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東京都新宿区大久保二丁目にその建物はあった。JR山手線『新大久保駅』から大久保通りを東へ向かい、徒歩で八分ほどの場所にある三階建ての小規模なマンションだ。マンションといっても、外観から察するに築年数が経っている雑居ビルといった印象を受ける。エントランスドアはオートロック機能がない両開きドアだ。ドアは全面ガラス張りで、今は、きちん閉まっているが、少し前までは、左右のドアのうち、どちらかが解放状態であったとのことだ。マンションの住人によると、出入りするとき、一度開けたら閉めるのが面倒とのことらしい。
事件が起きた。
二〇四号室の住人、藤堂さくらの遺体が発見されたのだ。検視の結果、死後一日から二日が経過しているとみられた。眠っているような穏やかな顔であった。自殺か。いや、刃物類が現場になかった。藤堂さくらが自殺を図った後、誰かが部屋を訪ねたとき、その状況に驚いて、自殺に使った道具を持ち去った? いや、もしそうであったなら訪問者が警察に通報しないのは不自然である。とのことで、現場の状況から他殺と推定された。
大久保通りは、通りに沿って飲食店、カフェ、コンビニエンスストア、各種物販店等がぎっしり並び、賑やかな雰囲気を漂わせている。しかし、路地に入ると落ち着いた雰囲気に切り替わる。商業エリアから住宅エリアにスイッチするのだ。事件現場のエリアに入っていくと、その度合いは増す。街の色はグレーだ。建物の外壁がグレーというのではなく、彩度が低い印象だ。人の往来は少ない。住民、あるいは目的を持った人物しか通らないような雰囲気を醸し出している。
鑑識の結果、凶器については、アイスピックのような先端の尖った鋭利な刃物であることがわかった。胸を一突きされていた。ただ、その凶器がもともと室内にあった物か、室外から持ち込まれた物なのかは不明だ。
新都心署に捜査本部が設けられた。所轄署・刑事課・捜査一係と警視庁・刑事部・捜査第一課・殺人犯捜査係との特別捜査本部となった。
初動は軽快だった。
「防犯カメラがある。犯行の時間帯の映像を見ればはっきりするだろう」
「室内に荒らされた形跡がない。抵抗した形跡もない。顔見知りの犯行だろう」
「交友関係を調べれば犯人を特定できるぞ」
ところが
「ダミー! なんてこった。防犯カメラはダミーなのか。チクショー」
新都心警察署に設けられた捜査本部で、缶コーヒーを飲みながら苦虫を噛み潰したような顔しているのは、警視庁・新都心警察署・刑事課・殺人犯捜査係 巡査部長 神田(かんだ)譲(じょう)治(じ) 二十八歳。
「ダミー? 防犯意識が低いな」
口調は穏やかだが、おおらかさとはまったく違う。抑揚のない声、顎を突き出す仕草、刺すような視線。初対面ではわからないかもしれないが、一日共に行動すれば多くの人が感じるだろう。他人を見下していることに。自分のプライドを保とうとする無意識の仕草であるが、人としてのいやらしさがたっぷりにじみ出ている。警視庁・刑事部・捜査第一課・殺人犯捜査係 巡査部長 木村(きむら)孝雄(たかお) 三十歳だ。
「住民がホシなら、正面突破も考えられますね……」
鋭いが突発的な発想をつい口に出してしまうところがあるのは、警視庁・刑事部・捜査第一課・殺人犯捜査係 巡査部長 吉野(よしの)美鈴(みすず) 二十五歳。活字中毒で特にミステリー小説が好きでたまらない。
木村が顎を突き出し遮った。
「まあ、そう言うことだ。防犯カメラがダミーであったことは残念だ。本物であったなら、絶対に映っていたはずだからな。まあ、そこは忘れよう。しかしだ、ホシが気づいていたかどうかだ。建物の出入り口に防犯カメラが設置されていることはすぐわかるはずだ。建物の中に入る前に、視界に入るからな。下を向いていたら、別だが。仮に、目に入らなかった場合でも、セキュリティの観点から都心の集合住宅のエントランスに、防犯カメラが設置されていることは頭で理解できるはずだ。ホシ自身が映ることになる。頭がいかれていない限り、そう考えるだろう」
「もしかしたら、いかれてる人物?」
神田はひとり言のようにつぶやいた。
「ふん」
木村はあざけるように口角を上げ、続けた。
「仮にだ。防犯カメラが本物であることを知った上で、行動する場合、どんなことが考えられるか。細井君、どうだ」
「本物であることを知った上で? 犯行を? うー」
細井は腕を組み、視線を落とした。のどの奥で、うなっている。警視庁・新都心警察署・刑事課・殺人犯捜査係 巡査 二十三歳。木村とコンビを組むことになった。
「緊急を要するとき。例えば、ターゲットが近くにいて、今行動しないと逃げられてしまうとき。あるいは、緊急避難的な行動、急な危険や危難が迫ってきたとき、どこかへ退避するとき。周囲の状況を確認している時間がないといった場合でしょうか」
「神田デカ長はどう考えますか」
「うーん」
神田も腕を組んだ。しかし、視線は落とさなかった。木村をチラッと見て、視線を天井に向けた。なんでそんなことを聞くんだという多少の不満が、ほおのふくらみに表われていた。が、それは一瞬だった。ここは的確に応えなければならない。口角を引き締めた。
「防犯カメラがダミーであることを見破った。あるいは、ダミーであることを知っていた。というところでしょうか」
「ふん」
木村は二人に視線を向けることなく、冷笑を浮かべた。神田と細井は、言葉を待つように木村に視線を向けた。冷笑はすぐに消え、表情がなくなった。嫌な緊張感に包まれた。この緊張感を解いてほしい。二人の視線が語っている。七秒経った。木村が軽く息を吐いた。
「ダミーであると見破るには、防犯カメラに近づかなくてはならない。近づくには、カメラに映らなくてはならない。カメラに視線を向ける。近づく。さてどうなるのか。わかりきっている。不自然に映る。わざわざカメラに向かって突進してくるヤツ。そんなのが映っていれば、不審度八十パーセントは超えるだろう」
木村は他の意見を寄せつけないように一気に捲し立てた。
「防犯カメラに近づくことなく、ダミーであることを見破ることは可能でしょうか。まあ、視力8.0なら」
吉野は唐突だ。
「アフリカのサバンナで暮らしている人物なら、可能でしょうか。どう、思われますか」
呼応してきたのは、警視庁・新都心警察署・刑事課・殺人犯捜査係 巡査 中野(なかの)珠美(たまみ) 二十二歳。
「サバンナで暮らしている人物は、防犯カメラに精通していますかな」
木村は即座に跳ね返した。
「人種差別ですね」
「なにっ!」
木村の顔がゆがんだ。右の口角が不自然に吊り上った。
「失礼しました」
吉野は深々と頭を下げた。にやりと笑った。木村に勝った。そんなところか。その表情は木村には見えない。吉野の顔が床と平行になっているからだ。木村は吉野の頭頂部をにらみつけていた。三秒経過。木村はいつもの無表情に戻った。内心はまだ燃えているようだ。歯を食いしばっている。二人は本部で同階級であるが、立ち位置は微妙だ。
「難しかったですかな。常識的な言葉が返ってくると思っていましたが。これでは進まない。もういい。説明しましょうか」
木村は吉野に視線を向けた。吉野は既に頭を上げていた。視線がぶつかる。
「お願いします」
「説明しましょう。もともと映っていたんです」
木村は言葉を切った。周りの表情を確認しているようだ。なめるような視線を投げている。
「ど、どういうことですか」
神田は不意打ちを食らったように、目を大きく見開いた。吉野は黙っていたが、眉間にしわを寄せた。またこちらを試すつもりか……猜疑(さいぎ)の色が目に宿る。
「映っていたことを知っていたということです。あくまでも仮定の話ですが」
木村は再び言葉を切り、周りを見た。
「木村部長。よくわかりません」
細井は反射的に答えた。
「つまりだ。織り込み済みなんですよ。防犯カメラに自分が映っていることを。もともと映っているからこそ、事件の前後のその姿が確認されても不審に思われないことをだ」
木村は全員に問いかけた。
「どんな人物像を思い浮かべる?」
「防犯カメラが設置してある建物の住人ですか」
「他には」
「そうですね」
「防犯カメラに映っている常連だよ。すぐに思い浮かべなきゃだめだ」
「はい」
「住人を訪ねてくる人物だ。友人、知人、親族、配達業者などだ」
「その中にホシがいるということですか」
「あくまでも仮定の話だと言ったはずだ」
「はい」
「まあ、防犯カメラに映ることなく、建物に入る方法もあるけどな。吉野デカ長、わかりますか」
みんなのやり取りを腕組みしながら聞いていた吉野は、眉間にしわを寄せ、不快な表情を浮かべた。人を試すような口ぶり鼻につく。しかし、ここはきちっと答えよう。
「建物の共有スペースです。たとえエントランスにオートロックのドアが設置されていても、侵入者を完全にブロックできません。共有廊下などの共有スペースからの侵入は難しいことではありません。都内の建物を見ても、多くの建物が大きな口を開けています」
「他にありますか」
「他に?」
「まあいいです。仮の話をしていても、先に進めません。まずは、動きましょう。細井君行くぞ」
木村は指先で机をたたき、立ち上がった。
事件が起きた。
二〇四号室の住人、藤堂さくらの遺体が発見されたのだ。検視の結果、死後一日から二日が経過しているとみられた。眠っているような穏やかな顔であった。自殺か。いや、刃物類が現場になかった。藤堂さくらが自殺を図った後、誰かが部屋を訪ねたとき、その状況に驚いて、自殺に使った道具を持ち去った? いや、もしそうであったなら訪問者が警察に通報しないのは不自然である。とのことで、現場の状況から他殺と推定された。
大久保通りは、通りに沿って飲食店、カフェ、コンビニエンスストア、各種物販店等がぎっしり並び、賑やかな雰囲気を漂わせている。しかし、路地に入ると落ち着いた雰囲気に切り替わる。商業エリアから住宅エリアにスイッチするのだ。事件現場のエリアに入っていくと、その度合いは増す。街の色はグレーだ。建物の外壁がグレーというのではなく、彩度が低い印象だ。人の往来は少ない。住民、あるいは目的を持った人物しか通らないような雰囲気を醸し出している。
鑑識の結果、凶器については、アイスピックのような先端の尖った鋭利な刃物であることがわかった。胸を一突きされていた。ただ、その凶器がもともと室内にあった物か、室外から持ち込まれた物なのかは不明だ。
新都心署に捜査本部が設けられた。所轄署・刑事課・捜査一係と警視庁・刑事部・捜査第一課・殺人犯捜査係との特別捜査本部となった。
初動は軽快だった。
「防犯カメラがある。犯行の時間帯の映像を見ればはっきりするだろう」
「室内に荒らされた形跡がない。抵抗した形跡もない。顔見知りの犯行だろう」
「交友関係を調べれば犯人を特定できるぞ」
ところが
「ダミー! なんてこった。防犯カメラはダミーなのか。チクショー」
新都心警察署に設けられた捜査本部で、缶コーヒーを飲みながら苦虫を噛み潰したような顔しているのは、警視庁・新都心警察署・刑事課・殺人犯捜査係 巡査部長 神田(かんだ)譲(じょう)治(じ) 二十八歳。
「ダミー? 防犯意識が低いな」
口調は穏やかだが、おおらかさとはまったく違う。抑揚のない声、顎を突き出す仕草、刺すような視線。初対面ではわからないかもしれないが、一日共に行動すれば多くの人が感じるだろう。他人を見下していることに。自分のプライドを保とうとする無意識の仕草であるが、人としてのいやらしさがたっぷりにじみ出ている。警視庁・刑事部・捜査第一課・殺人犯捜査係 巡査部長 木村(きむら)孝雄(たかお) 三十歳だ。
「住民がホシなら、正面突破も考えられますね……」
鋭いが突発的な発想をつい口に出してしまうところがあるのは、警視庁・刑事部・捜査第一課・殺人犯捜査係 巡査部長 吉野(よしの)美鈴(みすず) 二十五歳。活字中毒で特にミステリー小説が好きでたまらない。
木村が顎を突き出し遮った。
「まあ、そう言うことだ。防犯カメラがダミーであったことは残念だ。本物であったなら、絶対に映っていたはずだからな。まあ、そこは忘れよう。しかしだ、ホシが気づいていたかどうかだ。建物の出入り口に防犯カメラが設置されていることはすぐわかるはずだ。建物の中に入る前に、視界に入るからな。下を向いていたら、別だが。仮に、目に入らなかった場合でも、セキュリティの観点から都心の集合住宅のエントランスに、防犯カメラが設置されていることは頭で理解できるはずだ。ホシ自身が映ることになる。頭がいかれていない限り、そう考えるだろう」
「もしかしたら、いかれてる人物?」
神田はひとり言のようにつぶやいた。
「ふん」
木村はあざけるように口角を上げ、続けた。
「仮にだ。防犯カメラが本物であることを知った上で、行動する場合、どんなことが考えられるか。細井君、どうだ」
「本物であることを知った上で? 犯行を? うー」
細井は腕を組み、視線を落とした。のどの奥で、うなっている。警視庁・新都心警察署・刑事課・殺人犯捜査係 巡査 二十三歳。木村とコンビを組むことになった。
「緊急を要するとき。例えば、ターゲットが近くにいて、今行動しないと逃げられてしまうとき。あるいは、緊急避難的な行動、急な危険や危難が迫ってきたとき、どこかへ退避するとき。周囲の状況を確認している時間がないといった場合でしょうか」
「神田デカ長はどう考えますか」
「うーん」
神田も腕を組んだ。しかし、視線は落とさなかった。木村をチラッと見て、視線を天井に向けた。なんでそんなことを聞くんだという多少の不満が、ほおのふくらみに表われていた。が、それは一瞬だった。ここは的確に応えなければならない。口角を引き締めた。
「防犯カメラがダミーであることを見破った。あるいは、ダミーであることを知っていた。というところでしょうか」
「ふん」
木村は二人に視線を向けることなく、冷笑を浮かべた。神田と細井は、言葉を待つように木村に視線を向けた。冷笑はすぐに消え、表情がなくなった。嫌な緊張感に包まれた。この緊張感を解いてほしい。二人の視線が語っている。七秒経った。木村が軽く息を吐いた。
「ダミーであると見破るには、防犯カメラに近づかなくてはならない。近づくには、カメラに映らなくてはならない。カメラに視線を向ける。近づく。さてどうなるのか。わかりきっている。不自然に映る。わざわざカメラに向かって突進してくるヤツ。そんなのが映っていれば、不審度八十パーセントは超えるだろう」
木村は他の意見を寄せつけないように一気に捲し立てた。
「防犯カメラに近づくことなく、ダミーであることを見破ることは可能でしょうか。まあ、視力8.0なら」
吉野は唐突だ。
「アフリカのサバンナで暮らしている人物なら、可能でしょうか。どう、思われますか」
呼応してきたのは、警視庁・新都心警察署・刑事課・殺人犯捜査係 巡査 中野(なかの)珠美(たまみ) 二十二歳。
「サバンナで暮らしている人物は、防犯カメラに精通していますかな」
木村は即座に跳ね返した。
「人種差別ですね」
「なにっ!」
木村の顔がゆがんだ。右の口角が不自然に吊り上った。
「失礼しました」
吉野は深々と頭を下げた。にやりと笑った。木村に勝った。そんなところか。その表情は木村には見えない。吉野の顔が床と平行になっているからだ。木村は吉野の頭頂部をにらみつけていた。三秒経過。木村はいつもの無表情に戻った。内心はまだ燃えているようだ。歯を食いしばっている。二人は本部で同階級であるが、立ち位置は微妙だ。
「難しかったですかな。常識的な言葉が返ってくると思っていましたが。これでは進まない。もういい。説明しましょうか」
木村は吉野に視線を向けた。吉野は既に頭を上げていた。視線がぶつかる。
「お願いします」
「説明しましょう。もともと映っていたんです」
木村は言葉を切った。周りの表情を確認しているようだ。なめるような視線を投げている。
「ど、どういうことですか」
神田は不意打ちを食らったように、目を大きく見開いた。吉野は黙っていたが、眉間にしわを寄せた。またこちらを試すつもりか……猜疑(さいぎ)の色が目に宿る。
「映っていたことを知っていたということです。あくまでも仮定の話ですが」
木村は再び言葉を切り、周りを見た。
「木村部長。よくわかりません」
細井は反射的に答えた。
「つまりだ。織り込み済みなんですよ。防犯カメラに自分が映っていることを。もともと映っているからこそ、事件の前後のその姿が確認されても不審に思われないことをだ」
木村は全員に問いかけた。
「どんな人物像を思い浮かべる?」
「防犯カメラが設置してある建物の住人ですか」
「他には」
「そうですね」
「防犯カメラに映っている常連だよ。すぐに思い浮かべなきゃだめだ」
「はい」
「住人を訪ねてくる人物だ。友人、知人、親族、配達業者などだ」
「その中にホシがいるということですか」
「あくまでも仮定の話だと言ったはずだ」
「はい」
「まあ、防犯カメラに映ることなく、建物に入る方法もあるけどな。吉野デカ長、わかりますか」
みんなのやり取りを腕組みしながら聞いていた吉野は、眉間にしわを寄せ、不快な表情を浮かべた。人を試すような口ぶり鼻につく。しかし、ここはきちっと答えよう。
「建物の共有スペースです。たとえエントランスにオートロックのドアが設置されていても、侵入者を完全にブロックできません。共有廊下などの共有スペースからの侵入は難しいことではありません。都内の建物を見ても、多くの建物が大きな口を開けています」
「他にありますか」
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