アクトレスの残痕

ぬくまろ

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 翌日、連はスマホのナビを見ながら歩いていた。そんなに複雑なルートではないが、スムーズにたどり着くよう、念のためにナビを利用している。道中で気を遣いたくない。目的地でかなり気を遣うからだ。住所は珠美から入手していた。JR埼京線『板橋駅』から南東方向へ歩いている。交差点を越えた。もうすぐだ。見えてきた。豊島区西巣鴨二丁目に建つ鉄筋コンクリート造と思われるアパート。藤堂剛の自宅である。窓から明かりが漏れる。帰宅していることは予想できた。もう午後九時だ。
〈フーーーッ、フォー〉
 ゆっくり息を吐き、一気に吸った。
〈ピンポーン〉
 反応はない。何かの音がしたが、ドアに向かってくることはない。音は一回だけ。ドアの向こうに視線を感じる。振り向いたまま固まっているのか。無理もない。こんな時間に誰かが訪ねてくるなんてあまりないだろう。通販もあまり利用していないのか。宅配業者だという認識もなさそうだ。『こんな時間に、誰だ?』きっとそう思っているだろう。
〈ピンポーン〉
「剛さん」
 名前で呼びかけた。苗字よりもいいと思ったからだ。なぜいいのか? よくわからない。藤堂剛。フルネームはもってのほかだ。呼びかけられたほうは、ビクッとする。何か悪いことをしたのか。そういった圧を与えてしまうからだ。
「剛さん」
 当然に反応はない。間を置いて
「剛さん。実は困っているんです。助けてください」
〈カタッ〉
 ドアの内側で微(かす)かな音がした。イスを引いたような。
「剛さん。私は中野連というものです。中野珠美の兄です。妹の珠美はあなたに会ったことがあります。妹はあなたのことを好青年だと言っていました。話しやすい人であるとも言っていました。どうか僕の話を聞いてくれませんか。お話ができるまで、ここで待っていてもよろしいですか」
〈カタッ〉
 再び微かな音がした。
「剛さんのこと、珠美から聞いています。だから、お話ししたいのです。助けていただきたいのです。お願いします。剛さん」
〈トッ、トッ〉
 音が近づいてきた。連は固唾をのみ、ドアから一歩離れた。
「お願いします」
〈カサッ〉
 何かを踏む音か? 靴? 連は顔を上げた。とうよりも、ドアスコープに視線を移した。藤堂剛が三和土に立ち、ドアスコープ越しに来訪者をチェックするであろう、というふうに意図的に表情を緩めた。
「剛さん。お願いします」
〈カチャ〉
 ドアが開いた。少しだけ。ドアチェーンはかかったままだ。
「お願いします」
 連は頭を下げた。
 ドアが閉まり、音がした後、再びドアが開いた。
「どなたなんですか」
 藤堂剛は疑い深いまなざしで連をじっと見ている。当然だろう、この時点では、連は藤堂剛にとっては不審者であるからだ。
「中野連と申します。中野珠美の兄です」
「中野珠美? 誰?」
「中野珠美は、新都心署に勤務する女性警察官です。私はその兄です」
「あっ。あのとき、あのひと。あー、あのときの婦警さん」
「はい」
「そ、それで、なぜあなた?」
 藤堂剛は警戒心を強めた。
「はい。助けていただきたいのです」
 連は深々と頭を下げた。
「どういうこと?」
「はい。少し中に入ってもよろしいですか」
「えっ?」
 藤堂剛は振り返った。
「そこ、よろしいですか」
「えっ? まあ、そのぉ」
 三和土(たたき)には、相変わらず靴が散乱していた。ぶちまけたような状態である。玄関入ってすぐのところにミニキッチンがあり、奥の部屋を連は確認した。
「ありがとうございます。おじゃまします」
 藤堂剛に考える時間を与えなかった。連は三和土に散乱した靴の隙間に立っていた。どの位置に立つのか、予めポジショニングを決めていたようだ。視線は既に部屋に向かっていた。壁際には、マットレスの上に敷かれた布団。すぐ脇には、折りたたみテーブルが。反対側の壁際には、高さ一メートル、幅六十センチメートルほどのキャビネットが三つ並んでいた。内一つは移動式だ。木村と細井が訪問したときと同じ家具、レイアウトである。
「どのような用件ですか。助けてほしいって、どういうことですか」
 藤堂剛はおびえていた。連を歓迎しているわけではなかった。当然だ。
「そうなんです。助けていただきたいのです。腰を下ろしてもよろしいでしょうか」
 連は物が散乱している床の空いたスペースを見ていた。
「えっ。ああ、どうぞ」
 ほんとうはそうしてほしくないようだ。一瞬顔が引きつった。
「ありがとうございます」
 連はゆっくり腰を下ろした。藤堂剛は立ったまま、連を見下ろしていた。
「どのような用件ですか」
「はい。えー」
 連は藤堂剛が腰を下ろすのを待っているようだ。連の視線が藤堂剛の顔からゆっくり足元へ流れていく。そこに座ってくれ……そんな感じだ。
「難しいことなんですか。僕にできることなんですか」
 不安げな表情を浮かべている。
「話を聞いてください。お願いします」
 視線を足元に向けたまま、続けた。
「追っかけられているような気がするんですよ」
「えっ? どういうこと」
「剛さんに言うべきかどうか迷ったのですか。聞いてもらったほうがいいと思って伺いました」
 視線を足元に向けたまま、深呼吸し、続けた。
「僕は出版社でライターをやっています。物書きです。ある事件についての取材や情報収集を行っているんです。ある事件とは」
 連は顔を上げた。そのとき目が合った。藤堂剛は、にらむような流し目で、見下ろしていた。連は微かにうなずき
「もちろん、剛さんのお姉様、藤堂さくらさんの事件です」
「くぅぇ」
 藤堂剛の顔が歪(ゆが)んだ。
「あのう。触れたくない! その気持ちはわかります。でも、このままにしてはいけない。事件を解決しなければならない。犯人を検挙しなければなりません。僕は警察官ではないので、捜査に直接関わることはできません。でも、僕はライターとして、間接的にこの事件を追っています。それは、仕事としてだけではなく、個人的な気持ちも入っています。捜査の概要については捜査関係者から聞いています。妹からも聞いています。犯人を許せないのです。実は」
 連は一度下を向き、顔を上げた。
「僕たちの父は殺されました」
「ぐぅぇ」
 藤堂剛の顔が歪んだ。一回目の歪みよりも、さらに歪んだ。
「父は歌舞伎町交番に勤務する警察官でした。その街で何者かに殺害されたのです。犯人は捕まっていません。悔しい。この悔しさをどこにぶつけていいのか。ぶつける場所がない。犯人は必ずどこかで生きています。普通に飯を食って、普通に生活しているでしょう。想像するだけで、悔しさがこみ上げてきます。絶対に許さない。今回の事件もそうです。さくらさんを殺害した犯人を絶対許さない。そんな思いで事件を追っているのです」
 聞いていた藤堂剛のからだが震え出した。
「剛さんにどうしても伝えたかったのです」
 連は視線を落とした。静寂が訪れた。
 藤堂剛のからだは小刻みに震えてままだ。連は視線をゆっくり上げいく。視線が合った。
「剛さん。実は」
 言いかけてやめた。連は藤堂剛の顔をじっと見ている。何かを考えているようだ。目が小刻みに動く。
「助けてほしい。追っかけられているような気がするんです、と僕は言いました。その理由をこれから話します」
 一拍間を置いて
「先ほども言いましたが、私は出版社でライターをやっています。職業柄、今回の事件についても取材や情報収集を行っています。現場となったマンション、その周辺エリア、さくらさんが所属していた劇団、交友関係などを追っています。もちろん、警察などの捜査機関ではないので強制捜査権はありません。出版社としてできる範囲で取材しています。特に殺人事件については、その真相に迫るという強い意志を持って臨んでいます。被害者の人生を強制的に終了させた罪は重い。絶対に許せません。それで」
 連は目を小刻みに動かした後、右の手のひらを上に向け、座るのを促すよう指先を藤堂剛の足元に向けた。藤堂剛は自分の足元に目を向け、膝を抱えるように座った。
「現場のマンションには何度も行きました。もちろん、部屋の中に入ったことはありません。犯人像をいろいろ予想しながら現場の周辺を歩いてみたり、周辺の住民の話を聞いてみたり、何か手がかりがつかめないかと思い行動していました。それで、違和感を覚えることがありまして。誰かに見られているような感覚に襲われる。そんな感じなのです。まあ、気のせいかもしれません。疲れからくる錯覚かもしれませんが」
 連は藤堂剛の足先を見た。足の指だ。足の指を曲げていた。連は足の指を見ながら
「剛さん。さくらさんの部屋の様子について教えていただきたいのです」
「部屋の様子? な、なんで? 教えてほしいって、どういうこと? わけわからない。どうしてそんなこと聞くの?」
 藤堂剛の声が上ずっていた。
「はい。事件の概要については捜査関係者への取材で把握しています。ですが、身内しか知らない情報や事実があると思うのです。今回、これまでの殺人事件とは異なり、さくらさんはとてもきれいな状態で残されていました。適切な表現ではありませんが、ある種の特異性が見られるのです。警察でもそこに着目して捜査しているようですが、未だに有力な手がかりは得ていないようです。本日伺ったのは、その件なのです。身内である剛さんが気づいたこと、さくらさんの周辺で異変があったかどうか、どんな小さなことでも構わないので、教えていただきたいのです」
「なぜ? 僕?」
 藤堂剛の顔は強張っていた。
「何か気づいたこと、ありませんか。剛さん」
「なぜ? なぜだ」
 藤堂剛は囁くようにつぶやいた。
「さくらさんの交友関係とか。部屋の中の様子とか。持ち物とか。どうでしょう」
 連の言葉を聞いて、藤堂剛は突然頭を抱えた。
「つらいことを思いださせてしまって、申し訳ありません。ただ、僕は犯人を絶対に許せない。絶対に捕まえたい。強い思いで取材しています。ご協力をお願いします」
 連は腕時計を見た。ため息をつき
「もう遅いので、今日はこれで帰りま……」
「ちょっと待って」
 藤堂剛が言葉を被せた。
「はい?」
「あのう、聞いてほしいことが」
 藤堂剛は顔を上げた。泣いていた。というよりも、硬い表情のまま、目から涙が出てきてしまったという感じだ。
「はい」
「僕、とても怖くて、悲しくて、どうしていいのかわからない。ずっと不安。どうしたらいいんだろう。ずっとわからない」
 藤堂剛は震える手で再び頭を抱えた。
「ご両親を交通事故で亡くされ、さくらさんにおいても変わり果ては姿で失ったわけですから、剛さんのご心痛は察するに余りあるものがあります」
「僕の両親のこと、知っているんですか」
「はい。職業柄、取材等を通して、さまざまな情報を得たり、さまざまな人たちと会う機会があったりするので、剛さんのご両親のことも知ることにつながりました」
「あぁ、そういうこと」
 藤堂剛の声に力がなかった。連は彼の顔を覗き込むように見ていた。
「剛さん。このままではつぶれてしまいます。心配です」
「もうつぶれてます」
「そんなことありません。僕と話しているじゃないですか。つぶれてなんかいませんよ。ほんとうにつぶれた人は会話なんかできませんから。剛さんは剛さんです」
「僕は僕?」
「はい。剛さんは自身のことを素直に語っています。弱さをさらけ出しているじゃないですか。それでいいんですよ」
「それでいい? よくわからない」
「吐き出せばいいんです」
「吐き出すって、なにを?」
「自分の中にためているものを吐き出すのです。思いや悩み、悲しみと行ったものを、とにかく吐き出してみましょう。順序立てて話す必要はありません。頭で考えをまとめてから話す必要はないのです。今、剛さんの心の中では、感情があふれ出ていますが、せき止められてしまっているのです。蓋(ふた)を外してみませんか。バーッと流してみませんか。僕が聞いてあげます。どんな形でもいい。僕が受け止めます。僕は職業柄、これまでにたくさんの人たちに取材をさせていただきました。嬉しそうに語る人がいれば、不機嫌そうな人、怒る人、悲しみに暮れる人、いろいろな人たちがいました。僕はいろいろな感情を真正面から受け取ることができます。だから、引っかかっているものがあれば、吐き出してみませんか」
 藤堂剛はゆっくり顔を上げた。連と視線が合ったが、すぐに外した。
「剛さん。人間は弱いものです。つらいときや苦しいとき、誰でも弱音を吐きます。それでいいんです。自分の感情に素直に従い、対処していけば、人は復活していけます。弱音を吐いても問題は解決しない、と思わないでください。つらい感情を無視してしまうと、その感情はどんどんふくれあがり、それを抑えるためにさらなるエネルギーを必要とするようになってしまいます。そして疲れ果て、自分をいじめるようになる。繰り返すと、ほんとうにダメになってしまいます。つらい感情を素直に表現しましょう。剛さんの心を開放してみませんか」
「あなたは何者なんですか?」
「よそ者です」
「よそ者? はっはっ。よそ者、よそ者。はっはっ。あなたはよそ者ですか。はっはっ。お名前はなんでしたって」
 藤堂剛は突然笑い出した。
「中野連です」
「ああ、中野さん」
「連でいいですよ」
「じゃあ、連さん。連さんは面白い人だ。よそ者ですか。はっはっ。よそ者として生きているのですか」
「はい。よそ者です。プレミアムなよそ者です」
「はっはっはっ。プレミアムか。はっはっはっ」
「剛さんの笑顔もプレミアムですよ」
「僕の笑顔? 僕の笑顔がプレミアム? 笑顔にプレミアムがあるの?」
「はい。あります。よそ者が認定したします。プレミアムスマイル、今ここに。プレミアムフライデーよりも貴重です」
「はっはっはっ。ほんとうに面白い人だ。はっはっはっ」
「いい笑顔していますね」
「久しぶりだ。久しぶりに笑った」
「何がきっかけでもいいんです。笑う門には福来る、です。笑う人は強い。目が違います。さっきまでの目とは明らか違います。輝いていますよ。剛さん、提案があります。何でもいいですが、例えば漫才やコントなどのお笑いを見るようにしてはいかがでしょうか。少しずつでもいいから笑っていきましょうよ。笑うことは、免疫力をアップさせます。実際に、脳内にドーパミンなどのホルモンが分泌され、ストレスが解消しプラス思考になることがわかっているのです。赤ちゃんを思い出してください。いつも笑っています。まあ、泣くときも多いですが、笑っている印象が強いですよね。マイナス思考の赤ちゃんはいません。赤ちゃんの笑顔は、両親をはじめ、人をひきつけます。そういう力があるのです」
「マイナス思考の赤ちゃんはいないか。いやー、面白い表現ですね。確かに、赤ちゃんが笑うと、伝染するよなあ」
 藤堂剛は膝を抱えたまま天井を見上げた。
「もし、笑う気分ではなかったとしても、意図的に、無理して笑うことでも効果があるんです。意図的に声を出して笑ったり、意図的に口角を上げて作り笑いをしたりするだけでいい。脳が勘違いをして、楽しい気分になってくるんです。試してみてください。実感しますよ」
「脳が勘違いする? そうなんですか。そんなことってあるんですか」
「赤ちゃんの話に戻りますが、赤ちゃんは過去の経験や、知識がないから思考がニュートラルな状態です。一方、大人の思考は九十五パーセント以上が先入観だといわれています。先入観が必要以上に反応すると、自分自身の探究や成長がストップしてしまいます。それは、これまでの経験や知識から、判断を自動的にしてしまうからなのです。自分自身が心地よく生きていくためには、強い先入観によって、ネガティブな方向に行かないように心がけなければなりません」
「なるほど。でも、長く生きていると、気づかないうちに先入観が強くなっていませんか?」
「思い込みや固定観念を持っていることがだめだということではありません。人間の脳は、日常生活の中で膨大な情報を処理しています。朝起きてから夜寝るまで、数千種類の選択と判断を繰り返しています。また、目から入ってきた情報を精査して、必要な情報だけをインプットしたりする作業もあります。こういった情報を処理するだけで、多くのエネルギーを使ってしまうわけです。こんな生活を毎日続けていると、脳はパンクしてしまいます。これを避けるために、人間は先入観を持つようにできているのです。例えば、ドアを開けようとしたときに、無意識にドアノブをひねろうとするはずです。これも、先入観の一種。過去にドアを開けた経験があるから、そのときと同じように脳が命令するのです。『どのようにして開けるのだろう?』と考える必要がないわけです。先入観があることで、脳の負担を減らせることができる。人間が生きていくうえで、先入観は必要な機能なのです」
「なるほど。うーん、それで、連さんが言っていた『先入観が必要以上に反応すると、自分自身の探究や成長がストップしてしまう』とは、どういうことでしょう」
「人間が生活するためには先入観が必要ですが、これが逆効果になるときがある。それは、思い込みによって、判断を間違えてしまうということ。これは心理学用語で[確証バイアス]と呼ばれるそうです。確証バイアスは、物事を判断するときに、自分にとって都合の良い情報だけを集めてしまうこと。意図的にリスクは見ないようにするのです。例えば、詐欺に引っかかる人の多くは、確証バイアスがかかっているといわれています。なんとなく胡散臭(うさんくさ)いと感じていても、『絶対に儲かる』という話を信じてしまうわけです。先入観が悪い方向へ働くと、判断ミスを招いてしまう。失敗しないためには、自分自身に疑いの目をかけること。『ほんとうに大丈夫なのか?』『この判断で間違っていないのか?』というように、自分に問いかける習慣をつけることが重要ですね」
「なるほど。話が上手い人に儲かるって言われれば、乗せられちゃいますよね。まあ、人生経験が大切なんですかね」
「いいえ、一概に言えないです。長く生きていると経験値が増えますが、それだけ先入観も大きくなってしまうんです。年をとると頑固になるのは、そういった理由から。なので、思い込みで判断しないように気をつけなければなりません。例えば、タイトルがつまらなそうな本であっても、手に取って、目次を見たり、数行・数ページ読んでみたりしてください。また、『この人苦手かも』そう思った人でも、気楽な感じで話しかけてみてください。自分の直感が間違っていたと気づくこともあるはずです」
「なるほど」
 と言った後、藤堂剛は両手のひらを額(ひたい)の前で合わせた。まるで祈るかのように。
「話が長くなりました。申し訳ございません。この辺で失礼します」
 連は腕時計を見た。時刻は午後十時を回ろうとしていた。

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