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六十四、 稲荷社の影
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「疲れましたわ」
家に戻るや、上がり框に腰掛けて女将は溜息をつく。
「素晴らしい演技でした。極上上上吉です」
すかさずお照は褒めた。心の中でなにを思っていてもいい。最後まで笑顔を絶やさなかった女将は立派だった。女将の性格を考えたら上出来だったとお照は思う。
「おほほほ」
満更でもないといったふうに女将は笑った。
これは一歩にも満たない歩みかもしれない。
近所の人が女将を不審がる気持ちはよくわかる。見慣れぬものに不安や恐れを抱くのはまっとうな心の働きだ。知ってもらうことで女将に対する誤解がとけてくれたら。それを期待して挨拶回りをしてみたのだった。
女将の人となりを知ることで、ますます嫌われるかもしれない。その可能性は低くないかもしれないけれど、だとしても、女将のことをろくに知らないくせに影口を叩かれては辛抱できない。
「そろそろ、シャルルの外出禁止を解いてあげてはどうでしょう」
髪や瞳の色が違うだけの尋常なこどもだと、もっと知らしめたい。
「けっこうよ。ただし、かならずお照さんがゴエイしてちょうだいね」
「やった!」
シャルルはぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「三浦屋に行こう」
シャルルの目当ては真琴だ。帯に短い木刀を差して一丁前の武士を気取る。
「あ、そうだ。吉牛も」
やがて、綱をつけた吉牛を牽いてきた。
「吉牛をどうするの?」
「真琴が見てみたいって言ってたんだ」
「わざわざ見せにいかなくても、今度うちに呼んだらいいじゃない」
「でも、吉牛は今日引き取りにくるし、真琴を呼ぶのもお母さまのご機嫌を損なうし、だから……」
「え、引き取りって……?」
シャルルの話によると、乳の出が悪くなってきたので交換するのだという。
よくよく考えれば、出産しなければ乳は出ないのだから、吉牛にはどこかに仔がいるのだ。
「吉牛は自分の仔と会えるのね」
交換するのは、同じように仔を生んだばかりの雌牛だろう。乳が出なくなるまで離ればなれとはちょっと可哀想だ。
「たぶんね、生きてれば、だけど」
「……生きてるでしょ」
「吉宗の牛だから、たぶん、としか言えないけど。もしかしたらフロマージュ(チーズ)になったかもしんないし」
「……それ、なに?」
昼見世まで、まだ一刻を残す仲之町。人通りは少ない。牛の歩みに合わせてお照とシャルルはゆっくりと歩いていく。
「ブールは牛乳を振るとできるでしょ。フロマージュはやっぱり牛乳から作るんだけど、ちょっと手間がかかるんだ。だけど、鬼と家斉公が蘇を食べてみたいとお母さまにお強請りしたことがあったんだよ。そのときは蘇がただ煮詰めただけの牛乳だとはお母さまは知らなくて、フロマージュのことだと思って、『わたくしにはそんな残酷なことはできません』って断ったんだ。だけど作り方は鬼に教えてたから……」
残酷に仔牛を使って作るなにかだと悟って、お照は耳をふさいだ。
「ちょっと待って、怖いからもうその辺で──」
「だれかああああッ!!」
絹を裂くような悲鳴。
シャルルは「真琴の声だ」と声のしたほうを振り返ると、はたして血相をかえた真琴が仲之町をこちらに向かって駆けてきたところだった。
「どうかしたの!?」
真琴はお照とシャルルを見ると、飛びついてきた。
「花魁が、花魁が九郎助稲荷で……!」
真琴が言う花魁とは高月のことに違いない。お照は九郎助稲荷に走った。
吉原には稲荷社が四つある。そのなかでも九郎助稲荷は縁結びの功徳があるといわれ、もっとも参詣者が多い。
鳥居をくぐる。社前で男女が揉めていた。
男が女──高月の後ろから腰に腕を回し、もう一方の手で首に匕首を突きつけていた。
「じゃあ、なんでここに来たんだ。文を読んだからじゃねーのか」
「文なんて知りませんよ。あんたがだれかも知りゃしないんですから」
「なんて言いぐさだ。さんざ貢がせたくせに。殺してやる」
花街によくある男女の揉めごと、と吐き捨てるには匕首がぎらりと光って剣呑だ。
「高月花魁!」
お照は近寄ろうとしたが、
「動くな。動いたら高月の細首を搔っ切るぜ」
家に戻るや、上がり框に腰掛けて女将は溜息をつく。
「素晴らしい演技でした。極上上上吉です」
すかさずお照は褒めた。心の中でなにを思っていてもいい。最後まで笑顔を絶やさなかった女将は立派だった。女将の性格を考えたら上出来だったとお照は思う。
「おほほほ」
満更でもないといったふうに女将は笑った。
これは一歩にも満たない歩みかもしれない。
近所の人が女将を不審がる気持ちはよくわかる。見慣れぬものに不安や恐れを抱くのはまっとうな心の働きだ。知ってもらうことで女将に対する誤解がとけてくれたら。それを期待して挨拶回りをしてみたのだった。
女将の人となりを知ることで、ますます嫌われるかもしれない。その可能性は低くないかもしれないけれど、だとしても、女将のことをろくに知らないくせに影口を叩かれては辛抱できない。
「そろそろ、シャルルの外出禁止を解いてあげてはどうでしょう」
髪や瞳の色が違うだけの尋常なこどもだと、もっと知らしめたい。
「けっこうよ。ただし、かならずお照さんがゴエイしてちょうだいね」
「やった!」
シャルルはぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「三浦屋に行こう」
シャルルの目当ては真琴だ。帯に短い木刀を差して一丁前の武士を気取る。
「あ、そうだ。吉牛も」
やがて、綱をつけた吉牛を牽いてきた。
「吉牛をどうするの?」
「真琴が見てみたいって言ってたんだ」
「わざわざ見せにいかなくても、今度うちに呼んだらいいじゃない」
「でも、吉牛は今日引き取りにくるし、真琴を呼ぶのもお母さまのご機嫌を損なうし、だから……」
「え、引き取りって……?」
シャルルの話によると、乳の出が悪くなってきたので交換するのだという。
よくよく考えれば、出産しなければ乳は出ないのだから、吉牛にはどこかに仔がいるのだ。
「吉牛は自分の仔と会えるのね」
交換するのは、同じように仔を生んだばかりの雌牛だろう。乳が出なくなるまで離ればなれとはちょっと可哀想だ。
「たぶんね、生きてれば、だけど」
「……生きてるでしょ」
「吉宗の牛だから、たぶん、としか言えないけど。もしかしたらフロマージュ(チーズ)になったかもしんないし」
「……それ、なに?」
昼見世まで、まだ一刻を残す仲之町。人通りは少ない。牛の歩みに合わせてお照とシャルルはゆっくりと歩いていく。
「ブールは牛乳を振るとできるでしょ。フロマージュはやっぱり牛乳から作るんだけど、ちょっと手間がかかるんだ。だけど、鬼と家斉公が蘇を食べてみたいとお母さまにお強請りしたことがあったんだよ。そのときは蘇がただ煮詰めただけの牛乳だとはお母さまは知らなくて、フロマージュのことだと思って、『わたくしにはそんな残酷なことはできません』って断ったんだ。だけど作り方は鬼に教えてたから……」
残酷に仔牛を使って作るなにかだと悟って、お照は耳をふさいだ。
「ちょっと待って、怖いからもうその辺で──」
「だれかああああッ!!」
絹を裂くような悲鳴。
シャルルは「真琴の声だ」と声のしたほうを振り返ると、はたして血相をかえた真琴が仲之町をこちらに向かって駆けてきたところだった。
「どうかしたの!?」
真琴はお照とシャルルを見ると、飛びついてきた。
「花魁が、花魁が九郎助稲荷で……!」
真琴が言う花魁とは高月のことに違いない。お照は九郎助稲荷に走った。
吉原には稲荷社が四つある。そのなかでも九郎助稲荷は縁結びの功徳があるといわれ、もっとも参詣者が多い。
鳥居をくぐる。社前で男女が揉めていた。
男が女──高月の後ろから腰に腕を回し、もう一方の手で首に匕首を突きつけていた。
「じゃあ、なんでここに来たんだ。文を読んだからじゃねーのか」
「文なんて知りませんよ。あんたがだれかも知りゃしないんですから」
「なんて言いぐさだ。さんざ貢がせたくせに。殺してやる」
花街によくある男女の揉めごと、と吐き捨てるには匕首がぎらりと光って剣呑だ。
「高月花魁!」
お照は近寄ろうとしたが、
「動くな。動いたら高月の細首を搔っ切るぜ」
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