1 / 1
趣味は合わないけど、それでもいい
しおりを挟む「このマグカップ、取手が熱くなるね」
梨奈は軽い調子で言う。
すると母は「そう?」と首を傾げた。
「うん、なんかここのとこが」
持っていたマグカップ2つをベッドボードに置いて、そのうち母専用のピンクのカップを指差す。
母専用と言っても別に使ってはいけないというわけではない。なんとなく「お母さんのマグカップ」と思っているだけだ。
それは梨奈が幼い頃からあるマグカップだった。いつからあったのかというと、よくわからない。幼いと言っても、中学ぐらいだったように思う。
要するに見慣れたものであった。
使ったことも何度かある。
しかし取手が熱いと思ったのは初めてだった。
母は不思議そうにマグカップを持ち上げた。
「うーん。持ち手がちょっと小さいから、器に触って熱いんじゃないの?」
「あ、そうかも」
なるほど確かにそんな理由だろう。
特に疑問の解明にこだわることでもないので、適当に同意する。
どちらかというと「取手じゃなくて持ち手と呼ぶべきだったのか」というような些細なことが気になった。あまり言葉を間違えていると阿呆に見える気がするので嫌なのだ。
実際、取手でも持ち手でも、きっと気にする人はあまりいないだろうけれど。
──わかっていても気になるんだよね。
そこまで考えて、梨奈は首を小さく振った。
また、ネガティブに考えている。
また、人の目を気にしてる。
こういう性格だから、うつ病になって実家に帰るハメになって、それも母の隣で寝ることになるのだ。
一人だと眠れないなんて、恥ずかしい。
──ほら、また。
悪い方向に考える癖は、なかなか治らない。
「持ち手の形って大事だよね。それにお母さんのマグカップちょっと重たいから、持つ時に根本持っちゃったよ」
「梨奈のやつは軽いもんね」
「実家で使ってるやつはね。でも向こうの家ではもうちょっと重いやつ使ってるよ」
適当に思考を中断して、そんな話をしながら梨奈もベッドに潜る。
向こう、というのは独り暮らしの部屋のことだ。
こちらの、つまり実家のベッドは父母用なので大きなクイーンサイズ。
父が長期出張でいないから、今は梨奈と母のベッドだ。
部屋は母が暑がりなのでエアコンガンガン。
あまりに寒いので、掛け布団がないと梨奈のほうが風邪を引く。
マグカップが熱いのも同じ理由。
梨奈が温かい飲み物のほうが好き。という理由もある。ちなみに母は冷たい派。今日母のマグカップが熱いのは、梨奈の手違いだ。
だから多分、母は冷めるまで飲まない。
梨奈は潜り込んだベッドの中で、腹ばいになったままマグカップを手に取る。
中にあるのはほうじ茶だ。
熱々で飲みにくいが、少し口に含めばじわっと食道を温もりが通り過ぎる。
この良さがわからないとは、不思議だ。
突然、母が「そうだ」と声を上げた。
「なに?」
「明日マグカップ買いに行こうよ」
「え?」
「独り暮らしの家に持っていったのって、前こっちにあった古いマグカップでしょ? 可愛いの買いに行こうよ」
梨奈は一瞬ほうけた。
確かに、母の言うとおりだ。言うとおりなのだが。
独り暮らしして早5年。新しいマグカップなど買ってしまっている。
新しいのはいらない。
「えーっとぉ」
梨奈は口ごもった。
正直にもう買った、と言えばいいのだが、ここで買ったからなんて言ったら、母のことだ「写真送って見せて!」とか言うに違いない。
──それはちょっと……。
困る。
なぜなら梨奈は隠れオタクだから。
たくさんたくさんマグカップを持っているとも。
そう。
キャラクターもののやつをたくさん。
──だって、アニメのグッズでマグカップが一番実用性ある気がするんだもん。
……無論、言い訳だが。
実際は使うのがもったいなくて鑑賞用になってしまっている。
それはともかく、マグカップがいくつもあることに変わりわないわけで。
ただ、そのどれも母にはちょっと見せられない。
半裸のイケメンキャラのマグカップなど、はたして少女趣味な母に見せて大丈夫だろうか。
いや、大丈夫ではない。
内心であらゆる言い訳をしながら、梨奈は曖昧に笑う。
言えないなら諦めて買いに行けばよい。
しかし、問題は別にもある。
何度も言うが母は少女趣味なのだ。
ピンク、フリル、レース、ハート、かわいいのはわかるが、趣味じゃない。
趣味が全力であわない。
一緒に買いに行けば、そういうのを買わされそうだった。
──やっぱりそれはちょっと……。
梨奈は自分のだした軽率な話題に後悔し、冷や汗を隠してベッドに突っ伏したのた。
「そうだねぇ~、買おうかなあ~」
と、投げやりに言う。
「そうしよう! じゃ、もう寝よっか」
「え!? もう?」
まだ時計の針は22時。
明日は土曜日。
早くない?
梨奈は夜型なのだ。そして母は朝型。
母的には全く早くない。
豆電球残して暗闇になる。
梨奈は真っ暗のほうが寝やすいのだが、母は昔からちょっと電気をつけとく派だった。
徹底的に合わない趣味と主義。
「実家に帰ったの失敗だったかもしれない」と、毎日夜になると思っていることを、今日も思う。
渋々布団に潜り込んだ。
そこに、母の小さな声が届く。
「おやすみ」
「……うん、おやすみなさい」
……やっぱり。
実家に帰ってよかった。
例えあらゆるものが合わなくても、ここにいれば、挨拶に返事が帰ってくるのだから。
ぬくぬくと布団が温かくて気持ちがよかった。
──ああ、ところで、マグカップどうしようかな。
0
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
退会済ユーザのコメントです