江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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九十四、 残された夫婦

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 目を皿のようにして地下室を隅々まで探したが目ぼしいものはない。折れた蝋燭、真鍮の踏み絵や鉄の胸甲が破れたお札とともに床に投げ捨てられているだけだ。

「なさそうです。持って行ったみたいですね」

 四百両もの大金を置いていくわけはないのだ。

「せっかく来たのに残念ね」

「もしかしてそれが理由だったのですか、女将さん」

「なんのことかしら」

「鬼頭さまと温操舵主が斬り合いをしたあとです。鬼頭さまにすべてを明かさずに白蓮教を匿おうとなさいましたよね。あのときすでに、あわよくば四百両を横取りしようと考えて……」

「あら、お照さん、口が悪いわね。温操舵主に交渉を持ち掛けるつもりでしたのよ。四百両と引き換えで、どちらにとっても悪くないトリヒキを。だからまだ捕まってほしくなかったの。でもこうなっては仕方ないわね」

「交渉……とは?」

「ほら、わたくしたち、フランスに戻りますでしょう。その船にお誘いしようと思っておりましたの。清国は港湾の防備がカタイのですけど、南のほうはヒカクテキユルいのですわ。そちらに寄港するくらいアサメシマエですもの」

 乗船賃代わりに四百両をせしめようと考えていたらしい。あっけにとられた。

「そんな、女将さんの希望どおり船を操ることなんかできませんよ。異国の貿易船に乗せてもらうのか、幕府の御用船が手配されるのさえわからないのに。彼らを騙すつもりだったのですか」

「いいえ、わたくしの船が来ますわ」

「女将の……船?」

 お照の脳裏に帆船が浮かんだ。シャルルが作った、模型の帆船だ。大きな帆に風をいっぱいに受けて大海原を軽快に突き進んでいく。

「いったい……どこからそんな船が」

「いたぞ!」

 頭上から声が降ってきた。捕り方がだれかを見つけたようだ。
 急いで階段を上がり、隠し扉を閉めて外に出た。
 男女ふたりが見つかったと騒いでいる。

「だれか残っていたのですか」

「別棟にいた。どうやら置いてけぼりにされたらしい」

 女のほうはトラだった。その隣に身を縮めている男は亭主だろう。

「行先は聞いていないのか」

「教えてくんなかった」

 トラは悔しそうにうつむく。土地も財産も捧げ、娘を他所に預けてまで献身してきたのに、温操舵主から見捨てられたのだと嘆く。
 鬼頭はふんと鼻息を吐いた。

「おのれらの愚かさのせいだ。よく反省するがいい。これからは地に足をつけた暮らしをしなさい」

「あんのう、いい機会だから言わせてもらうけどな」

 トラの亭主が顔をあげた。鬼頭をきっと睨み上げる。

「奴らに搾り取られたのは間違いねえ。しゃぶり尽くされたのはわかってる。納得ずくだ。だけど後悔はしてねえんだ」

「意地っ張りめ」

「あんたら武士だって百姓から搾り取ったりしゃぶり尽くしたりしてるだろう。当たり前の顔をしてな。結社の連中は違った。感謝してくれたよ。困ったときは助け合った。大切な朋輩として認めてくれた。報われた気がした」

「莫迦なことを。騙されていただけだ」

 鬼頭はにべもない。

「切り捨てられたのだけだ。役に立たなくなれば、そうなる」

「嫌なお人だ……」

 トラ夫婦はがっくりと肩を落とした。

 鬼頭の言葉は容赦がない。
 だがその容赦ない言葉の矛先はトラ夫婦ではないような気もした。
 あと十日で失職する自身に向いているのではないか。
 捕り方が告げる。ほかは一人も残っていません、この夫婦だけです。

「くそう、逃したか」

 蔦屋がやってきてトラに笑顔を向けた。

「トラさん、お体のほうはどうです。調子よくなってきましたか。無理したらいけませんよ」

「はあ、ご親切に」

「耕地屋にいた男はご亭主ではなく結社の指導者だったんですね。じゃあお仲間であるあなたの体を慮ったのですよ。行先を告げなかったのはあなたがたに生きていてほしいからです」

「違いますよ。足手まといだからです」

「そんなことはない」

「ああ、なんで女に生まれてきちまったんだろ。男だったら無茶もできたのに」

 亭主が恨めしそうに「そんな切ないこと言わないでくれ」と嘆いた。

 恵まれた体躯のトラである。もし男だったら武芸を究めていただろう。賭場の用心棒を思い出してみてもトラより強そうな男はいなかった。
 トラにとって、結社は居心地がよかったのだ。女を理由に排除しない。武道場で鍛えているうちにめきめきと力をつけたはずだ。温操舵主に認められた、そう思っていたのに捨てられた。
 お照は思わず口を開いていた。

「あなたの役割は終わったんですよ。あなたは勤めを果たし終えたのです」

 亭主がうんうんと頷く。

「そうだ、そう思うことにしよう。清国に早めに帰ったんだと考えよう。な、トラ。顔をあげておくれ。これからは本物の家族と暮らそう。暇を出した雇人や小作人を呼び戻そう。温操舵手が説いた扶助の心はなにも白蓮教に頼らずとも叶えることはできるんだ」

 トラの頬が徐々に緩んでいく。亭主は労るようにトラの腹にそっと手を置いた。
 沈みかけの太陽が鬼頭の憤懣の顔を赤く染めている。

「まったくけしからん話だ。国家転覆という危険思想に染まった連中とつるむなど信じられん」

「危険思想は本当に困りますわね」

 女将も同調する。

 お照には国家転覆など黄表紙の絵空事にしか思えない。フランスとか清国とか、遠い国のできごとだ。自分たちとは関係がないとぼんやりと思っていた。
 だが温操舵手と白蓮教が日本に潜伏するあいだに土地の援助者を得ていた。受け入れられた理由があるのだ。

 幕府は、ないと困るものなのだろうか。結社のように扶助しあえる仲間がいれば、協力しあってより良い生き方を求めることができれば、幕府なんかなくてもよいのではないか。

「なるほど、これが危険思想か」

 お照はかぶりを振った。
 白蓮教徒はどこかへ逃げてしまった。
 だが纏足女の死体がどこにも見つからなかったことに安堵を覚えた。あきらかな足手まといの女を信徒仲間が背負っていったのだと考える少しは心が軽くなる。
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