が「さすがに泥がよく似合う。こちらにも妙計があるぞ」と、にやりと笑んだ。従者に運ばせた食器や祭具を卓に載せる。どれも黄金色に輝いていた。
「ほほう、相当溜めこんでいたな。私財を投じて国を救うとは感心しきり」
張左丞相は手を叩いた。乾いた泥が飛び散る。
「銅製品が買い占められて市場から消えたと聞きましたので、持参しました。飲み水用の水瓶を清水に保つには、小月殿が提案したように、銅製品を入れておくのが一番でしょう。後宮でお使いください」
秀英は食器を手に取った。「見事な装飾だ。さすが藩右丞相。しかし、どれも金製品に見えるが」
0
あなたにおすすめの小説
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
黒騎士団の娼婦
イシュタル
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。
異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。
頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。
煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。
誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。
「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」
※本作はAIとの共同制作作品です。
※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる