ひとつとせ、舟唄は夜を越えて

秋初夏生

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第五章

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 和太鼓の音が、航の体を貫いていた。

 重く、深く、揺るがすように。その振動は耳ではなく、腕と足と胸の奥で感じるものになっていた。
 最初の頃は、バチの重ささえ持て余していた。叩くたびに力が逃げて、音が鈍くなった。けれど、何日か通ううちに、バチを握る指の力加減や、呼吸の置き方、腕のしなりに至るまで、少しずつ身体が覚えてきた。

 今では、ひと打ちごとに、自分の中で何かが整っていくのを感じる。

「いち、に、さん──!」

 宗介の掛け声に合わせて、打ち込む。
 響きが揃った瞬間、空気が一瞬止まったような錯覚を覚える。
 額の汗を手の甲でぬぐいながら、航は自然と笑っていた。

 練習が終わると、太鼓を覆っていたカバーが静かに掛け直される。
 皆がバチを戻し、雑談の輪に入りながら解散の準備をしていく。

 その中で、大川優がひとり、航のそばに近づいてきた。

「航くん、君、センスあるよね」

 不意に言われて、航は思わず目を丸くした。
 嬉しかった。でも、それ以上に困惑が勝った。
 こんなふうに「自分だけ」が褒められるのは、どこか不公平な気がして。
 
「……いや、そんな。ぜんぜん不器用だし、まだまだです」

 航の声は、少しだけ強ばっていた。
 けれど優は、それを受け止めるように、穏やかな笑みを浮かべたまま言った。

「でも、音の“溜め”がうまいよ。焦って叩かないって、実はすごく難しい。ちゃんと音が見えてるっていうか……身体で感じてるんだろうな」

 その言葉に、航は静かに息をのんだ。
 誰にも言われたことのない、自分の中だけにあった感覚を、言葉にされたような気がした。

 ──分かってくれる人がいる。

 それが、こんなにも嬉しいことだったとは、思ってもいなかった。

「東京でバンドやりたいって、言ってたよね?」

 優の声が、ふと少しだけ柔らかくなった。
 航は、うなずいた。

「この前の曲も、よかったよ。……他にはどんな音楽、好きなの?」
「……前は、UKロックばっか聴いてました。レディオヘッドとか、ブロック・パーティーとか」
「いいね。俺も高校のとき、そのへんのギター真似してバンドやってたよ」

 優は懐かしそうに笑う。

「でも最近は……歌謡曲とか、昔のシティポップとかにも惹かれるというか。ちょっと古くさくて、でも“帰ってくる”感じがあって……」
「うん、分かる。出たいって思ってた町ほど、不思議と音が耳に残るんだよな。俺もそうだった」

 その言葉に、航の顔がほころぶ。
 バンドメンバー以外とこうして音楽の話をして、気を許している自分に少し驚いた。

「……東京、行ってよかったって、思いますか?」
「うん。大変なことも多いけどね。最初はバイト三つくらいやって、ライブも週末だけ。でも、今も音楽のそばで仕事できてるのは、“続ける理由”があったからだと思う」
「続ける理由……」
「そう。“何のためにやるのか”。才能も運ももちろん大事だけど、最後にものを言うのはそこかな。
 俺は“地元の音”をどこかに届けたかった。それがずっと、芯にあったんだよね」

 航は、黙って頷いた。
 胸の奥に、静かに何かが沈んでいくようだった。

 ◇

  翌日。
 午後の陽射しがガレージのシャッターに跳ね返り、部屋の中はむっとする暑さに包まれていた。

 航たちのバンドは、そこで集まって練習していた。
 アンプから音が鳴り、ドラムのビートが空気を揺らす。ベースの低音がうねりを作り、明澄のキーボードが軽やかに重なっていく。

「……夏祭りで演奏する曲、どうする?」

 航がそう口を開くと、ドラムセットの後ろで拓がスティックを肩にかけた。

「オリジナルだけじゃ、ちょっともったいなくね? 町の人も聴くわけだし、祭りっぽさも入れたいよな」

「そうっすね。俺らっぽさは出したいけど、“知ってる感じ”ある方が食いつきいいっすもん」

 明澄が椅子の背にもたれながら言った。
 譜面をひらひらさせながら、膝でテンポをとっている。

「けど、コピー曲するにしても、色んな年齢の人が知ってそうな曲で盛り上がりそうなのを選ぶの、難しいっすね」

 航はその言葉にうなずきながら考え込んだ。
 地元の祭りで、自分たちがバンド演奏をする。
 学校以外の場所でステージに立つ自分たちの姿が、少しずつ現実として浮かび上がってくる。

 そのときだった。
 遠くから、小さな歌声が聞こえた。

「……ひとつとせ~ 波を越えて」

 誰かの鼻歌。風に乗って、断片的な旋律がガレージの壁を抜けて届いてきた。

「あれって、舟唄だよな」

 拓が言った。
 手にしたスティックで自分のスニーカーのつま先を軽く叩きながら、耳を傾けている。

「……ああ。じいちゃんがよく歌ってるやつ」

 航が答える。
 その旋律には、どこか懐かしさと、もう一度聴きたくなるような引力があった。

「太鼓の練習んときも、近所のおっちゃんたちが自然に歌ってたじゃん。妙に耳に残るんだよな」

 拓が言った。口調は軽いが、どこか気にかけている様子だった。
 ベースを構えていた陸が、静かに口を開く。

「あの歌、リズムあるし。アレンジしたら面白いと思う」

 それきり黙ったまま、指先でベースのネックをなぞる。必要な言葉だけを選んで投げたような、簡潔な言い方だった。

「マジっすか? でも、あれって……正式な歌詞とかあるんすか?」

 明澄が首を傾げながら言う。
 表情には戸惑いとわずかな期待が混じっていた。

「どうだろな。でも、音がしっかりしてれば、歌詞は……後から追いつくかもしれない」

 航の声は、自分でも思っていたよりも落ち着いていた。

「じゃあ、バンド×和太鼓で舟唄ロック、やるか?」

 拓がにやりと笑って言う。

「ネーミングは考え直しましょうよ……」

 明澄があきれたように返し、ガレージの中に笑いが生まれた。

 その中で、航はそっと目を伏せる。
 優が言っていた。「何のために音楽をやるのか」が大事なんだと。
 まだ、その答えは見つかっていない。
 
 ――けれど、音を重ねるたびに少しずつ見えてくる気がする。

 この町の声、この手の感触、それを誰かに届けたいと思った。

 それが、自分の音楽のはじまりになるのかもしれない。
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