昏き森のオルディバル

笹野にゃん吉

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第一部 巨神の目覚め

三章 儚きもの

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 ミズィガオロス島防区。
〝北の砦〟と称されるのは、大瀑布を監視する街のひとつアオスゴルである。
 島の手首側に位置し、北西と南西からそれぞれ大瀑布へ流れこむミシェル河とシュム河の間に生じた中洲の上にそれはある。

 ところが人族の存亡を左右する街の規模は、たった一ハイドばかりで、その荒廃した様と言ったらひどいものだった。

 街の四囲は厚い塁壁に守られ、一見堅牢な守りを築いてあるように映る。
 しかし実際は、そこここにひびが生じ、昨夜の雨で滲みた雫が細い線を描いて流れ落ちているのだ。とてもヨトゥミリスの攻撃に耐えることはできそうにない。

 街の内部も人の手が行き届いているようには見受けられず、石敷きの地面はいたるところから土が剥きだし、泥や煤、その他正体不明の汚物に汚染されていた。時折、人の拳ほどもある黒ずんだネズミが路地を駆けぬけ、ハトのように丸いカラスがぶよぶよとしたなにかを啄みに降り立つ。

 建造物は、ほとんどが木造の四角い二階建てだ。どれもここ数年で建てられたものではない。壁にぱっくりと口を開けているものもあれば、中には木が腐って黒ずんでいるものまであり、倒壊しないのが不思議なほどだった。

 一方、ぽつぽつと佇む石造りの建築物は、比較的きれいな外装をしている。ところが、長く伸びた煙突から吐き出される煙はやたらと黒い。重く垂れこめ、中にパチパチと弾けるものまで見てとれる。清掃が充分になされていないのは明らかだった。

〝古の大戦〟により多くの命が失われ、人族が衰退したことで、街の発展は滞った。それは数百、あるいは数千をも超えると推測される年月が経過した今に至ってさえ改善の兆しがない。

 巨人族の襲撃に備え、武力向上に重きを置かざるを得なかった彼らは、その生活に十二分な潤いをもたらすことができぬまま現代を迎えてしまったのである。

 街と言いながら、ほとんど砦としての役割しかもたないアオスゴルにおいてですら、週に一度か二度、飢えた子どもたちが食糧を求め迷いこんでくる始末だ。それも病の元凶になる、という理由でネズミ同様に殺されてゆく――。

 傾いた塁壁を前に、魔法使いエヴァン・ソルトールは重い憂いを吐きだした。

 壁の内側には、硬い地面の中から芽吹く緑のように、死者の名前の書かれたカードと花束が、隅に寄せ集められ風にさらされている。

〝古の時代〟には墓を作り、死者を弔う風習もあったらしいが、遠い昔のことだ。今では墓石を用意する人手も資源も足りない。埋葬するのも手間なので、亡骸は焼却房へ集められ灰や煙へと変わる。ゆえに、花束やカードだけが彼らの生きていた証明だが、それすらもいずれ雨風にさらされ消えゆく儚いものだった。

 今朝もまた花束とカードが増えた。三つだ。昨夜のヨトゥミリス襲撃により、三人の同胞が命を奪われた。
 エヴァンは花束の前に膝をつき、両手の指をからめこうべを垂れた。

「神よ、我ら人族を始まりの光にて照らす祝福の神ソルテアよ。この戦に終わりはあるのですか? わたくしめはあと何度、愛する者の死を見届けねばならないのでしょうか?」

 今やアオスゴルに――いや、ミズィガオロス島の多くに、光の神ソルテアの教会も神像も存在しない。

 その他の神々も然り。
 かつて人々の心の拠り所となった多くの神々は、されてしまった。西の最果てに位置する街スヴァルタールヘダの光芒図書館へと。

 それを強行したのが、今なお唯一のこされた神を信仰する教団ログボザである。
 混沌と調和の神――名を同じくするログボザを祀り、崇め奉る狂人ども。

 エヴァンはアオスゴルの中央で天を衝くようにそびえる教会を忌々しく見上げた。

 明日の生活を憂える者が多い中、その白い建造物だけが豪奢だった。壁にはひびの一つもなく、扉には銀の装飾。巨人の額のごとく巨大な鐘は、なんと純金で作られている。

 あの中で肥え太り、ひたすらに祈りを捧げる者たちの教義ほど、腹立たしいものはない。

 虚ろな目で司祭は語る。「人族は幸も不幸もすべてを受け入れよ」と。

 ヨトゥミリスによる虐殺も、人口減少による文明の衰退も、それに伴い壁の外で食糧を探さなければ生きていけない貧困の子どもたちも、現状すべてを受け入れるべきだ、と彼らは言うのだ。

 目に見えて不幸に思える死や苦しみは、神々の時代にあっても普遍的なものであり、それら混沌の中から生じる調和もまた普遍であるからして、人々はそこに如何なる悲哀も憎悪も見出すべきではない、と。ただ現状を受け入れ、泰然としてあることだけが、人としてあるべき姿なのだ、と。普遍を打ち破らんとする者は、それだけで邪悪なのだ、と。

 彼らは口々にそう嘯き、ヨトゥミリスによる虐殺で心の荒廃した者たちを信徒として獲得しては、虚無の未来を膨らませてきた。

 勇猛果敢なる戦神も、夜の静謐にそっとその指先を浸す月神も、人々の営みを照らし微笑む天神も、その他あらゆる神々も、すべて己らの管理する光芒の中へと封じ、人々に世の終わりを受け入れさせようとしている。

 そんなことが許されるはずがない。
 エヴァンは花の一房に触れながら憤る。

 この花も、昨夜死んだ魔法使いたちも、それより以前に無念の末に散っていった命たちも、ただそれを受け入れ、足掻くことなかれなどと、どうしてそんなことが言えるのか。

 あんな無機質な教義の許で生きる者たちは、人として生まれた我々に最も必要な愛を知らぬ愚か者たちだ。

 いや、あるいは忘れてしまったのだろう。日々ヨトゥミリスに滅ぼされゆく命を前に、彼らは己を守る術を必要としたのかもしれない。何事にも動じない心を身につけることで、死の悲しみや恐怖を払拭しなければならなかったのかもしれない。もとより信仰とはそういうものだろう。

 だからこそログボザは今日も信徒を獲得し、寄付を受けながら、より豪奢に、より虚しく膨れ上がってゆく。

 そうだとしても――。

 エヴァンは立ち上がり、風にそよぐ花束を見下ろした。

「マイア、クルト、ホミトス。安らかにあれ。私は貴様らを愛しているぞ。そして愛するが故にまだ諦めぬと誓おう。聖なる神のお答えがこの耳に届かずとも、如何なる神や教えが、諦めよと囁こうとも、決してこの杖を手離さぬと誓おう。いずれヨトゥミリスを滅ぼし、真の平和が訪れるその時まで」

 愛する者らに誓いを立て、もう一度手を組んだ。

 すると、石敷きの地面をふむ甲高い音がその背を叩いた。
 振り返ると、視線の先に娘ほども若い女が立っていた。
 緑がかった海色の瞳。それを覗きこむやいなや、白銀の髪が風に舞い上がり、瀑布の飛沫にも似たしろがねの光を瞬かせた。

 ともに翻ったマントは、エヴァンのものと同じく黒を基調とし、大樹の刺繍が入っていた。
 三人の美女がエンボス加工された銅のブローチが、それを前で留めている。上半身はマントと同化して映る漆黒の胸当て。対して下半身は褐色のショートパンツで、無防備な白い足ばかりが目に痛い。
 手には、彼女の背丈ほどもあるトネリコの杖。
 れっきとした魔法使いの出で立ちであった。

「あら、エヴァン中尉もこちらにおられましたの?」

 玉を転がすような上品な声は、教会の陰鬱な鐘の音とは違い耳に心地よく、その若さと不釣り合いな敬語と相まってエヴァンのささくれだった心を鎮めた。

 彼女はカルティナ。
 エヴァン率いる小隊の一人であり、彼と同じく風の魔法に秀でた魔法使いである。
 
 階級は兵長だが、分隊等の指揮官に任命されたことのない変わり種だった。
 理由は単純。指揮官としての能力が欠如しているからである。
 仲間内での評価はもっぱら『有事となると我を忘れ、血の雨の中で踊りだしてしまう戦闘狂』だ。
 ゆえに彼女の強さを象徴する〝赫の踊り子〟の二つ名には、少なからず揶揄と畏れの響きが入り混じる。

 憐れなものだ。

 エヴァンは、彼女が特別恐ろしいとも狂っているとも感じたことがない。
 この過酷なる地に蔓延するのは血と屍だ。凄惨なる死は、人の胎に狂気を孕ませる。無論、エヴァンにもそれはある。彼女は激情を抑制するのが少し不得意なだけに過ぎない。

 部下に微笑を返したエヴァンは、再び花束とカードを見下ろした。

「あいつらを弔ってやっていたところだ」

 三人の親はすでに死別し、兄弟もなく、弔ってやる者が誰もいなかった。彼らの家族もまた殉難の士であったのだ。

 アオスゴルの魔法使いになるということは、ミズィガオロスの民のなによりの誇りである。一方で、そのためには、命投げうつ覚悟を据えねばならない。

 果たして、彼らにそれがあっただろうか。自分にそれがあるだろうか。
 エヴァンは痛む胸を押さえ、天を仰いだ。天頂の眩い光が見つめ返してくる。

「お優しいことですわね」
「貴様もそのつもりで来たのではないのか?」

 有事の報告に来たわけでないのは明らかだった。そういった際、彼女には片方の口端だけを上げた、歪な笑いを浮かべる癖がある。狂人と恐れられる所以だ。

「さて、どうでしょう?」

 カルティナはそう言うと隣へ立ち、を見下ろした。陽光を照り返す海原色の瞳は、戦闘狂と恐れられる者のそれとは不釣り合いに穏やかだった。

「わたくしは中尉殿のようにお優しくはありませんから。ただ」

 カルティナは後ろ手を組み、花束から壁へ、壁から空へ、眼差しを滑らせて言った。

「淋しいとは思いますわ。わたくしなどはあまり関わりのあるほうではなかったけれど。なんだか心に乾いた風が吹いているように感じます」
「そうか。貴様がログボザの信奉者でないようで安心した」
「魔法使いの中にログボザの信奉者などおりまして?」
「それもそうだな」

 エヴァンはそう言い残すと、仲間たちへ踵を返した。

 このような時、カルティナは決まってあとを追ってくる。狂戦士に友と呼べるような間柄の相手はいないが、それでもただ一人、自分のことだけは慕ってくれているようだった。

 これから兵舎の地下食堂に立ち寄るつもりだ。そこで日頃の寂寥を癒してやりながら、今日こそ悩みの一つでも引き出してやろうかと考えていた。

 ところがそこに、突如として朗々とした角笛の音が轟いた。
 腹の底を蹴り上げるような重い音色だった。

 それがたちまち方々で共鳴し、急速に膨れ上がっていった。

 ヨトゥミリス襲来の合図だった。
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