愚骨な傭兵

菅原

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 振られた腕は、間違いなくカシの腹を殴り飛ばした。耳を塞ぎたくなる凄惨な音が辺りに響く。一瞬で気を失ったようで、カシの口から声が漏れることはなかった。代わりに溢れる真っ赤な液体。腹部には爪で切り裂かれた大きな裂傷が見える。体は軽く宙を舞い、そのまま辺りに並び立つ木の一つに激突した。身動き一つしない。むしろ生きているかも分からない。エセドナはすぐに駆けつけようとしたが……黒鋼熊の咆哮がそれを許しはしなかった。

 怒りと恐怖に体を震わせるエセドナとパルカネシア。武器を握る手にはこれでもかというほど力が篭り、全身から脂汗が吹き出る。二人からすればすぐにでもカシを助け、仇を取ってやりたかっただろう。しかし、彼ら二人だけでは黒鋼熊にとても太刀打ちできない。全てはシウバリスの判断に委ねられた。カシの離脱により、ただでさえ劣っていた戦力に更に差がついてしまっている。再び撤退もあり得る戦況だ。……だがこの状況こそ、シウバリスが待ち望んでいたものだった。
 シウバリスは態と慌ただしく道具袋へ手を突っ込んだ。そしてあからさまに狼狽た様子で袋の中を弄る。その姿を見たエセドナとパルカネシアは幻滅し、酷く落胆した。だからやめようと言ったのだと、恨み言を口から溢した。一方黒鋼熊は勝利を確信しほくそ笑んだ。ゆっくりと近づく漆黒の化け物。後ずさる三人。シウバリスは漸く道具袋から手を引き抜くと、それを黒鋼熊へ向けて投げ放った。

 黒鋼熊は大いに油断していた。大して脅威とならぬ人間が四人。大剣を振る男と、剣と盾を持つ男はなかなか手応えのある獲物だったが、ここへきてのあの狼狽えよう。男が一体何を引っ張り出すのか、黒鋼熊には分かっていた。あの強烈な光を放つ何かだ。どうせまた目が絡んでいる間に逃げるのだろう。獣はそう考えた。だから黒鋼熊は、男が腕を振り被り何かを投げた時、両目を閉じた。これで閃光をやり過ごし、隙をついて逃げようとする人間たちを殴り飛ばしてやろうとしたのだ。しかし次の瞬間、黒鋼熊はそれが失策であると気がついた。

 シウバリスには奥の手と呼べる物が二つあった。一つは動物が放つ特殊なフェロモンが詰めてある小瓶だ。もしそれを周囲に撒いたならば、その匂いに釣られ特定の獣を呼び寄せることが出来る。ただこの手法は諸刃の剣でもあった。仮に黒鋼熊と呼び寄せた獣を争わせることに成功したとし、更に黒鋼熊の討伐に成功したとしても、呼び寄せた獣も討伐しなければいけなくなる。だから彼は残った一つの手法を選択した。シウバリスが投げた瓶は、これまでの倍ほどもある大きさの瓶だった。またとても頑丈で、とても片手間で割ることはできなそうだ。彼はその瓶の栓をしている蓋を外し、そのまま黒鋼熊目掛けて放り投げた。中身は無色透明の液体。回転する瓶から溢れたその液体は、目を瞑った黒鋼熊の頭を濡らす。途端
『……ッ!? グギャアアア!!』
 耳を劈く絶叫が響いた。瓶の中身の正体は、「毒怪魚」と呼ばれるモンスターが分泌する強力な消化液だった。所謂強酸である。それを真面に浴びた黒鋼熊の頭部は酷い有様だった。頭上から背中までを守る鱗はぼろぼろに溶け、肌が顕になっている。また鱗以外を守っていた体毛もずるずるに溶け落ち、その下の肌も焼け爛れてしまっている。周囲には肉と体毛が焼ける嫌な臭いが漂い、余りの激痛に熊は悶え苦しむ。今が最後の好機と、シウバリスは駆け出した。状況を把握できていないエセドナも走り出す。それと同時にパルカネシアはカシの元へ。黒鋼熊へ向かった二人は、力の限り剣を振るった。
「うおおおお!!」
 雄叫びと共に振り下ろされる大剣。これまでは何度振るっても肉を立つに至らなかったが、強酸で劣化した装甲では防ぐことが出来なかったらしい。対象がのた打ち回っていたせいで狙っていた頭部からは外れてしまったが、振り下ろされた大剣は左の肩をバッサリと切り裂いた。シウバリスの振るう剣もまた、黒鋼熊の体に幾つもの傷を作っていく。痛みに黒鋼熊は鳴くが、消化液で焼け爛れ、目を開くこともできない。ただ我武者羅に両腕を振り、頭を突きだし、地面を転がる。しかし悉くは空振りし、代わりに新たな痛みと共に傷が増えていく。
『グァウ……グウゥ……』
 次第に声は無くなり、暴れる勢いも弱まっていった。そしてついには、エセドナの振る大剣がその頭に突き刺さる。
「はぁっ! はぁっ! はぁっ!」
 汗だくになりながら崩れ落ちる黒鋼熊を見つめるエセドナ。絶命したことをしっかりと確認すると、その場によろよろとへたり込んだ。
「はぁあ……やった、やったぞ!」
 シウバリスも終わりを悟り剣を収めた。熊の死体を眺めながら、荒れた呼吸を整える。
 エセドナが言った。
「あんた、すごいのを隠し持ってたな」
「もしもの為にな。少ない貯えが消え去ってしまったが……まぁ役に立ってよかったよ」
 会話も程々に、シウバリスは黒鋼熊の死体へと近づき処理を始める。上半身は消化液のせいで使い物にならないが、下半身からは爪も毛皮も手に入りそうだ。作業をするシウバリスをぼんやりと見つめるエセドナ。だがカシの存在を思い出すと、慌てて立ち上がってパルカネシアのいる方へと駆けていく。
「パル! カシは大丈夫か!?」
「……危険な状態です。手足は骨折しているし、腹部の傷も相当なものです。何より木に激突した衝撃で、恐らく内臓にまでダメージが……」
「くそっ! とりあえず腹の傷を処置しよう! ありったけの傷薬と包帯を出せ!」
 二人は急ぎカシの手当てを行う。その間シウバリスはせっせと熊の死体の処理をしていた。
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