ひとつとせ、舟唄は夜を越えて

秋初夏生

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第三章

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 暗くなるにはまだ早い時間。郵便受けの下に、新聞が折りたたまれて差さっている。鍵を開ける手が、わずかに躊躇う。ギターケースが肩に重くのしかかっていた。

 「ただいま」

 玄関を開けて声をかけると、台所の方から「おかえり」と母の声が返ってくる。鍋の蓋がカタカタと音を立てていた。

 制服を脱ぎ、洗濯機の前に置いた。今日の出来事がまだ身体のあちこちに残っていて、うまく言葉にならなかった。
 ――どう言えばいいのだろう。和太鼓? 夜の練習? 東京から帰ってきた卒業生に誘われたって? 
 想像しただけで、説明が面倒だった。

 それでも、ちゃんと母には話さなきゃいけない──とは思っていた。だが、食卓に座った途端に、言葉を挟む余地を見失った。

 「で? 志望校、もう決めたの?」

 ご飯をよそいながら、母が訊いた。目線は手元の茶碗に向けられたまま。

 「先生とは話したの? 模試の結果も返ってきたでしょ?」

 箸が食器に当たる音とともに、質問が立て続けに降ってくる。まるで、詰問のようだった。

 「……地元の大学じゃなくてさ、やっぱり俺、東京に行きたい」

 航がようやく絞り出した言葉は、静かだった。それなのに、母の手がぴたりと止まった。

 「またバンドの話? どうせまた、東京行って音楽やるとか無謀なこと言う気でしょ」

 視線が、突き刺さる。

 「いつまでも夢みたいなこと言って。そろそろ現実、見なさいよ。音楽なんて……それで生きていける人がどれだけいると思ってるの」

 刺々しく攻撃的な声で言われたわけじゃない。でも、言われるたびにぐっと気持ちが沈む。まるで鉛を飲み込んだみたいだ。

 「……別に、夢だけ見てるわけじゃないよ」

 そう言った自分の声に、ほんの少しだけ棘が混じっていた。母は大きくため息をつく。

 食卓の湯気が、少しだけ揺れた。その向こうで、祖父が黙って椀を持っている。唇がかすかに動いていた。あの舟歌。今日も、小さく続いている。
 いつもは機嫌良さそうだなと聴き流すそれが、今は煩わしく思えた。

 「……ごちそうさま」

 箸を置き、椅子を引く音がわずかに大きく響く。何か言いたげな母の視線を背中に感じながら、自室の扉を閉める。

 机の上に手を置き、深く息を吐いた。窓の外に、夜がじわじわと降りてきていた。

 ◇

 ――翌夜。
 航は靴ひもを結びながら、何度も時間を確認していた。午後七時半。母は祖父の薬を準備していて、こちらに気づいていない。静かに、そっと玄関の扉を開ける。

 潮風が、夜の温度を運んでくる。昼間よりも冷えていて、空気の粒が少しだけ澄んでいた。リュックを背負い、歩き出す。向かうのは、商工会議所。その日は太鼓の練習の初日だった。

 商工会議所の裏手にあるプレハブの会場には、普段と違う灯りが点っていた。
 蛍光灯の下に並べられた和太鼓が、大小あわせて十数台。胴に刻まれた年季の入った木目が、まるで誰かの背中のように、黙ってそこに立っていた。

 航は、会場の入口で一度だけ深く息を吸った。
 扉を開けると、予想よりもずっと多くの人がいた。

 地元の太鼓保存会らしき大人たち、高校生──見知った制服もちらほらある。
 会場の奥で、優がバインダーを持って話をしていた。

 「航先輩! こっちこっち」

 先に来ていた明澄が、手を振る。キーボードのときとは違う緊張感が、身体に出ているのか、妙に背筋が伸びていた。隣には、腕を組んだ陸が黙って立っていて、少し距離を置いたところで拓が笑っていた。

 「太鼓の前だと、陸、完全に借りてきた猫みたいだな」

 「先輩こそ、いつもよりそわそわしすぎ」

 陸の即答に、拓が軽く肩をすくめる。
 緊張のなかでも、いつもの空気がそこにあった。

 「お、全員そろったね」

 優が歩いてくる。その横には、ひときわ大きな太鼓の前に立つ、丸背の老人がいた。白髪が肩まで伸びていて、細い目が鋭くもどこか優しい。

 「紹介するね。久保田宗介さん。ここの保存会の代表だそうです」

 軽く視線で促され、航たちも順番に名乗った。

 「ほう……南雲航、っていうと航平んとこの孫か。大きくなって分からんかった。あんた、幼稚園の頃によう“じいちゃんの船、連れてけー”って騒いでな」

 そう言われ、記憶の奥が不意に疼いた。
 あの頃、祖父の背中が誇らしく見えた。今は、あの背中をうまく見られないまま、大人になってしまった。

 「はい……よろしくお願いします」

 「よし。じゃあ、早速始めよう。今日叩くのは、この“長胴太鼓”。まずは構えとバチの握りからだ」

 宗介は、まるで教科書をなぞるように、基礎を丁寧に示した。
 バチの握り、足の開き方、体重のかけ方──全てが、思ったよりも“型”に支配されていた。

 「最初は音じゃなくて、“音を出す姿勢”を覚える。太鼓は身体の全部で叩くもんだ」

 航は、与えられた太鼓の前に立った。
 目の前の皮が、まだよく知らない何かの扉に見えた。

 「いいか、構えて──肩を落として、手は真っ直ぐ──はい、ドン!」

 宗介の掛け声と同時に、航はバチを振り下ろした。
 鳴った音は、驚くほど乾いて、軽かった。

 「力みすぎだ。もっと……背中で打て」

 宗介が、航の背を軽く叩く。

 「はい、ドン!」

 もう一度叩く。
 音はさっきよりも深くなった。皮を叩くというより、自分の内側の音を外に出す感覚。

 「……悪くない」

 そう言って、宗介は隣へ移った。

 視界の端で、拓が豪快に太鼓を叩いている。フォームは荒いが、音に勢いがある。
 明澄は必死に宗介の動きを真似していて、隣の陸が「もう少し重心を低く」と低く声をかけていた。

 ──みんな、真剣だった。
 楽器は違う。音も違う。けれど、“鳴らそうとする熱”が、この空間には確かに満ちている。

 航は、自分の手のひらを見つめた。
 バチの感触が残る皮膚に、いつもと違う熱があった。

 ──ギターじゃない音で、自分が何かを鳴らしてる。
 それが、ちょっとだけうれしかった。
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