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何も魔法を使わなくても、一介の旅人の巾着を盗むことくらい、ユウナにはどうってことのない仕事だった。
ユウナはスリを始めた時、まずスリをするために必要な道具を収集した。今右手に隠し持っている、中指大の小さなナイフもその一つである。
その切れ味たるや、前に誤って刃に触れた時、指を失いそうになったほどだった。その時の傷は今でもうっすらと白く残っている。魔法で治したにも関わらずだ。
人込みの中、そのナイフを膨らんだ巾着を縛る紐に当て、スッと横に滑らせる。紐の束縛を逃れた巾着はストンと下に落ちようとするが、もちろんそんなことにはならない。ユウナは事前に左手で巾着の底を支えていた。
素早くそれを胸の前の服の合わせ目に押し込める。そして何事もなかったように踵を返すと、いきなり肩をつかまれた。
「おい、ガキ!」
ガキと呼ばれるほどユウナは幼くない。今年でもう15になる。
ただ、いかんせん男物の服を着ていたし、髪もそれほど長くない。しかも、まだ胸にはほのかな膨らみしかなく、腰にも女性特有のくびれが生じるには若かった。
要するに、巾着の持ち主はユウナを少年と間違えたのだ。
振り返ったユウナの顔を見て、男は確かに捕まえた相手が女だったことに驚いたようだった。けれども、スリに男も女もない。それは容赦すべき相手ではなかった。
「貴様、今俺の巾着を盗っただろう!」
男がそう言うより早く、ユウナは魔法を使っていた。“沈黙”の魔法だ。
男は自分の発した声が、まったく耳から入ってこなかったことを怪訝に思った。けれど、「言葉を発することができない状態」になどなったことがなかったから、何が起きたのか理解できなかった。
ユウナは男に肩をつかまれた瞬間、その手に自分の右手を重ねていた。そこから魔法を送り込んだのだ。
魔法を使った瞬間、少女の身体に著しい疲労感が生じた。それでもユウナはその疲れを表に出さず、大きく一度深呼吸すると、すぐに“忘却”の魔法を送り込む。
それは、相手の記憶を都合よく失くさせたり、完全な記憶喪失にできるような代物ではなかった。ただ、ここ数分に起きた、ほんのわずかなことを忘れさせるだけである。
けれど、ユウナにはそれで十分だった。
“忘却”が成功すると、ユウナは激しい眩暈がして倒れそうになった。それでも必死に踏みとどまり、なるべく平気そうに振る舞ってその場を離れた。
よろめく身体を無理矢理支えて、ユウナは路地裏から貧民街へ抜けた。ここはブラウレスの街の裏側だ。
汚れ破けたような服を着けた少年、座り込んだまま何時間も空を見続ける老人、昼間から酒の匂いを漂わせている男や、血まみれになって倒れている青年もいる。
ユウナはほっと息をつくと、適当な家の壁にもたれて座り込んだ。ここでは人が互いに干渉し合わない。ユウナが倒れるには最適の場所だった。
(とにかく、よかった……)
懐にある袋を一度服の上からなぞって、ユウナは横になったまま小さく微笑んだ。
けれど、「よかった」のは無事に巾着を盗めたことではなかった。自分が魔法使いであるとバレなかったことだ。
ブラウレスに限らず、魔法使いという人種はごく少数であり、魔法を使える者は皆要人に雇われるか、大悪人になるか、あるいは罪人として処刑されるか、魔法使いであることを隠してひっそりと暮らすかのいずれかだった。
魔法は普通の人にはできない様々なことができる。それは人類の脅威であり、魔法使いは一般に忌み嫌われる傾向にあった。魔法使いを弾圧する国も少なくなく、ここブラウレスでも魔法使いとわかった者は皆姿を消している。
もちろん、殺されたわけではないと、ユウナは考えていた。魔法使いは脅威であるとともに、他国に対する威嚇にもなる。暗殺者としても使えるだろうし、忠誠さえ誓わせることができれば、自国の救世主にもなり得るのだ。
ユウナはそういうものになる気はなかった。できることなら魔法など使いたくないと思っていたが、この能力がなければこれまで生きてこられなかったのも事実である。
ユウナはこのジレンマに苦笑した。結局、地位も職もない自分は、魔法に頼るしか道はない。
「さてと」
しばらく休んでから元気に立ち上がった。身体はもうすっかり良くなっている。魔法の疲れは一過性のものだ。
ゆっくりと辺りをうかがいながら貧民街を歩くと、やがて通りの先に小さな教会が見えてきた。白い壁は長年の風雨に汚れ、窓ガラスは割れ、階段の石もところどころが欠けていた。
ユウナはその石段を上り、赤茶色の大きな扉を押し開けた。すると、中から「誰?」と鋭い、怯えたような声がする。
それは女の子のように高い、少年の声だった。
「私よ、ディオル」
ユウナが柔らかな声で言うと、少年は安堵の息をついてから元気にユウナの許に駆けてきた。まだ10にも満たない子供だ。
「お帰り、ユウナ姉ちゃん」
「ただいま。みんなは?」
「食べ物の調達に行ったよ」
ユウナの質問に、ディオルは明るく笑って答えた。
みんなというのは、ディオルや、あるいはもう少し大きな子供たちのことだった。彼らは皆親がなく、ユウナと一緒にこの打ち捨てられた教会で暮らしていた。
元々は孤児院にいたのだ。しかし、3年前に経営を維持できなくなり、院は多くの子供たちを残して潰れてしまった。
その時ユウナは、自分と特に仲の良かった信頼できる子供を集め、一緒にこの教会に住み着いた。彼らは皆、ユウナが魔法使いであることを知っている仲間だった。
「ディオル。今日もたくさん稼いできたわよ!」
明るくそう言うと、懐から巾着を取り出した。ディオルの目も喜びに輝き出す。
罪の意識などというものはなかった。物心ついた時から、ずっと自分のことさえままならない暮らしをしてきたのだ。貧乏人からならともかく、金を持っていそうな人間から盗みを働くことくらい、神様もお許しくださるだろう。
巾着の中には、確かに膨らみと同じだけの銀貨が入っていて、ディオルは思わずそれを両手ですくった。手の縁から数枚がこぼれ落ち、冷たい板張りの床に弾ける。
「これで服でも買おうね」
ユウナは綺麗な服をまとった自分を想像してうっとりとなった。男物を着ていても、心には女の憧れだってある。
けれど、それを実現させることは叶わなかった。
突然正面の扉が開かれると、ローブをまとった40歳くらいの顎鬚を生やした男がゆっくりと教会の中に入ってきた。
「な、何? あんた、誰?」
ユウナは素早く立ち上がり、右腕を真っ直ぐ横に伸ばしてディオルをかばった。ディオルはすっかり怯えた表情で、ユウナの背後に隠れて身を震わせる。
男はまるで心を覗き見るかのようにユウナの目を見つめながら、低い厳かな声で言った。
「ようやく見つけたぞ、ユウナ・アドレイル」
「アドレイル……?」
思わず呆然となって、ユウナは聞き返した。
ユウナは孤児である。院長の話によれば、拾われた時、「ユウナ」と書かれた紙切れが一枚あるだけで、他には何もなかったと言う。
すなわち、ユウナはただの「ユウナ」でしかなく、アドレイルなどという立派な姓は持ち合わせていなかった。
「私は、そんな名前じゃない。孤児のユウナよ。アドレイルなんて親はいない!」
精一杯虚勢を張りながら、ユウナはものすごい速度で様々なことを考えていた。
まず、自分がアドレイル家の人間であるのは間違いないのだろう。魔法使いは魔法使いからしか生まれない。そして、魔法使いは一般庶民では在り得ないので、なぜ捨てられたのかはともかく、自分は由緒正しき家の人間なのだ。
目の前の男は、そんな魔法使いの自分を、素性を知った上で探していた。目的はわからないが、捕まれば今ある平穏が打ち砕かれるのは確実である。
となれば、もはやここにはいられない。いや、後のことはともかく、まず今はこの男に捕まらないことを考えなければいけない。
後ろには幼いディオルがいる。逃げ出せないならば、戦うしかない。
「それでもお前はユウナ・アドレイルなんだ。一緒に来てもらおう」
「断る!」
ユウナは素早く自分に“強化”の魔法をかけた。この魔法は“沈黙”や“忘却”と違って疲れない。否、自らにかける魔法は容易である、と言うのが正しいだろう。自分に“沈黙”を使っても疲れない。
ユウナは強化された脚で床を蹴り、普通の人間には不可能な速度で男との間合いを詰めた。そして、やはり強化した腕を振るい、拳を真っ直ぐ鳩尾目がけて突き出す。
けれど男は、まるで動じることなくその拳を受け止めると、そこからユウナに魔法を流し込んだ。ユウナはすぐに抵抗を試みたが、男の魔力はユウナのそれを凌駕していた。
「きゃあ!」
ユウナはいきなり浮かび上がった身体に、悲鳴を上げた。“浮遊”の魔法だ。本来は自分にかけて空を飛ぶのに用いるが、別に相手にかけることだってできる。
ユウナは勢いよく宙に浮かぶと、背中から教会の高い天井に叩き付けられた。
「がっ……」
一瞬息が詰まり、視界が真っ白になる。ユウナは今度は真っ逆さまに落下し、あわや頭から激突するところを男に助けられた。
「ユウナ姉ちゃん!」
ディオルが泣きながら叫ぶが、すっかりすくんで動くことができない。もっとも、動けたところでどうなるものでもなかった。
男は服のポケットから紐を取り出すと、片手でほっそりとしたユウナの両腕をつかみ上げた。そしてその腕に紐をかけながら、興味深い眼差しで言った。
「お前は、その魔法をどこで覚えたんだ?」
「し、知らない。放して!」
泣きそうになりながらもがくと、男はいきなりユウナの頬を平手で殴り付けた。
「質問には答えろ」
ユウナは床に崩れ落ち、頬の痛みに固く目を閉じた。それからじわじわと恐怖が押し寄せてきて、とうとう涙をこぼして鼻をすすった。
「し、知らない。気が付いたら使えたの……。放してよ……」
「そうか」
男はユウナの腕をきつく縛ると、今度は脚も縛った。あまりのきつさに血が通わないのか、ユウナの指先は青くなって震えている。
男は怯えるユウナに淡々と言った。
「さすがはシンシア・アドレイルの娘だな。魔法っていうのは、魔力があっても使えない者も多いんだ。正しい教育を受けても、多くは落ちこぼれる」
その話を、ユウナは聞いていなかった。
ただ、これから自分と仲間たちはどうなるのか、それしか考えてなかった。
ユウナがいなくなれば、幼いディオルや子供たちは収入源を失うことになる。一体、彼らはどうやって生きていくのだろうか。
けれど、ユウナはそれ以上考えることができなかった。
「おお、そうか。どうせ眠らせるなら、初めからそうすればよかったな」
男はさも妙案を思い付いたように声を弾ませると、ユウナに“催眠”の魔法をかけた。
ユウナは抵抗も虚しく、意識を闇に囚われた。ディオルの泣き叫ぶ声がかすかに聞こえてきた。
ユウナはスリを始めた時、まずスリをするために必要な道具を収集した。今右手に隠し持っている、中指大の小さなナイフもその一つである。
その切れ味たるや、前に誤って刃に触れた時、指を失いそうになったほどだった。その時の傷は今でもうっすらと白く残っている。魔法で治したにも関わらずだ。
人込みの中、そのナイフを膨らんだ巾着を縛る紐に当て、スッと横に滑らせる。紐の束縛を逃れた巾着はストンと下に落ちようとするが、もちろんそんなことにはならない。ユウナは事前に左手で巾着の底を支えていた。
素早くそれを胸の前の服の合わせ目に押し込める。そして何事もなかったように踵を返すと、いきなり肩をつかまれた。
「おい、ガキ!」
ガキと呼ばれるほどユウナは幼くない。今年でもう15になる。
ただ、いかんせん男物の服を着ていたし、髪もそれほど長くない。しかも、まだ胸にはほのかな膨らみしかなく、腰にも女性特有のくびれが生じるには若かった。
要するに、巾着の持ち主はユウナを少年と間違えたのだ。
振り返ったユウナの顔を見て、男は確かに捕まえた相手が女だったことに驚いたようだった。けれども、スリに男も女もない。それは容赦すべき相手ではなかった。
「貴様、今俺の巾着を盗っただろう!」
男がそう言うより早く、ユウナは魔法を使っていた。“沈黙”の魔法だ。
男は自分の発した声が、まったく耳から入ってこなかったことを怪訝に思った。けれど、「言葉を発することができない状態」になどなったことがなかったから、何が起きたのか理解できなかった。
ユウナは男に肩をつかまれた瞬間、その手に自分の右手を重ねていた。そこから魔法を送り込んだのだ。
魔法を使った瞬間、少女の身体に著しい疲労感が生じた。それでもユウナはその疲れを表に出さず、大きく一度深呼吸すると、すぐに“忘却”の魔法を送り込む。
それは、相手の記憶を都合よく失くさせたり、完全な記憶喪失にできるような代物ではなかった。ただ、ここ数分に起きた、ほんのわずかなことを忘れさせるだけである。
けれど、ユウナにはそれで十分だった。
“忘却”が成功すると、ユウナは激しい眩暈がして倒れそうになった。それでも必死に踏みとどまり、なるべく平気そうに振る舞ってその場を離れた。
よろめく身体を無理矢理支えて、ユウナは路地裏から貧民街へ抜けた。ここはブラウレスの街の裏側だ。
汚れ破けたような服を着けた少年、座り込んだまま何時間も空を見続ける老人、昼間から酒の匂いを漂わせている男や、血まみれになって倒れている青年もいる。
ユウナはほっと息をつくと、適当な家の壁にもたれて座り込んだ。ここでは人が互いに干渉し合わない。ユウナが倒れるには最適の場所だった。
(とにかく、よかった……)
懐にある袋を一度服の上からなぞって、ユウナは横になったまま小さく微笑んだ。
けれど、「よかった」のは無事に巾着を盗めたことではなかった。自分が魔法使いであるとバレなかったことだ。
ブラウレスに限らず、魔法使いという人種はごく少数であり、魔法を使える者は皆要人に雇われるか、大悪人になるか、あるいは罪人として処刑されるか、魔法使いであることを隠してひっそりと暮らすかのいずれかだった。
魔法は普通の人にはできない様々なことができる。それは人類の脅威であり、魔法使いは一般に忌み嫌われる傾向にあった。魔法使いを弾圧する国も少なくなく、ここブラウレスでも魔法使いとわかった者は皆姿を消している。
もちろん、殺されたわけではないと、ユウナは考えていた。魔法使いは脅威であるとともに、他国に対する威嚇にもなる。暗殺者としても使えるだろうし、忠誠さえ誓わせることができれば、自国の救世主にもなり得るのだ。
ユウナはそういうものになる気はなかった。できることなら魔法など使いたくないと思っていたが、この能力がなければこれまで生きてこられなかったのも事実である。
ユウナはこのジレンマに苦笑した。結局、地位も職もない自分は、魔法に頼るしか道はない。
「さてと」
しばらく休んでから元気に立ち上がった。身体はもうすっかり良くなっている。魔法の疲れは一過性のものだ。
ゆっくりと辺りをうかがいながら貧民街を歩くと、やがて通りの先に小さな教会が見えてきた。白い壁は長年の風雨に汚れ、窓ガラスは割れ、階段の石もところどころが欠けていた。
ユウナはその石段を上り、赤茶色の大きな扉を押し開けた。すると、中から「誰?」と鋭い、怯えたような声がする。
それは女の子のように高い、少年の声だった。
「私よ、ディオル」
ユウナが柔らかな声で言うと、少年は安堵の息をついてから元気にユウナの許に駆けてきた。まだ10にも満たない子供だ。
「お帰り、ユウナ姉ちゃん」
「ただいま。みんなは?」
「食べ物の調達に行ったよ」
ユウナの質問に、ディオルは明るく笑って答えた。
みんなというのは、ディオルや、あるいはもう少し大きな子供たちのことだった。彼らは皆親がなく、ユウナと一緒にこの打ち捨てられた教会で暮らしていた。
元々は孤児院にいたのだ。しかし、3年前に経営を維持できなくなり、院は多くの子供たちを残して潰れてしまった。
その時ユウナは、自分と特に仲の良かった信頼できる子供を集め、一緒にこの教会に住み着いた。彼らは皆、ユウナが魔法使いであることを知っている仲間だった。
「ディオル。今日もたくさん稼いできたわよ!」
明るくそう言うと、懐から巾着を取り出した。ディオルの目も喜びに輝き出す。
罪の意識などというものはなかった。物心ついた時から、ずっと自分のことさえままならない暮らしをしてきたのだ。貧乏人からならともかく、金を持っていそうな人間から盗みを働くことくらい、神様もお許しくださるだろう。
巾着の中には、確かに膨らみと同じだけの銀貨が入っていて、ディオルは思わずそれを両手ですくった。手の縁から数枚がこぼれ落ち、冷たい板張りの床に弾ける。
「これで服でも買おうね」
ユウナは綺麗な服をまとった自分を想像してうっとりとなった。男物を着ていても、心には女の憧れだってある。
けれど、それを実現させることは叶わなかった。
突然正面の扉が開かれると、ローブをまとった40歳くらいの顎鬚を生やした男がゆっくりと教会の中に入ってきた。
「な、何? あんた、誰?」
ユウナは素早く立ち上がり、右腕を真っ直ぐ横に伸ばしてディオルをかばった。ディオルはすっかり怯えた表情で、ユウナの背後に隠れて身を震わせる。
男はまるで心を覗き見るかのようにユウナの目を見つめながら、低い厳かな声で言った。
「ようやく見つけたぞ、ユウナ・アドレイル」
「アドレイル……?」
思わず呆然となって、ユウナは聞き返した。
ユウナは孤児である。院長の話によれば、拾われた時、「ユウナ」と書かれた紙切れが一枚あるだけで、他には何もなかったと言う。
すなわち、ユウナはただの「ユウナ」でしかなく、アドレイルなどという立派な姓は持ち合わせていなかった。
「私は、そんな名前じゃない。孤児のユウナよ。アドレイルなんて親はいない!」
精一杯虚勢を張りながら、ユウナはものすごい速度で様々なことを考えていた。
まず、自分がアドレイル家の人間であるのは間違いないのだろう。魔法使いは魔法使いからしか生まれない。そして、魔法使いは一般庶民では在り得ないので、なぜ捨てられたのかはともかく、自分は由緒正しき家の人間なのだ。
目の前の男は、そんな魔法使いの自分を、素性を知った上で探していた。目的はわからないが、捕まれば今ある平穏が打ち砕かれるのは確実である。
となれば、もはやここにはいられない。いや、後のことはともかく、まず今はこの男に捕まらないことを考えなければいけない。
後ろには幼いディオルがいる。逃げ出せないならば、戦うしかない。
「それでもお前はユウナ・アドレイルなんだ。一緒に来てもらおう」
「断る!」
ユウナは素早く自分に“強化”の魔法をかけた。この魔法は“沈黙”や“忘却”と違って疲れない。否、自らにかける魔法は容易である、と言うのが正しいだろう。自分に“沈黙”を使っても疲れない。
ユウナは強化された脚で床を蹴り、普通の人間には不可能な速度で男との間合いを詰めた。そして、やはり強化した腕を振るい、拳を真っ直ぐ鳩尾目がけて突き出す。
けれど男は、まるで動じることなくその拳を受け止めると、そこからユウナに魔法を流し込んだ。ユウナはすぐに抵抗を試みたが、男の魔力はユウナのそれを凌駕していた。
「きゃあ!」
ユウナはいきなり浮かび上がった身体に、悲鳴を上げた。“浮遊”の魔法だ。本来は自分にかけて空を飛ぶのに用いるが、別に相手にかけることだってできる。
ユウナは勢いよく宙に浮かぶと、背中から教会の高い天井に叩き付けられた。
「がっ……」
一瞬息が詰まり、視界が真っ白になる。ユウナは今度は真っ逆さまに落下し、あわや頭から激突するところを男に助けられた。
「ユウナ姉ちゃん!」
ディオルが泣きながら叫ぶが、すっかりすくんで動くことができない。もっとも、動けたところでどうなるものでもなかった。
男は服のポケットから紐を取り出すと、片手でほっそりとしたユウナの両腕をつかみ上げた。そしてその腕に紐をかけながら、興味深い眼差しで言った。
「お前は、その魔法をどこで覚えたんだ?」
「し、知らない。放して!」
泣きそうになりながらもがくと、男はいきなりユウナの頬を平手で殴り付けた。
「質問には答えろ」
ユウナは床に崩れ落ち、頬の痛みに固く目を閉じた。それからじわじわと恐怖が押し寄せてきて、とうとう涙をこぼして鼻をすすった。
「し、知らない。気が付いたら使えたの……。放してよ……」
「そうか」
男はユウナの腕をきつく縛ると、今度は脚も縛った。あまりのきつさに血が通わないのか、ユウナの指先は青くなって震えている。
男は怯えるユウナに淡々と言った。
「さすがはシンシア・アドレイルの娘だな。魔法っていうのは、魔力があっても使えない者も多いんだ。正しい教育を受けても、多くは落ちこぼれる」
その話を、ユウナは聞いていなかった。
ただ、これから自分と仲間たちはどうなるのか、それしか考えてなかった。
ユウナがいなくなれば、幼いディオルや子供たちは収入源を失うことになる。一体、彼らはどうやって生きていくのだろうか。
けれど、ユウナはそれ以上考えることができなかった。
「おお、そうか。どうせ眠らせるなら、初めからそうすればよかったな」
男はさも妙案を思い付いたように声を弾ませると、ユウナに“催眠”の魔法をかけた。
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