隣の女

如月

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第二章 有紀

7話

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 LINEの確認を忘れたことに、雅之は帰宅するまで気づかなかった。元来SNSを好まないから、通知をオフにしていたが、沙織との交際が始まり、小まめな確認を心掛けるようになった。これまでにも返信が遅れたり、とくに学園祭の準備で忙しいとき、この日と同様に、丸一日返信しない日もあった。沙織がそれについて不満を漏らしたことはない。だからといって、不満を持たないとは限らない。この日妹とディズニーランドにいた彼女は、よほど喜びを伝えたかったのか、何度もメッセージを寄越していた。しかしいつまでも返信はなく、とうとう痺れを切らし、ミッキーマウスと撮影した写真まで送ってきた。写真嫌いの彼女が、わざわざミッキーマウスと写真を撮り、そればかりでなく、他にも何枚もの写真を送っていた。それら全てに対し、彼は返信しなかったので、最後の写真の後、彼女のメッセージは途絶えた。そこから無言の怒りを感じた。今になって慌てて返信すると、既読にはなるけれど、メッセージは返ってこなかった。

 翌日電話をかけても無視された。授業が終わり次第急いで帰宅し、沙織の部屋のチャイムを鳴らしたが、インターホンに反応はない。再び電話をかけると、エレクトリカルパレードの着メロが、ドア越しに微かに聞こえて、もう一度チャイムを鳴らした。今度はドアが解錠され「どうしたの」と、チェーンを掛けたドアの隙間から、沙織が顔を出した。口調は冷ややかで、嫌悪を露わにしていた。
「電話をかけても出ないから、何かあったのかと思って」
「忙しかったのよ」
「部屋に上がってもいいかな」
「今日は無理」
 素っ気なく突っ撥ね、彼女はドアを閉めてしまった。
 雅之の想像以上に、沙織の怒りが激しかった。

 翌日も彼は帰宅後に沙織の部屋を訪れたが、やはり彼女はチェーンを外さず、ドアの隙間から「まずわたしに何か言うことはないの」と睨んでいた。
「それは、一昨日LINEの返信を送らなかったこと」
 彼女は何も言わずに睨んでいた。
「スマホのバッテリーが切れてさ。返信をしたくてもできなかった」
「バッテリーが切れたのはいつ」
「たしか、夕方だった」
「なら昼間は返信できたよね」
 雅之はますますSNSを嫌いになりそうだった。
「悪かったよ。うっかりしていた。一昨日はちょっと色々あって」
「色々あったんだ。何があったの」
「話すから、中に入れてもらえないかな」
 沙織はそれに答えず、じっと雅之を見つめていた。
「お願い。中に入れて」
 なるべく哀れに見えるように、彼が懇願すると、彼女はようやくチェーンを外してくれた。

 部屋に入る際に「昨日何時頃に帰ったの」と雅之は尋ねたが、沙織は答えなかった。彼女はベッドの縁に背を預け、胡坐をかいて座った。部屋着の上にボーダー柄のカーディガンを羽織り、見るからに不機嫌な様子で、顔を背けていた。彼は斜向かいに座り、その頑なな態度に辟易していた。
「一昨日はその…、忙しくてさ」
「何をしていたの」
「沙織さんの大学の学祭に行ったんだ。明立とうちの大学の写真部は交流があるからさ。前に話したよね。その付き合いで展示会に行くことになった。返信が遅れたのは悪かったと思ってるよ。でもそれくらいで怒ることないでしょ」
「誰と行ったの」
「写真部の部員だよ」
「だからそれは誰」
「宮下って覚えてる。ほら、この前会った」と言いながら、彼女の表情を窺った。
「宮下有紀さんね。覚えてるよ」
「あれ、宮下の下の名前、沙織さんに言ったっけ」
 沙織の前では有紀を名前ではなく、宮下と呼んでいた。それでも雅之の記憶は曖昧なので
「この前彼女が自己紹介をしたでしょ」
 と彼女に言われると
「ああ、そうか」
 と納得してしまった。
「宮下さんと二人で行ったの」
「明立に共通の友達がいるから。その付き合いで」
「それで二人きりで行ったんだ」
「いや、部長の柏木さんも一緒に…」
「なら三人ということ」
「うん」
 沙織の眼光があまりにも鋭いので、雅之は彼女から目を逸らした。
「別れるわ」
 唐突に彼女はそう言った。
「どうして」
「瀬川くんが嘘をついているから」
「嘘なんてついてないよ」
「顔を見れば分かるの」
「それは思い込みだろ。嘘じゃないよ」
「それならどうして始めから柏木さんの名前を言わないの。明らかに付け足したよね」
「それは…」
 雅之は言葉に詰まってしまった。沙織を見ることができない彼は、しばらくして俯きながら「柏木さんの存在感が薄いから」と、消え入りそうな声で呟いた。
「柏木さんの存在感が薄いから、瀬川くんは彼を忘れてしまったの」
「うん」
「一昨日のことなのに」
「…」
 この後二人は何も言わず、互いに向き合っていたが、時の経過と共に沈黙は重さを増していった。やがてその沈黙に押し潰されるようにして、とうとう彼は根負けし「分かった。認めるよ。たしかに柏木さんはいなかった」と白状してしまった。
「それじゃ、二人きりで学園祭へ行ったんだね」
「うん、でも、ただの写真部の後輩だから」
「夜まで学園祭にいたの」
「いや、昼を過ぎて、しばらくしたら帰ったよ」
「それじゃあ、学園祭の後はどこへ行ったの」
「どこにも行かないよ。真っ直ぐ帰った」
「そうなんだ」
 雅之は沙織から眼を逸らしながらも、体に彼女の視線が刺さるのを感じた。
「別れるわ」
 またもや唐突に、彼女はそう言った。
「だから、なんでそうなるの」
「瀬川くんが嘘をついてるから」
 こうして沙織と話しているうちに、彼女から「別れる」と脅されたとき、雅之は自分が彼女と別れたくないと思っていないことに気がついた。

 すでにあの偽名の一件以来、彼の心は次第に沙織から離れていたが、このときようやく彼はそれを自覚した。そして一昨日電車の中で見た、有紀のうっとりとした表情を思い出すと、その心はそちらへ引き寄せられていった。今や彼にとって、彼女は正気な日常の世界の明るい希望だった。彼は血と脂にまみれた罪と狂気の世界から離れたがっていた。とはいえ、彼の方から別れ話を伝えるのは、恐ろしくてできそうにない。けれど幸い沙織の方から別れたがっている。これはLINEを一日サボったくらいで激怒する、面倒くさい女と別れる、千載一遇のチャンスではないかと思った。

「嘘だと思うなら、そう思えばいいんじゃない。俺は嘘なんてついてないし」
 雅之は投げやりな感じでそう言った。
 この彼の態度の急な変化を、沙織は見逃さなかった。
「本当に嘘をついてないんだね」
「そう言ってるだろ」
「ならどうしてわたしの目を見ないの」
 そう言われ、雅之は沙織の目を見た。するとたちまち顔に焦りを浮かべた。強く固着する視線に追い詰められ、すべてを見透かされているような気がした。その内部を貫く不穏な眼差しは、彼を浴室に監禁した彼女を想起させた。彼が命乞いをするように「車を貸してあげる」と言った、ちょうどそのときの沙織の表情によく似ていたのである。すると彼の体は一気に凍りついた。
「それで、本当はどこへ行ったの」
「鎌倉に…」
「鎌倉で何をしたの」
「観光しようと思って、大仏に…」
「学園祭の後に、突然大仏を見たくなったんだ」
「高校のとき修学旅行で京都の大仏を見たけど…」
 雅之は動悸が早まって、息を切らしてしまった。
「鎌倉の大仏は見たことがないからさ。一度見ておこうと思って…。それに有紀ちゃんも見たことがないみたいで、一緒に見に行こうっていう話になった」
「有紀ちゃんも見に行きたいって言ったんだ。楽しそうだね」
「宮下は子供のときから横浜に住んでいるけど、まだ一度も大仏を見たことがないんだよ。さすがに一度くらいは見ておきたいって、彼女も以前から…」
「ちょっと待って」
 沙織はふいに話を遮った。
「これが最後の警告よ。今ならそのデタラメな話をなかったことにできるけど、瀬川くんはどうしたいの」
 なぜ嘘が見抜かれてしまうのか、疑問を抱く暇もなく決断を迫られた。
 結局、有紀に誘われ、稲村ケ崎へ日没を見に行ったこと、その後江ノ島へ赴いたこと、しかし豪雨に遭い、何事もなく帰ったこと、雅之はその日の出来事を白状した。話を聞いても終始沙織は平静で、動揺している様子もなかった。
「俺が鎌倉へ行ったこと、はじめから知っていたの」
「知るわけないでしょ」
「ならどうして俺が嘘をついたって分かったの」
「女の勘で分かるの。男の嘘くらい、すぐに分かるの」
 雅之は釈然としない様子だった。
「瀬川くんは嘘が顔に出やすいから」
 そう言われたことはないが、これほどあっさり看破された以上、きっとそうなのだろうと思った。
「それで、宮下さんとの鎌倉デートは楽しかった」
「デートじゃないよ。観光だから」
「同じことでしょ」
 沙織はふいに顔を歪めると、上体をベッドに投げ出した。伏している彼女から、すすり泣く声が聞こえてきた。
「もう二度としないで」
「ごめん」
「もう二度と宮下さんと会わないって、約束してくれる」
「約束するよ。もうあの子とは二人きりで会わないよ」
「二人きりとか、そういうのは関係なしに、もう二度と会わないと約束して」
「いや、そう言われても、部活で会うからさ」
「写真部でも会わないでほしいの」
「それは無理だよ。どうやって宮下にだけ会わないようにすればいいの」
「瀬川くんが写真部に行かなければ、もう会うこともないでしょ」
 彼女の欷泣する声が室内を覆うと、重苦しい沈黙が訪れた。
「辞めろと言ってるの」
 そう訊ねても、沙織は答えなかった。沈黙が長引くほどに、雅之は追い詰められていった。
「今すぐ辞めるのは難しいからさ、もう少し考えさせてもらえないかな」
 彼女の怒りが冷めるまで、どうにかやり過ごそうと思った。
 ベッドに伏した沙織は、くぐもった声でこう言った。
「瀬川くんは自分のやったことを忘れたの」
 彼女はベッドから顔を上げた。眉間に皺を寄せ、雅之を睨みつけていた。
「思い出して。わたしたちは取り返しのつかないことをやったの。人間の体をバラバラに切断して、山に埋めたのよ。どうして瀬川くんは能天気にサークルで遊んでいられるの」
 このあまりの言葉に対し、雅之は言いたいことがあったはずだった。しかしそれをすぐに忘れてしまったかのように、途端に意気が挫け、体の力が抜けてしまった。彼の内部に沈殿する闇が、体に纏わりついて、自由を奪っているかのようだった。彼は脱力したままこう言った。
「分かった。辞めるよ…」
 すると沙織は雅之に抱きついた。
「ごめん、瀬川くん。今のは意地悪だったよね」
 そう謝るけれど、雅之の言葉を撤回させるつもりはなさそうだった。
「でももし他の人が瀬川くんのやったことを知ったら、きっと態度を変えるはずだよ。瀬川くんがわたしを怖がっているのは知っているけど、あなたのすべてを受け入れられるのは、わたししかできないの。わたしは何があっても瀬川くんの味方だよ」
 沙織は彼に言い聞かせるようにそう言った。そして彼の肩に額を当て、一層強く抱きしめて
「雅之はわたしにとって特別なの。何より雅之を大切にするからね」
 と言うと、再びすすり泣いていた。
 雅之にはその「特別」という言葉が、まるで烙印ように感じられた。以前は罪の烙印が心地よい牢獄を生み出していたが、その言葉は沙織という牢獄を生み出した。おかげで彼は、自分が抜け出し難い奈落の底に身を置いていることに気がついた。
 この日から沙織は彼を「雅之」と呼ぶようになった。

 やがて雅之の中に、罪深い自分は沙織からは逃れられない、そんな思いが芽生えた。

 彼が写真部を辞めるとき、他の部員と同じように、有紀も理由を尋ねた。熱意が冷めたと伝えたが、信じてはいなかった。その後彼女からのLINEを受け取っても、返信しないことが続くと「わたしの方からもうLINEを送ったりしない方がいいですか」という質問が来た。身を切るような思いで「うん、そうだね」と返事を送った。彼女は事情を察したようだった。
「わたしと江ノ島へ行ったこと、沙織さんに話したんですね」
「疑われて、話すしかなかった」
「もしかして、先輩が写真部を辞めたのも、わたしのせいですか」
「それは違うよ。関係ない」
「分かりました。もう送りません。迷惑かけてすみませんでした。さようなら」
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