綾衣

如月

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5.綾衣 1

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 登楼した兵次郎は、浅草の奥山で購入した起き上がり小法師を、座敷にやって来た禿や新造に配ると、彼女たちはとても喜んでいた。なによりも、その光景を見ている敷嶋が喜んでいたので、これで今日は気分よく床入りできると思った。ところがふいにやって来た遣り手が、座敷の外へ敷嶋を呼び出すのを見て、ひどく落胆した。
「兵さん、ちっとばかし待ってもらえるかえ。すぐに戻りいすから、堪忍しておくんなんし」
 どうやら他の客とかち合ったようだ。相手の男の名前を訊くほど野暮ではないし、自分より優先すべき客が他にいることくらい分かっているが、不満が顔に出てしまった。
「ほんにぬしと過ごしたいのが本意でおざりいすが、これも務めであるから仕方がおざりいせん。どうか料簡しておくんなんし」
 花魁の部屋には他の客が入るから、兵次郎はそこから弾き出されることになる。こうした場合、大概は割床であるが、この日は幸い空き部屋に入ることができた。
 兵次郎の入った部屋は、部屋持ち女郎の空き部屋のようで、床の間付きの八畳ほどの広さである。花魁の部屋に比べると、箪笥や鏡台などの調度品は、明らかに粗末だった。部屋の中央に一枚布団が敷かれており、兵次郎はそこで横になった。傍らには、綾衣という新造が正座し、枕元で彼を見張っていた。見張っているのは、客が勝手に帰らないようにするためである。十六歳の小娘に関心のない彼は、未だ親しい新造の名前さえたまに忘れるが、顔くらいは大体憶えている。しかし目の前にいる娘を見たことがない。
 山繭紬の藍染めの振袖に、行灯の灯火が映えて、その艶やかな布地の上、藤模様が朧げに浮かんでいた。島田髷に珊瑚の玉簪、しかつめらしくじっと座っている様子は、姉女郎の言いつけをまじめに守っているようで、兵次郎は微笑ましい気持ちになった。そしてそんな気持ちは、淫らな気持ちと合わさって、悪戯心を生むきっかけにもなった。
 しばらく天井を眺めてから綾衣に眼を向けると、彼女は頭を前後に揺らし、今にも閉じそうな眼を薄く開けていた。目の前の客のことなど忘れ、眠そうな娘を見ていると、果たして悪戯心が兆し、綾衣の膝頭に手を伸ばした。彼女はびくっと総身を震わせ、眼を瞬かせ、ぼんやりと兵次郎を眺めた。それでも尚彼が膝頭を擦ると、綾衣はその手を捕らえ、わが身から引き剝がした。恥じらいを堪え、慌てて手を捕らえるその所作が、初心に見えたのが彼の興味をそそった。今度は膝頭を掴んでくすぐると、綾衣は身を捩ってくすくす笑った。
「よしなんし。花魁に怒られいす」
 そう言うと、彼女はくしゃみをし、鼻をすすった。三月の夜はまだ冷え込むことがある。
 名代の新造に手を出すことは固く禁じられていたが、悪戯心が勢いづいて、悪心へと移ろい、禁止を敢えて破りたくなった。禁止を破ることに魅惑されるからこそ、城中に陽物の落書きを施すという馬鹿げた考えを思いついた兵次郎だった。違反を実行する前は、蝶が蛹から羽化するように、退屈な自分が何か別のものに変化するという錯覚を覚えてしまうのである。
「そんなところに独りで座っていては寒いだろう。桜も蕾に戻りそうな寒さだ」
 兵次郎は掛布団の縁を摘まんで開いた。
「ほら、こっちに来な」
 綾衣は開かれた布団の中を見たが、じっとしていた。
「花魁がすぐに戻りいす。神妙に待っておくんなんし」
「花魁のすぐなんて当てになるものか。まだ当分はここに来ねえよ。なに、心配するこたあねえ。お前が寒そうだから、一緒に横になろうと言っている。何もするつもりはない」
 寒そうだと言われ、猶更寒くなって、綾衣は再びくしゃみをした。
「この寒さじゃあ体に毒だ。ほら、ここに入りな。何もしねえからよ」
 綾衣は寒さを堪え切れなくなったのか、しばらくもじもじと躊躇っていたが、這って寝床に近づくと、兵次郎に背を向けて布団に入った。その際に、彼女の冷えた足が兵次郎の足に触れ「おお、冷てえ」と、彼は喜悦の混じった声を上げた。さっそく綾衣の腰に手を触れ、擦ってみたが、意外にも抵抗がない。たちまち調子に乗って、襦袢の袂から下腹部へと、手を滑らせた。すると綾衣は彼の方を向いて、しばらくその顔を見つめた後、ふいに接吻し、彼に覆い被さった。突然人が変わったように、彼を求めたのである。
 その後の閨の営みは素晴らしいものだった。振袖新造とは思えないほど床上手なので、途中から兵次郎は、別人を相手にしているような錯覚に囚われた。あまりにも夢中になって、どれほど刻が経過したのか分からない。絶え間ない快感に彼の総身は支配され、閨の営みのすべてが、一つの快感でしかなく、おかげで目が覚めたとき、いつの間に眠ったのかさっぱり分からなかった。
「兵さん、起きなんし。家の人が迎えにお出でなんした」
 肩を揺すられて目覚めた兵次郎は、不思議なことに、敷嶋の部屋にいた。三つ布団の上に彼は横たわっている。そればかりか、呆然とした彼に、冷水を浴びせるようなことを彼女が言った。
「はよう起きいせんと、家の人にせっつかれて、わっちも立つ瀬がおざりいせん。五日も居続ければ、兵さんも気がすみなんしたでありんしょ」
「何を言っている。五日とはどういうことだ」
「寝ぼけるのはよしなんし。廓の者も困じ果てているのに、まだ居続けると言い張りなんしたのはぬしでありんしょ。家の人がだいぶお冠でおざりんす。放っておけば、ここまで飛び込んで来そうな気迫でありいすが、どうなさるおつもりかへ」
 家の人というのは、番頭の正助だった。兵次郎が朝の身支度を整えて、階下へ向かうと、正助は上がり框に腰を下ろすこともなく、土間に佇んで、兵次郎を待ち構えていた。
 敷嶋の話では、居続けの二日目から、彼はここに来ていたそうである。無論兵次郎に居続けの覚えなどないから、二日目と言われても、濡れ衣を着せられた気分だった。彼女によると、正助は兵次郎を熱心に諫めたらしいが、糠に釘なので、次第に彼の面は悲壮感を帯びていった。このときも崖の縁に立つような必死の面相で
「若旦那、今日という今日は、帰るつもりになるまで、わたしはここから一歩も動くつもりはございません。大旦那様のお怒りは、それはもう、筆舌に尽くし難いほどでございます。わたしは身命を賭す一存でここに参りました。若旦那を連れ帰るまで、飯も水も一切断食し、餓死するまでここを動くつもりはございません。もしわたしを僅かでも気にかけて下さるのであれば、どうか一緒に帰って下さりませ」
 と懇願した。内側の怒りが溢れるように、眼が凄みを帯びている。この番頭の様子のおかげで、父親の怒りがどれほどのものか、推し量ることができた。
 幼少の時分より、家族同然に親しんできた奉公人にこう言われては、聞き容れるより他にない。というより、はじめから帰るつもりだった。
 帰りがけに引手茶屋へ立ち寄った。この五日間で、茶屋のつけは八十二両も増えていた。どんな大盤振る舞いをしたのか、記憶がないからさっぱり分からない。茶屋のおかみは申し訳なさそうに、近々支払いの催促に伺うことを告げた。必ず支払うからもう少し待ってほしいと、正助が兵次郎に代わって謝った。
 佐久間町の家に着いて、軒先に女中のおせんの姿が見えた。彼女はお辞儀をし、目の前に近づいて来た兵次郎に「若旦那、大旦那様がお待ちしておりますよ」と言うものの、その若旦那とは目を合わせようとしない。兵次郎を残し、先に家に入った正助が、間もなく戻ってきて「こちらへ来てください」と奥座敷へ案内した。兵次郎はだんだん怖くなってきた。
 きっと俺は狐に化かされたに違いない。
 そう考える以外に、自らを納得させる術がない。
 薄暗い座敷の中程に、床の間を背にして座っていたのは、兵次郎の父である柏屋喜兵衛である。五十を過ぎたばかりの小柄な老人であるが、奉公人からは鬼のように恐れられていた。しかし息子には甘いようだった。座敷が薄暗いのは、普段日中縁側に面した障子戸が開放されていたのに、この日は閉め切られていたからである。息子への説教を外へ漏らさぬようにするためであるが、障子戸に声を遮る効果はさほどないし、ただでさえ喜兵衛の太い声はよく通るから、こんなものは何の意味もない。だからこれはただの気持ちの問題である。
「兵次郎、そこに座りな」
 落ち着いた声で喜兵衛はそう言った。息子に会うまで、彼は怒りを抑えきれなくて、店の者を震え上がられていたけれど、息子の姿を見た途端、心が落ち着いたようだった。
 なぜ五日間家に帰らなかったのか、喜兵衛は息子に訊ねた。女郎に熱を上げたこと以外に理由など考えられないが、今まで兵次郎は居続けなど一度もしたことはないし、度が過ぎるほど女郎にのめり込んだこともない。馴染みになったばかりのときは、足しげく通うけれど、すぐに飽きて廓から遠ざかるのが常だった。このままなら大丈夫だろうと、油断していた折、突然息子が帰ってこなくなったので、つい訊かなくても分かることを訊ねた。
 狐に化かされたと答えるわけにもいかず、困り果てた兵次郎は、気に入った女郎がいるからだと答えるしかなかった。
「廓狂いは男の病みてえなもんだ。女郎に熱を上げるなんざ、一時の気の迷いだが、それが胃の腑に落ちるまで、この病がおこたることはねえ。しかしこの病の元は吉原だ。吉原さえなければ、おまえもきっと良くなる。吉原のないところでしばらく療養するのが、おまえとって一番の薬だ」
 そこまで言うと、喜兵衛は一旦言葉を切って、息子の顔をまじまじと眺め、やがてこう言った。
「紀州の伯母さんなら、おまえの面倒をよく見てくれるだろう。兵次郎、紀州の伯母さんの家でしばらく過ごしてきな」
 兵次郎の顔からさっと血の気が引いた。
「父上、それはよい考えとは思えません。女郎屋なら紀州にもございます。近くに宿場町があったのを憶えておりませんか。もし親の目の届かぬところにわたしを置いたら、わたしはもっとだめな人間になってしまいます」
 熊野の参詣道沿いに、宿場町があったのを思い出したのである。
「俺を見くびるんじゃねえ。おまえのことなどすべてお見通しだ。おまえが宿場町の下等な飯盛り女など相手にしないことは分かっている。それにその近くの宿場町というのは、おまえの脚で山道を歩いたら、その日のうちにたどり着けないだろう」
 ぐうの音も出ない兵次郎は、力なく首を垂れた。
「まあ心配することはねえ。なにも死ぬまで田舎に引っ込めと言っているわけじゃねえんだ。俺はおまえにちょいとばかり頭を冷やしてほしいのさ。悪いようにはしねえ。俺にすべて任しておきな」
 喜兵衛も若い時分女郎に入れ込んだことがあったので、同じ過ちを犯す息子に、ことさら厳しくするつもりはなかった。だから罰を与えるのではなく、本心から息子の病を治したいと思っていた。それは父親の穏やかな態度から、兵次郎にも察せられた。もし口答えをして怒らせでもしたら、何を言われるか分かったものではない。
 こうして兵次郎は、今月の末に江戸を去ることになった。
 身を持ち崩すほど女郎に惚れたことはないが、廓狂いは病だという父親の言葉は、たしかに兵次郎にも当てはまっていた。彼は生活の多くに飽きているが、廓通いにも飽きていた。飽きていながらも、通わずにはいられないのである。少なくとも廓で遊んでいる最中は、詰まらない生活が死ぬまで続くという現実を、忘れられるからである。それを失ってもしばらくなら我慢できるかもしれないが、やがて渇きに襲われ、求めることになるだろう。廓狂いは酒狂いによく似ている。そして田舎の空虚な生活、江戸での生活のすべてを奪われることは、想像するだけで彼に恐怖をもたらす。
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