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第一章 彩子
4話
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暗い部屋の中、冷たく硬い感触が頬に伝わった。床が濡れていることが分かった。頬をずらすと、新たにひんやりとして、腹這いの雅之は、目を覚まし、起きようとしたけれど、手足が動かなかった。後ろ手で手首を縛られ、足首も縛られており、包帯であろうか、布の猿轡を噛まされていた。体を丸め、ひどく気分が悪く、吐き気を堪えながら、不明瞭な頭で状況を理解し、途端に恐怖に襲われた。縛めを千切ろうと、必死に抵抗した。やがて疲れ果て、ようやく落ち着いて、恐ろしい事実と向き合った。暴力的な恐怖が彼を屈服させ、身のうちを抉るように脱力させた。
「もお、なんなの、あのくそババア」
暗い部屋の向こうから、彩子の声が聞こえた。
樹脂床材の感触と、脚を伸ばせない狭い空間から、この場所についておおよその見当がついた。眼が暗所に慣れるにつれ明らかになった。雅之は浴室に監禁されていた。彩子の部屋の間取りは彼と同じ1ⅮKである。西側に浴室や洗面所、トイレが一列に並んで、洗面所からダイニングに続く。その先に八帖の洋間がある。外からドアを開閉する音が聞こえた。彩子は洋間へ入ったようだ。
やはりあの骨は人骨である。この状況から考えて、もはや疑う余地はない。人骨は死体が解体されたことを示している。凄惨極まりない場面を思い描いた雅之は、再び恐怖に襲われた。唸り声を上げ、縛めから逃れようと、甲斐のない抵抗を試みた。人目を避けた上で大量の血を処理し、人体を解体できる場所、それは浴室くらいしか思いつかない。今身を置くこの場所で、死体の解体が行われた可能性が高かった。彼は必死の思いで抵抗し、縛られた両足を上げ、勢いよく壁を蹴った。かなり大きな音が響いたから、怖気づいて壁を凝視した。このときあることを思いついた。彼は何度も壁を蹴り、殊更に音を立てたのである。
ドアの開く音が聞こえた。洗面所の照明が灯り、ガラス張りの二枚折戸を透過し、光が差し込んだ。間もなく浴室の照明も灯った。戸が勢いよく開かれ、彩子が入ってきた。ワインとプラスチックのコップ、それに錠剤のシートを携えていた。塞がれた口から、唸り声を漏らす彼には目もくれず、シートから錠剤を取り出し、コップに入れ、ワインを注ぐと、彼の猿轡を外した。これで声を出せるから、堰を切ったように
「大野さん、話を聞いて。写真は撮ってない」
と叫んだ。しかし彼女は意図的に心を閉ざし、物として彼を扱うよう心掛け、淡々と、あの忌まわしい特製ワインを準備すると、雅之の口をこじ開け、ワインを流し込んだ。彼は喉からゴボという音を立て、勢いよくワインを噴射させ、彼女の顔に浴びせてしまった。パンという派手な音が鳴り、雅之の頬に衝撃が走った。放心する彼に猿轡を噛ませ、彼女は用意したものを携え、浴室から出て行った。そして再び室内は暗くなった。
彩子のビンタは、彼女の良心に訴えれば解放されるという彼の甘い希望を、跡形もなく吹き飛ばしてしまった。すると絶望と一緒に、尿意が押し寄せてきた。それは膀胱に痛みが走るほど臨界点へ迫りつつあった。彼は身をよじり、どうにかして手足の縛めを自力で解こうと、甲斐のない努力を続けた。動いたおかげで膀胱の痛みがさらに悪化した。どうあがいてもトイレに行けない現実を前にして、とうとう観念し、臨界点を突破した。あまりの悲惨さに涙を流し、喉から嗚咽を漏らしつつ、歯を食いしばり、正気を失わぬように、ぐっと堪えていた。しかし泣こうが喚こうが、非情な彩子にはどうでもいいことである。この事実が、自分を憐れむことを危険に思わせた。それに泣き疲れたせいで、過度の緊張から解放され、思考が自由になった。おかげであることに気がついた。
なぜ彩子は未だ彼を殺していないのだろうか。眠っている間に絞殺すれば、容易に口封じをできるのに、生かしておくのは何か訳がありそうだった。それはあの袋に詰めた骨と関係があるのかもしれない。彼女はあの袋を廃墟に遺棄したにもかかわらず、戻ってきてそれを回収した。廃墟に捨てるのはまずいと思ったからだろう。ではなぜそんな矛盾する行動を取ったのか。おそらく骨の処分に困り、他に捨てる場所がないからである。彼は以前マンションで起きた殺人事件の記事を読んだことがあった。犯人は肉と内臓をトイレに流した後、骨を冷蔵庫に保存し、通勤時にゴミの集積所へ捨てていた。なぜ彼女が集積所を利用しないのか、理由は分からないが、そうできない事情があるのかもしれない。この推測が正しければ、彼を殺せない理由は、死体処理の目途が立たないからである。確証はないが、当てにできそうだった。
そしてこの状況を生き残るには、選択肢が一つしかないことに思い至った。
雅之は意を決し、再び思い切り壁を蹴った。洗面所と浴室の明かりが灯り、戸が開かれて「うるさい」と、眉根を寄せ、彩子が一喝した。彼の鼻先に果物ナイフを突きつけ、侮蔑を込めた眼差しで睨んでいた。とっさに鼻を摘まむと「今度やったら殺すから」と、ちょっとふて腐れた感じで鼻声を出した。それは騒音のことなのか、悪臭のことなのか、よく分からなかった。雅之は蛇口の下に顔を置き、その態勢で唸り声を上げ、水を飲ましてほしいという意思表示を行った。
「喉が渇いたの」
騒音の意図を理解し、彼女の態度が和らいだ。彼は何度も首を縦に振った。
「飲ませてあげてもいいけど、大きな声を出さないで」
無我夢中で首を縦に振った。
彩子は足元に果物ナイフを置いた。雅之の後頭部の結び目を解いて、蛇口に手をかけようと、しゃがみ込んだときだった。
「車を貸してあげる」
ふいに彼がそう叫んだ。その叫びに驚いて、飛び退った彼女は尻もちをついた。
「イタ」
尻に手を当て、下唇を噛んで痛みを堪えた。
「車を貸してあげる。軽バンを持っているんだ」
彼女は尻を擦りながら彼を睨んだ。
「何を言ってるの」
「死体を始末したいんでしょ」
分かりやすいくらいに彼女が狼狽えた。彼は畳みかけるようにして「あの病院に捨てた骨、あれは人の骨だよね。死体をどこかに捨てたいんだろ。違うの」と、性急な調子で言った。彼女は悔しそうに表情を歪ませた。
「車なんて運転できないし」
「なら俺が運転する。場所もいいところを知っているから」
胡散臭そうな目つきで睨んでいるが、彩子は動揺を隠せなかった。緊張したやり取りの最中にあっても、雅之は脈を打つ心臓の鼓動を感じた。
「いいところって、どこ」
「この前奥多摩の廃村へ行って、色んな林道を調べた。人目につかない場所があったから、そこに埋めればいいと思う。まず見つからないよ」
「でもそうすると、瀬川くんも共犯になっちゃうよ」
そう言われると、雅之は躊躇った。しかし危険はあまりに切迫していたので、彼は必死の思いでこう言った。
「構わない。手伝わせてほしい」
この熱意を帯びた言葉に対し、彩子は何も応えなかった。迷っているように見えた。
「廃墟に捨てれば絶対に見つかるよ。山なら安全だから」
焦った雅之は大きな声でそう言った。すると彩子は右手の人差し指を鼻頭に当て、その手で下に何かを押し込むようなジェスチャーを行った。もっと声を小さくしろという意味らしい。
このアパートは独身者向けのアパートなので、日中は人の気配がない。何度か夜に帰宅する人の姿を見たことはあるけれど、雅之は彩子以外の住人の顔を知らなかった。それに部屋を借りる前に、このアパートが防音対策用にリフォームを行ったばかりだと、不動産屋から聞いていた。実際よほど大きな声を張り上げなければ、隣に音が聞こえることはない。こうしたことを考えたわけではないが、彼は大声を上げて助けを呼ぶという考えを一瞬抱くと、すぐにそれを捨てた。助けが来る前に殺されるかもしれないからである。
「奥多摩にはたくさん林道があるんだけど」
声を潜めた彼の話を、彩子は無表情で聞いている。何を考えているのか分からず、彼の胸騒ぎは止まなかった。
「地図にも載っていない林道があって、俺が知っているところは…」
彩子は踵を返し、浴室から出て行ってしまった。ところが、浴室の照明は消されていないし、猿轡も外されていた。やがて戸が開き、安堵した彼は、同じ提案を繰り返すつもりでいると、姿を現した彼女に目を丸くした。透明なビニールのレインコートを身に纏い、ラバーブーツを履き、ゴム手袋を嵌め、半透明のゴミ袋を携えていた。ゴミ袋の中身の不気味な物体がうっすらと見えた。赤黒い汚れがところどころに付着している。いつの間にか彼女の足元の洗面所の床には、レジャーシートが敷かれており、ゴミ袋をその上に置くと「瀬川くん、浴槽の方を向いて。こっちに背を向けてちょうだい」と言った。呼吸が止まるほどの胸騒ぎを覚えた。彼は浴槽に向いて横臥し、背後から彼女の脅威を感じた。
「そのままじっとして。動かないようにね」
一旦その場を離れ、ガサガサと音を立てながら戻ってきた。他にも荷物を運んできたらしい。雅之の背後に佇んで、またもや音を立て、彩子は何やら準備に取りかかっていた。生きた心地もなくじっとしていると、彼の首に紐が巻かれた。荷物の梱包に用いるポリエチレンのロープである。彼女は端の輪にもう一方の端をくぐらせた。それを引くことによって、いつでも彼の首を絞められるように施したのだった。
「絶対に暴れないでね。暴れたら首を絞めるから」
雅之の目の前に、プラスチックのまな板が置かれた。背後からゴミ袋をまさぐる音が聞こえると、まな板の上に奇妙なものが載せられた。そのうっすらと霜に覆われた、蝋のように白い物体は、人の前腕の形をしていた。
「もし暴れたら、瀬川くんもこうなるよ」
彼は気が遠のきそうになって、腕を掴まれた途端に、ビクッと体を震わせた。さらに手首に何か冷たいものが触れたので、半狂乱になった。
「嘘じゃないって。本当に車を貸してあげる」
喚きながら背を反らし、ゴロンと仰向けに転がった。彩子はそれを避け、素早く浴室から出ると、何かを足で踏み、勢いよく滑らせた。それは浴室に滑り落ち、彼の耳元で金属音を立てた。横目で見ると、それはフレームの両端に刃を付けた、手動式の糸鋸である。
「今度大きな声を出したら、また猿轡を噛ませるからね。ほら、手首のロープを切ったから、早く起き上がって」
彼の首に巻いたロープの先端を握り、注意深く距離を取りながら、彼女は果物ナイフを差し向けていた。手首のロープは切断され、雅之の手はすでに解放されていた。彼女に言われるまでそれに気づかなかった。それでも足首は縛られているから、言われた通り床に手を着き、上体を起こすと、彼は膝立ちの姿勢になった。そしてまな板の上の忌まわしいものを見た。
「それじゃ、それを三等分にして」
「三等分?」
「まな板の上に置いてあるよね。それを三等分にするの」
彩子はゴム手袋とレインコートを投げ渡した。しかし彼は取り落としてしまった。
「それを着て。もし暴れたら思い切りロープを引いて首を絞めるから。それと、悪いけど、長靴は用意できないの。わたしのだと、サイズが合わないし」
足首が縛られているから、いずれにせよ、靴を穿くことはできない。
「まな板の隣にゴミ袋があるでしょ。切断したものはそれに入れて」
その白く凍った腕が、どうしても作り物に思えて仕方なかった。人体の一部であるという事実から、精神が逃避していた。
「でもどうやって。俺は、その…、こんなことやったことないし」
「何も考えない方がいいと思うよ」
雅之は身動きを取れなかった。うんざりした彩子はため息をついた。
「まず関節で切断するといいよ。手と腕を切り分けた後、腕を真ん中で切ればいいの。簡単でしょ」
手順を教えてもらっても、彼はまな板の前で固まっていた。
「人の腕だと思うからいけないのよ。豚の脚だと思って。そうすればたぶんできるから」
「でも形が違うし」
弱音を吐くと、恐ろしい沈黙が訪れた。彩子は果物ナイフを向け、無言で彼を見つめている。その表情を見ることさえできなかった。
「瀬川くん、わたしを頭のおかしい殺人鬼だと思ってるでしょ」
「いや、思ってないよ」
思わず声が上擦ってしまった。
「できればわたしのことを理解してほしいの。その男はわたしを裏切ったのよ。夏休みに実家から帰って来たとき、彼にはセフレがいたの。すごく傷ついたわ」
「それで殺しちゃったの」
気まずそうに彼女は「うん」と呟いた。
「あれ…、その彼って、俺と会ったことがあるんじゃないの。以前このアパートに来たとき、挨拶したよね」
「そう、その人。浮気をするような人には見えなかったでしょ」
まさか顔を知っている人間だとは思わなかった。その男の歳は二十代半ばくらいで、艶やかな直毛とすらりとした背格好をよく憶えていた。服装はジャケットにスラックス、腕時計はオメガだった。雅之もたまに使うアックスのボディスプレーの香りを漂わせていた。しかも彼が愛用するダークチョコレートの香りだった。一度アパートの階段の近くで偶然会い「こんばんは」と挨拶を交わしたくらいだが、自然と敵意を抱くに至った。しかし変わり果てた目の前の姿を見ると、胸が悪くなるような悲惨さ以外何も感じなかった。
「本当はこんなことしたくなかったの。仕方なかったのよ」
彩子はため息混じりにそう言った。
「できれば瀬川くんには生きてほしい。本当だよ。分かって」
目元に憂いを漂わせ、果物ナイフを向け、ロープの端を握りしめ、懇願するようにそう言った。はじめから「分かる」しか選択肢はない。
「もお、なんなの、あのくそババア」
暗い部屋の向こうから、彩子の声が聞こえた。
樹脂床材の感触と、脚を伸ばせない狭い空間から、この場所についておおよその見当がついた。眼が暗所に慣れるにつれ明らかになった。雅之は浴室に監禁されていた。彩子の部屋の間取りは彼と同じ1ⅮKである。西側に浴室や洗面所、トイレが一列に並んで、洗面所からダイニングに続く。その先に八帖の洋間がある。外からドアを開閉する音が聞こえた。彩子は洋間へ入ったようだ。
やはりあの骨は人骨である。この状況から考えて、もはや疑う余地はない。人骨は死体が解体されたことを示している。凄惨極まりない場面を思い描いた雅之は、再び恐怖に襲われた。唸り声を上げ、縛めから逃れようと、甲斐のない抵抗を試みた。人目を避けた上で大量の血を処理し、人体を解体できる場所、それは浴室くらいしか思いつかない。今身を置くこの場所で、死体の解体が行われた可能性が高かった。彼は必死の思いで抵抗し、縛られた両足を上げ、勢いよく壁を蹴った。かなり大きな音が響いたから、怖気づいて壁を凝視した。このときあることを思いついた。彼は何度も壁を蹴り、殊更に音を立てたのである。
ドアの開く音が聞こえた。洗面所の照明が灯り、ガラス張りの二枚折戸を透過し、光が差し込んだ。間もなく浴室の照明も灯った。戸が勢いよく開かれ、彩子が入ってきた。ワインとプラスチックのコップ、それに錠剤のシートを携えていた。塞がれた口から、唸り声を漏らす彼には目もくれず、シートから錠剤を取り出し、コップに入れ、ワインを注ぐと、彼の猿轡を外した。これで声を出せるから、堰を切ったように
「大野さん、話を聞いて。写真は撮ってない」
と叫んだ。しかし彼女は意図的に心を閉ざし、物として彼を扱うよう心掛け、淡々と、あの忌まわしい特製ワインを準備すると、雅之の口をこじ開け、ワインを流し込んだ。彼は喉からゴボという音を立て、勢いよくワインを噴射させ、彼女の顔に浴びせてしまった。パンという派手な音が鳴り、雅之の頬に衝撃が走った。放心する彼に猿轡を噛ませ、彼女は用意したものを携え、浴室から出て行った。そして再び室内は暗くなった。
彩子のビンタは、彼女の良心に訴えれば解放されるという彼の甘い希望を、跡形もなく吹き飛ばしてしまった。すると絶望と一緒に、尿意が押し寄せてきた。それは膀胱に痛みが走るほど臨界点へ迫りつつあった。彼は身をよじり、どうにかして手足の縛めを自力で解こうと、甲斐のない努力を続けた。動いたおかげで膀胱の痛みがさらに悪化した。どうあがいてもトイレに行けない現実を前にして、とうとう観念し、臨界点を突破した。あまりの悲惨さに涙を流し、喉から嗚咽を漏らしつつ、歯を食いしばり、正気を失わぬように、ぐっと堪えていた。しかし泣こうが喚こうが、非情な彩子にはどうでもいいことである。この事実が、自分を憐れむことを危険に思わせた。それに泣き疲れたせいで、過度の緊張から解放され、思考が自由になった。おかげであることに気がついた。
なぜ彩子は未だ彼を殺していないのだろうか。眠っている間に絞殺すれば、容易に口封じをできるのに、生かしておくのは何か訳がありそうだった。それはあの袋に詰めた骨と関係があるのかもしれない。彼女はあの袋を廃墟に遺棄したにもかかわらず、戻ってきてそれを回収した。廃墟に捨てるのはまずいと思ったからだろう。ではなぜそんな矛盾する行動を取ったのか。おそらく骨の処分に困り、他に捨てる場所がないからである。彼は以前マンションで起きた殺人事件の記事を読んだことがあった。犯人は肉と内臓をトイレに流した後、骨を冷蔵庫に保存し、通勤時にゴミの集積所へ捨てていた。なぜ彼女が集積所を利用しないのか、理由は分からないが、そうできない事情があるのかもしれない。この推測が正しければ、彼を殺せない理由は、死体処理の目途が立たないからである。確証はないが、当てにできそうだった。
そしてこの状況を生き残るには、選択肢が一つしかないことに思い至った。
雅之は意を決し、再び思い切り壁を蹴った。洗面所と浴室の明かりが灯り、戸が開かれて「うるさい」と、眉根を寄せ、彩子が一喝した。彼の鼻先に果物ナイフを突きつけ、侮蔑を込めた眼差しで睨んでいた。とっさに鼻を摘まむと「今度やったら殺すから」と、ちょっとふて腐れた感じで鼻声を出した。それは騒音のことなのか、悪臭のことなのか、よく分からなかった。雅之は蛇口の下に顔を置き、その態勢で唸り声を上げ、水を飲ましてほしいという意思表示を行った。
「喉が渇いたの」
騒音の意図を理解し、彼女の態度が和らいだ。彼は何度も首を縦に振った。
「飲ませてあげてもいいけど、大きな声を出さないで」
無我夢中で首を縦に振った。
彩子は足元に果物ナイフを置いた。雅之の後頭部の結び目を解いて、蛇口に手をかけようと、しゃがみ込んだときだった。
「車を貸してあげる」
ふいに彼がそう叫んだ。その叫びに驚いて、飛び退った彼女は尻もちをついた。
「イタ」
尻に手を当て、下唇を噛んで痛みを堪えた。
「車を貸してあげる。軽バンを持っているんだ」
彼女は尻を擦りながら彼を睨んだ。
「何を言ってるの」
「死体を始末したいんでしょ」
分かりやすいくらいに彼女が狼狽えた。彼は畳みかけるようにして「あの病院に捨てた骨、あれは人の骨だよね。死体をどこかに捨てたいんだろ。違うの」と、性急な調子で言った。彼女は悔しそうに表情を歪ませた。
「車なんて運転できないし」
「なら俺が運転する。場所もいいところを知っているから」
胡散臭そうな目つきで睨んでいるが、彩子は動揺を隠せなかった。緊張したやり取りの最中にあっても、雅之は脈を打つ心臓の鼓動を感じた。
「いいところって、どこ」
「この前奥多摩の廃村へ行って、色んな林道を調べた。人目につかない場所があったから、そこに埋めればいいと思う。まず見つからないよ」
「でもそうすると、瀬川くんも共犯になっちゃうよ」
そう言われると、雅之は躊躇った。しかし危険はあまりに切迫していたので、彼は必死の思いでこう言った。
「構わない。手伝わせてほしい」
この熱意を帯びた言葉に対し、彩子は何も応えなかった。迷っているように見えた。
「廃墟に捨てれば絶対に見つかるよ。山なら安全だから」
焦った雅之は大きな声でそう言った。すると彩子は右手の人差し指を鼻頭に当て、その手で下に何かを押し込むようなジェスチャーを行った。もっと声を小さくしろという意味らしい。
このアパートは独身者向けのアパートなので、日中は人の気配がない。何度か夜に帰宅する人の姿を見たことはあるけれど、雅之は彩子以外の住人の顔を知らなかった。それに部屋を借りる前に、このアパートが防音対策用にリフォームを行ったばかりだと、不動産屋から聞いていた。実際よほど大きな声を張り上げなければ、隣に音が聞こえることはない。こうしたことを考えたわけではないが、彼は大声を上げて助けを呼ぶという考えを一瞬抱くと、すぐにそれを捨てた。助けが来る前に殺されるかもしれないからである。
「奥多摩にはたくさん林道があるんだけど」
声を潜めた彼の話を、彩子は無表情で聞いている。何を考えているのか分からず、彼の胸騒ぎは止まなかった。
「地図にも載っていない林道があって、俺が知っているところは…」
彩子は踵を返し、浴室から出て行ってしまった。ところが、浴室の照明は消されていないし、猿轡も外されていた。やがて戸が開き、安堵した彼は、同じ提案を繰り返すつもりでいると、姿を現した彼女に目を丸くした。透明なビニールのレインコートを身に纏い、ラバーブーツを履き、ゴム手袋を嵌め、半透明のゴミ袋を携えていた。ゴミ袋の中身の不気味な物体がうっすらと見えた。赤黒い汚れがところどころに付着している。いつの間にか彼女の足元の洗面所の床には、レジャーシートが敷かれており、ゴミ袋をその上に置くと「瀬川くん、浴槽の方を向いて。こっちに背を向けてちょうだい」と言った。呼吸が止まるほどの胸騒ぎを覚えた。彼は浴槽に向いて横臥し、背後から彼女の脅威を感じた。
「そのままじっとして。動かないようにね」
一旦その場を離れ、ガサガサと音を立てながら戻ってきた。他にも荷物を運んできたらしい。雅之の背後に佇んで、またもや音を立て、彩子は何やら準備に取りかかっていた。生きた心地もなくじっとしていると、彼の首に紐が巻かれた。荷物の梱包に用いるポリエチレンのロープである。彼女は端の輪にもう一方の端をくぐらせた。それを引くことによって、いつでも彼の首を絞められるように施したのだった。
「絶対に暴れないでね。暴れたら首を絞めるから」
雅之の目の前に、プラスチックのまな板が置かれた。背後からゴミ袋をまさぐる音が聞こえると、まな板の上に奇妙なものが載せられた。そのうっすらと霜に覆われた、蝋のように白い物体は、人の前腕の形をしていた。
「もし暴れたら、瀬川くんもこうなるよ」
彼は気が遠のきそうになって、腕を掴まれた途端に、ビクッと体を震わせた。さらに手首に何か冷たいものが触れたので、半狂乱になった。
「嘘じゃないって。本当に車を貸してあげる」
喚きながら背を反らし、ゴロンと仰向けに転がった。彩子はそれを避け、素早く浴室から出ると、何かを足で踏み、勢いよく滑らせた。それは浴室に滑り落ち、彼の耳元で金属音を立てた。横目で見ると、それはフレームの両端に刃を付けた、手動式の糸鋸である。
「今度大きな声を出したら、また猿轡を噛ませるからね。ほら、手首のロープを切ったから、早く起き上がって」
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「三等分?」
「まな板の上に置いてあるよね。それを三等分にするの」
彩子はゴム手袋とレインコートを投げ渡した。しかし彼は取り落としてしまった。
「それを着て。もし暴れたら思い切りロープを引いて首を絞めるから。それと、悪いけど、長靴は用意できないの。わたしのだと、サイズが合わないし」
足首が縛られているから、いずれにせよ、靴を穿くことはできない。
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「でもどうやって。俺は、その…、こんなことやったことないし」
「何も考えない方がいいと思うよ」
雅之は身動きを取れなかった。うんざりした彩子はため息をついた。
「まず関節で切断するといいよ。手と腕を切り分けた後、腕を真ん中で切ればいいの。簡単でしょ」
手順を教えてもらっても、彼はまな板の前で固まっていた。
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弱音を吐くと、恐ろしい沈黙が訪れた。彩子は果物ナイフを向け、無言で彼を見つめている。その表情を見ることさえできなかった。
「瀬川くん、わたしを頭のおかしい殺人鬼だと思ってるでしょ」
「いや、思ってないよ」
思わず声が上擦ってしまった。
「できればわたしのことを理解してほしいの。その男はわたしを裏切ったのよ。夏休みに実家から帰って来たとき、彼にはセフレがいたの。すごく傷ついたわ」
「それで殺しちゃったの」
気まずそうに彼女は「うん」と呟いた。
「あれ…、その彼って、俺と会ったことがあるんじゃないの。以前このアパートに来たとき、挨拶したよね」
「そう、その人。浮気をするような人には見えなかったでしょ」
まさか顔を知っている人間だとは思わなかった。その男の歳は二十代半ばくらいで、艶やかな直毛とすらりとした背格好をよく憶えていた。服装はジャケットにスラックス、腕時計はオメガだった。雅之もたまに使うアックスのボディスプレーの香りを漂わせていた。しかも彼が愛用するダークチョコレートの香りだった。一度アパートの階段の近くで偶然会い「こんばんは」と挨拶を交わしたくらいだが、自然と敵意を抱くに至った。しかし変わり果てた目の前の姿を見ると、胸が悪くなるような悲惨さ以外何も感じなかった。
「本当はこんなことしたくなかったの。仕方なかったのよ」
彩子はため息混じりにそう言った。
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