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第七話
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その日は工房を休みにして、私は近所のパン屋へ向かった。
昼前の通りは人通りも多く、焼きたてのパンの匂いが、角を曲がる前から鼻をくすぐる。
「いらっしゃ――あら?」
扉を開けた瞬間、女将さんがこちらを見て、にやりと目を細めた。
「今日はお休み? 珍しいわね」
「たまには、ね。いつものをお願い」
そう言いながらカウンターに立つと、女将さんの視線が、すぐ後ろに向く。
「……あらあら」
その一言で、嫌な予感がした。
「ちょっと、あんた。
そんなの連れて歩いてたら、目立つに決まってるじゃない」
「“そんなの”って何よ」
「決まってるでしょ。背も高くて、顔もいい。
しかも大人しく後ろに立ってるなんて、反則よ」
私は溜め息をつく。
「ただの手伝いよ」
「はいはい。で、その“手伝い”くんのお名前は?」
突然話を振られ、レオンは一瞬固まった。
「……レオンです」
「あら、いい名前。似合ってるわ」
女将さんは満足そうに頷き、今度は私を見る。
「で? いつから?」
「何の話?」
「決まってるでしょ。
あんたが男の子を連れて歩くようになったの、初めてなんだから」
「用事があっただけ」
「ふーん」
意味ありげに鼻を鳴らし、パンを袋に詰めながら続ける。
「でもまあ、分かる気はするわ。
ああいう子、守りたくなる顔してるもの」
「守ってない」
「守ってるわよ」
きっぱり言い切られて、言葉に詰まる。
その間、レオンは居心地悪そうに視線を泳がせていたが、
女将さんはそんな様子もお構いなしだった。
「それにねぇ」
そう前置きして、女将さんはレオンを見上げる。
「かっこいいのに、ちゃんと礼儀正しい。
あんた、絶対モテるでしょ」
「い、いえ……」
耳まで赤くなって否定するレオンを見て、女将さんは声を立てて笑った。
「ほらほら、顔に出てる。
これはもう、放っといたら危ないわねぇ」
「余計な心配しないで」
パンの袋を受け取りながら言うと、女将さんはにっこり微笑む。
「はいはい。
でもね、あんたが誰かと並んで歩いてるの、悪くないわよ」
その言葉に、私は一瞬だけ足を止めた。
店を出ると、焼きたてのパンの温もりが腕に伝わる。
隣では、レオンがまだ少し落ち着かない様子だった。
「……よく、ああいうこと言われるんですか」
「ええ。あの人、誰にでもああだから」
そう答えると、レオンは少し考えてから、小さく言った。
「……嫌じゃなかったです」
「敬語禁止」
「……嫌じゃなかった」
その言い直しが、妙に可笑しくて。
私は思わず、ほんの少しだけ口元を緩めた。
パン屋を出て、通りを歩き始める。
昼の街は人が多く、会話や足音が重なっていた。
最初に違和感を覚えたのは、前から来た二人連れが、すれ違いざまに視線を逸らしたときだった。
それは警戒でも好奇でもなく、ただ一瞬、確かめるような目だった。
そのあとも、同じことが何度か続く。
……見られている。
そう思って周囲を探るが、向けられている視線は自分ではない。
半歩前を歩く、リオンの背中だった。
彼女の背中には綺麗で珍しい白銀の髪が揺れていた。
彼女はいつも通りの足取りで、紙袋を抱え、通りの真ん中を歩いているだけだ。
特別派手な服装でもない。
それなのに、人の視線が自然と集まっていた。
子どもでさえ、一瞬だけ足を止めて見上げる。
――ああ、そういうことか。
レオンは、遅れて理解した。
リオンは、この街では“知られている”存在なのだ。
義足や義手を直す職人として。
困ったときに頼られる人として。
そして、今は――
「……やっぱり、目立ちますね」
思わず漏れたその言葉に、リオンが振り返る。
「そう?」
「はい」
少し考えてから、レオンは続けた。
「さっきから、見てるのは俺じゃない。
あなたです」
リオンは一瞬きょとんとして、それから小さく息を吐いた。
「慣れてるだけよ」
そう言って前を向く横顔は、何でもないように見えた。
けれど、その背中が、街の中で不思議と埋もれていないことを、レオンははっきりと感じていた。
――この人の隣を歩いている。
その事実が、胸の奥で静かに重みを持つ。
彼女の歩く先に、自然と道ができる。
視線が集まる。
それでも、彼女は振り向かず、誇ることもなく、ただ進む。
レオンは、無意識のうちに歩調を合わせた。
半歩後ろではなく、隣に。
街の視線の中で、
彼は初めて、“誰のそばにいたいのか”を、言葉にせず理解していた。
通りを抜け、工房の見える角まで来たところで、レオンは足を緩めた。
それまで自然に並んでいた歩調が、ほんのわずかにずれる。
「……ここからは、後ろを歩きます」
前触れもなく告げられて、私は足を止めた。
「どうして?」
問い返すと、レオンは視線を逸らしたまま答える。
「街の人たち……あなたを見てます。
その、隣に俺がいると……」
言葉を探すように、短く息を吸う。
「余計な噂が立つ」
それは配慮の言葉だった。
けれど、同時に彼自身を下げる言い方でもある。
「……俺は、奴隷ですから」
その一言で、空気が少しだけ冷えた。
私は彼の前に立ち、進路を塞ぐ。
「それで、距離を取るつもり?」
「……はい」
即答ではなかった。
迷いと決意が、同時に滲んでいた。
「自分の立ち位置は、分かってます」
そう言って一歩下がろうとする彼の腕を、私は咄嗟に掴んだ。
義手ではない方の、温度のある腕。
「待って」
掴んだまま、少しだけ力を緩める。
「立ち位置を決めるのは、あなた一人じゃないわ」
レオンは驚いたように目を見開く。
「……でも」
「でも、じゃない」
私は彼の腕から手を離し、並ぶ位置に戻る。
「今は一緒に歩いてる。それでいい」
短く、言い切る。
しばらく、レオンは動かなかった。
それから、小さく息を吐く。
「……分かりました」
そう答えながらも、完全に納得した様子ではなかった。
それでも、距離はこれ以上、広がらなかった。
二人で並んで歩き出す。
さっきより、ほんの少しだけ、歩幅が揃っている。
昼前の通りは人通りも多く、焼きたてのパンの匂いが、角を曲がる前から鼻をくすぐる。
「いらっしゃ――あら?」
扉を開けた瞬間、女将さんがこちらを見て、にやりと目を細めた。
「今日はお休み? 珍しいわね」
「たまには、ね。いつものをお願い」
そう言いながらカウンターに立つと、女将さんの視線が、すぐ後ろに向く。
「……あらあら」
その一言で、嫌な予感がした。
「ちょっと、あんた。
そんなの連れて歩いてたら、目立つに決まってるじゃない」
「“そんなの”って何よ」
「決まってるでしょ。背も高くて、顔もいい。
しかも大人しく後ろに立ってるなんて、反則よ」
私は溜め息をつく。
「ただの手伝いよ」
「はいはい。で、その“手伝い”くんのお名前は?」
突然話を振られ、レオンは一瞬固まった。
「……レオンです」
「あら、いい名前。似合ってるわ」
女将さんは満足そうに頷き、今度は私を見る。
「で? いつから?」
「何の話?」
「決まってるでしょ。
あんたが男の子を連れて歩くようになったの、初めてなんだから」
「用事があっただけ」
「ふーん」
意味ありげに鼻を鳴らし、パンを袋に詰めながら続ける。
「でもまあ、分かる気はするわ。
ああいう子、守りたくなる顔してるもの」
「守ってない」
「守ってるわよ」
きっぱり言い切られて、言葉に詰まる。
その間、レオンは居心地悪そうに視線を泳がせていたが、
女将さんはそんな様子もお構いなしだった。
「それにねぇ」
そう前置きして、女将さんはレオンを見上げる。
「かっこいいのに、ちゃんと礼儀正しい。
あんた、絶対モテるでしょ」
「い、いえ……」
耳まで赤くなって否定するレオンを見て、女将さんは声を立てて笑った。
「ほらほら、顔に出てる。
これはもう、放っといたら危ないわねぇ」
「余計な心配しないで」
パンの袋を受け取りながら言うと、女将さんはにっこり微笑む。
「はいはい。
でもね、あんたが誰かと並んで歩いてるの、悪くないわよ」
その言葉に、私は一瞬だけ足を止めた。
店を出ると、焼きたてのパンの温もりが腕に伝わる。
隣では、レオンがまだ少し落ち着かない様子だった。
「……よく、ああいうこと言われるんですか」
「ええ。あの人、誰にでもああだから」
そう答えると、レオンは少し考えてから、小さく言った。
「……嫌じゃなかったです」
「敬語禁止」
「……嫌じゃなかった」
その言い直しが、妙に可笑しくて。
私は思わず、ほんの少しだけ口元を緩めた。
パン屋を出て、通りを歩き始める。
昼の街は人が多く、会話や足音が重なっていた。
最初に違和感を覚えたのは、前から来た二人連れが、すれ違いざまに視線を逸らしたときだった。
それは警戒でも好奇でもなく、ただ一瞬、確かめるような目だった。
そのあとも、同じことが何度か続く。
……見られている。
そう思って周囲を探るが、向けられている視線は自分ではない。
半歩前を歩く、リオンの背中だった。
彼女の背中には綺麗で珍しい白銀の髪が揺れていた。
彼女はいつも通りの足取りで、紙袋を抱え、通りの真ん中を歩いているだけだ。
特別派手な服装でもない。
それなのに、人の視線が自然と集まっていた。
子どもでさえ、一瞬だけ足を止めて見上げる。
――ああ、そういうことか。
レオンは、遅れて理解した。
リオンは、この街では“知られている”存在なのだ。
義足や義手を直す職人として。
困ったときに頼られる人として。
そして、今は――
「……やっぱり、目立ちますね」
思わず漏れたその言葉に、リオンが振り返る。
「そう?」
「はい」
少し考えてから、レオンは続けた。
「さっきから、見てるのは俺じゃない。
あなたです」
リオンは一瞬きょとんとして、それから小さく息を吐いた。
「慣れてるだけよ」
そう言って前を向く横顔は、何でもないように見えた。
けれど、その背中が、街の中で不思議と埋もれていないことを、レオンははっきりと感じていた。
――この人の隣を歩いている。
その事実が、胸の奥で静かに重みを持つ。
彼女の歩く先に、自然と道ができる。
視線が集まる。
それでも、彼女は振り向かず、誇ることもなく、ただ進む。
レオンは、無意識のうちに歩調を合わせた。
半歩後ろではなく、隣に。
街の視線の中で、
彼は初めて、“誰のそばにいたいのか”を、言葉にせず理解していた。
通りを抜け、工房の見える角まで来たところで、レオンは足を緩めた。
それまで自然に並んでいた歩調が、ほんのわずかにずれる。
「……ここからは、後ろを歩きます」
前触れもなく告げられて、私は足を止めた。
「どうして?」
問い返すと、レオンは視線を逸らしたまま答える。
「街の人たち……あなたを見てます。
その、隣に俺がいると……」
言葉を探すように、短く息を吸う。
「余計な噂が立つ」
それは配慮の言葉だった。
けれど、同時に彼自身を下げる言い方でもある。
「……俺は、奴隷ですから」
その一言で、空気が少しだけ冷えた。
私は彼の前に立ち、進路を塞ぐ。
「それで、距離を取るつもり?」
「……はい」
即答ではなかった。
迷いと決意が、同時に滲んでいた。
「自分の立ち位置は、分かってます」
そう言って一歩下がろうとする彼の腕を、私は咄嗟に掴んだ。
義手ではない方の、温度のある腕。
「待って」
掴んだまま、少しだけ力を緩める。
「立ち位置を決めるのは、あなた一人じゃないわ」
レオンは驚いたように目を見開く。
「……でも」
「でも、じゃない」
私は彼の腕から手を離し、並ぶ位置に戻る。
「今は一緒に歩いてる。それでいい」
短く、言い切る。
しばらく、レオンは動かなかった。
それから、小さく息を吐く。
「……分かりました」
そう答えながらも、完全に納得した様子ではなかった。
それでも、距離はこれ以上、広がらなかった。
二人で並んで歩き出す。
さっきより、ほんの少しだけ、歩幅が揃っている。
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