鬼狩り

笹野にゃん吉

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 村が燃えている。
 怒りに、殺意に、恐怖に、燃えている。

 ナギの全身は、今や闇と同化するほど〈鬼〉の返り血で染まっていた。ひらめきを握る手が、無数の針で刺されたように痺れている。

 方々で〈鬼〉の肉を断つ音が聞こえる。悲鳴が聞こえる。怒号が聞こえる。断末魔が聞こえる。

 もっと多く、もっと多くだ。

 ナギは痺れた手で柄を握り直し、さらなる獲物を求める。
〈鬼〉の数は徐々に減ってきていた。これまで見たこともないような大多数の〈鬼〉だったが、〈鬼狩り〉たちはその全身全霊を以て、村を守ろうとしているようだった。

 だがナギは違う。
〈鬼〉は殺すためにいる。己の中で燃え、滾り続ける憎悪を晴らすために存在する。刀は、守るためのものではなく、殺すための道具だ。

 ナギはこちらを向いた〈鬼〉に切っ先を向けた。

 ナミ。

 もう二度と帰って来ない者の名を心中で呟く。返ってこない時間の名残を。
 痺れが消えてゆく。残るのは痛みにも似た昂揚。自身と刀が、殺すための道具が一体となってゆくような錯覚。

 牙をむき出した〈鬼〉の喉を突く。黒い血飛沫が、ナギの身体を闇に融かす。

〈鬼〉はどこだ、どこだ!

〈鬼〉たちはすでに〈鬼狩り〉と対峙するものばかりだった。ナギの獲物は見当たらない。

 けれど、〈鬼狩り〉として〈鬼〉を斬ってきたナギになら、こちらに殺意を向ける者の気配くらい視認せずとも判った。背後から忍び寄ってくる殺意は、まるでそれ自体が強い臭気をもってでもいるかのように、ナギの感覚に捉えられていた。

 足許が弧を描く。旋風の如く刀が閃く。
 篝火の明かりに反射した軌跡は、しかし空を切っていた。

 上だ。

 ナギはタツゴとの稽古を思い出す。脳天を叩き割らんとする痛烈な一撃が落ちてくる。

 これを紙一重で躱す。
 タツゴは直後、こめかみに手刀を放ってきた。それを受け、ナギは道場の床に放り出されたのだ。

〈鬼〉もまた長い爪を横薙ぎに振るい、ナギの身体を破壊しようとした。
 だがナギは、あの時の屈辱を憶えている。身体が、記憶がそれを知っている。
 刀を掲げ、爪を受ける。衝撃で重心が後ろへぶれる。なんとか踏みとどまる。

 強い。まともに押し合えば、間違いなくこちらがやられる。そんな確信があった。

 ここから先は、未知の領域だ。稽古の中になかった、あの日辿り着くことのできなかった世界。
 この〈鬼〉は強い。タツゴの剣戟を受けていなければ、ナギはもうすでに頭を両断されていた。稽古の先はない。これまで培ってきたもの、その曖昧なものを頼りに、生き抜かなければならない。

〈鬼〉が踏みこむ。

 ナギは半歩下がり、鍔迫り合いを避けた。
〈鬼〉は体勢を崩したが、すぐに正面へ飛び出し、次の一撃を見舞ってくる。

 受ける剣ではだめだ。攻める剣でなければ、〈鬼〉を斬るのは難しい。だがこの〈鬼〉の動きは、風のように速い。恐ろしく隙がない。攻めることができない。

 ナギは〈鬼〉の爪を刀で受け流す。半歩、また半歩と下がり、押し合いに持ち込ませない。しかし、それで精一杯だ。倒れた籠からの熱の所為か、あるいは焦りなのか、恐怖なのか。こめかみに汗が伝い、その一滴さえ切り裂かんとでもするように、間断ない連撃が襲い掛かる。

 どうすればいい?

 問いかけても答えてくれる者はない。戦いは孤独だ。己と相手しかいない。他の〈鬼狩り〉たちも、己を生かすだけで精一杯だ。助けを期待することなどできない。そんな心で〈鬼〉を殺すことはできない。さらに爪を受け流す。

 その時、好機が巡ってきた。 
 次の一手は——大振りだった。脇が見えるほど高く、その黒ずんだ腕が大きく振りかぶられたのだ。

 逸ったか!

 ようやく見出した隙だった。爪を上手く躱せば、〈鬼〉は間違いなく大きく体勢を崩す。その後頭部を叩き割ってやる。

 ナギは半歩下がる。
 
「……ッ!」

 その時、踵が硬い感触を捉えた。
 背中に風を感じられない。
 胃の腑が凍え、縮み上がった。

「しまっ……!」

 背後には家屋の壁があった。下がる場所などなかった。〈鬼〉は逸ったのではなく確実にとどめを刺しにきていたのだ。

 ナギはこれを受けるしかない。刀を掲げ、爪を受けた。

「かあぁ……ッ!」

 突如、突き抜ける衝撃。
 肩が、肘が軋み、脚に血液が凝った。踏みしめた地面がナギの足型に凹み、小さな亀裂を作る。

 潰される……!

 噛みしめた口の中に血の味が拡がる。刀を握りしめる手が熱い。

 それがナギに生を思わせた。孤独な生を自覚させた。
 ナミを失った日の憎悪が、血を沸騰させる。痛みが痺れ、遠のき、力に変わる。憎しみの刃が、戦いの最中、鍛え上げられてゆく。

 ナギは渾身の力をふりしぼった。
 半ば土を蹴るように身体を横へ滑らせ、〈鬼〉の爪を受け流した。
 いきおい余った〈鬼〉は家の壁をばりばりと引き裂き、その中に半身を埋もれさせた。

「アアアアアアッギイィッ!」

 断末魔にも似た悲鳴。
 神聖なものを嫌う〈鬼〉だ。それに触れるだけで、全身を炙るような苦痛に苛まれたことだろう。

 ナギは刀を握り直した。殺すなら今。今しかない。
 ようやく殺せる。殺せるのだ。この燃え滾る憎悪を払拭するために、〈鬼〉の命を奪うことができるのだ。

「どうだ、親父」

 復讐を糧に剣をとったとしても、〈鬼〉を殺すことができる。強い〈鬼〉を、狩ることができる。強くなることができるのだ。

 目の前に可能性がひらけた、そう思われたとき——。

「逃げてぇっ!」

 金切り声がすべての音を切り裂き、酩酊にも似た昂揚を振り払った。

 ナギはその声を追った。
 ミヨが泣き崩れたところだった。

 視線の先に、腹這いになったコウタ、倒れた男、蹲る女——そして刀を手に〈鬼〉のほうへと駆け出してゆくサノがいた。

「なっ……」

 ナギは、とっさに倒れた〈鬼〉へ視線を戻した。〈鬼〉はまだのたうち回りながら、悲鳴を上げている。無防備に腹を晒している。

 殺すならば今だ。今しかないのだ。この憎悪の心を冷やすためには、この〈鬼〉を殺さなければならないのだ。

 ただ、この思いだけで生きてきた。復讐を糧に生きることだけを選んできた。それだけがナギを形作るものだった。それがナギの剣だったのだ。

「うわ、うわああああああっ!」

 サノが無茶苦茶に刀を振るっていた。あんな技で〈鬼〉を殺すことができるはずもない。熟練の〈鬼狩り〉さえ屍へと変わる戦場で、素人の太刀が肉を断つことはできない。

 このままではサノは死ぬだろう。

 

 そのとき、ナギは全力で駆け出していた。満身創痍の〈鬼〉へ踵を返し。その足で固い地面を砕かんとでもするように。

〈鬼〉がサノの剣を見切った。太刀の隙間を縫い、人を殺す愉悦にその顔を綻ばせた。サノの首筋に楔型の爪が伸びた。

 しかし、その爪がサノの身体を貫くことはなかった。

 黒い血とともに、その腕は天にはね上げられたからだ。〈鬼〉は斬られた腕を押さえ、馬の嘶きにも似た悲鳴をとんだ腕に投げた。

 サノが茫洋とした眼差しで腰を抜かした。ナギは残心した。

「ナギ!」

 サノが叫んだ。感嘆ではなく悲鳴のような叫びだった。ほとんど我を忘れているのか、焦点が合わない。

 ナギは〈鬼〉とサノの間に割って入った。

 絶対に殺させはしない。
 ナギは背後を一瞥し、四人を見た。

 この中の誰も、絶対に殺させはしないっ!

 視界の端で篝火の炎が爆ぜ、胸の中で感じたことのない熱が弾けていた。復讐とは異なる熱い炎が。

「よくやった、サノ」

 先の〈鬼〉との戦いで、手足が悲鳴を上げていた。ここまで走ってこられたこと、咄嗟に〈鬼〉の腕を払いとばせたことが嘘のように、手足が痛み、重い。刀を握る腕に、疲労と活力とが同居している。

 まだ動いてもらわなければならない。今、自分の後ろにいるこの四人を守り抜くまでは。

「あとは、俺に任せろ」

 隻腕となった〈鬼〉が襲いかかってくる。炎の明かりを撥ね返し、太刀が閃き——黒い首が夜に融けてゆく。
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