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第一章 彩子
11話
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翌日の晩から彩子は雅之の部屋へやって来た。太陽の優しい光が蛍光灯の冷たい光に切り換わる、そんなタイミングにやって来る彼女に、彼は心から安らぎを覚えた。怯えて意気阻喪している彼に対し、彼女は終始親切だった。料理ばかりでなく、必要なものを彼の代わりに買いに行ってくれたり、夜遅くまで、一人でいると妄想に憑かれる彼に付き添ってくれた。とりわけ雅之は夜の闇に異常な恐怖を覚えたので、まるで母親が子供を見守るように、眠りに就くまで側にいてくれたこともあった。そんな彩子に親愛の情を覚える一方で、雅之は彼女を恐れていた。
しかし二週間後に大学の後期の授業が始まる。それまでに彼はこの状況から抜け出さなければならなかった。そこで日常への復帰の予行演習として、彩子に伴われ、近所のスーパーへ買い物に出かけた。彼は肌がひりひりするほど神経質になって、息が詰まりそうで、それが顔に出たのだろう。買い物をする間、彼女はずっと彼の手を握っていた。ちょうど雅之がアルバイトをクビになった同じ日に、彩子は歯科助手のアルバイトを始めた。仕事から帰ると、大抵彼の部屋に寄った。彼はほとんど部屋から出なかった。友人からの電話にも出ないし、LINEの未読は何件も溜まっていた。日中彼女が側いないとき、恋しくなって、思いが募ったが、その反面で、相変わらず彼女を恐れていた。
「俺はこんなに参っているのに、大野さんは、けっこう平気なんだね」
すでに日常を取り戻した彩子に呆れ、雅之はそう言った。
「人を感情のない怪物みたいに言わないでほしいんだけど。平気なわけないじゃん。そう見えるのは、わたしより怖がる瀬川くんを見ていると、安心するからよ」
彩子が平然としているのは、もちろん感情のない怪物だからではない。それは雅之にも分かっていた。奥多摩からの帰還後、なぜ彩子が彼のように、怯えた日々を過ごさずにすんでいるのかというと、それは彩子の交際相手への憎悪が、反省や罪悪感の入り込む余地のないほど凄まじいからである。彼女の彼の死に対する反応が、そうとしか思えなかった。口では後悔していると言うものの、後悔しているようには見えないし、反省しているようにも見えなかった。殺人に対する罪悪感がまるでない。それに彩子は死体を煮込んだキッチンを使うことや、死体を保存した冷蔵庫で食料を冷やすことに、なんの抵抗も感じていない様子だった。必要に迫られてそうしたというより、まったく気にしていないようにしか見えなかった。殺害された彼の死体は、雅之にとっては「丁重に扱われるべき忌まわしいなにか」である。けれど彩子にとってのそれは、ただの汚物に過ぎなかった。だからキッチンを奇麗に掃除さえすれば、何も問題はなかったのだ。つまり彩子にとっては死体の解体も、汚物の処理に過ぎなかった。
雅之は彩子の交際相手について、ほとんど知らないが、どうやら彼は大罪を犯したらしい。彩子はまるで地獄に堕ちた罪人のように彼を扱っていた。
こうした理由から、雅之は彼女を恐れていたのである。しかし彼を孤独から救えるのは彩子しかいなかった。
その日の晩も彩子の料理を待ちながら、何も映っていないテレビをぼんやり眺め、雅之は二人掛けのカウチソファでぐったりしていた。彩子はキッチンから出てくると、ローテーブルの上に豚の生姜焼きを置いて、彼の斜向かいに座った。そして唐突にこう言った。
「このアパートを出ようと思ってるの」
その言葉は雅之に絶望をもたらした。奥多摩の闇の中に置き去りにされたように感じさせた。しかし彼の面はすでに蒼白なので、これ以上蒼白にはならなかった。
「妹が上大岡のマンションに住んでいるから、わたしもそっちに移ろうかと思って」
「どうして急に…」
その理由は雅之が想像するような、彼女の部屋が殺人の現場だからという理由ではなかった。
「瀬川くんはわたしのことを忘れたいでしょ」
彩子は申し訳なさそうに、目を伏せてそう言った。
そんなことはないと言いたいのに、忘れたいこともあったので、雅之は「そんなことは…」と言葉を濁らせてしまった。
今では彩子の美しさには死が潜んでいた。これまでそれは雅之を突き放し、遠ざけていた。しかし一度彼女への欲望が湧き起こると、遠ざけるどころか、死は彼を力強く引き寄せた。狂うしいほどその欲望に拍車をかけたのである。
「今月中に部屋の契約を解除して、来月には…」
そう話している彩子の腕を掴み、強引に引き寄せた。
「え、ちょっと」
雅之は貪るように彩子に口づけをした。彼女が唸り声を上げ、抗おうとするほど、彼は貪欲に彼女を求めた。やがて彼女の肉体は弛緩し、ぐったりとして、彼に身を任せていた。
香水の薔薇の香りが漂ってくると、死体の血と脂の臭いを、雅之は思い出した。そして肉体が溶けて、彩子に吸いこまれていくように感じた。そんな彼女の中に転落していくような官能の最中、まるで彼は夢を見るようにして、彼女が自分の死体を解体している姿を思い浮かべていた。
しかし二週間後に大学の後期の授業が始まる。それまでに彼はこの状況から抜け出さなければならなかった。そこで日常への復帰の予行演習として、彩子に伴われ、近所のスーパーへ買い物に出かけた。彼は肌がひりひりするほど神経質になって、息が詰まりそうで、それが顔に出たのだろう。買い物をする間、彼女はずっと彼の手を握っていた。ちょうど雅之がアルバイトをクビになった同じ日に、彩子は歯科助手のアルバイトを始めた。仕事から帰ると、大抵彼の部屋に寄った。彼はほとんど部屋から出なかった。友人からの電話にも出ないし、LINEの未読は何件も溜まっていた。日中彼女が側いないとき、恋しくなって、思いが募ったが、その反面で、相変わらず彼女を恐れていた。
「俺はこんなに参っているのに、大野さんは、けっこう平気なんだね」
すでに日常を取り戻した彩子に呆れ、雅之はそう言った。
「人を感情のない怪物みたいに言わないでほしいんだけど。平気なわけないじゃん。そう見えるのは、わたしより怖がる瀬川くんを見ていると、安心するからよ」
彩子が平然としているのは、もちろん感情のない怪物だからではない。それは雅之にも分かっていた。奥多摩からの帰還後、なぜ彩子が彼のように、怯えた日々を過ごさずにすんでいるのかというと、それは彩子の交際相手への憎悪が、反省や罪悪感の入り込む余地のないほど凄まじいからである。彼女の彼の死に対する反応が、そうとしか思えなかった。口では後悔していると言うものの、後悔しているようには見えないし、反省しているようにも見えなかった。殺人に対する罪悪感がまるでない。それに彩子は死体を煮込んだキッチンを使うことや、死体を保存した冷蔵庫で食料を冷やすことに、なんの抵抗も感じていない様子だった。必要に迫られてそうしたというより、まったく気にしていないようにしか見えなかった。殺害された彼の死体は、雅之にとっては「丁重に扱われるべき忌まわしいなにか」である。けれど彩子にとってのそれは、ただの汚物に過ぎなかった。だからキッチンを奇麗に掃除さえすれば、何も問題はなかったのだ。つまり彩子にとっては死体の解体も、汚物の処理に過ぎなかった。
雅之は彩子の交際相手について、ほとんど知らないが、どうやら彼は大罪を犯したらしい。彩子はまるで地獄に堕ちた罪人のように彼を扱っていた。
こうした理由から、雅之は彼女を恐れていたのである。しかし彼を孤独から救えるのは彩子しかいなかった。
その日の晩も彩子の料理を待ちながら、何も映っていないテレビをぼんやり眺め、雅之は二人掛けのカウチソファでぐったりしていた。彩子はキッチンから出てくると、ローテーブルの上に豚の生姜焼きを置いて、彼の斜向かいに座った。そして唐突にこう言った。
「このアパートを出ようと思ってるの」
その言葉は雅之に絶望をもたらした。奥多摩の闇の中に置き去りにされたように感じさせた。しかし彼の面はすでに蒼白なので、これ以上蒼白にはならなかった。
「妹が上大岡のマンションに住んでいるから、わたしもそっちに移ろうかと思って」
「どうして急に…」
その理由は雅之が想像するような、彼女の部屋が殺人の現場だからという理由ではなかった。
「瀬川くんはわたしのことを忘れたいでしょ」
彩子は申し訳なさそうに、目を伏せてそう言った。
そんなことはないと言いたいのに、忘れたいこともあったので、雅之は「そんなことは…」と言葉を濁らせてしまった。
今では彩子の美しさには死が潜んでいた。これまでそれは雅之を突き放し、遠ざけていた。しかし一度彼女への欲望が湧き起こると、遠ざけるどころか、死は彼を力強く引き寄せた。狂うしいほどその欲望に拍車をかけたのである。
「今月中に部屋の契約を解除して、来月には…」
そう話している彩子の腕を掴み、強引に引き寄せた。
「え、ちょっと」
雅之は貪るように彩子に口づけをした。彼女が唸り声を上げ、抗おうとするほど、彼は貪欲に彼女を求めた。やがて彼女の肉体は弛緩し、ぐったりとして、彼に身を任せていた。
香水の薔薇の香りが漂ってくると、死体の血と脂の臭いを、雅之は思い出した。そして肉体が溶けて、彩子に吸いこまれていくように感じた。そんな彼女の中に転落していくような官能の最中、まるで彼は夢を見るようにして、彼女が自分の死体を解体している姿を思い浮かべていた。
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