探求の槍使い

菅原

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深奥

臆病者の弓使い 2

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 頭がガンガンと痛む。込み上げる吐き気。さっきまで何ともなかったのに、父さんの弓を掴んだ瞬間から体調がおかしい。
 目に映る物、脳裏に浮かぶ映像、湧き上がる内なる感情と言葉。僕の本能が、その全てを別の誰かの物だと訴えてくる。

 これは父さんが幼いころの記憶だ。父さんの父、僕の祖父についての記憶。
 追いかけてくる黒い影。それが何なのかは分からない。けれど足を止めてしまえばそれでお終いだということは、なんとなくわかった。でも小さな子供が逃げられる距離なんて高が知れている。やがて父さんの足は止まって、息も絶え絶えに木にもたれかかってしまった。
「お父さん……助けて! お父さん!」
 小さな父さんが頭を抱えて泣き叫ぶ。
 そんな無力な子供に襲い掛かる黒い影。その鋭い爪が振り上げられた時、二人を隔てるように若い男が現れた。
 その人は僕の祖父。背中を向けているから顔は見えない。だけど、父さんがその背中を見て凄く安心しているのが分かった。これまで何度も何度も助けてくれた、大好きなお父さんが駆けつけてくれたんだ。助かったと思った。あの怖い影をすぐに倒して、無事二人で帰られるのだと思った。
 でも次の瞬間、その背中から鋭い爪が突き出し……

 そこで父さんの記憶は途切れる。再び意識は防壁の上に。周囲のざわめきが酷く耳に障る。
 ふと、父さんの名を呼ぶ小さな声が聞こえた。
 持ち上がる視界。父さんは城壁の淵から身を乗り出し、巨人族の方を見つめる。
「ハワーァァズ!」
 父さんが叫んだ。
 それに答えるように、ぼろぼろの戦士は口を開いた……気がした。
 彼が何を言ったのか、父さんに同調していた僕には聞こえなかった。でも父さんにはしっかりと聞こえたようで、内に湧き上がっていた声の毛並みが変わる。
『震えている暇があるのか?……あるわけがない!』
『弓を落としている暇があるのか?……あるわけがない!!』
 その慟哭と共に、心の内に溢れていた闇が掻き消えた。
 父さんは立ち上がる。その手には黒い弓。転がる矢筒から矢を抜き取り、巨人族目掛けて矢を射る。
 そこで、僕と父さんの同調が途切れた。

 僕の目に映る荒々しく矢を放つ少年の姿。それはさっきまでの……苦しむ前の姿よりも酷かった。矢を引く力も、放つ間隔もばらばら。息もあれているから狙いもあやふやで、とても見ていられない。
 その額には玉のような汗。目からはぼろぼろと涙を流し、怒りと悲しみを合わせたような表情で我武者羅に弓を弾く。その姿は、今の父さんが弓を引く姿とは比べようもなく格好悪くて、今の僕から見てもすごく下手糞に見えた。でも……その姿は僕の心を掴んで離さない。
 理由は分かっていた。
 僕がこれまで見た父さんのどんな一射よりも、心が強く籠っていたんだ。
 僕は思わず拳を握る。弓も矢筒も崩落の時に失くしてしまった。だから僕は父さんを助けることはできない。それが悔しくて、情けなくて、歯を思い切り噛み締めた。


 戦況は刻一刻と変わっていく。
 王国側の波が黒い波に飲まれ始めた。再びざわめく壁上。それでも父さんは弓を引くことを止めない。その諦めの悪さが影響したのか、巨人族は一転防壁目掛けて走り出した。
 巨人族の一歩は小さな谷を軽く跨ぐ。奴が全速力で走れば防壁まであっという間だろう。
 一見すると絶体絶命にも思えるこの状況。でも父さんは好機と捉えたようで、通常の矢とは異なる真っ赤な矢を一本抜き取り弓に番えた。まるで竜の牙を削りだしたかのような一品。その矢こそが父さんを英雄足らしめた切り札、火竜の矢だ。
 語り歌通りであれば、これが放たれ巨人族は倒れる筈。なのに父さんは、矢を番えたまま一向に放とうとしなかった。

 尚も接近してくる巨人族に、防壁の上は騒然とする。
 早く打て、と身勝手なことを叫ぶ指揮官。早く逃げるぞ、とその場を後にする魔法使い。
 迫る驚異に成す術もなく騒ぎ立てる大人たち。そんな中で、父さんだけが取り乱さず落ち着いていた。
 弓を使う者からすれば当然の話だった。
 戦いが始まってからこれまで、父さんは一人で何百という矢を放ち続けた。とうの昔に指の皮はずる向け、血が流れ出ている。握力も限界、引いたまま維持するのも楽ではないだろう。そんな気力で保っているような状態で、一本しかない虎の子を必ず当てなければならない。なれば標的を引き付けることも必要で、慎重になるのも当然だ。
 巨人族は更に、爆音を鳴らしながら防壁へと迫る。それでも身動きしない父さんを見て、僕は慌て始めた。
「早く……速く……父さん!!」
 僕の手に弓が握られていたのならば、例え夢、幻であろうとも巨人族へ射かけていたと思う。それ程焦りながら父さんを見ていると、突如として一切の物音が消え去った。

 僕は驚いて周囲を見渡した。さっきまで煩い位に騒ぎ立てていた兵士たちが、彫像のように固まっている。巨人族を見て慄く兵士たち、悪鬼の表情で駆けてくる巨人族、それに恐れをなし逃げていく者たち……何もかもがそのままに。
「これは……」
 訳も分からぬうちに、手に固い感触を感じた。
 視線を手に移せば、父さんが持っている真っ黒な弓と真っ赤な矢がそこに。
(僕に一体何をさせようとしているんだ?)
 止まった時間の中、父さんと同じ弓と矢を手にした僕は、困り果てて父さんを見た。するとそこには僕の良く知る大人の父さんの姿が。
「え……父さん!?」
 父さんは何も言うことはなく、唯巨人族を指さした。
(僕に……あれを射ろってこと?)
 声に発したわけじゃないけど、父さんはしっかりと頷いて見せた。
(よくわからないけど、やるしかない)
 僕は弓を構える幼い少年の横に立つ。黒い弓に赤い矢を番え、力の限り引き絞る。そして巨人族の脳天目掛け、僕は矢を放った。


 矢は真っすぐ巨人族の頭を貫いた。それと同時に周囲にあった全ての物が煙の如く消え去る。
 あとに残ったのは僕と物言わぬ父さんだけ。僕たちは真っ暗な暗闇の中に取り残された。手には相変わらず黒い弓。そして何故かはなったはずの火竜の矢が。僕はそれを父さんに返そうと一歩前に出た。
 でも父さんは静かに首を横に振る。踏み出した足はそれっきり、磔にされたように動かない。
「カ……ネルさ……」
 どこからか、僕を呼ぶ声が聞こえた。父さんの声じゃない。とても懐かしく思える声。でもよく聞き覚えのある声だ。
 僕は改めて父さんを見た。すると父さんは一瞬微笑み、身を翻すと暗闇の向こう側へと歩き出した。
(父さん!!)
 叫んだつもりだったけど声は出ない。父さんの足は止まることなく、僕の足は止まったままだ。
 そうしていると唐突に、僕は後ろに引っ張られた。
 抗うことのできぬ圧倒的な力。その力は僕の意識を暗闇の中に引きずり込んでいった。
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