この恋は始まらない

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第四十三話・この心に甘い花束を

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とある放課後、俺と白鷺は本屋まで来ていた。
この前のカフェ関係の本探しの続きもあるが、もう一つ目的があった。
今日が発売日のファッション雑誌を買いにきた。
小日向の出ている雑誌は、仕事がてら全部目を通すようにはしているが、発売日にやってきたのは理由がある。
この前に撮影した、新学期のやつが掲載されている。
内容までは詳しく知らないが、小日向は俺も載っていると言っていた。
へー。
その時はよく分からなかったので軽い返事をしていた。
野郎の写真なんか需要なさそうだし、右端に一枚くらい写真が載っているくらいかな。
ファッション雑誌に出ているのは、可愛い女の子ばかりだ。
百年に一人の逸材。
最かわ女子高生。
そんな称号持ちしかいない強豪ばかりの読者モデルの中でも、世界一可愛い読者モデルの小日向風夏は、雑誌のトップを着飾っていた。
……天才だな。
小日向が活躍出来るのは高々、十数ページ。
そんな貴重な枠に野郎の俺を大々的に載せるなんて、狂ってなければ出来ない。
立ち読みは悪いことだけど、ちゃんと買うから店頭で確認させてもらう。
パラパラとめくる。
うん。
……狂ってたわ。
忘れていたが、この世界の女性にまともなやつなんていない。
ドキッ、新学期制服コーデ特集。
男の子向け最新リュックは、彼女チョイスがオススメ!
ラブラブペアルックなリュックで、ずっ彼にアピールしよう!
可愛く言って、捏造すんな!
クソ下らない会話しかしていないのに、写真だけ切り取って偏向報道みたいなことをするな。
お互いのリュックを二人で選ぶ、ずっと仲良しカップルみたいな写真を撮影していたが、事実無根である。
というのか、フォトショ加工され過ぎていて、俺であって俺じゃねぇよ。
顔色を変えて、爽やかにしないでくれ。
風夏ちゃんの彼氏は、ちょっぴり苦めのコーヒー男子。
くっだらねぇ!
なんだよ、それ!
わけわかんねぇよ。
全てにおいて、俺の原型がなくなっていた。
ここまで変わっていたら、他の野郎でよくないか?
「東山、綺麗に撮れていて、格好いいじゃないか」
「……え? そうなのか? いや、物凄く弄られている感じしかしないんだけど……。白鷺も契約した時に撮影したんだっけ、載っているのか?」
白鷺も小日向の事務所に入ることになった。
俺が入った後に続くかたちで、書類にサインをしていた。
白鳥さんに乗せられていたし、上手いくらいにスムーズに事が進んでいたあの流れ的に、当初から俺よりも白鷺を引き抜きたかったのだろうか。
サークル活動をする俺達に色々な仕事の提案をしてくれていて、上手く事務所に組み込んでいた。
最近だと、ファッションブランドもやっているみたいだしな。
読者モデルとして小日向の知名度を上げるために、オタク層の新規開拓と、小日向のイラストを使って洋服やグッズを展開する。
そこら辺は一から開拓してやるよりは俺達の知名度を利用していった方が早い。
グッズを出したい俺達の考えとも一致する。
そこまで考えていたのなら、未来が見える悪魔だな。
流石、小日向のマネージャーである。
汚い悪魔とか言っていた理由が何となく分かるのが怖い。


白鷺は雑誌をパラパラめくる。
「ふむ。私のは載っていないな。撮影した時期的にも、載るならば次の雑誌かも知れないな」
「まじか。また買いに来ないとな……」
白鷺の洋服姿はイベントの時以外はあまり拝めないし、読者モデルとして活躍するふゆお嬢様の新しい一面は楽しみである。
ファッション雑誌だから、いつもの清楚な洋服とは違い、可愛い格好をしているかも知れない。
アクセで着飾っているかも知れない。
そう考えたら、今からでも楽しみだ。
プライスレスである。

俺と同じように考えていそうなメイドリストが爆買いして、雑誌にプレミア価格が付きそうだな。
発売日当日に行かないとやばそうである。
「私がモデルをして、売り上げが落ちないといいが……」
「白鷺なら大丈夫だろう? 俺が知っている中で一番の美人だし」
「そうか!」
「それに、やっぱり白鷺が隣に居ると俺も安心するしな」
小日向はあんな感じだし、新しい場所で活動するのは不安だった。
だけど、サークルメンバーである白鷺がいたら、どんな所でも安心出来る。
あのアホは才能だけで全速力で夢に突き進むが、白鷺は堅実に一歩ずつ歩くような速さで夢に向かっていく。
それでいて、歩幅を合わせてくれる。
「私も東山がいなかったら、読者モデルの話を受けていなかっただろう。その意味では、安心しているのかも知れないな」
白鷺は、優しく微笑する。
まあ、そうだな。
正直な話、白鳥さんが白鷺達のサポートをしてくれると言ってなかったら、俺も話を普通に蹴っていたはずだ。
別に、事務所に入って金を稼ぎたかったり、有名になりたいわけではない。
名誉とは無縁である。
俺も白鷺も、趣味でやっている分には今まで通りでも問題なかった。
俺はイラストを描いて、白鷺は写真集を出す。
それだけで楽しかったし、十二分に忙しいからだ。
学生とサークル活動を掛け持ちしながらこんなことをしているのだから、そりゃ忙しい。
ただ、どんなに忙しくしていても同じことを繰り返すだけの毎日では、モチベーションは停滞してしまう。
俺や白鷺は真面目に生きている分か、事前準備を万全にして仕事をするから、新しいことに挑戦して冒険したり、危険に身を投じることが出来ないのだ。
その意味では、これは一生に一度のチャレンジだった。
誰だって、新しいことをしてみたい。
そんな感じ。

「しかしまあ、白鷺もよく親の許可が降りたよな。仕事するって言って、大変じゃなかったのか?」
白鷺の家ってそういうところは厳しいものだと思っていた。
「別に厳しいわけではないが?」
白鷺は真顔だった。
あ、白鷺さん金持ちだから、そもそも金稼ぐことに興味ないやつだわ、これ。
チェキと写真集の販売だけで、普通の学生さんのバイト代を稼いでいるわけだし、仕事する必要もないもんな。
「まあ、納得しているならよかったわ」
白鷺のお父さんは厳しい人だから、白鷺に何かあったら、謝罪しに行くことになりそうだ。
いや、そういう危ない橋を渡りたいわけじゃないんだが。
「それに、女性しかいない事務所だと知ったら、お父様も安心だと言っていた。特に問題もないだろう」
「え? ああ、うん。そっすね」
俺は男なのだが、カウントされていなかった。
……あと、あそこのスタッフは問題児ばかりで安心とは無縁の場所だが、今は忘れておこう。
白鷺の性格なら上手くやれそうだしな。


色々話をしつつ。
とりあえず雑誌を購入して、辺りの可愛いショップを適当に見て回る。
ガチャガチャ好きな白鷺は、新しいものが出ていないか確認していた。
本当、プリキュア好きだよな。
高校生でもハマるくらいに面白いのは知っているけど。
女の子は、何歳になっても可愛い魔法少女に憧れるものである。
何個もガチャガチャを回していたので、空のカプセルまみれである。
「白鷺、コンビニの袋使うか?」
「すまない」
コンビニの袋を手渡す。
鞄の中にコンビニの袋を常備しておいてよかったわ。
オタクだと、こういう時にコンビニの袋はよく使うからな。
グッズを鞄に直接入れて傷付いたら嫌だし、雨が降ったら濡れちゃうもんな。
「白鷺、いいの出たか?」
「まあまあだな」
冷静にカプセルの中身を袋にしまっていく。
まあまあならいいのか?
よく分からんよ。

「そうだ。東山は行きたい場所はないのか?」
「俺か? あー、帰りにスーパーに寄りたいかな」
「何か買いたいのか?」
「いや、なんというか。陽菜……妹のパシリだよ。菓子買ってこいってさ」
何故に兄をパシリに使うのか。
白鷺と陽菜は交流はないが、名前くらいは知っている。
「ああ、あの小さくて可愛い妹さんか。人懐っこくて話しやすい娘だったな」
一人っ子故に、妹に憧れているのかは分からんが。
……白鷺よ、あいつは可愛くはないぞ。
あと、ああいうのは話しやすいではなく、他人の心にズケズケ入ってくるタイプなだけだ。
「別に俺のは急用でもないし、やりたいことがあったら優先していいからな」
「やりたいことか……」
白鷺は真剣な顔をしていた。
真面目なやつだし、我慢していることとかありそうだ。
深く考えていた。
口を開く。
「そうだな、私はクレープを食べたい」
「え? クレープ?」
白鷺さん??
突拍子のないことを言い出した。
クレープってあれだよな。
たしか、甘い生地でくるんで食べるやつで、生クリームとかイチゴとかアイスが乗っかっているデザート。
女子高生が好みそうな食べ物だけれども、白鷺には不釣り合いである。
お嬢様だから、かぶり付いて食べるイメージもないし、買い食いしているところを見たことないからな。
「風夏がよく食べているのだが、私も食べてみたくてな」
……あの馬鹿。
読者モデルなんだから、高カロリーなものを食べるなよな。
食べるのが大好きなのは知っているが、少しは食事制限しろ。
はあ、小日向は俺にとって永遠の悩みの種だ。
悪いやつじゃないんだが、白鷺の半分くらいしっかりしてくれていたら、俺としては楽なんだがな。
白鷺と二人で遊んでいるのに、あんまり小日向のことを考えるのも悪いので、忘れることにする。
「じゃあ、クレープでも食べに行くか。確か、フードコートにクレープ屋さんあったよな? 何食べたいんだ?」
「……いちごのクレープが食べたい」
可愛い。
じゃなくて、人気メニューとかの定番だからか。
アニメで好きなキャラが食べていて、美味しそうに見えたらしい。
そういうことね。
キャラの真似をしたいとか、可愛いところもあるものだな。

フードコートに着いて、俺と白鷺はクレープ屋さんのメニューとにらめっこをしていた。
予期せぬ事態だ。
お店のPOPには、こう記されていた。
数十種類のトッピングから好きなクレープを作ろう。
敷居高っか。
単語帳みたいに羅列されたトッピング表を見ていると混乱してきた。
どれがどれなのか、分かるはずもなく。
白鷺が驚愕していた。
「いちごのクレープは、いちごのクレープではないのか!?」
冷静沈着な白鷺が取り乱している。
これください。
たったそれだけで済むと思っていた俺達は慌てふためいていた。
注文するのがムズ過ぎる。
こんなことになるなら、コミュ力が高いやつを連れてくるべきだったか。
他のやつらなら、戸惑うことなくサラッと注文するのだろう。
……今は二人しかいないのだ。
何とかして頼まないと。
「白鷺、オススメだ。オススメを頼んで何とかするんだ」
期間限定のメニューなら、トッピングは出来ないらしいので、簡単に頼めるはずだ。
「うむ。それにしようか」
それなら白鷺も安心して注文出来るだろう。
カウンターまで向かい、頼む。
「すみません。期間限定の花嫁のフラワーブーケクレープ一つください」
何でそっちのメニューを頼んだん!?
敷居上がっているんですけど。
二つの期間限定メニューのうち、カップルが好きそうな可愛いクレープを頼む。
白鷺は、恥ずかしくないのか。
いや、いちごのクレープはこれだけだし、見た目が可愛いから選んでそうだったわ。
「あ、カップル割で」 
「白鷺さん?!」
さも平然とカップル割をお願いするな。
最近の白鷺って、そこら辺は躊躇わなくなったよな。
付き合っているのが自慢気で。
前よりも、嬉しそうにしている機会が増えた気がする。
女の子らしい等身大の笑顔。
今までだったら、見れなかっただろう。
綺麗なくせに、崩れた笑顔が可愛くて。
知らなかった。
色々な表情を知る度に、白鷺と付き合っている実感が沸いてくる。
他人に対して、おおっぴらに恋人だということを口外する必要はないが。
白鷺だって、恋人は自慢したくなる。
まあ、カップル割でクレープが安くなるなら、俺だってそうするけど。
俺達みたいな学生からしたら、百円だって貴重である。
サークル活動で頑張ってお金を稼いでいるからこそ、百円の大切さを知っている。
それから店員さんが作る光景を楽しそうに見ながら待っていた。
白鷺はクレープを受け取る。
「可愛い!」
白鷺はご満足だ。
見た目はシンプルで、普通のいちごのクレープのように見えるが、フラワーブーケっぽい花を模したいちごのトッピングが可愛い。
食用の赤い花が、可愛いアクセントになっている。
女の子なら誰でも喜ぶだろう。
紙の入れ物もレース調で、ウェディングドレスを意識しているようだ。
制服姿の学生がブーケを握っていても似合っている。
「ああ、綺麗だな」
「そうだろう? すまない、写真を撮ってもらってもいいだろうか」
「了解。スマホでいいか?」
何枚か撮影して、ラインで送っておく。
それから横並びのベンチに座り、クレープを黙々と食べる白鷺を見ていた。
白鷺は食事中は喋らないので、食べ終わるまで俺は黙っている。
美味しそうにぱくぱくしている白鷺の姿を見ているのも楽しいしな。
スプーンを使って、上品にクリームを食べている。
めっちゃ可愛い。
クレープの生地ごと被り付く猛獣タイプではないので、食べるスピードは遅い。
食べ慣れていないからか、口元にクリームが付いていた。
「白鷺、口元にクリーム付いているぞ」
ナプキンで、口元を拭いてやる。
「あっ」
髪と髪が触れ合うくらいの近距離で、目が合う。
自然の流れでやってしまったが、普通にやばい。
直ぐに目を反らす。
妹の陽菜じゃないんだから、なんでそんなことをしたのか。
白鷺のまつ毛が長くて綺麗だったとか思っている場合ではない。
変態じゃん。

「なるほど! 漫画でよくあるやつだな!」
口元を拭いてあげる。
恋愛漫画あるあるのイベントだ。
クレープデートなら定番である。
白鷺は盛大に勘違いしていたが、変に意識されるよりはマシか。
うん、これってデートなんだよな。
他のお客さんも恋人同士ばかりだから、俺達はカップルに見えるんだろうか。
恥ずかしいな。
「ああ、そうだな。そういえば、三月からの予定なんだけどさ」
直ぐに話題を変えるあたり、いつまでもヘタレである。

三月や四月はイベントが重なるため、白鷺と打ち合わせをする。
三月はまあ、いつものメイドイベントだからいいとして、四月にはアマネさん達が合わせで撮影をしていたいと言っていた。
池袋でコスプレイベントがあるので、小日向と白鷺はそれに参加したいらしい。
みんなでジェムプリの合わせをする。
冬コミの時にとても楽しかったので、またやりたいと言っていた。
前よりもコスプレする人数が多いのと、関東エリア民とはいえど地方の人ばかりなので、予定を合わせたら四月になった。
大分先のことだし、コスプレ関係の話はアマネさんに任せっきりだけれど、許してほしい。
コスプレはマジで分からん。
コスプレイベントには参加したことないし、長年やっているレイヤーさんに任せた方がいい。
……俺は俺で、新作のメイド本を描いたり、小日向のイラスト本を編集して出したり、グッズを作ったりグッズを作ったりしなければならない。
死ぬわ。
自分で自分の首を絞めていた。
好きなものに妥協出来ない。
オタクとは、そういうものだけどさ。
相変わらず、騒がしい日々である。
しかし、一月や二月はドタバタしたせいで、同人イベントには参加していなかった分、手を抜かずに励む。
ファンに呆れられないようにしたい。
「そういえば、出すグッズのことで、相談したいことがあってさ」
「食べ終わるまで待ってくれるか?」
「ああ、うん。すまない」
スプーンで掬い、クレープの中身を食べ切る。
はむはむ食べている。
ハムスターみたいな小動物感があって可愛い。
スプーンでは食べられないクレープの生地に苦戦している。
口が小さいから食べ辛いだろうな。
「白鷺、大きく口を開けて食べるんだよ」
「こうだな!」
ぱくっ。
全然減ってない。
白鷺さん。
食べる時に、目を瞑る必要あります?
勢いまかせで食べるから、コースがずれて、クレープの生地の端がちょっと減っているくらいだった。
おちゃめさんかよ。
「すまない、口で直接食べるのは恥ずかしいのだ。東山、代わりに食べてくれるか?」
「ええ……、甘いの苦手なんだけど。ん~、でも食べ物を残すのは悪いしな……」
白鷺の代わりにクレープの生地を食べる。
もぐもぐ。
普通に甘い。
いちごやクリームは食べ切ったといっても、生地に付いたクリームの残りだけでもかなり甘いものだ。
甘い匂いがする。
それだけでお腹いっぱいになりそうだわ。
ゆっくり食べていたらギブアップしそうだし、一気に頬張る。
甘過ぎ。
周りには他の学生さんもいるけど、よくこれを一人で食べ切れるよな。
もぐもぐしながら、何とか消化する。
「東山、頬にクリームが付いているぞ」
「まじ?」
「ほら、東山。こちらを向け」
「お、おう?」
なすがまま、白鷺に従う。
強引に横を向かされて。
たまに訳分からない行動力を見せるから、ビックリする。
まあ、白鷺は他の奴ほど、わがままを言わないタイプだから、自分から言い出した時くらいは好きにさせてあげたい。

ちゅっ。

頬に当たったそれは。
マシュマロのような感触で。

白鷺からいい匂いがしてきて。
「ふふ。油断大敵だ」
嬉しそうに笑顔だった。
あまり見せない等身大の女の子の姿にドキッとしてしまう。
白鷺は、こんな風に笑えるのか。
俺の知らない表情を見せるから、心臓の鼓動が早くなる。
白鷺は続けて言う。
「東山。これより先は、ちゃんと結婚してからだからな」




的確に追い討ちしてくる。
俺じゃなきゃ、死んでるくらいの衝撃で。
不意打ちのキスをされただけでも、本来ならば致命傷だった。
それに加えて、恋愛が苦手な白鷺が頑張る姿はいじらしい。
白鷺冬華という、超絶美人のお嬢様が全力で甘えてくるのだから、こんな姿を見せられたら惚れない野郎はいないはずだ。
もっと白鷺と仲良くなりたいと思ってしまうだろう。


冬華サイド。
だがしかし。
冬華は完全に満足していた。
清々しい気分で満足していた。
ハジメみたく、胸がドキドキなんてしていない。
これ以上を望んでいなかった。
好きな人と放課後を過ごし、二人で初めてのクレープを食べて、頬ではあっても当初の目的であったキスをしたのだ。
それ以上のことを求めるのは、傲慢過ぎるだろう。
人の人生に幸せがあれば、それだけ不幸がある。
何でも際限なく望むべきではない。
幸せを得る分、失うものもある。
その代償を払わされるのは、自分ではなくハジメだろう。
大きな幸せの為に不幸はいらない。
小さな幸せでいい。
私は、慎ましく生きる方がいい。
漫画で見た、燃え盛るような恋ではないが、ハジメには好き以上のものを貰っている。
好きなものは好きでいい。
春の予定を話し合い、次にやりたいことを決めていく。
今の自分達で、出来ることも出来ないことも、やりたいことは全てを伝えることが出来る。
それが幸せなのだ。
……人には本音と建前が存在して、嫌われないように適度な距離感を保ちたがる。
誰だって、好きな人に好かれようと、取り繕うものだ。
でも、ハジメにはそれがない。
彼の本質は不変である。
どんな時でも、好きなものを頑張る人を応援して、自分が出来ることを手伝ってしまう。
そのせいで時間に追われ、自分の首を絞めることばかり。
いつだって、目のクマが濃くなるくらいに苦労をしていた。
他人の為に人生を切り売りして、尽くすなんて馬鹿馬鹿しいと笑う者もいるだろう。
端から見たら、不器用な生き方ではある。
でも、それは男らしいと思う。
他人の幸せを切に願うのは難しい。
誰だって、自分のことで精一杯。
自分の幸せだけを願って生きることに必死であり、やりたいことを見付け、夢を叶えるのも大変なのだ。
自分の仕事に追われながら、他人を見てあげるなんて難しい。
誰がどう見ても荷が重い。
普通の学生がするような生き方ではない。
ハジメだって、辛過ぎて全部を投げ出したい時があっただろう。
ペンを握る手を離したいこともあったのかも知れない。
それでも、逃げ出さないで頑張っていた。
私のことだってそうだ。
どんなに辛くても投げ出さずにいたからこそ、信頼が生まれて、情になる。

いつも傍で支えてくれる人。
そんなハジメが誰よりも特別で、はしたないけれど頬にキスをしてしまう。
好きなものは好きでいい。
貴方の生き方にずっと救われてきたのだから、この想いは止められない。


お母様……、淑女への道は遠退いてしまいましたが、許してください。


人の心は儘ならないものなのです。
自分を強く律しようにも、冷静でいられなくなる。
高鳴る鼓動は、生きている証。
甘くて切なく。
故に、大切で愛おしいものだと知るのでしょう。
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