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残酷な目覚め

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 それから、何日が経っただろう。

「朔夜さん、暑いんですか?」

 眠り続けている朔夜さんの額に、うっすらと浮かんだ汗が光っている。差し込んできている眩しい光に目を細めながらカーテンを閉め、それを手の甲で拭ってやる。

「んー……」

 小さな呻き声を漏らした朔夜さんの眉が、微かに動く。

「朔夜さん?」

 息を止め、その表情を見つめる。暫くすると、ゆっくり開いた虚ろな瞳が俺を映した。

「父さん?」
「え……」

 眠り姫の待ちに待ったお目覚めに感動で動けない俺に、あどけない表情の姫は残酷な台詞を吐く。寝呆けているだけ……だよな?

「なぁ、アイス食いたい」

 困惑する俺に構うことなく、人差し指を咥えて駄々っ子のように、アイスアイスと連呼し始めた朔夜さん。
 一体朔夜さんに、何が起こったというのだ? 恐怖心だけがどんどん大きくなっていき、俺の中を黒く塗り潰していく。
 深く考え込まぬよう、要求通りにいつ目覚めても食べられるようにと、ずっと冷凍庫にしまっておいた朔夜さんの好物のアイスを渡す。

「わー、これ大好きなやつだ!」

 幼子に戻ってしまったように、口の周りを真っ白にしてアイスを頬張る朔夜さん。

 アイスを食べ終えて満足そうに微笑む朔夜さんの口元を拭いてやっていると、医師や看護師がバタバタと部屋に入ってきた。朔夜さんの表情は恐怖で固まり、瞳が潤み始める。

「いやだっ、来るなぁー!」

 泣き叫ぶその姿に何かを察知したらしい医師は、子供を宥めるように優しく話しかける。

「大丈夫だよ、何も怖いことしないからね。だから先生に君のことをちょっと教えてくれるかな?」

 医師が手に何も持っていないことを見せると、泣き止んだ朔夜さんは震えながらも小さく頷いた。

「君は幾つなのかな?」
「三歳……」

 小さな声は、確かにそう答えた。固まる俺を尻目に、医師は特に驚いた様子もなく質問を続けた。
 何個か質問をすると、ありがとうと言って医師達は部屋を出ていった。

「怖かったぁ」

 俺の手を掴んだ朔夜さんが、涙をいっぱいに溜めた瞳で俺を見上げてくる。

「よく頑張りましたね。疲れたでしょう?」

 こくんと頷いた頭を撫でてやると、安心したように瞳を閉じて眠りにおちていった。

『三歳……』

 あどけないその寝顔を見つめていると、朔夜さんのあの言葉が頭の中を木霊し、また恐怖心が俺の中を黒く塗り潰し始めた。
 これは一時的なものなのか、それとも……。
 朔夜さんの寝顔が、ぼやけ始める。すると、ガタガタと再び扉が開き、去っていったはずの医師達が戻ってきた。

「少し検査しますので」

 そう早口で告げると手早く朔夜さんの腕に注射を打ち、ベッドごと部屋を出ていってしまった。
 何もなくなり果てしなく広く感じる部屋の真ん中で、俺は泣いた。

 闇に包まれて頭を抱えている俺を、柔らかな光が包む。

「お話がありますので、先生のところに来ていただいてよろしいですか?」

 明かりを灯した主の後についていき、神妙な面もちで黒い革の椅子に腰掛けている医師に向かい合って座る。

「どうやら朔夜さんは衝撃によって三歳以降の記憶を喪失してしまい、貴方のことを父親だと思い込んでいるようです。これが一時的なものなのか半永久的なものかは、現段階では何とも言えないですね……」

 体中の力が抜けていく。

『大切な思い出ができた時は、シャボン玉に詰めて空に飛ばすんだよ』
『死んだらその中に吸い込まれていって、大切な思い出の中で永遠に暮らすんだよ』

 朔夜さんが大切にしていたものが、一瞬にして奪われてしまった。怒りなのか哀しみなのか、朔夜さんを守ってやれなかった自分への憤りなのか、体の中で巨大な渦が巻いていく。

「それよりも、これを見ていただきたいんですが……」

 医師がデスクの上の、レントゲン写真の張られたパネルに明かりを点す。声のトーンが落ち、更に恐怖感を覚えた俺の目に映ったのは、脳の左右に浮かび上がるゴルフボールのような二つの白い影。巨大な渦は、朔夜さんの大切な思い出を奪った不法な河川敷ゴルファーに向けられる。

「朔夜さんは、頭痛や吐き気で苦しんでいらっしゃいませんでしたか?」

 そういえば、とぱっと浮かんだ情景に、声にならぬ返事をして頷く。

「大変申し上げにくいのですが、手術のできない場所で腫瘍が見つかったため、手の施しようがありません」

 双子のような白い影を指したボールペンを胸ポケットに戻して、目を伏せる医師。

「助からない……ということですか?」
「……はい」

 僅かな希望を信じて縋るように見つめる俺に、ゴクリと喉を鳴らした医師がゆっくりと口を開いた。

「いつまで生きられるんですか?」
「秋を迎えるのは難しいかと……」



 闇に包まれた街を早足に帰るのは、カーテンの隙間から柔らかな光が漏れている二人の愛の巣。扉を開けると、腹の虫が暴れ出す香りが鼻腔を擽ってくる。おかえり、とキッチンからひょこっと覗く笑顔に、一日の疲れが消えていく。
 繰り返される愛しい日常も、玄関を開けても闇と同化したままだったことが何度かあった。そんな時は決まって、リビングのソファーで丸くなっている朔夜さんの姿があった。

「どうしました? また頭痛ですか?」
「わりぃ、今から御飯作るな」

 重たそうな瞼を擦り、キッチンへと向かう足取りは少しふらついている。テーブルには、薬を飲んだ跡がある。
 時々起こる頭痛や吐き気の原因を、朔夜として生き直すことになってから始めた勉強でパソコンと睨めっこしているせいだと笑い、市販の頭痛薬と睡眠で日常に戻っていた。心配はしていたものの、硬く張った肩を揉んでやると暫くは症状が現れなかったので、病院に連れていこうとまでは思わなかった。
 最初に闇に包まれたソファーで横たわる朔夜さんを見た時に、無理矢理にでも病院に連れていっていれば……。

 重い足取りで部屋に戻ると、帰ってきたベッドの上ですやすやと眠る朔夜さんがいた。
 朔夜さん、俺と愛し合っていたことも全て忘れてしまったんですか?
 厳しい冬を乗り越え、やっと訪れたこの暖かな春に目覚めた生物達が一番命を輝かせる季節がやって来ようというのに、朔夜さんは永遠の旅に出てしまうというのか。ずっと幸せな時間が続くと思っていたのに、どうして俺から朔夜さんを奪うんだ。
 辛いな。でも一番辛いのは朔夜さん本人だ。
 沈んでいたって時は戻ることはない。残された僅かな時間を、朔夜さんのためにどう使えるのかを考えなくては。
 どうしたら思い出を取り戻せるのだろうか? 明日なのか、永遠に来ないのかも分からないその時を待っていられるのか?

「朔夜さん……」

 朔夜さんは何を望んでいる?
 ぼやけた視界に映る寝顔が、クスッと笑った。

「よし」

 心は決まった。
 残された時間、朔夜さんがずっと笑顔でいられるようにしよう。いっぱい思い出を作って、たくさんのシャボン玉を飛ばそう。

 翌日、渋る医師を説得して二人の暮らした家に戻った。

「父さん、ここどこ?」

 思い出の詰まった其処なのに、初めて来たかのようにキョロキョロと歩き回る姿に胸が痛む。

「朔夜さん、此処にいらっしゃい」

 飾り棚にあった、旅先でたまたまやっていた骨董市で見つけた年代物の万華鏡に夢中になっている朔夜さんを、腰を降ろしたソファーの隣に呼ぶ。価値があるのかないのか分からないガラクタが溢れる店先であれを見つけた朔夜さんは、探していた宝物をやっと見つけたような顔をして、帰りの車内でずっと覗いていて酔ってしまったんだったな。

「なぁに?」

 両手で万華鏡を大事そうに包み、首を傾げながら腰掛けてくる朔夜さん。

「俺は、朔夜さんのお父様じゃないんです。お父様もお母様もお姉様も、今は遠い遠いところに行っているから、戻ってくるまで朔夜さんの側にいて欲しいと頼まれたんです」

 三歳の子供にとって、家族と離れるのはとてつもなく不安なことだろう。俺の持つ声の中で、これ以上はないであろう優しい響きを奏でる。

「アンタは、だぁれ?」

 不安に必死で耐えているのだろう、潤んだ瞳が真っ直ぐに俺を見る。

「俺は諒といいます。お父様やお母様、お姉様と同じくらい朔夜さんを大切に思っているので怖がらないでいいですよ」
「リョウ?」

 愛しい人の唇が俺の名を象る時は、どんな些細な日常のひとコマでも特別な瞬間のような気がしていた。それは特別ではなく奇跡に近いものなのだろうか、と考えながら満面の笑みで頷く。
 安心したのか不安の色の消えた瞳が輝き、再び家中を歩き回り始めた朔夜さん。仏間にある、熊が鮭を咥えた荒々しくも勇敢な姿を彫った置物が気に入ったらしく、畳をゴロゴロしながら眺めている。
 今は眠っているあの思い出が無意識にそうさせるのだろうか、とぼんやり考えながら、それを買った日のことを思い返す。
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