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第一部 巨神の目覚め
プロローグ
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ヴァニ・アントスが叩きつけるようにして大樹のドアを開けた時、祖父のエズは切り株椅子の上でうつらうつらと舟を漕いでいた。
膝の高さほどしかないローテーブルの上にはランタンが置かれ、老いた顔を蜂蜜色に濡らしている。しわだらけの顔は、ところどころに影を作って、虎めいた斑模様を描き出していた。
巨大なオークの木をくり抜いて作られた家屋の壁面には、ヴァニがナイフで削りとった獣の落書きの数々が、ランタンの炎が揺れるのに合わせて踊る。
エズにはちっとも起きだそうとする気配がない。それを見てとって、ヴァニは遠慮もなくバタンと喧しくドアを閉めた。
途端にたるんだ瞼が見開かれ、祖父は跳びあがった。ランタンの中で揺れる小さな炎も、怯えたように身をすくませ、壁の獣たちは薄闇の中に隠れた。
ヴァニは肺の中いっぱいに空気を取り込んで叫ぶ。
「じいたん!」
幼い彼が祖父を呼ぶとき、「じいちゃん」は「じいたん」に聞こえた。
エズは眠気眼をこすりながら愛する孫に微笑みかけ、ランタンの明かりを吹き消した。
僅かに開いた鎧戸から射す陽光は、まだ眩しいほどに明るかった。
しかし老いたエズには、微睡に抗う力さえ残されていなかった。近頃はランタンの明かりで目許を照らしていても、こうして眠りにさらわれてしまうのだ。
本当はヴァニがドアを開けるその瞬間さえ、この眼に、脳裏に刻みこんでおきたかったが、年齢は徒に時間を貪るばかりだ。
日々老いてゆく己に自嘲的なものを感じながらも、なお笑みを和らげる。老いて傷ついた今の彼にできることと言ったら、それくらいしか残されていなかった。
一方、祖父の哀愁を知る由もないヴァニは、薄汚れた黒い箱を胸に、爛々と目を光らせていた。
「どうした、ヴァニ?」
「これ、これ!」
待ってましたとばかりに、テーブルへ苔むした黒い箱が置かれた。ヴァニはそれをしきりに指差し、緑の上を跳び回る兎のようにちょこちょこ足踏みしてみせる。
物知りの祖父に知らないことはない。この箱の正体も当然知っている。そう確信していたのだ。
エズはそんな無垢な期待を裏切らぬよう、慎重に観察を始めた。
箱の表面は、土を被り苔むしてこそいるが、微かに光を反射する金属光沢が見られる。苔の隙間に指を這わせてみれば、ワニスで磨き上げた杖にも似た、つるりとした感触があった。ヴァニの触れていた部分だけがほんのりと温く、けれど冬の近付いた外気に触れていた所為か、全体的にはひんやりと冷たい。
薄汚れた姿は、いかにも古くさい印象である。ところが錆びのようなものは一切見られず、形の歪んでいる個所もない。
指で軽く叩けば、重い響き。中は空洞でないようだ。
それ故、持ってみるとなかなかの重さがある。
しかし現代の技術でこのサイズの鉄の箱を作ろうとすれば、おそらく老いたエズにも幼いヴァニにも、持ち運ぶことはできない重量になるはずだった。
実のところ、一目見たときから箱の正体には気付いていた。ヴァニのような幼子でない限り、ミズィガオロス島に住む者のほとんどは瞬時にこの正体を見破ったことだろう。
〝遺物〟である。
時によっては神話と混同される〝古の時代〟に用いられていたらしい機械の類。
エズは顎の下に伸びた白鬚を指で摘まみながら、小さく笑みを作った。
「よう見つけてきたのぉ、ヴァニ。これは儂らのご先祖様が作った複雑怪奇な機械じゃ。どう使うのか、なにに用いられたのかについては、儂のような老いぼれでもてんで見当がつかんがの」
「じいたんにも、わかあないことがあうの?」
無垢な眼差しを受け、エズはその頭を優しく撫でてやった。
「そりゃあもう沢山ある。数えられんほどある。クルゲの里を形作る木々の枝よりも、あるいはその葉よりもな。儂ら人族が知り得るものなど〝世果ての大瀑布〟に落ちる水滴の一つのようなものに過ぎんのかもしれん」
祖父の言葉に愕然としたヴァニは、両手で口を塞ぐと、思い立ったように身を翻した。
黒ずんだドアを開くと、下生えや灌木が幼いヴァニへ歓迎の腕を拡げた。
その隙間から、きょろきょろと辺りを見回す。
エズの家は、エブンジュナの森にある大木の幹をくり抜いて作られている。彼らの住むクルゲの里の住民は、皆そのように隠れ潜みながら生活するのだ。
かつてクルゲの里は、小人族の集落だったと言い伝えられている。小人族は手先が器用で、力も強いが、小柄で魔法を扱えないことから、人目を避けて生活することを好んだ。地底に住処を築いて暮らしていた者までいたそうだ。
ところが彼らはある時、人族に木の家の作り方を教えると、ミズィガオロス島の南西部に長い尾根を伸ばすニダヴォンリス山脈を目指して旅立ってしまったのだそうだ。
ともあれ、そのような技術が残されているから、ヴァニの目は誰の姿も映すことはできなかった。そも、日中クルゲの里に残って作業をするもの自体非常に稀であった。
けれど森の木々の枝葉は、右へ左へどこに目を転じても見ることができた。懸命に空へ手を伸ばすような枝も、陽光に向けて悦びを表現する瑞々しい緑も。
エズの知らないことは、この木々の世界よりさらに多いのだという。
そして、祖父よりもよほど無知なヴァニには、もっともっと知らないことがあった。
ドアを閉め直し、口をあんぐり開けたまま祖父を見上げた。
座っている所為もあるが、彼の目の高さは、まだ幼いヴァニとさしたる差がない。
見渡した森より、とてもとても小さくて頼りない姿だ。曲がった腰、しわに埋もれた瞼はいかにも弱々しく、触れればカエルの卵のように潰れてしまいそうな気がした。
エズは物知りなだけでなく、半月前の〝瀑布流転の戦い〟で多くの命を救った英雄でもあった。だから、彼は誇るべきじいちゃんだったのだ。
けれどこの時、初めて思い知った。
自慢の祖父は、遺物に関する多くを知らず、こんなにも非力な存在なのだ、と。
片膝から先がなくなっていることも、シャツの袖の一方がしおれてしまっていることも、左の聴力がほとんど失われていることすら、すべて祖父の逞しさだと思っていたけれど。
祖父は、非力で頼りない人族の一人に過ぎなかった。
東の地より滅びをもたらす巨人族――ヨトゥミリスによって傷つけられた、哀れな一人に過ぎなかったのである。
ヴァニは祖父の残った脚に抱きついた。
温かな脚だった。消えたランタンの柔らかな温もりが、そこに残されているかのような。
しかし祖父は、それすら感じることができないのだろう、虚空に茫洋とした眼差しを送りながら言った。
「ヴァニ、お前もその命尽きるまでに多くのことを知るじゃろう。穀物の育て方、遺物の探し方、あるいは魔法や神話に関することまで。そしてそれらの枝葉をゆっくりと伸ばしながら、儂よりも強く歩むがよい。お前の父と母を奪ったヨトゥミリスからその身を守るために……」
祖父はそう言い残すと、また深い眠りの中にさらわれてしまったようだった。こくりこくりと舟を漕ぎ、僅かに開いた目はゆっくりと左右に動いていた。
ヴァニは祖父の膝を撫で、拳を固く握りしめた。
日々衰えてゆく祖父を見ながら彼は、じいちゃんを守れる立派な魔法使いになることを夢見るのだった。
ところが彼の殊勝な決心は、幻想のまま潰えることになる――。
膝の高さほどしかないローテーブルの上にはランタンが置かれ、老いた顔を蜂蜜色に濡らしている。しわだらけの顔は、ところどころに影を作って、虎めいた斑模様を描き出していた。
巨大なオークの木をくり抜いて作られた家屋の壁面には、ヴァニがナイフで削りとった獣の落書きの数々が、ランタンの炎が揺れるのに合わせて踊る。
エズにはちっとも起きだそうとする気配がない。それを見てとって、ヴァニは遠慮もなくバタンと喧しくドアを閉めた。
途端にたるんだ瞼が見開かれ、祖父は跳びあがった。ランタンの中で揺れる小さな炎も、怯えたように身をすくませ、壁の獣たちは薄闇の中に隠れた。
ヴァニは肺の中いっぱいに空気を取り込んで叫ぶ。
「じいたん!」
幼い彼が祖父を呼ぶとき、「じいちゃん」は「じいたん」に聞こえた。
エズは眠気眼をこすりながら愛する孫に微笑みかけ、ランタンの明かりを吹き消した。
僅かに開いた鎧戸から射す陽光は、まだ眩しいほどに明るかった。
しかし老いたエズには、微睡に抗う力さえ残されていなかった。近頃はランタンの明かりで目許を照らしていても、こうして眠りにさらわれてしまうのだ。
本当はヴァニがドアを開けるその瞬間さえ、この眼に、脳裏に刻みこんでおきたかったが、年齢は徒に時間を貪るばかりだ。
日々老いてゆく己に自嘲的なものを感じながらも、なお笑みを和らげる。老いて傷ついた今の彼にできることと言ったら、それくらいしか残されていなかった。
一方、祖父の哀愁を知る由もないヴァニは、薄汚れた黒い箱を胸に、爛々と目を光らせていた。
「どうした、ヴァニ?」
「これ、これ!」
待ってましたとばかりに、テーブルへ苔むした黒い箱が置かれた。ヴァニはそれをしきりに指差し、緑の上を跳び回る兎のようにちょこちょこ足踏みしてみせる。
物知りの祖父に知らないことはない。この箱の正体も当然知っている。そう確信していたのだ。
エズはそんな無垢な期待を裏切らぬよう、慎重に観察を始めた。
箱の表面は、土を被り苔むしてこそいるが、微かに光を反射する金属光沢が見られる。苔の隙間に指を這わせてみれば、ワニスで磨き上げた杖にも似た、つるりとした感触があった。ヴァニの触れていた部分だけがほんのりと温く、けれど冬の近付いた外気に触れていた所為か、全体的にはひんやりと冷たい。
薄汚れた姿は、いかにも古くさい印象である。ところが錆びのようなものは一切見られず、形の歪んでいる個所もない。
指で軽く叩けば、重い響き。中は空洞でないようだ。
それ故、持ってみるとなかなかの重さがある。
しかし現代の技術でこのサイズの鉄の箱を作ろうとすれば、おそらく老いたエズにも幼いヴァニにも、持ち運ぶことはできない重量になるはずだった。
実のところ、一目見たときから箱の正体には気付いていた。ヴァニのような幼子でない限り、ミズィガオロス島に住む者のほとんどは瞬時にこの正体を見破ったことだろう。
〝遺物〟である。
時によっては神話と混同される〝古の時代〟に用いられていたらしい機械の類。
エズは顎の下に伸びた白鬚を指で摘まみながら、小さく笑みを作った。
「よう見つけてきたのぉ、ヴァニ。これは儂らのご先祖様が作った複雑怪奇な機械じゃ。どう使うのか、なにに用いられたのかについては、儂のような老いぼれでもてんで見当がつかんがの」
「じいたんにも、わかあないことがあうの?」
無垢な眼差しを受け、エズはその頭を優しく撫でてやった。
「そりゃあもう沢山ある。数えられんほどある。クルゲの里を形作る木々の枝よりも、あるいはその葉よりもな。儂ら人族が知り得るものなど〝世果ての大瀑布〟に落ちる水滴の一つのようなものに過ぎんのかもしれん」
祖父の言葉に愕然としたヴァニは、両手で口を塞ぐと、思い立ったように身を翻した。
黒ずんだドアを開くと、下生えや灌木が幼いヴァニへ歓迎の腕を拡げた。
その隙間から、きょろきょろと辺りを見回す。
エズの家は、エブンジュナの森にある大木の幹をくり抜いて作られている。彼らの住むクルゲの里の住民は、皆そのように隠れ潜みながら生活するのだ。
かつてクルゲの里は、小人族の集落だったと言い伝えられている。小人族は手先が器用で、力も強いが、小柄で魔法を扱えないことから、人目を避けて生活することを好んだ。地底に住処を築いて暮らしていた者までいたそうだ。
ところが彼らはある時、人族に木の家の作り方を教えると、ミズィガオロス島の南西部に長い尾根を伸ばすニダヴォンリス山脈を目指して旅立ってしまったのだそうだ。
ともあれ、そのような技術が残されているから、ヴァニの目は誰の姿も映すことはできなかった。そも、日中クルゲの里に残って作業をするもの自体非常に稀であった。
けれど森の木々の枝葉は、右へ左へどこに目を転じても見ることができた。懸命に空へ手を伸ばすような枝も、陽光に向けて悦びを表現する瑞々しい緑も。
エズの知らないことは、この木々の世界よりさらに多いのだという。
そして、祖父よりもよほど無知なヴァニには、もっともっと知らないことがあった。
ドアを閉め直し、口をあんぐり開けたまま祖父を見上げた。
座っている所為もあるが、彼の目の高さは、まだ幼いヴァニとさしたる差がない。
見渡した森より、とてもとても小さくて頼りない姿だ。曲がった腰、しわに埋もれた瞼はいかにも弱々しく、触れればカエルの卵のように潰れてしまいそうな気がした。
エズは物知りなだけでなく、半月前の〝瀑布流転の戦い〟で多くの命を救った英雄でもあった。だから、彼は誇るべきじいちゃんだったのだ。
けれどこの時、初めて思い知った。
自慢の祖父は、遺物に関する多くを知らず、こんなにも非力な存在なのだ、と。
片膝から先がなくなっていることも、シャツの袖の一方がしおれてしまっていることも、左の聴力がほとんど失われていることすら、すべて祖父の逞しさだと思っていたけれど。
祖父は、非力で頼りない人族の一人に過ぎなかった。
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ヴァニは祖父の残った脚に抱きついた。
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しかし祖父は、それすら感じることができないのだろう、虚空に茫洋とした眼差しを送りながら言った。
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祖父はそう言い残すと、また深い眠りの中にさらわれてしまったようだった。こくりこくりと舟を漕ぎ、僅かに開いた目はゆっくりと左右に動いていた。
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