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(一)
数多の矢が、夕闇を劈いて飛んだ。
矢が飛ぶ先には、ひとりの年若い武将が、立ちはだかっている。
放たれた矢は、あるものは右に逸れ、他のものは左に逸れる。
最も近いものは武将の足元、二寸ばかりの所に落ちた。
が、武将は身じろぎさえしない。
すらりと伸びた長身と、涼やかな瞳の持ち主だ。
白色の鎧直垂に白糸縅の鎧を身に付け、白塗りの太刀を差している。
白ずくめの出で立ちだ。
背中には切斑の矢を背負い、右手に滋藤の弓を持している。
ときは晩春、武将が立つ野辺には、緑の若草が溢れている。草の丈は高くなく、その姿は、敵から丸見えのはずだ。
武将と敵の砦の間には、幅四十間余り(約七十メートル)の川があり、天然の堀を形成している。
川の両岸は、そそり立った崖となっており、砦は崖の上に建てられていて、武将を見下ろす位置に、あった。
砦の柵の向こうには、柵に沿ってほぼ等間隔に、整然と兵士が並ぶ。いずれも、若い兵士たちだ。それらの兵たちが代わるがわる、規則的に間断なく、矢を射かけてくるのだ。
─相手の大将が、あえて弓矢の的になれば、敵は愚弄されたと思って、無闇に矢を射んとする。気ばかりあせり、時間と武器を浪費することになる。これこそ、敵の心を制することに繋がる。心を制すれば、すなわち、戦は勝ちだ。
この男の持論である。この男は戦に際してしばしば、自ら斥候に出る。斥候に出るに当たっては敵の弓矢の前に身をあえて曝し、敵の心を制する作戦をとって来た。
こたびのいくさでも、持論に従って、自ら斥候に出て、弓矢の標的になることを選んでいる。
しかし……。
思いがけない事態が、にわかに発生した。
砦の物見台へ登る梯子を、ひとりの尼が登りつつあるのが、武将の視界に、映ったのである。
灰色の法衣を身につけ、頭部を白い布で覆っている。
法衣の裾がくるぶしまであるため、早くは登れない。一段、一段と、踏みしめるように、進んで行く。
折からの夕日を受けて、からだ全体が紅に輝いているように見える。
彼女を包む空気には、清楚な香りが漂っていた。
尼の姿を認めると、武将へ向けて、矢を放っていた兵たちは、一斉に手を休めた。
こぞって膝を付いて、丁重に礼の姿勢を、取る。
尼の姿は、一見、戦闘員には見えない。
しかし、実のところは、違うようだ。背中に、矢を負うている。
物見台の下の方に、ひとりの少年がいた。上を見上げて、紅いものを差し出している。
尼は軽く会釈をすると、紅いものを受け取った。
弓である。
尼は背に負うていた箙から、矢を一本、取り出した。
尼が左手に弓を持って、右手で矢を引き絞ると、夕陽に照らされた紅い弓が、キラキラと輝いた。
尼は武将を、見据えた。
困ったようでもあり、嬉しげにも見える複雑な表情が、尼の頬に浮かんだ。
ヒュウッ。
尼の放った矢が、武将の頭上を掠める。
矢は正確に武将の頭上、三寸ばかりの空を切ると、真後ろにある松の木の幹に、突き刺さった。
弾みで、松の細長い葉が、ぱらぱらと落ちる。
先から何十本、代わる代わる数多の兵たちが、矢を放って来た。
その何れもが力なく地に落ちるばかりであったのに、この威力はどうであろう。
尼は矢の行き先を確かめると、弦の調子を確かめるように、指先で弦を撫でた。
これまで武将に矢を射ていた、兵たちの持つ弓は、いずれも黒みがかった、地味な色合いのものだ。
尼の持つ弓の紅さは、ひと際目を引く光を有している。彼女のために、特別に拵えた弓、と見て取れた。
武将は、尼の眼を見つめた。
白い布から垣間見える尼の頬は、抜けるように、白い。弓を持つ両手は、ふくよかな肌に、包まれている。
持資に視線を返す尼の眼には、微かに愁いが浮かんでいた。
武将は、松ぼっくりほどの大きさの小石を、幾つか拾った。
拾った小石を、空に向けて投げる。
小石は空高く上がると、放物線を描いた。
ボシャッという水音が上がり、川に落ちる。
武将は、ふたつめの小石を、同じように投げ上げる。
ふたつめが、川の水面に落ちるのを見届けると、尼は、弓を引き絞った。
武将はほくそ笑むと、三つめを投げ上げた。
尼の紅い弓が、撓る。
矢は小石を捕えて、水面へと叩き落とした。
「おお」
「さすがお師匠様」
砦の中で、歓声が沸き起こった。
先刻まで声を上げず、整然と弓を引いていた若い兵たちが手を叩き、足を鳴らしている。
武将は大きく頷き、頭上に諸手を挙げ、手を叩いた。
歓声の中、尼は射手の構えを解いた。
首をやや背中に向け、箙をしばし探る。
その中から一本の矢を取り出すと、尼は武将に向き直り、弓を引き絞った。
矢は、先刻と全く同じ軌跡を描いて、武将の頭上を越える。
またぞろ松の木に突き刺さった矢には、白い紙片が、括り付けられている。
矢文であった。
紙片を矢から外す様子が、尼の瞳に映る。
尼は、放心したごとく、つぶやいた。
「持資(もちすけ)様……。まさか、こんなところで出逢うとは……」
(二)
南の空に、月が昇っている。
満月である。
灰色の法衣を身につけた尼と、年若い少年が、対座していた。
少年は、夕餉の粥をかきこんでいるが、尼は、手を付けないままだ。
「姉様」
少年が、うつむいたままの尼に、声をかけた。
少年と尼は、実の姉弟ではない。砦の中でともに暮らすうち、自然に親しくなった間柄だ。
「食わんのか?」
尼が、顔をあげた。青ざめて、冷たいほどの美しさだ。
「今は、口に入れる気が、おきないんじゃ。大助が、召し上がれ」
粥の入った椀を、少年の前に置き直す。
「いかがしたんじゃ? 具合が、悪いのか」
尼は、首を振った。
尼の名は、紅皿(べにざら)という。先刻、砦の中から、対岸にいる白ずくめの武将に向けて、矢を放った女だ。
大助は、再びうつむいた紅皿の顔を、覗き込んだ。
「さっきは、すごかったのう。白ずくめが投げ上げた小石を、みごとに射落とした。神業じゃった」
「神業では、あらぬ」
ひとこと言うと紅皿は、黙り込んだ。
黙したまま、眼を閉じる。
ふたりの間にしばし、静寂が流れた。
「姉様。いかが、なされました」
ややあって大助が、困ったように声を上げた。
紅皿は眼を開いて、大助を真っ直ぐに見つめた。
双眸が、充血している。
「あれはな。神業などでは、あらぬ」同じ言葉を、繰り返す。「気の合った者同士で、息を合わせれば、ごく、たやすきことじゃ」
「はあ?」
意想外の言葉に、大助は耳を疑った。
「あの白ずくめを、知っておるのか?」
紅皿は、無言で頷いた。
「あの者は、誰なのじゃ?」
「太田持資(もちすけ)とおっしゃるかたじゃ」
紅皿は、説明した。
京にある将軍家から、関東統治の任務を負わされた、関東管領という役職がある。代々、その職に任じているのが、上杉家だ。太田家は、上杉家の家宰という立場である。家宰とは、いわば筆頭家老だ。太田家は貴族化し、武力を失った上杉家に代わって、実質的に関東の秩序を守る、長官の立場、ということになる。
「そんな偉いかたが、何でこんなところに、来たんじゃ?」
「我らがあるじ、峯雄久長様が、謀反人と、思われているからじゃ」
「謀反人、とな? おだやかじゃないのう」
「持資様は、関東の秩序を守る立場にあるから、各地で何か揉め事が起きると、配下にある武家達を率いて、本拠地の江戸を、離れることになる。本来なら、久長様も随行して、兵を出さないといかぬ」
「まあ、そうじゃろうね」
大助は、わかったように、頷く。
「ところが、久長様は随行もせず、兵も、送らぬ。それどころか、持資様が不在なのをいいことに、近隣の領主を襲って、土地を奪うことを、繰り返して来たの」
「ふうん……」
大助は、腕を組んだ。
「メシを食わせてもらってるから、言いにくいけど……。久長様って、結構ワルなんじゃね」
「でね……」
紅皿の、眉が雲った。
「持資様は久長様に、争いごとをやめて、他の領主から奪った土地を、元のぬしに返すよう、使者を送って来たんだけれど」
久長は拒絶して、使者を殺めてしまった。ゆえに今は、両家は戦争状態となっている。
「あっ! わかった」
大助が、膝を打った。
「何でさっきから、姉様が浮かない顔をして、メシも喉を通らないのか」
大助の表情に、得意気な風が、流れる。
「姉様と持資様は、知りあい……。いや、もしかしたら、昔の恋人か何か、なんじゃ。ところが、今は姉様は、久長様に仕えておられる。昔の恋人なのに、今は敵になってしもうた。それは、メシも食う気も、失せるじゃろ」
紅皿は、驚いた。驚いたというより、恐れを感じた。
紅皿は今、二十四になる。大助はまだ十四だというのに、大人の事情を見抜いているとは。
大助は、追い打ちをかけるように、続けた。
「持資様に向けて射た、二本めの矢……。あれに、矢文を、括り付けていたよね。昔の恋人でもなけりゃ、そこまでは、せんじゃろ」
甘かった。紅皿は、自らの甘さを、後悔した。薄暗い中だから、誰も気付くまいと、たかをくくっていたのだ。
「おいらは、真下から見ていたんじゃ。気付かぬわけが、あらぬ」
大助は椀を置いて、紅皿の前に、ぐっと顔を寄せた。
「一本めの矢は、わざと外したんじゃろ?」
紅皿の青ざめた顔が、さらに白く、血の気がなくなった。
「どうして、そう思うの」
「たやすいことじゃ」
大助は、いささかも退く様子が、ない。
「姉様は、空に投げ上げた小石を、射落とすことができる。それなのに、ほとんど動いておらぬ持資様に、矢を当てられぬわけが、なかろう」
「全て、お見通しなのね」
「当たり前じや」大助は、胸を張った。「おいらは、姉様が大好きなんじゃ。だから、姉様のやることなすことは、何もかも、注視しておる」
紅皿は、困惑した。
ここまで知られてしまった以上、全てを打ち明けてしまうべきか。それとも、自分の心の中に、とどめておくべきか。
しばし沈黙して、考え込む。
今は隠しておいても、これだけ関心を持たれていたら、いずれは見抜かれるだろう。変に憶測されるかも知れない。ならば、正確なところを、伝えておいたほうが、良いのではないか。
「大助。そなた、口は固いか?」
大助は、大きく頷いた。
「固いとも。姉様が望むなら、決して人には、しゃべらねえ」
大助がもとの座に戻って、正座し直す。きちんと話を聞こう、という態度だ。
紅皿もまた、姿勢を正して、語りはじめた。
「今、わたしが、そなたたちに教えている、弓矢の流派は、何といったかの」
大助が、間を置かず、答える。
「敦賀流じゃろ。それくらい、頭に染み付いとる」
「じゃあ、その極意は?」
「戦わずして、勝つ。敦賀流は、人は殺さぬ。高度な技を見せ付けることにより、敵にとても勝てぬ、と思わせて、戦意を失わせる」
「その通り」
紅皿は、右手の小指を、立てて見せた。、
「究極の奥義が、『指貫き』じゃ」
「指貫き?」
「敵が、背後から襲って来るとき……。振り向きざまただちに、その小指を射抜く技じゃ」
大助が、眼を見開いた。
「まさに、神業じゃな」
「ええ。わたしもまだ、成し遂げたことは、あらぬ。敦賀流の総帥である、父のみが、やり遂げた技じゃ」
紅皿は、隣室の襖に、眼をやった。
襖の向こうから、大きないびきが、聞こえて来る。
いびきをかいている者こそ、紅皿の父、立花助左衛門であった。
「わたしの父、助左衛門は……。今でこそ足が不自由で、弱っておるがの。若いときは、颯爽としたものじゃった」
「今でも、目付きは、恐いくらい、鋭いけれどね」
「父は、代々家に伝わる敦賀流を、天下に広めようとの志を抱いて、京にのぼったんじゃ」
京では、公家といわず武家といわず、自らの所領を守るために、何らかの武力を必要としている。公家は、人殺しは好まぬ。人を殺さず、自らの損害も出さず、戦わずして勝つという敦賀流が、大いに受け入れられた。
「そんな中で、とある公家が、父を高く買ってくれてね。姫君の婿として、迎えてくれたんじゃ。ふたりの間に生まれたのが、わたし、ということになる」
「なるほど」大助が、深々と頷いた。「つまり姉様は、お公家さんの血を引く方、なのじゃな。品があるわけじゃ」
紅皿は、首を振った。
「わたしは、上品では、あらぬが……。母はまことに、公家のお姫様、という感じじゃった」
公家の娘である紅皿の母は、歌人としての才能を持っていた。紅皿は幼き頃より母の手ほどきを受け、和歌の素養を、身に付けたという。
「晴れた日は、父から弓矢の道を。雨の日は母から和歌を教わって。とても、幸せだったわ」
「父上が弓の総帥で、母上が歌人とは、何ともすごいことじゃ。でも……」
大助が、首をひねる。
「何故そのような親子が、都落ちして、関東へ来たんじゃ?」
紅皿は、眉間に皺を寄せた。
「わたしが十二の歳の頃、疫病が流行ってね。母と母の両親が、次々と亡くなったのよ。寄る辺を失った父は、京にいづらくなって……。わたしひとりを連れて、関東へ、落ち延びて来たのじゃ」
紅皿は、ため息を吐いた。
「空き家になっていた、あばら家を見つけてね。ふたりきりで、暮らしていたの。ところが……」
「ところが?」
「ある日突然、父は、姿を晦ましてしまったの」
「なんと」
「知りあいに会うと言って、出て行ったきり、戻らなくてね……。不思議なことに」
居場所が分からなくなったのち、助左衛門から紅皿の元に、食糧と最低限の生活物資だけは、送られて来ていた。
「あとでわかったことだけれど……。実は父は、久長様に拉致されて、この砦にいたのよ。娘の居場所を知っている。言うことをきかぬなら、娘を殺す。こんな風に脅されて、敦賀流を教えることを、強制されたの」
「姉様が、人質じゃったとは……。やっぱり、久長様はワルじゃな」
「不安で不安で、仕方なかったとき……。現れたのが、持資様じゃった」
紅皿が暮らしていたあばら家の周りは、広々とした原野だ。
その原野に、連日のように、鷹狩にやって来る少年がいた。
太田持資である。
持資は、きらびやかな狩衣を身にまとって、伴って来た年配の侍と、快活そして溌剌と、狩りを楽しんでいるように見えた。
「遠くから、持資様を眺めることが、わたしにとって、何よりの、喜びじゃった」
(三)
ある晩春の日のことだった。
天空を雲が覆い尽くし、太陽の光は全く見えない。ときおり、細かな雨粒が、落ちて来ている。
(今日は、あのおかたは、いらっしゃらないでしょうね)
紅皿は、ため息を吐いた。
それでも、もしかしたら、と期待して、戸外に出ていたのだ。あきらめかけて、あばら家に入ろうとした刹那である。
武蔵野の荒れた野原のかなたから、きらめく塊が、姿を現した。薄暗い中、微かな光を集めて、輝いている。
持資の姿で、あった。
月毛の愛馬に跨って、しばし、野原を疾駆する。今日は、年配の侍は、一緒では、ないようだ。
暗雲が、さらに広がる。やがて、空一面が漆黒となるや、土砂降りの雨が落ちて来た。
紅皿の肩も、雨粒で濡れはじめる。
が、あばら家には、戻らない。持資の様子が、気になってしかたないからだ。
紅皿のあごから、ひとしずく、雨水が落ちたとき……。不意に、状況が、変わった。
持資が、向きを変更したのだ。荒野を周回するのをやめて、あばら家のあるほうへ、向かって来る。
「まさか……」
紅皿は、眼を疑った。
これまで持資は、いわば芝居の役者と同じ、遠くから見つめるだけの存在であった。それが、突然、自らの息のかかるところへ、侵入して来たのだ。
「いかがすれは、良いのじゃ」
紅皿は、困惑した。
とりあえず、あばら家に入って、入り口の戸を、閉じた。持資が駆ける姿に、背を向ける。足がすくんで、震えてしまうのを、紅皿は止めることが、できなかった。
雨宿りを、させろと言って来るのか。けれど、この家は雨漏りだらけで、大した役には立たない。
急な大雨で、蓑を持っていないから、貸してくれと、言うのだろうか。
この家には蓑は、ない。唯一あったものは、父が最後に出かけたおりに、持ち去ってしまった。
どちらにしても、求めに応じるだけのものが、ない。
思い悩む紅皿の心を、扉を叩く音が、破った。
(もう、来てしまったのか……)
はじめは、返事ができなかった。いないように装うことも、脳裏によぎる。
しかし、入り口の戸は、節穴だらけだ。紅皿が着ている紅の衣が、外から透けて見えているはずだ。不在の振りをするのは、不可能だった。
二度めの音が響いたとき、紅皿は、返事をせざるを得なかった。
「はい」
とだけ口にして、戸のほうに向き直る。
ほんの僅かの隙間だけ、戸を開く。
そこに立っていたのは、十五六に見える、若い侍だった。
(わたしと、同じくらいの人だったんだ)
背が高く、がっしりした身体つきだ。一方、顔のほうは色白で、おだやかな眼を持っている。
「雨に降られ、困っている。後で、必ず返しに来る故、蓑を貸しては下さらぬか」
優しげな声だ。
その眼と声に、紅皿は不思議と安心感を覚えて、少し落ち付いた。
案の定、蓑を貸してほしいという求めだったが、応えることは、叶わない。
しかも、少年の眼には、雨漏りだらけの家の中や、継ぎ接ぎが目立つ紅皿の着衣などが、入っているはずだ。
貧しき暮らしゆえ、蓑は、ございませぬと、正直に伝えることは、たやすい。
だが、そうすれば卑屈になるばかりで、紅皿の誇りは、ずたずたに散り失せるであろう。残るのは、少年からの僅かな同情だけのはずだ。
どうすれば、いいのか。さまざま思いを巡らす中、紅皿の脳裏に、ひとつの考えがひらめいた。
紅皿には、母から教わった、和歌の素養がある。これを使って、少年に謎かけをすることだった。
そもそも少年と自分とは、いかにも身分が違うように見える。これを機に、親しくすることなど、まず、あり得ない。彼の心の片隅に、「おっ」という、僅かな印象が残るなら、それで十分だ。
七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞあやしき
後拾遺集に載せられた、兼明親王(かねあきらしんのう)の歌である。
兼明親王が小倉の家に住んでいたとき、蓑を借りたいと言って来た人がおり、その断りの返事として、山吹の枝を差し出した。その心を詠んだものだ。
山吹には一重咲きのものと、八重咲きのものがある。八重咲きの山吹は、実がつかない。
実のつかぬ山吹と蓑一つさえ持っていない暮らしぶりとを、掛け合わせているのだ。
紅皿は、あばら家の奥へと、駆けた。
裏の勝手口の戸を、開ける。ごく小さな、あばら家のことだ。少し奥に入れば、戸外に出てしまう。
間もなく少年の前に戻った紅皿の手には、外で手折ったばかりの、山吹の枝が一本、捧げられていた。
紅皿は、ずぶ濡れなのも構わず、花の付いた枝を、差し出した。
清らかな黄色い花弁もまた、濡れている。一粒、雫が零れた。
「これは?」
受け取った少年が、言葉を失う。
紅皿は、視線を落としたままだ。歌のことには、あえて触れない。
ややあって少年は、山吹の枝を、突き返した。
「わしの欲しているものは、これではない」
少年は、あばら家に背を向けた。
「やあ」
月毛の馬に鞭をくれると、雨を切り裂くように、駆け去った。
それから、三日間が過ぎた。
紅皿は、落ち着かなかった。
食膳につけば、少年の姿が、思い出される。
弓の稽古をすれば、的に少年の姿が浮かぶ。
あばら家の外に出れば、有り得ぬことにも拘わらず、偶然少年に会わないかと、気もそぞろになる。
あの少年は、自分のことを、どう思ったのであろう。そして今、何をしているのだろう。このことが紅皿の心を強く、支配するようになった。
(これが、恋というものなの?)
遠くから眺めているだけのときは、鑑賞の対象でしかなかった少年が、間近に現れた。僅かな触れ合いに過ぎなかったにもかかわらず、紅皿の気持ちはいっぺんに高まってしまったのだ。
だが、少年はあの日以来、鷹狩に訪れていない。
紅皿は、黙って山吹の枝を差し出したことを、後悔しはじめていた。
武家の子弟が学ぶのは、主に儒書や仏典であろう。少年の関心は、和歌にはないのかも知れない。山吹の花の謎かけなど、通じなかったのではあるまいか。
それとも……。
謎かけは通じたが、そのせいでかえって嫌われてしまったのか。何か、教養をひけらかす嫌なおなご、と思われたのかも知れぬ。
もやもやした思いを抱えながら、外に干してあった洗濯ものを、取り込もうとしたときだ。
紅皿の耳朶に、馬のひずめの音が、横切った。
反射的に、眼を上げる。
月毛の馬だ。少年のものだと、すぐに気がついた。
三日の間、想い続けた相手ゆえ、一目で見分けられる。
洗濯ものの取り込みをやめて、茅屋の中に、駆け込む。入り口の戸を閉めて、背中を向けた。
「もし」
短い言葉で、少年が声をかけて来る。
戸は閉じられているが、戸の節穴から、紅皿が着ている紅の小袖が、垣間見えているはずだ。
紅皿は家の中に逃げ込みながら、少年の言葉を、じっと待った。
「先日は」
ここまで言って、少年の声が、震えた。
「先日は、そなたの心を受け取ることができず、まことに申し訳ないことを、した」
「……」
紅皿は、黙っている。
「先日来わしは、そなたのことばかり考えておる。そなたはどのようなひとなのか、わしのことを、いかに思うたのかと」
まさかの言葉に、紅皿の鼓動は、たまらなく早くなった。
少年が、続ける。
「いや、済まぬ。全てわしが、一方的に思っていることじゃ。そなたのことなど、何も知らぬのに……」
「あの。わたしは……」
紅皿は、ようやくひとこと口にしたが、あとの言葉を、続けることができない。
少年は、用意してきた荷物を、戸の前に置いた。
蓑である。
「蓑を、持って来た。今後は、雨に打たれて病など得ぬよう、使ってほしい」
「勿体のうございます」
紅皿は戸を少しあけて、顔を出した。
ちらりと少年の顔を仰ぎ見て、耐え切れないようにすぐに眼を伏せた。
頬だけでなく、耳まで紅く上気している。
「これを、読んでほしい」
少年の耳も、真っ赤に染まっている。
少年は、小さく折りたたまれた紙片を、押し付けるように手渡した。
たちまち、いたたまれぬように走り出す。
月毛の愛馬の元へ戻って、少年は叫んだ。
「わしは太田家の後継ぎで、持資という者じゃ。近いうちに、また参る」
紅皿が、はじめて少年の名を知った瞬間であった。
持資は、馬に鞭をくれると、振り返ることなく、走り去った。
─近いうちに、また参る。
紅皿は、この言葉を、何度も心のうちで、繰り返した。
しかし、三日経っても四日経っても、何の音沙汰もない。
(わたしの、片想いだったのか)
太田家は、関東を事実上治める、長官の立場だ。その後継ぎが、自分のような貧しい娘を、好いてくれるはずが、あろうか。
諦めよう。やはり自分は、弓矢と和歌を楽しみに、ひそかに生きてゆくのだ、と考えようとした。
が、自分の想いを抑えつけようと無理をすると、却って以前にも増して、持資への想いが、募ってくる。
(もしも、持資様がわたしを、好いてくれたとしても)
紅皿の胸には、別の心配ごとが、ある。
自分が、おなごでありながら、弓矢の道を進んでいることだ。
おなごで弓矢に長けている者は、絶無とまではいかなくとも、極めて珍しいであろう。
今のところ持資が自分について知っているのは、和歌の素養があるというだけだ。和歌を嗜む、雅なおなごととのみ、認識しているのかも知れない。
弓矢を扱うおなごと知れば、荒々しいおなごだと、幻滅してしまうのでは、ないか。
(持資様とわたしは、天と地ほど、身分が違う。しょせん、実らぬ恋ならば、自分の全てを、さらけ出すべきじゃ)
持資があばら家に蓑を持って来てから、七日めとなった。
食事に使う水を、近くの川に汲みに、出かけようとしたときだった。
待ちに待ったひずめの音が、紅皿の胸に、響き渡った。
紅皿は、水を汲む、桶を置いた。
用意してあった矢を手にして、弓をつがえる。
持資の顔に、悲しみが浮かんだ。矢を向けられる、ということは、恋人として認めぬという返事かと、思ったのであろう。
ヒュウッ。
風を切る音が、空気をつんざく。
持資の眼の前には、杉の古木が聳えている。その幹に、矢が突き刺さった。
矢には、白い紙片が、括り付けられている。矢文であった。
持資が、文をひらく。
「そなた」
持資が、紅皿を見つめた。悲しみの色が消えて、満面の笑みが、浮かぶ。
紅皿は、持資に駆け寄った。
矢文の中は、黄色い山吹の花びらが、仄かな香りを漂わせている。
こたびの山吹は、八重咲きのそれでは、ない。一重咲きのものだ。一重咲きの山吹には、実がつく。半ば、諦めかけていたとはいえ、できることなら恋が実ることを願う、紅皿の想いが込められていた。
紅皿は、眼を伏せながら、言った。
「露置かぬ かたもありけり 夕立の 雨より広き 武蔵野の原……素敵なお歌ですわ」
持資が先日紅皿に託した、自作の歌である。
持資もまた、眼を伏せた。
「夕立の雨が、降りしきるごときこの荒れた世で、そなただけは、穢れも知らず、山吹の花のように、咲いていた……。この想いを、受け止めてもらえるならば、無上の幸せじゃ」
持資は、微笑を浮かべながら、付け加えた。
「そなた。弓矢の道も、かなりの腕じゃな。ますます、好きになったぞ」
紅皿は、歓喜に包まれた。
自分が生きがいと感じているものを、好きな男が認めてくれた。心配する必要は、なかったのだ。
(四)
ここまで話し終えると、紅皿は、そっと眼を閉じた。
大助が、粥をひとくち、啜る。
「で、その後はめでたく、睦まじき仲となったのじゃな」
紅皿は眼をあけて、頷いた。
「ええ。それからは、何かと口実を設けては、お城を抜け出して、会いに来てくれたわ」
「お城の皆様には、内緒だったわけじゃな」
「もちろん。発覚したら、止められるのは、わかり切っていたからね」
紅皿は、右手人差し指を、胸の前に立てた。
「それで……。周りのかたがたに覚られぬよう、編み出したのが、石投げの合図じゃ」
「石投げ?」
大助は一瞬、首を捻り、ぽん、と膝を叩いた。
「さっき砦の前でしていた、アレだね」
紅皿は、頷いた。
「その通りじゃ。持資様がわたしのあばら家へ会いに来るとき、誰かに見られぬようにね。三つの小石で、合図をしたの」
紅皿は懐から、小石をひとつ、取り出した。
松ぼっくりほどの、大きさである。
「あばら家の前に、小さな池が、あってね」
紅皿は、小石を真上に投げ上げた。
天井近くまで、真っ直ぐに上がった小石が降下し、再び紅皿の掌に受け止められる。
「ひとつめは、池に向かって投げる。このとき家の中にいるわたしは、水しぶきを聞いて、持資様が家の前まで来たことを、知る」
「なるほど」
紅皿は、小石を再び投げ上げた。
今度は、放物線を描いた小石が、大助の掌に、収まった。
「ふたつめの水音を聞くと、わたしは、戸を僅かに開けて、隙間から弓を構える」
大助は小石を、投げ上げた。天井近くまで上がった小石が、放物線を描いて、紅皿の掌に、収まった。
「三つめの小石を、姉様が射落とす、という訳じゃな」
「その通りじゃ」
紅皿は小石を掌で転がしながら、頷いた。
「それゆえ、さっきも言うた通り、小石を射落とすのは、神業でもなんでもあらぬ。わたしは、持資様が投げる小石の上がる高さも、早さも、軌道もあらかじめ知っている。ちょっとふざけて、小石を眼を閉じたまま、射落としたことがあるわ」
「眼をつぶったまま、じゃと……。それはやっぱり、すごい。おいらの弓の腕から見れば、何やら別世界のようじゃ」
「神業ではのうて、別世界か」
難しい顔をしていた紅皿が相好を崩し、笑った。
「そこまで、親しくされておったのなら……」
大助が、ひざを進めた。
「いっそのこと、内緒のお付き合いではなく、持資様とめおとになれば、良かったのではないか。正室か、側室か、よくわからぬが……。姉様も、その方が、幸せじゃったのに」
「そうなんだけれど、ね……」
紅皿の眉が、曇った。
「持資様も、めおとになることを、考えてくれたの。でも、持資様は当時、元服したばかりでね。室を迎えるなど、周囲が認めてくれる筈がなかった。そこで」
「そこで?」
「まずは太田家に、奉公することを、勧めてくれたの。いずれ折を見て、室に迎えてくれる前提で」
「でも結局、受けなかったのかな?」
紅皿は、眼を閉じた。
「またとない良いお話では、あったんだけれど……。太田家に入ってしまったら、あばら家には、戻れなくなるでしょ。そうなれば、もし父が戻って来たとしても、会えないままになりは、しないかって、考えてしまったの。それで、一晩、考えさせてくださいと、お返事したの」
紅皿は、虚空を見据えた。
「わたしの運命は、そこで、変わってしまった」
「どんなふうに、変わったの?」
「その晩、寝ているときに、あばら家に久長様の家来たちが、襲って来たの。五人はいたかな。矢をつがえるいとまもなく、あっという間に、拉致されてしまったのよ」
「おなごひとりに五人とは、やり過ぎじゃないか?」
「わたしが敦賀流の使い手だって知っているから、恐かったんでしょうね。でも実際には、わたしはなすすべもなく、この砦に連れて来られてしまった」
襖の向こうからは、相変わらず、大きないびきが、聞こえて来ている。紅皿は、襖を見透かすように、視線を動かした。
「皮肉な、ものよね。父が、戻って来るかもと思って、持資様からのお誘いを保留に、したのに。この砦に来てみたら、父と再会するなんて」
大助は、首をかしげた。
「父様は何で、ここにいたの?」
「兵士の皆様に、敦賀流を教えるためよ」
「じゃあ、姉様が連れて来られたのは……」
「父はあるとき、馬から落ちて、足を傷めてしまってね。敦賀流を、手取り足取り、教えることができなくなってしまったの。それで久長様は、代わりにわたしに教えさせることを、思い立った。わたしはまだ、敦賀流を極めたとはいえないけれど、父が心得を教えて、わたしが実演すれば、いいだろうくらいに、思われたんだわ」
大助は、拳を握った。
「まったく、ひどいじゃないか。せっかく、幸せになれそうだったのに……。無理矢理連れて来て、弓を教えるための、道具みたいに使うなんて」
「ここに来てから、十とせになるけれど……。その間、一度たりとも、外出することは、許されなかったわ。外へ向けて、文を書くことも……。まるで、籠の中の鳥じゃった」
「久長様、まことに、許せぬ」
「結果として、わたしは、持資様の前から、突然、消えてしまったことになる。わたし自身のせいではないにしても、持資様に悲しい思いを、させてしまったことは、間違いなきことじゃ」
紅皿の瞳がうるんで、たちまち涙が溢れはじめた。
「川の向こうでは、だめなの。息がかかるほど近くで、じかにお会いして、お詫びをしたいんじゃ」
「それは、いかぬ!」
大助が、立ち上がった。
「どうして……。どうして。いけないの」
「姉様と持資様は、今は敵と味方じゃ。もし会いにゆけば、間違いなく、捕らえられる。捕らえられれば、命を奪われるか、よくても島流しじゃ」
「まさか……。昔の恋人を、殺したりはしないわ」
「そいつは、甘いぞ」
大助は、声を荒げる。
「持資様が許されても、周りの家臣たちが、厳しい処分を、求めるに決まっておる。十年前と違って、持資様は主君なのじゃ。家内の混乱を防ぐことを、優先させて、姉様を罰する」
大助の眼にも、涙が溢れはじめた。
「おいらには、父母も、きょうだいもおらぬ。頼みになるのは、姉様だけなんじゃ。どうか、どうか……。おいらの前から、おらなくならないでくれ」
(五)
峯雄氏の砦は、川岸に沿った、天然の崖を利用して、建てられている。崖に沿って、幾つかの建物が立ち並んでいるが、一番上に、自然にできた洞穴があった。
洞穴の入り口には、頑丈な鉄柵が嵌められて、外側から錠が、掛けられている。牢屋であった。
灰色の法衣に身を包んだ尼が、眉間に皺を寄せて、紅い唇をきっと結んでいた。じっと動かぬまま、下方に見える砦と川向こうの動きに、眼を凝らしていた。
紅皿である。
東の空は、茜色に染まりかけていた。空を覆う雲の隙間に、僅かな輝きが、見え始める。
闇に包まれていた峯雄砦の周辺が、次第に光に包まれてゆく。
ぼんやりとした光の中から、砦に迫る一群の人影が、その姿を現わしはじめた。人影の間には、幾つもの旗が林立している。旗には、五弁の桔梗の紋が、染め抜かれていた。
太田持資の軍である。
夜のうちに、兵を進めた持資の軍勢は、すでに川に沿って、峯雄砦の目前に戦陣を整えていた。
(これが、矢文に対する、答えなのか)
紅皿は、いぶかった。
矢文で送ったのは、持資に対する、謎かけだった。
今の持資の気持ちは、うかがい知れない。良い返事があるか否かは、まったくわからない。
そのため言葉ではなく、どうとでも解釈できるわけありの形で送るしか、なかった。
(紛れもない……。わたしの気の迷いの姿じゃ)
矢文に託して送ったのは、今いる砦の、絵図だった。あるとき、蔵で見つけたもので、何かの役に立つかと思って、密かに写し取っておいたものだ。
持資は過去のいくさにおいて、僅かな家来のみを伴って自ら斥候に出る。そんな噂があった。
太田家と峯雄家が戦争状態になれば、自分は必ず、川向こうに斥候に来た持資を、矢でもって射ることを命じられるだろう。そのときに備えて、あらかじめ矢文を、用意しておいたのだ。
絵図には、一切文字は書いていない。しかし、周囲の地形や、郭の外形などから、峯雄氏の砦を描いたものだと、ひと目でわかるはずだ。
いくさにおいて、敵の砦の様子をあらかじめ知っているか否かは、大きく勝敗に影響する。
絵図は、最高級の機密のはずだ。
(大事な大事な、絵図を送ったんだ。わたしは気持ちの上では、敵ではない。わかってくれたのでは、ないじゃろうか)
ひょっとしたら、持資は軍勢を送って、自分を助けてくれるつもりでは、ないだろうか。
まさか……。そんなこと、ある訳がない。
紅皿は、自らを嘲笑った。
(そんなこと、あるわけが、あらぬ。持資様は今や、一軍の将じゃ。一軍の将たる者が、敵方にいるひとりの女を助けるために、わざわざ全軍を動かすなんて、あろうはずがない……。わたしの、独りよがりじゃ)
今の持資は、紅皿にとって、余りにも遠い存在である。相手になどしてくれるはずはない。それは紅皿自身が、痛いほど知っている。さればこそ言葉ではなく、絵図に謎を込めて送ったのだ。
(でも、持資様はわたしを、覚えていてくれた)
空高く投げ上げた小石を、弓で射る技は、遠い昔、持資と密会する際に用いた、合図である。それを昨夕再現できたことは、持資が自分を、憶えていた証左ではないか。
(されど……)
紅皿の想いは、さらに反転する。
(されど、十年という歳月は、あまりにも、長い……)
十年の年月は、ふたりの立場を、大きく変えてしまった。十年前、持資は太田家の跡継ぎの少年に過ぎなかったが、今や立派な当主だ。二十代半ばの若さで、関東管領上杉家の家宰として、広大な関東一円を、実質的に治めているのだ。
紅皿のことなど、最早何ほどにも、感じていないかも知れない。
さらに、今の自分の立場もある。
(わたしも、昔のわたしでは、ないのじゃ)
今の自分は、峯雄家の弓の師匠である。持資の敵なのだ。現に昨日も、持資に向け矢を放ったではないか。
(でも……)
仮に、持資が今紅皿のことを何ほどにも、感じていなくとも、十年前ふたりは確かに愛し合っていた。持資は自分のことを想い、失踪した自分を探してくれたはずだ。
(せめて、一目だけでも、お会いしたい)
それで、今の持資の思いが、わかるだろう。待っているのは、失望かも知れないが、僅かな希望も、ある。
砦の物見台は、紅皿のいる牢屋より、低い位置にある。その様子が、紅皿の眼に映る。
「来たか」
物見台に立つ侍が、呟くように言った。
侍は、昨日弓を引いていた若い兵たちとは、出で立ちが異なる。赤糸縅の鎧を身に着け、黒塗りの太刀を帯びている。兜には、金色の鍬形が輝いていた。
「敵襲! 敵襲じゃ!」
武将が砦内に向け叫ぶと、座っていた兵たちが、一斉に立ち上がった。
兵たちは持資の軍が迫って来るのを予期し、待機していたのであろう。
砦の柵に沿って、整然と座っていた兵たちが、立ち上がった。恰も眠っていた巨象が、敵を察知して、動き出したときのようだ。
「弓隊、構えよ!」
武将が再び叫ぶと、兵たちが、背に負うていた矢を取り出し、おのおの弓を番える。
「待たれよ」
川の向こうから、大音声が響いた。紅皿の耳にも、よく聞こえる。
緊迫した空気が流れる中、持資軍の後方から、栗毛の馬に跨り、黒糸縅の鎧を身に着けた、武者が進み出て来た。
「そこなるお方、峯雄家ご当主、久長殿とお見受け申す。拙者は、太田持資が家臣、中村重義と申す」
「昨夕は、御大将自ら斥候とは、まことに御苦労なことじゃったのう」
久長が半ば、揶揄するように言った。
「何の。兵どもの士気を、鼓舞するためには、当たり前のことじゃ」
久長は顎に手をやった。顎から口にかけ、顔面が黒々としたひげに覆われている。
「されど、お主らの御大将のお姿が、今は見えぬの。持資殿は、所詮上杉の狗じゃ。おのれらのことはおのれらで決める、峯雄とは違い、胆力がないのじゃな。さては、いくさに怖気づき、逃げられたか」
重義が、やり返した。
「我が主、持資様は、昨日お主らの軍勢を御覧になって、大したことはない、御自ら手を下すまでもなしとみて、別の戦場へ、出かけられた」
「おのれ、大したことは、ないじゃと」
久長は腰に帯びていた大刀を抜き放った。朝日を受けた刀身が、ギラギラと輝く。
「いや、失礼を申した。そう熱くなられるな。昨日、拝見した尼殿の技は、まことに大したものであった。あの尼殿は、どうした」
「ふん」
久長は、唾を吐いた。
「弓の腕は、大したものでも、実戦には、役に立たぬ。昨日は、無防備な持資殿を、射殺すことも、できたはずじゃった。それを、みすみす逃しおった。謀反の疑いもある故、牢へ叩き込んでやったわ」
「姉様を、牢にじゃと」
弓隊の中にいた、ひとりの少年が、久長のほうへ向き直った。
大助であった。
「不服か」
久長が、一喝した。
「逆らう者は、皆、牢屋行きじゃ」
「姉様の人生を、台なしにしおって。お主だけは、許さぬ」
大助は、弓を手に取って、久長に向けて、矢をつがえた。
「やめて。わたしのことなんか、どうでもいい。久長様に、謝って」
紅皿が、叫んだ。
「危ない」
牢屋の鉄柵を掴んで、あらん限りの声を、上げる。
「後ろじゃ。後ろを、見て」
大助が、振り向きかけた、刹那である。
背後から近付いていた久長の家来が、大助の背中を、槍で深々と、貫いていた。
悲鳴を上げる、力もない。
大助は、弓矢を取り落として、倒れた。
それきり、ぴくりとも、動かない。
「大助……。大助……」
紅皿は、鉄柵の前で、崩れ落ちた。
(六)
「紅皿よ」
紅皿は、涙にくれている。
その思いを遮るかのように、牢の奥から、しわがれた声が、侵入して来た。
「いや、今は尼殿、紅源院(こうげんいん)じゃったな」
そこにいたのは、敦賀流総帥、立花助左衛門であった。
紅皿は、流れるものを拭って、振り返った。
「紅皿で、結構じゃ」
助左衛門は、左の脚を自らの意思で動かす能力を、永遠に失っている。ひとりでは、立ち上がることすら、できない。
「わしも、外の様子が見たい。肩を、貸してくれるかの」
「承知しました」
紅皿はよろよろと、父の横に歩み寄って、寝転んでいた父を、抱き起した。助左衛門は、紅皿に寄りかかりながら、ゆっくりと鉄柵の近くまで、移動してゆく。
(父が怪我さえ、しなかったら……。わたしの人生は、変わっていた)
紅皿は、日ごろから繰り返し考えてしまう「しなかったら」をまたぞろ考えた。
紅皿の記憶にある若い頃の父は、実に颯爽としていた。
京で脚光を浴びた、敦賀流の総帥で、弓の腕にかけては、肩を並べる者は、いなかった。
公家をはじめ、足利幕府の要人たちからも、注目されて、京の女たちの憧れの的であった。
今は、ぼろを纏い、白いものが交じった頭髪と髭を長く伸ばして、脚を引き摺る老人である。
紅皿は、遠い過去に、思いを馳せた。
(こどもの頃は、まことに、幸せじゃった)
和歌を好み、美しく優しい母は、弓の名人の父との仲も良く、人目を寄せ付けるふたりを、公家や武家の貴人たちが、あまた訪ねて来て、家はいつも、雅な空気で包まれていた。物心ともに満ち足りた、夢のような日々であった。
(でも、終わってしまった。祖父の自死で)
母方の祖父は、朝廷内での権力争いに敗れ、自ら命を絶った。悲しみのあまり、心身共に疲れきってしまった母も、病を得て、他界してしまった。
己にも災いが及ぶことを恐れた助左衛門は、京を逃れて、関東へ落ち延びた。
長きに渡って彷徨った末に、武蔵国の野原に、一軒の空き家を見つけて、父娘ふたりで、暮らし始めた。
紅皿、十ニ歳の時である。
(そこに現れたのが、久長様じゃった……)
武蔵国の土豪、峯雄氏の当主久長は、野心家であった。表面、関東管領上杉氏の家宰、太田家に、従う姿を取っていながら、着実に力を付け、叛く機会を窺っていた。その久長が、兵力増強のまたとない道具と見たのが、敦賀流総帥、助左衛門であった。
久長は、知人宅へ出かけた帰路の助左衛門を襲って、峯雄の砦へ拉致した。以来助左衛門は、砦から外出することを禁じられて、敦賀流の師となることを、強要されたのだ。
こうして、紅皿のあばら家でのひとり暮らしが、はじまったのである。
(でも、ひとりになったお陰で、持資様と出逢えた。ともに過ごせたのは、ほんのひととせじゃったけれど)
ひとり暮らしの中、紅皿は持資に出逢った。京での雅やかな暮らしを失い、父が行方不明となって、心細い日々を過ごしていた紅皿にとって、持資との出逢いは、奇跡的ともいえる至福であった。短い間であったが、毎日が楽しく、幸せだった。生きてきて良かった、と心底思えた。
(短かったけれど、かけがいのないときじゃった。これまでのわたしの人生の中で、まことに格別なひととせじゃった)
が、紅皿の預かり知らぬところで、特別な一年は、終わった。
助左衛門が誤って落馬して、重傷を負ってしまったのである。幸い一命はとりとめたが、以来左脚を動かすことが、できなくなった。
こうなれば最早、弓を引くことは、できない。
(白羽の矢が立ったのが、わたしじゃった)
弓を引けなくなった助左衛門は、いくら知識や知恵が豊富でも、自ら敦賀流を、実演することは、できない。娘である紅皿は、幼い頃から、父の手解きを受けて、敦賀流の真似ごと位はできるので、両人を同時に膝元に置けば、敦賀流を峯雄家のものにできると、久長は考えた。
かくして、久長は、紅皿の住むあばら家を、襲わせた。
持資に奉公の返事をするはずだった前日の夜のことだ。峯雄からやってきた五人の兵たちに囲まれ、無理やり駕籠に押し込まれて、紅皿は、峯雄の砦へ連れて来られた。連行の際、持資へ伝言することも、書き置きを残すことも、できなかった。
(思えば、わたしの人生は)
紅皿は、肩に寄りかかっている父の、老いた横顔を見つめた。
(この父と、父がわたしより大切に思う、敦賀流というものに、振り回されて来た人生と、いえるかも知れぬ)
鉄柵の近くに戻って、改めて眼下を見る。
「大助は、痛ましいことと、なったのう。幼き命を散らして、さぞかし、無念であろう」
戦場の片隅に、小さな遺体が忘れ去られたごとく、転がっている。大助少年のものだ。
助左衛門は、しばし、瞑目した。
隣で紅皿も、眼を閉じる。
やがて眼をあけると、助左衛門は、紅皿に向き直った。
紅皿の眼を真っ直ぐに見て、娘の心を、見透かすように言った。
「紅皿……。今日のいくさ、誰のせいで起こっていると思う」
「久長様のせいでは、ないのじゃろうか……。かつて主であった太田家に、反旗を翻したわけじゃから」
「いいや」
助左衛門は、首を振った。
「確かに、いくさをはじめたのは、久長様よ。だがな。今、下のほうで起こっている、凄惨ないくさを、止めることのできた者が、いた」
助左衛門の眼が、鋭くなった。
「それは……」
紅皿は、はっとした。
「…………」
「分かったかの」
「わ……わたしのことじゃね」
紅皿の声が、震えた。
「うむ」
助左衛門が、容赦なく頷いた。
「昨日わたしは、丸腰で無防備な持資様を、射殺すこともできた。なのに何故そうしなかったと、おっしゃりたいのじゃね」
助左衛門は、首を横に振った。
「いや。それはちょっと、違うな」
「どう、違うのじゃ」
助左衛門は、右手の小指を、紅皿の眼前に、翳して見せた。
「『指貫き』だよ」
「ゆびぬき……」
「そう。『指貫き』だ。そなたも重々承知の通り、敦賀流は、人を殺さぬ。精緻な技を用いて、人を殺さずに、大きないくさを、事前に食い止める」
指貫きの技は、紅皿も知っている。眼も霞むような遠方にいる敵の、武器を持つ利き手の小指を矢で正確に狙って、射抜く。若い頃の助左衛門のみが、成し得たという、敦賀流の奥義である。
「昨日、そなたが持資様に対した際、『指貫き』の技を使えれば、大将の負傷を理由として、太田勢は一旦兵を引いたであろう。太田勢が兵を引けば、こちらもときが稼げて、新たな策を、練ることもできた。援軍を頼むことも、できだはずじゃ。それらを全て無に帰さしめてしまったのが、昨日のそなただったのじゃ」
「つ、つまりわたしが未熟ゆえ、今日のいくさを、引き起こしてしまった、と……」
「そういうことになる」
からだは弱っていても、ことが敦賀流に関することとなると、助左衛門は、極めて厳格である。
(確かに、その通りじゃ)
紅皿は俯いて、唇を噛んだ。
(五つのとき弓をはじめて、十九年にもなる。なのにわたしは、いまだ、未熟者じゃ。もし、わたしが『指貫き』の技を使えたならば、持資様の小指を傷つけるだけ。お命に別条はなく、今日のいくさを、を食い止めることができたのに……)
紅皿の眼に、涙が滲んだ
(大助を死に追いやったのも、わたしじゃ)
持資へ向けて放った矢を、わざと外したりしなければ、大助に心の迷いを見抜かれて、身の上話を打ち明けることも、なかったはずだ。何も聞かなけば、大助は今、むくろには、なっていなかっただろう。
(全て、わたしの罪じゃ。わたしが、未熟なばかりに)
紅皿は父を肩から降ろすと、膝を地面に、突いた。
(悔しい。まことに、悔しい。わたしが未熟者でなかったら……)
父と敦賀流に、振り回されて来た人生……。それはそれで、確かだと思う。だが振り回されて来たことが、未熟であることの言い訳には、ならない。人を殺さないはずの敦賀流が、未熟ゆえにかえって、人の命を縮める結果に、なっているのだ。
(敦賀流を、極めたい……。それまでは、どんな苦しみも悲しみも、耐えるんじゃ)
紅皿は眼を伏せ、震える手で、法衣の裾を固く握りしめた。
砦の中では、屈強な持資軍の突入隊が、本領を発揮しはじめていた。
彼らは弓、槍、刀の実力を、日々鍛え上げている。どれを執っても、一流の腕前だ。。
たちどころに、峯雄の武者たちをなぎ倒し、討ち取って、前進を開始した。
持資軍は、動きが速い。
峯雄の武者が、刀を振り上げる。振り下ろすより先に、あっというまに数十本の矢が突き刺さった。
持資軍への突撃を試みた武者が、たちまち両脇から、槍で脇腹を貫かれる。
恰も大河を遡る竜のごとく、持資の兵たちはひとつになって、遮る者たちを、なぎ倒してゆく。
「退け。退くのじゃ」
たまらず武者のひとりが叫ぶと、峯雄勢は、後退をはじめた。
「火をかけよ」
対岸で戦況を見ていた重義から、下知が飛んだ。
それに従い、侍たちが砦の壁に向け、あまたの火矢を放つ。
瞬く間に火が広がり、砦は炎に包まれ始めた。
(七)
細かい雨が、降りはじめた。
ときおり、突風が吹いて、辺りの空気を、震わせている。
「あれは、何じゃろう」
紅皿の隣に座していた助左衛門が、突然上空を、指差した。
小さな黒い塊が、宙を舞っている。
その黒いものは、ゆらゆらと揺れながら、かすかに火のにおいを、漂わせていた。炭化した木片であった。
「まさか」
紅皿は、伏せていた眼をあけて、眼下を見下ろした。
「砦が」
一旦、絶句する。
「砦が、燃えております」
飛んで来た木片は、炎上した砦の燃えかすが、風に乗って、舞って来たものらしい。
炎の回りが、早い。
見る間に、紅蓮の炎が、全てを焼き尽くすように、燃え上がって来ている。黒煙が、巨大な柱のごとく、天を衝きはじめた。
煙は、牢屋の前まで届いて、紅皿の視界は、煙に包まれた。煙を吸い込んだ助左衛門が、咳き込む。
「父上。奥へ、退がりましょう」
紅皿は、素早く助左衛門の肩を抱くと、黒煙に背を向けて、牢屋の奥へ、退こうとする。
「おい」
そのとき、紅皿の背後で、野太い声がした。
紅皿が振り向くと、鉄柵の向こうの煙の中で、人影が蠢いた。
鉄柵の出入り口に掛けられた、錠をあける。
煙の中から、ひとりの男が、姿を現わした。
「ここから出る。砦を、脱出するぞ」
血の付いた大刀を、提げ持っている。
峯雄久長であった。ひとりの従者も、連れていない。
「久長様」
紅皿は、眼を見開いた。
「どうして、ここへ、いらしたのじゃ。砦の中では、まだご一族の方々が、戦っていらっしゃるのじゃろう」
「黙らっしゃい」
久長は、血走った眼を、吊り上げる。
「ご一族の方々を残して、ご自分だけ、逃げるおつもりじゃろうか。それは、峯雄の長として、あるまじきことでは、ありませぬか」
「やかましい」
久長は叫ぶと、紅皿の頬を、平手で叩いた。
紅皿はよろけて、尻餅を突く。
焼けるような痛みが、頬を包む。紅皿は、叩かれた頬を、押さえた。
「わしは、峯雄の長だ。他のやつらが、どうなろうと、わしさえ生き延びれば、峯雄家は、存続じゃ。そなたら敦賀流の親子を手に入れれば、いずこの領主も、戦力が大幅に、伸ばせるからな。手土産にそなたらを、持って行ってやりゃあ、わしの待遇も、良くなる。わしは、どこまでも、おのれの意思で、自由に生きる。秩序にこだわる持資とは、違うんじゃ」
「ふざけないで、くだされ」
紅皿は立ち上がって、久長を睨んだ。
「わたしたちは、そなたの道具では、ありませぬ」
「うるせえ」
久長が再び、紅皿の頬を、平手打ちする。
(この方は、いつも、こうなんじゃ。これまで幾たび、叩かれたことか。暴力を振るえば、人は従うと、思っているのじゃ)
口元に滲む血を、右手で拭いながら、紅皿は思った。
(叩かれても、叩かれても、我慢する。絶対に心までは、従わぬ)
久長は、血の付いた大刀を、紅皿の眉間に向けて、顎をしゃくった。
「いちいち、口答えしやがって。すぐ近くに、馬が繋いである。そこまで親父に肩でも貸して、連れて行け」
紅皿と助左衛門は、黙って顔を見合わせ、頷き合った。
(知らなかった。ここが絵図にあった、点線じゃったのか)
薄暗い抜け道を進みながら、紅皿は、周囲を見渡した。
昨日、紅皿が持資に矢文で送った絵図は、あるとき蔵で見つけて、密かに写し取っておいたものだ。
絵図には、砦が建っている側とは、反対の下り斜面、いわば裏山に、点線が、引いてあった。その点線に当たるのが、今紅皿が、助左衛門および久長と進んでいる、抜け道なのである。
砦の裏山は、大小の草木が、鬱蒼と生い茂っている。抜け道を歩く者を、周りから完全に、隠すことができる状態だ。砦が落ちる際に備えた、逃げ道であることは、明らかであった。
紅皿は先頭に立って、生い茂った草木を掻き分ける役目に当たるよう、久長に命じられている。
峯雄の砦にやって来てから、十年の月日が、流れているが、この抜け道が使われるような、危機的状況に見舞われたことは、ない。草木が生え放題となり、殆ど道の体を、成していなかった。
(恐らく、長いあいだ、人が通ったことは、あらぬのじゃろう)
立ちはだかる草木を、払いのけながら、紅皿は思った。
一行は、なかなか前へ進むことが、できない。
紅皿の背後には、馬に乗った久長と助左衛門が、続いている。
助左衛門は、足が不自由なため、馬上、久長の背中に、懸命にしがみついている。
ときおり、行く手を阻む倒木の前に、紅皿は、立ち止まった。
そのたび、久長から、罵声が浴びせられる。
紅皿の脳裏には、次第に諦めが、広がって行きつつあった。
(持資様は、攻め手の大将じゃ。砦が燃えている、ということは、砦の表側に、おられるのでは、なかろうか)
紅皿は改めて、ため息を吐いた。
(このままわたしが、裏から逃げてしまえば)
紅皿は、歯噛みした。
(再びお会いすることは、叶わぬ)
紅皿の脳裏に、昨日小石を投げ上げた、持資の姿が浮かんだ。
(もし、叶うならば、ほんのひとときで、いい。お会いして、話がしたい。そして、十年前失踪したお詫びが、したい)
「おい」
紅皿のめぐる思いを断ち切るように、後ろから久長が、叫んだ。
「前に見える抜け穴に入れ。隧道になっておる。隧道を抜けたところが、出口の寺じゃ」
(八)
(これで、いいのかも、知れぬ)
紅皿は何度も、自らに言い聞かせていた。
隧道は、完全な闇ではない。ところどころ明かり取りの穴があって、地上から微かな光が、差し込んでいる。
足元を確かめながら、紅皿が先頭で進む。馬に乗った久長と助左衛門が、後に続く。
(これで、いいのかも知れぬ。持資様に二度と会えなくとも……。それが、わたしにとっての、現実なのじゃから)
もう、いかにしても、後戻りはできない。
自分も、父も事実上、久長の手中にあり、身動きはできないのだ。
紅皿の前方に、これまでの情景とは、異なる構造物が、現れた。
上へ登る、石段である。
「ここだ……。ここを登れ」
久長が命じた。そこが、隧道の出口であった。
隧道の出口は、砦の裏山の麓に、位置する。そこに、古寺が建っていて、境内にある観音堂の床が、二重になっていた。隧道の内側からのみ、錠があけられる仕掛けだ。
紅皿は、石段を登り切ると、出口を塞いでいた床板を、押しあけた。
観音堂の中に、ひと気は、ない。
そこには、微笑みを浮かべた、十一面観音の立像が、静かに、佇んでいる。あたかも、辺りを慈悲で、包み込むようだ。
紅皿は、観音堂の床に立ち、合掌した。
久長と助左衛門を乗せた馬が、床に上がった。
観音堂は、さして大きなものでは、ない。
紅皿のすぐ眼の前に、外界へ通じる扉が、あった。
紅皿は、扉を僅かにあけて、外の様子を、窺った。
霧状の雨が、地面を、濡らしている。
境内には本堂、鐘楼など、幾つかの建物が、散在しており、観音堂の前には、広場のような空間が、ある。
広場は、茶色の土で覆われ、その周囲に、あまたの木々か伸びて、辺りを一面の緑で、囲んでいた。
ふいに、茶と緑の世界に、白いものが、横ぎった。紅皿の視界の彼方に、山門がある。白いものは、山門から境内に入って来ると、だんだんと、大きな塊と、なって行く。
暗い抜け穴から、出てきたばかりの眼には、まばゆい光に、見えた。
(何じゃろう)
紅皿は、訝った。
やがてそれは、月毛の馬に跨った、人の姿に変わった。
「あっ」
小さく叫ぶと、一瞬からだが、硬直したように、動けなくなった。
純白の法衣に身を包んだ、持資の姿が、そこにあった。
何故、持資の姿が、ここにあるのか。
攻め手の大将である持資が、ただひとり、秘密の抜け穴の出口で、待っている。通常ならば、ありえないことだ。
あれこれ考えを巡らせるうち、紅皿の脳裏に、浮かぶものがあった。
(わたしが矢文で送った、砦の絵図じゃ……。絵図にあった点線の意味が、持資様には、わかっていたのじゃな)
持資はそれが、砦が落ちた際の脱出路であることを、読み取ることが、できたのであろう。砦が落ちることを見越して、こちらに先回りして来たのに、違いない。
ならば持資は、紅皿が裏山の脱出路から逃げるのを予見し、紅皿に会うために、ここへ現れたのではないのか。
(持資様は、わたしに、会いに来てくれたんじゃ)
嬉しさのあまり、紅皿は一瞬、周りの全てを、忘れた。
「持資様」
ひと声叫ぶと、観音堂の扉を開いて、持資のいる方向へ、駆け出す。
近付いて来る紅皿の姿が、持資の瞳に、映った刹那である。
紅皿の背後で、威圧的な声が、響いた。
「おい、待ちな」
峯雄久長である。
馬を降りて、観音堂の前に、立っている。隣には、同じく馬を降りた、助左衛門の姿が、あった。
久長は、左腕で助左衛門の肩を掴んで、身動きできぬようにしている。同時に、右腕を使って、大刀を助左衛門の喉元に、突き付けていた。
「そなたは、太田持資じゃな」
「いかにも」
馬上、持資が頷いた。
久長が、持資を睥睨する。
「馬から降りて、武器を捨てろ。こいつは、そのおなごの父親じゃ。言う通りにしねえと、この男の命が、ないぜ」
「わかった」
持資は表情を変えず、白馬から降りる。腰に帯びていた白塗りの太刀を、地面に、静かに置いた。
久長と持資との間には、四十間ほどの空間がある。ちょうど中間辺りにいる紅皿に、久長が、顔を向けた。
「そなたは昨日、持資に矢文を送ったと、聞いたぞ。つまり、持資と、通じあっていた。わしの見た通り、峯雄を、裏切っていたわけじゃ」
「裏切りでは、ありませぬ」
紅皿は、首を振った。
裏切ろうと、思っていたわけでは、ない。持資への複雑な想いを込めて、いわば謎かけとして、絵図を送っただけだ。
久長は、唾を吐いた。
「否定したって、無駄じゃ。そなたの態度を見れば、持資と特別な関係にあることが、たやすくわかる」
特別な関係であることは、確かだ。紅皿は俯き、押し黙った。
「わしが背に負うている、弓矢を取れ」
久長は、叫んだ。
紅皿は俯いたまま、立ち尽くしている。
「聞こえなかったのか。わしの背にある、弓矢を取れ」
久長の催促に、紅皿は眼を上げて、久長と助左衛門の立つ方向へ、ゆっくりと歩き出した。
「おかしなことを、考えるなよ。親父の命が、ないぜ」
紅皿が眼前に近付くと、久長は助左衛門のからだを引き寄せて、喉元に迫っている刀の切っ先を、首筋ぎりぎりまで、寄せる。
紅皿は黙したまま、久長が背負っていた弓矢を、手に取った。
「わしから、離れろ。さっき立っていた辺りまで、行け」
久長に言われるまま、紅皿は、持資と久長の中間地点に、戻った。
「弓を、構えろ」
久長が、絶叫した。
「その弓矢で、持資を射殺せ。そなたの腕なら、たやすくできるはずじゃ」
「そんな……」
絶句する紅皿に、久長はさらに、叫び声を浴びせる。
「持資を射殺せ。さもないと、親父が、死ぬことになる」
「やめてください」
紅皿は、叫んだ。
「やめてください。久長様は、父を、殺せないはずじゃ。父を殺せば、敦賀流は、この世から、のうなってしまう。どこかの領主に、敦賀流を手土産に、持って行くのでは、なかったのですか」
「馬鹿馬鹿しい」
久長は叫んで、唾を吐いた。
「敦賀流も、結構じゃけどな。手土産としちゃあ、持資の首の方が、上なんじゃよ。持資は事実上、関東の長官じゃ。それゆえに、敵も多い。恨みを抱く領主のところへ、首を持って行ってみろ。わしは、神様仏様じゃ。望むものは、何でも頂戴できらあ」
久長は口元に、笑みを浮かべた。
「わしも、運がいいぜ。はなっから人質を取った状態で、持資に、巡り会えるなんてよ。いくさで負け知らずの天下の名将が、尼さんの弓で、命を落とすか。いいざまだ」
久長はひとしきり笑うと、厳しい顔に戻って、紅皿に、改めて命じた。
「さっさと弓を、構えろ」
黙していた助左衛門が、口を開いた。
「紅皿。悔いのないよう、決断せよ。ただし……」
取り乱した様子では、ない。落ち着いた口調である。
「そなたが奥義を、極めぬまま、わしが死ねば、敦賀流は、この世から消える。そのことだけは、よく考えよ」
奥義とは、「指貫き」のことに、他ならない。
弓を持したまま、立ち尽くす紅皿を、久長がさらに促す。
「さっさとしろ。親父を眼の前で、殺されてえのかよ」
紅皿は、追い詰められていた。
追い詰められたまま、弓を構えた。
(九)
紅皿は、弓を構えた姿勢のまま、微動だに、できなくなった。
弓を構えなければ、久長はただちに、助左衛門の首に、刀を突き刺すだろう。
(冗談では、あらぬ)
実の父を眼の前で殺されるなど、断じて、容認できない。
(されど)
ならば持資を射殺すのか。紅皿は、自らに問うた。
(できぬ……。できるわけが、あらぬ)
持資は、紅皿にとって、奇跡的な存在だ。生きてきて良かったと、心から思わせてくれた、唯一の人間である。
父の命と、持資の命……。二つのいのちを秤にかけて、どちらかを選ぶなど、紅皿には、到底できない。
(重過ぎる……。わたしには、どちらのいのちも、重過ぎる)
一応、弓を構えてはみたが、ただちに持資へ向けて、矢を放つ気には、なれぬ。
だが一方で、構えてしまった以上、そのまま永久に静止し続けることも、できない。
そのとき、持資の口が、開いた。
「わしは、武士じゃ。いつでも死ぬる覚悟は、できておる。紅皿、わしを射殺せ。父上を、救けよ」
そう言うと持資は、紅皿に、背を向けた。
「わしの眼を見ていては、矢を、放てまい。こうしているから、遠慮なく放て」
持資は背を向けたまま、腕を組み、そのまま静止した。
紅皿は、持資の背中を見つめた。
(この背中じゃ)
ふいに、紅皿の脳裏に、十年前の記憶が、鮮やかに蘇った。
(この背中じゃ……。あのころわたしが、見ておりしは)
十年の歳月は、持資の出で立ちを、相当に変化させている。
が、背中の姿は、大きくは変わっていないように、思えた。
紅皿はその刹那、少女時代の自分に、今の自分を重ね合わせていた。
(さびしかった……)
幼くして母と死に別れた紅皿は、母の想い出の詰まった京を離れ、父に手を引かれて、関東へ下って来た。
やがて父は、失踪してしまって、荒れた茅屋に、独りで住まいすることを、余議なくされた。
誰も寄り付かぬあばら家で、ただ和歌の書籍だけが、紅皿の友であった。
古今の歌書を、全て諳んじてしまうほどに、繰り返し読むことが、紅皿の唯一の、楽しみであったのである。
そんな孤独な日々の中、まるで別世界に住むような、煌びやかな少年が、姿を現した。
少年は色鮮やかな狩衣を身に纏い、紅皿の住む茅屋の近くで、鷹狩を楽しむようになった。
少年の名は、太田持資である。
少年に仄かな憧れを抱きながら、茅屋の扉の隙間から眺めるしか、術を持たなかった紅皿……。彼女に突然訪れたのが、雨の日の蓑の一件であった。
(本当に、幸せじゃった)
以来、持資の愛馬にふたりで乗って、一緒に野山を巡り、海辺で遊んだ。
持資の背中を見つめていたのは、そのときだった。
持資の背中を見つめ、持資の背中に縋りついて、馬に揺られた。
持資の背中の温かさを感じながら、持資と同じ眺めを見ることが、何よりも嬉しかった。
一緒にいても、多くは、語り合わなかった。
多くを語らなくとも、持資は紅皿を、受け入れてくれている。
そのことが、はっきりと、わかったからである。
(何も言葉は、いらなかった……)
紅皿にとって持資は、自分を受け入れてくれる、唯一の存在であったのである。
その持資を射殺すことは、過去の自分を、殺すことに、等しい。
思い惑う紅皿の頭上に、霧雨がなおも、降り続いていた。
紅皿に引かれたまま、静止した弓矢に、雨水が溜まり、滴り落ち始めた。
「早くしろ」
久長の怒声が、飛ぶ。
「頼む。紅皿」
助左衛門のしわがれた声が、聞こえる。
紅皿は、途方にくれた。
(わたしは、どうしたらいい……。どうしたらいいの)
そのときである。
持資の背中が、僅かに動いた。
持資が、懐に手を入れるのが、紅皿の瞳に映った。
小さなものを取り出したのが、見て取れた。
松ぼっくりほどの大きさの、小石である。
持資は背を向けたまま、小石を投げ上げた。
小石は放物線を描いて、紅皿の眼前に落ちる。
勢いがついたそれが、地面にできた水溜りの水を、撥ね飛ばす。水滴が、紅皿の足元を、濡らした。
持資は、ふたつめの小石を取り出し、さらに頭上に、投げる。
「紅皿」
持資は、呟くように言った。
「幸せというものは、おのれの手で、掴み取るものじゃ。誰かが、与えてくれるものでは、あらぬ」
(おのれの手で、掴み取る……)
紅皿は、持資の言葉を、反芻した。
(今のわたしは、どうしようもなく、追い詰められている……。こんなときに、何で幸せが、掴み取れるの)
その刹那、紅皿の脳裏に、稲妻のように走ったものが、あった。
紅皿は、はっとした。
紅皿の眼に、熱いものが浮かんだ。
大粒の涙が、ひとつふたつと、とめどなく流れ始める。
持資が、三つめの小石を、手にした。
三つめというのは、意味がある。
昨日、川を挟んで持資と対したときも、紅皿は、三つめの小石を、射落とした。
十年前、持資と紅皿が、内密に逢っていた際、他の者たちに気付かれぬよう、合図を送っていた。
それが、三つめの小石である。
ひとつめ、ふたつめまでは、物陰に隠れ、投げ上げられた小石を、あえて見送る。
三つめを矢で射落としてから、姿を見せ合う。
それが、ふたりが密会する際の、決まりであった。
持資は、三つめの小石を、投げ上げた。
紅皿の手が、動いた。
ついに、矢が、放たれたのである。
次の刹那、無言のまま、一つの影が、地面に崩れ落ちた。
「よくぞ、成し遂げた……。見事であったぞ、紅皿」
助左衛門が、しわがれた声を、上げた。
(十)
持資は、元いた場所に立ち続けている。
崩れ落ちたのは、峯雄久長であった。久長は、助左衛門に突き付けていた刀を取り落とし、右手小指を押さえ、地面に転がってのたうち回っている。
小指には、紅皿が放った矢が突き刺さっていた。
久長の刀から解放され、地面に転がった助左衛門が手を叩く。
「紅皿。見事であった。完璧な『指貫き』であったぞ。背後におる者の小指を、振り向きざま、たちどころに、正確に射貫く。これこそ、もう一つの『指貫き』の技じゃ」
紅皿は持資の背中に向けていた矢を、久長の小指に向けて、放ったのである。一瞬の早業であった。
「『指貫き』の奥義は、心身ともに、ぎりぎりの状態に追い込まれた時にこそ、真価を発揮する。それができたのじゃ」
助左衛門は頷きながら、紅皿に視線を向けた。
「おまえはもうかなり以前に、敦賀流の奥義を窮めるだけの技を身につけていた。だが、奥義を己のものとするための、心が伴わなかった。そこが未熟だったのよ。だが、今の射撃で全てを掴んだ。わしが教えることは、もはやない」
助左衛門は、目を細めた。
「父上ったら、こんな命がけの時でも、敦賀流のことばかり……」
紅皿は力尽きたように弓を取り落とし、へたり込んだ。
「ともかくも、良かった。今までできたことがない『指貫き』をやるしか、この場を切り抜ける術はなかった」
ほっとする紅皿の前で、久長は苦悶している。
「久長っ。覚悟!」
持資が白塗りの太刀を拾い、久長に向け突進した。
「くそっ」
これを見た久長は、慌てて乗ってきた馬の背によじ登った。
「この尼め。覚えておれよ」
ひとこと、紅皿に向け毒づくと、馬に鞭をくれた。
驚いた馬は、久長を乗せたまま、寺の境内から逃げ去る。
持資は後は追わない。太刀を下げたまま、久長の後姿を見送る。
その時、境内に野太い男の声が響いた。
「殿。殿! ご無事ですか」
観音堂の中から、鎧武者が姿を現した。中村重義であった。
「おう。重義か。戦の首尾はいかがであった」
持資が大声で問うた。
「万全でございます。砦が燃え、峯雄の一族は、ことごとく退散いたしました」
「重義。済まぬが、頼みがある」
「はい。何なりと」
持資は助左衛門に、目を向けた。
「あちらが敦賀流総帥、立花助左衛門殿だ。だいぶ衰弱しておいでだ。城にお連れし、あたたかなお食事でも、差し上げてくれるか」
「承知」
重義は寝転んでいた助左衛門を、軽々と背負った。
持資と紅皿、ふたりの顔を見比べると、ニヤリと笑った。
「では、ごゆるりと」
ひとこと残すと、背中の上の助左衛門とともに、山門の外へ消えた。
残されたのは持資と紅皿、ふたりきりである。
「持資様」
座り込んでいた紅皿が姿勢を正し、両手を地面についた。
「申し訳ありませんでした。十年前、太田家へご奉公に誘っていただいたのに、姿を消してしまって……。峯雄に無理やり、砦に連れて来られて、以来外出も、書状を認めることも許されず……。持資様はいかばかりお心を痛めておいでかと、ずっと悩んでおりました」
「何を言うか」
持資もまた跪き、紅皿の前で手をついた。
「十年前、そなたを守れなかったのはわたしが無力だったからだ。わたしの無力さゆえ、そなたを十年間苦しめてしまった。もしその償いができるならと、そなたの矢を浴びて死ぬのも、辞さぬ覚悟であった」
「そんな、滅相もない」
紅皿は激しく首を振った。
「持資様を射ることは、自分を殺すのと同じこと。絶対にできませんでした……。さりとて『指貫き』の技を、わたしは成功したことがない。本当に一か八かで、久長様の小指を狙って……」
紅皿は地についていた持資の手を取り、固く握った。
「この手で投げてくださった、三つめの小石のお陰です」
紅皿の目頭が、熱くなりはじめていた。
「先刻のわたしにとって一番の幸せは、持資様も父上も傷ひとつ負わせないこと。その幸せを実現するためには、これまで一度も成功したことのない『指貫き』を完璧にしなければならない……。それは無理だと、一瞬諦めそうになりました」
紅皿は首を振った。
「いえ、一瞬じゃない。この十年、わたしは自分の人生を諦めていた。もう一生峯雄の手からは逃れられない。持資様とはニ度と会えないと。でも、三つめの小石が、思い起こさせてくれたのです」
持資は黙したまま、紅皿の眼を見つめている。
「十年前持資様と密会していた時、わたしは今までの人生でただ一度だけ、己の幸せを己で掴み取ろうとしていました。幸せを自分の手で引き寄せようとすること自体が幸せそのものでした……。今持資様が投げてくださった三つめの小石が、その幸せで前向きな気持ちを思い起こさせてくれた。それゆえ至難の『指貫き』の技を成功できたのです」
持資の目にも、涙が浮かびはじめている。
「良かった。わたしもあの時は命がけだった……。三つめの小石に込めた思いがそなたに届かぬなら、わたしは死ぬしかないと。わたしの気持ちを受け取ってくれて、こんなに嬉しいことはない」
持資は紅皿の手を握り返した。
「雨が、止んだな」
ややあって持資は頭を上げ、空を見上げた。
小雨をもたらしていた雲が切れ、日の光が差し込み始めている。
釣られるように紅皿も、空を見つめた。
空を見上げたまま、持資が言った。
「紅皿。これからどうするつもりだ」
「そうですね……」
紅皿は首を傾げ、顎に指を当てた。
「そうですね。昔住んでいた野原のあばら家で、父と暮らします」
持資は紅皿の瞳を見つめ、首を振った。
「それは危険だ。危険過ぎる」
「危険ですか」
「久長のさっきの様子を見たろう。久長は必ずそなたを探し、仕返しを目論むに違いない。例のあばら家ではたやすく見つかってしまうし、襲われたら防ぎようがない」
「では、どうすれば……」
紅皿は、持資の瞳を見上げた。
持資は、右手の掌を紅皿の肩に載せた。
「わたしの城に来ないか」
「江戸城ですか」
「そうだ。江戸城内ならば、久長に見つかる心配はない。わたしがひとりで考え事などをする時に使う庵が城内の外れにある。とても静かなところだ。そこに父上と暮らしてはどうだ」
紅皿はかぶりを振った。
「それはできません」
「何故だ。何故できない」
「わたしはついさっきまで、持資様の敵方にいた女です。わたしが江戸城に行けば、太田家の家中の皆様が大反対するでしょう。そうなったら、わたしのせいで持資様につらい思いをさせてしまいます」
「わたしは気にしない。大丈夫だ」
「いえ。持資様がつらい思いをしているのでは、と思うだけでわたしがつらいのです」
「そなたを危険に曝す方がよほどわたしはつらい」
持資は目を閉じた。
「本当の気持ちを言おう」
ややあって目を開けると、穏やかな口調で言った。
「久長のことは二の次だ」
持資は紅皿の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ただそなたと一緒にいたい。それだけだ」
紅皿は、先刻持資に矢を向けていた時に持資が言った言葉を改めて思い起こしていた。
幸せというものは、自分の手で掴み取るものだ。誰かが与えてくれるものではない。
持資と同じ城の中で暮らせる。それはさっき考えたほんのひとときだけでも持資と話ができれば、という幸せとは異質な、とてつもなく大きなものだ。
(ただわたしと、一緒にいたい……)
紅皿は持資の言葉を、心の中で繰り返した。
自分は無意識にその言葉を待っていた。どんな理屈よりも、自分を愛してくれ、必要としてくれる、ひとことを。
(わたしの本当の気持ちも同じだ。ただ持資様と一緒にいたい)
敵方にいた自分が江戸城に行けば、持資も自分も、つらい思いをするであろう。だがそれでも、一緒にいられることは、無上の幸せのはずだ。
雲が切れ、明るさを取り戻した太陽の光が、紅皿の頬を照らし始めている。
(そうだ。幸せを自分の手で掴み取らなければ……。そうしなければ、生きている意味がわからない)
「どうだ。来てくれるか」
持資の再度の誘いに、紅皿は無言で頷いた。
持資は紅皿を抱きしめた。
「どんなところで、ございますか」
持資の胸の中で、紅皿は問うた。
我が庵は 松原続き 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る
持資は答えとして、自作の歌を口ずさんだ。
「素敵なところでございますね」
紅皿の瞳に、大粒の涙が溢れ始めていた。
柔らかな風が、寺の境内に流れ始めている。
いつまでも抱擁し合うふたりを、木漏れ日が穏やかに包み込んでいた。
(完)
数多の矢が、夕闇を劈いて飛んだ。
矢が飛ぶ先には、ひとりの年若い武将が、立ちはだかっている。
放たれた矢は、あるものは右に逸れ、他のものは左に逸れる。
最も近いものは武将の足元、二寸ばかりの所に落ちた。
が、武将は身じろぎさえしない。
すらりと伸びた長身と、涼やかな瞳の持ち主だ。
白色の鎧直垂に白糸縅の鎧を身に付け、白塗りの太刀を差している。
白ずくめの出で立ちだ。
背中には切斑の矢を背負い、右手に滋藤の弓を持している。
ときは晩春、武将が立つ野辺には、緑の若草が溢れている。草の丈は高くなく、その姿は、敵から丸見えのはずだ。
武将と敵の砦の間には、幅四十間余り(約七十メートル)の川があり、天然の堀を形成している。
川の両岸は、そそり立った崖となっており、砦は崖の上に建てられていて、武将を見下ろす位置に、あった。
砦の柵の向こうには、柵に沿ってほぼ等間隔に、整然と兵士が並ぶ。いずれも、若い兵士たちだ。それらの兵たちが代わるがわる、規則的に間断なく、矢を射かけてくるのだ。
─相手の大将が、あえて弓矢の的になれば、敵は愚弄されたと思って、無闇に矢を射んとする。気ばかりあせり、時間と武器を浪費することになる。これこそ、敵の心を制することに繋がる。心を制すれば、すなわち、戦は勝ちだ。
この男の持論である。この男は戦に際してしばしば、自ら斥候に出る。斥候に出るに当たっては敵の弓矢の前に身をあえて曝し、敵の心を制する作戦をとって来た。
こたびのいくさでも、持論に従って、自ら斥候に出て、弓矢の標的になることを選んでいる。
しかし……。
思いがけない事態が、にわかに発生した。
砦の物見台へ登る梯子を、ひとりの尼が登りつつあるのが、武将の視界に、映ったのである。
灰色の法衣を身につけ、頭部を白い布で覆っている。
法衣の裾がくるぶしまであるため、早くは登れない。一段、一段と、踏みしめるように、進んで行く。
折からの夕日を受けて、からだ全体が紅に輝いているように見える。
彼女を包む空気には、清楚な香りが漂っていた。
尼の姿を認めると、武将へ向けて、矢を放っていた兵たちは、一斉に手を休めた。
こぞって膝を付いて、丁重に礼の姿勢を、取る。
尼の姿は、一見、戦闘員には見えない。
しかし、実のところは、違うようだ。背中に、矢を負うている。
物見台の下の方に、ひとりの少年がいた。上を見上げて、紅いものを差し出している。
尼は軽く会釈をすると、紅いものを受け取った。
弓である。
尼は背に負うていた箙から、矢を一本、取り出した。
尼が左手に弓を持って、右手で矢を引き絞ると、夕陽に照らされた紅い弓が、キラキラと輝いた。
尼は武将を、見据えた。
困ったようでもあり、嬉しげにも見える複雑な表情が、尼の頬に浮かんだ。
ヒュウッ。
尼の放った矢が、武将の頭上を掠める。
矢は正確に武将の頭上、三寸ばかりの空を切ると、真後ろにある松の木の幹に、突き刺さった。
弾みで、松の細長い葉が、ぱらぱらと落ちる。
先から何十本、代わる代わる数多の兵たちが、矢を放って来た。
その何れもが力なく地に落ちるばかりであったのに、この威力はどうであろう。
尼は矢の行き先を確かめると、弦の調子を確かめるように、指先で弦を撫でた。
これまで武将に矢を射ていた、兵たちの持つ弓は、いずれも黒みがかった、地味な色合いのものだ。
尼の持つ弓の紅さは、ひと際目を引く光を有している。彼女のために、特別に拵えた弓、と見て取れた。
武将は、尼の眼を見つめた。
白い布から垣間見える尼の頬は、抜けるように、白い。弓を持つ両手は、ふくよかな肌に、包まれている。
持資に視線を返す尼の眼には、微かに愁いが浮かんでいた。
武将は、松ぼっくりほどの大きさの小石を、幾つか拾った。
拾った小石を、空に向けて投げる。
小石は空高く上がると、放物線を描いた。
ボシャッという水音が上がり、川に落ちる。
武将は、ふたつめの小石を、同じように投げ上げる。
ふたつめが、川の水面に落ちるのを見届けると、尼は、弓を引き絞った。
武将はほくそ笑むと、三つめを投げ上げた。
尼の紅い弓が、撓る。
矢は小石を捕えて、水面へと叩き落とした。
「おお」
「さすがお師匠様」
砦の中で、歓声が沸き起こった。
先刻まで声を上げず、整然と弓を引いていた若い兵たちが手を叩き、足を鳴らしている。
武将は大きく頷き、頭上に諸手を挙げ、手を叩いた。
歓声の中、尼は射手の構えを解いた。
首をやや背中に向け、箙をしばし探る。
その中から一本の矢を取り出すと、尼は武将に向き直り、弓を引き絞った。
矢は、先刻と全く同じ軌跡を描いて、武将の頭上を越える。
またぞろ松の木に突き刺さった矢には、白い紙片が、括り付けられている。
矢文であった。
紙片を矢から外す様子が、尼の瞳に映る。
尼は、放心したごとく、つぶやいた。
「持資(もちすけ)様……。まさか、こんなところで出逢うとは……」
(二)
南の空に、月が昇っている。
満月である。
灰色の法衣を身につけた尼と、年若い少年が、対座していた。
少年は、夕餉の粥をかきこんでいるが、尼は、手を付けないままだ。
「姉様」
少年が、うつむいたままの尼に、声をかけた。
少年と尼は、実の姉弟ではない。砦の中でともに暮らすうち、自然に親しくなった間柄だ。
「食わんのか?」
尼が、顔をあげた。青ざめて、冷たいほどの美しさだ。
「今は、口に入れる気が、おきないんじゃ。大助が、召し上がれ」
粥の入った椀を、少年の前に置き直す。
「いかがしたんじゃ? 具合が、悪いのか」
尼は、首を振った。
尼の名は、紅皿(べにざら)という。先刻、砦の中から、対岸にいる白ずくめの武将に向けて、矢を放った女だ。
大助は、再びうつむいた紅皿の顔を、覗き込んだ。
「さっきは、すごかったのう。白ずくめが投げ上げた小石を、みごとに射落とした。神業じゃった」
「神業では、あらぬ」
ひとこと言うと紅皿は、黙り込んだ。
黙したまま、眼を閉じる。
ふたりの間にしばし、静寂が流れた。
「姉様。いかが、なされました」
ややあって大助が、困ったように声を上げた。
紅皿は眼を開いて、大助を真っ直ぐに見つめた。
双眸が、充血している。
「あれはな。神業などでは、あらぬ」同じ言葉を、繰り返す。「気の合った者同士で、息を合わせれば、ごく、たやすきことじゃ」
「はあ?」
意想外の言葉に、大助は耳を疑った。
「あの白ずくめを、知っておるのか?」
紅皿は、無言で頷いた。
「あの者は、誰なのじゃ?」
「太田持資(もちすけ)とおっしゃるかたじゃ」
紅皿は、説明した。
京にある将軍家から、関東統治の任務を負わされた、関東管領という役職がある。代々、その職に任じているのが、上杉家だ。太田家は、上杉家の家宰という立場である。家宰とは、いわば筆頭家老だ。太田家は貴族化し、武力を失った上杉家に代わって、実質的に関東の秩序を守る、長官の立場、ということになる。
「そんな偉いかたが、何でこんなところに、来たんじゃ?」
「我らがあるじ、峯雄久長様が、謀反人と、思われているからじゃ」
「謀反人、とな? おだやかじゃないのう」
「持資様は、関東の秩序を守る立場にあるから、各地で何か揉め事が起きると、配下にある武家達を率いて、本拠地の江戸を、離れることになる。本来なら、久長様も随行して、兵を出さないといかぬ」
「まあ、そうじゃろうね」
大助は、わかったように、頷く。
「ところが、久長様は随行もせず、兵も、送らぬ。それどころか、持資様が不在なのをいいことに、近隣の領主を襲って、土地を奪うことを、繰り返して来たの」
「ふうん……」
大助は、腕を組んだ。
「メシを食わせてもらってるから、言いにくいけど……。久長様って、結構ワルなんじゃね」
「でね……」
紅皿の、眉が雲った。
「持資様は久長様に、争いごとをやめて、他の領主から奪った土地を、元のぬしに返すよう、使者を送って来たんだけれど」
久長は拒絶して、使者を殺めてしまった。ゆえに今は、両家は戦争状態となっている。
「あっ! わかった」
大助が、膝を打った。
「何でさっきから、姉様が浮かない顔をして、メシも喉を通らないのか」
大助の表情に、得意気な風が、流れる。
「姉様と持資様は、知りあい……。いや、もしかしたら、昔の恋人か何か、なんじゃ。ところが、今は姉様は、久長様に仕えておられる。昔の恋人なのに、今は敵になってしもうた。それは、メシも食う気も、失せるじゃろ」
紅皿は、驚いた。驚いたというより、恐れを感じた。
紅皿は今、二十四になる。大助はまだ十四だというのに、大人の事情を見抜いているとは。
大助は、追い打ちをかけるように、続けた。
「持資様に向けて射た、二本めの矢……。あれに、矢文を、括り付けていたよね。昔の恋人でもなけりゃ、そこまでは、せんじゃろ」
甘かった。紅皿は、自らの甘さを、後悔した。薄暗い中だから、誰も気付くまいと、たかをくくっていたのだ。
「おいらは、真下から見ていたんじゃ。気付かぬわけが、あらぬ」
大助は椀を置いて、紅皿の前に、ぐっと顔を寄せた。
「一本めの矢は、わざと外したんじゃろ?」
紅皿の青ざめた顔が、さらに白く、血の気がなくなった。
「どうして、そう思うの」
「たやすいことじゃ」
大助は、いささかも退く様子が、ない。
「姉様は、空に投げ上げた小石を、射落とすことができる。それなのに、ほとんど動いておらぬ持資様に、矢を当てられぬわけが、なかろう」
「全て、お見通しなのね」
「当たり前じや」大助は、胸を張った。「おいらは、姉様が大好きなんじゃ。だから、姉様のやることなすことは、何もかも、注視しておる」
紅皿は、困惑した。
ここまで知られてしまった以上、全てを打ち明けてしまうべきか。それとも、自分の心の中に、とどめておくべきか。
しばし沈黙して、考え込む。
今は隠しておいても、これだけ関心を持たれていたら、いずれは見抜かれるだろう。変に憶測されるかも知れない。ならば、正確なところを、伝えておいたほうが、良いのではないか。
「大助。そなた、口は固いか?」
大助は、大きく頷いた。
「固いとも。姉様が望むなら、決して人には、しゃべらねえ」
大助がもとの座に戻って、正座し直す。きちんと話を聞こう、という態度だ。
紅皿もまた、姿勢を正して、語りはじめた。
「今、わたしが、そなたたちに教えている、弓矢の流派は、何といったかの」
大助が、間を置かず、答える。
「敦賀流じゃろ。それくらい、頭に染み付いとる」
「じゃあ、その極意は?」
「戦わずして、勝つ。敦賀流は、人は殺さぬ。高度な技を見せ付けることにより、敵にとても勝てぬ、と思わせて、戦意を失わせる」
「その通り」
紅皿は、右手の小指を、立てて見せた。、
「究極の奥義が、『指貫き』じゃ」
「指貫き?」
「敵が、背後から襲って来るとき……。振り向きざまただちに、その小指を射抜く技じゃ」
大助が、眼を見開いた。
「まさに、神業じゃな」
「ええ。わたしもまだ、成し遂げたことは、あらぬ。敦賀流の総帥である、父のみが、やり遂げた技じゃ」
紅皿は、隣室の襖に、眼をやった。
襖の向こうから、大きないびきが、聞こえて来る。
いびきをかいている者こそ、紅皿の父、立花助左衛門であった。
「わたしの父、助左衛門は……。今でこそ足が不自由で、弱っておるがの。若いときは、颯爽としたものじゃった」
「今でも、目付きは、恐いくらい、鋭いけれどね」
「父は、代々家に伝わる敦賀流を、天下に広めようとの志を抱いて、京にのぼったんじゃ」
京では、公家といわず武家といわず、自らの所領を守るために、何らかの武力を必要としている。公家は、人殺しは好まぬ。人を殺さず、自らの損害も出さず、戦わずして勝つという敦賀流が、大いに受け入れられた。
「そんな中で、とある公家が、父を高く買ってくれてね。姫君の婿として、迎えてくれたんじゃ。ふたりの間に生まれたのが、わたし、ということになる」
「なるほど」大助が、深々と頷いた。「つまり姉様は、お公家さんの血を引く方、なのじゃな。品があるわけじゃ」
紅皿は、首を振った。
「わたしは、上品では、あらぬが……。母はまことに、公家のお姫様、という感じじゃった」
公家の娘である紅皿の母は、歌人としての才能を持っていた。紅皿は幼き頃より母の手ほどきを受け、和歌の素養を、身に付けたという。
「晴れた日は、父から弓矢の道を。雨の日は母から和歌を教わって。とても、幸せだったわ」
「父上が弓の総帥で、母上が歌人とは、何ともすごいことじゃ。でも……」
大助が、首をひねる。
「何故そのような親子が、都落ちして、関東へ来たんじゃ?」
紅皿は、眉間に皺を寄せた。
「わたしが十二の歳の頃、疫病が流行ってね。母と母の両親が、次々と亡くなったのよ。寄る辺を失った父は、京にいづらくなって……。わたしひとりを連れて、関東へ、落ち延びて来たのじゃ」
紅皿は、ため息を吐いた。
「空き家になっていた、あばら家を見つけてね。ふたりきりで、暮らしていたの。ところが……」
「ところが?」
「ある日突然、父は、姿を晦ましてしまったの」
「なんと」
「知りあいに会うと言って、出て行ったきり、戻らなくてね……。不思議なことに」
居場所が分からなくなったのち、助左衛門から紅皿の元に、食糧と最低限の生活物資だけは、送られて来ていた。
「あとでわかったことだけれど……。実は父は、久長様に拉致されて、この砦にいたのよ。娘の居場所を知っている。言うことをきかぬなら、娘を殺す。こんな風に脅されて、敦賀流を教えることを、強制されたの」
「姉様が、人質じゃったとは……。やっぱり、久長様はワルじゃな」
「不安で不安で、仕方なかったとき……。現れたのが、持資様じゃった」
紅皿が暮らしていたあばら家の周りは、広々とした原野だ。
その原野に、連日のように、鷹狩にやって来る少年がいた。
太田持資である。
持資は、きらびやかな狩衣を身にまとって、伴って来た年配の侍と、快活そして溌剌と、狩りを楽しんでいるように見えた。
「遠くから、持資様を眺めることが、わたしにとって、何よりの、喜びじゃった」
(三)
ある晩春の日のことだった。
天空を雲が覆い尽くし、太陽の光は全く見えない。ときおり、細かな雨粒が、落ちて来ている。
(今日は、あのおかたは、いらっしゃらないでしょうね)
紅皿は、ため息を吐いた。
それでも、もしかしたら、と期待して、戸外に出ていたのだ。あきらめかけて、あばら家に入ろうとした刹那である。
武蔵野の荒れた野原のかなたから、きらめく塊が、姿を現した。薄暗い中、微かな光を集めて、輝いている。
持資の姿で、あった。
月毛の愛馬に跨って、しばし、野原を疾駆する。今日は、年配の侍は、一緒では、ないようだ。
暗雲が、さらに広がる。やがて、空一面が漆黒となるや、土砂降りの雨が落ちて来た。
紅皿の肩も、雨粒で濡れはじめる。
が、あばら家には、戻らない。持資の様子が、気になってしかたないからだ。
紅皿のあごから、ひとしずく、雨水が落ちたとき……。不意に、状況が、変わった。
持資が、向きを変更したのだ。荒野を周回するのをやめて、あばら家のあるほうへ、向かって来る。
「まさか……」
紅皿は、眼を疑った。
これまで持資は、いわば芝居の役者と同じ、遠くから見つめるだけの存在であった。それが、突然、自らの息のかかるところへ、侵入して来たのだ。
「いかがすれは、良いのじゃ」
紅皿は、困惑した。
とりあえず、あばら家に入って、入り口の戸を、閉じた。持資が駆ける姿に、背を向ける。足がすくんで、震えてしまうのを、紅皿は止めることが、できなかった。
雨宿りを、させろと言って来るのか。けれど、この家は雨漏りだらけで、大した役には立たない。
急な大雨で、蓑を持っていないから、貸してくれと、言うのだろうか。
この家には蓑は、ない。唯一あったものは、父が最後に出かけたおりに、持ち去ってしまった。
どちらにしても、求めに応じるだけのものが、ない。
思い悩む紅皿の心を、扉を叩く音が、破った。
(もう、来てしまったのか……)
はじめは、返事ができなかった。いないように装うことも、脳裏によぎる。
しかし、入り口の戸は、節穴だらけだ。紅皿が着ている紅の衣が、外から透けて見えているはずだ。不在の振りをするのは、不可能だった。
二度めの音が響いたとき、紅皿は、返事をせざるを得なかった。
「はい」
とだけ口にして、戸のほうに向き直る。
ほんの僅かの隙間だけ、戸を開く。
そこに立っていたのは、十五六に見える、若い侍だった。
(わたしと、同じくらいの人だったんだ)
背が高く、がっしりした身体つきだ。一方、顔のほうは色白で、おだやかな眼を持っている。
「雨に降られ、困っている。後で、必ず返しに来る故、蓑を貸しては下さらぬか」
優しげな声だ。
その眼と声に、紅皿は不思議と安心感を覚えて、少し落ち付いた。
案の定、蓑を貸してほしいという求めだったが、応えることは、叶わない。
しかも、少年の眼には、雨漏りだらけの家の中や、継ぎ接ぎが目立つ紅皿の着衣などが、入っているはずだ。
貧しき暮らしゆえ、蓑は、ございませぬと、正直に伝えることは、たやすい。
だが、そうすれば卑屈になるばかりで、紅皿の誇りは、ずたずたに散り失せるであろう。残るのは、少年からの僅かな同情だけのはずだ。
どうすれば、いいのか。さまざま思いを巡らす中、紅皿の脳裏に、ひとつの考えがひらめいた。
紅皿には、母から教わった、和歌の素養がある。これを使って、少年に謎かけをすることだった。
そもそも少年と自分とは、いかにも身分が違うように見える。これを機に、親しくすることなど、まず、あり得ない。彼の心の片隅に、「おっ」という、僅かな印象が残るなら、それで十分だ。
七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞあやしき
後拾遺集に載せられた、兼明親王(かねあきらしんのう)の歌である。
兼明親王が小倉の家に住んでいたとき、蓑を借りたいと言って来た人がおり、その断りの返事として、山吹の枝を差し出した。その心を詠んだものだ。
山吹には一重咲きのものと、八重咲きのものがある。八重咲きの山吹は、実がつかない。
実のつかぬ山吹と蓑一つさえ持っていない暮らしぶりとを、掛け合わせているのだ。
紅皿は、あばら家の奥へと、駆けた。
裏の勝手口の戸を、開ける。ごく小さな、あばら家のことだ。少し奥に入れば、戸外に出てしまう。
間もなく少年の前に戻った紅皿の手には、外で手折ったばかりの、山吹の枝が一本、捧げられていた。
紅皿は、ずぶ濡れなのも構わず、花の付いた枝を、差し出した。
清らかな黄色い花弁もまた、濡れている。一粒、雫が零れた。
「これは?」
受け取った少年が、言葉を失う。
紅皿は、視線を落としたままだ。歌のことには、あえて触れない。
ややあって少年は、山吹の枝を、突き返した。
「わしの欲しているものは、これではない」
少年は、あばら家に背を向けた。
「やあ」
月毛の馬に鞭をくれると、雨を切り裂くように、駆け去った。
それから、三日間が過ぎた。
紅皿は、落ち着かなかった。
食膳につけば、少年の姿が、思い出される。
弓の稽古をすれば、的に少年の姿が浮かぶ。
あばら家の外に出れば、有り得ぬことにも拘わらず、偶然少年に会わないかと、気もそぞろになる。
あの少年は、自分のことを、どう思ったのであろう。そして今、何をしているのだろう。このことが紅皿の心を強く、支配するようになった。
(これが、恋というものなの?)
遠くから眺めているだけのときは、鑑賞の対象でしかなかった少年が、間近に現れた。僅かな触れ合いに過ぎなかったにもかかわらず、紅皿の気持ちはいっぺんに高まってしまったのだ。
だが、少年はあの日以来、鷹狩に訪れていない。
紅皿は、黙って山吹の枝を差し出したことを、後悔しはじめていた。
武家の子弟が学ぶのは、主に儒書や仏典であろう。少年の関心は、和歌にはないのかも知れない。山吹の花の謎かけなど、通じなかったのではあるまいか。
それとも……。
謎かけは通じたが、そのせいでかえって嫌われてしまったのか。何か、教養をひけらかす嫌なおなご、と思われたのかも知れぬ。
もやもやした思いを抱えながら、外に干してあった洗濯ものを、取り込もうとしたときだ。
紅皿の耳朶に、馬のひずめの音が、横切った。
反射的に、眼を上げる。
月毛の馬だ。少年のものだと、すぐに気がついた。
三日の間、想い続けた相手ゆえ、一目で見分けられる。
洗濯ものの取り込みをやめて、茅屋の中に、駆け込む。入り口の戸を閉めて、背中を向けた。
「もし」
短い言葉で、少年が声をかけて来る。
戸は閉じられているが、戸の節穴から、紅皿が着ている紅の小袖が、垣間見えているはずだ。
紅皿は家の中に逃げ込みながら、少年の言葉を、じっと待った。
「先日は」
ここまで言って、少年の声が、震えた。
「先日は、そなたの心を受け取ることができず、まことに申し訳ないことを、した」
「……」
紅皿は、黙っている。
「先日来わしは、そなたのことばかり考えておる。そなたはどのようなひとなのか、わしのことを、いかに思うたのかと」
まさかの言葉に、紅皿の鼓動は、たまらなく早くなった。
少年が、続ける。
「いや、済まぬ。全てわしが、一方的に思っていることじゃ。そなたのことなど、何も知らぬのに……」
「あの。わたしは……」
紅皿は、ようやくひとこと口にしたが、あとの言葉を、続けることができない。
少年は、用意してきた荷物を、戸の前に置いた。
蓑である。
「蓑を、持って来た。今後は、雨に打たれて病など得ぬよう、使ってほしい」
「勿体のうございます」
紅皿は戸を少しあけて、顔を出した。
ちらりと少年の顔を仰ぎ見て、耐え切れないようにすぐに眼を伏せた。
頬だけでなく、耳まで紅く上気している。
「これを、読んでほしい」
少年の耳も、真っ赤に染まっている。
少年は、小さく折りたたまれた紙片を、押し付けるように手渡した。
たちまち、いたたまれぬように走り出す。
月毛の愛馬の元へ戻って、少年は叫んだ。
「わしは太田家の後継ぎで、持資という者じゃ。近いうちに、また参る」
紅皿が、はじめて少年の名を知った瞬間であった。
持資は、馬に鞭をくれると、振り返ることなく、走り去った。
─近いうちに、また参る。
紅皿は、この言葉を、何度も心のうちで、繰り返した。
しかし、三日経っても四日経っても、何の音沙汰もない。
(わたしの、片想いだったのか)
太田家は、関東を事実上治める、長官の立場だ。その後継ぎが、自分のような貧しい娘を、好いてくれるはずが、あろうか。
諦めよう。やはり自分は、弓矢と和歌を楽しみに、ひそかに生きてゆくのだ、と考えようとした。
が、自分の想いを抑えつけようと無理をすると、却って以前にも増して、持資への想いが、募ってくる。
(もしも、持資様がわたしを、好いてくれたとしても)
紅皿の胸には、別の心配ごとが、ある。
自分が、おなごでありながら、弓矢の道を進んでいることだ。
おなごで弓矢に長けている者は、絶無とまではいかなくとも、極めて珍しいであろう。
今のところ持資が自分について知っているのは、和歌の素養があるというだけだ。和歌を嗜む、雅なおなごととのみ、認識しているのかも知れない。
弓矢を扱うおなごと知れば、荒々しいおなごだと、幻滅してしまうのでは、ないか。
(持資様とわたしは、天と地ほど、身分が違う。しょせん、実らぬ恋ならば、自分の全てを、さらけ出すべきじゃ)
持資があばら家に蓑を持って来てから、七日めとなった。
食事に使う水を、近くの川に汲みに、出かけようとしたときだった。
待ちに待ったひずめの音が、紅皿の胸に、響き渡った。
紅皿は、水を汲む、桶を置いた。
用意してあった矢を手にして、弓をつがえる。
持資の顔に、悲しみが浮かんだ。矢を向けられる、ということは、恋人として認めぬという返事かと、思ったのであろう。
ヒュウッ。
風を切る音が、空気をつんざく。
持資の眼の前には、杉の古木が聳えている。その幹に、矢が突き刺さった。
矢には、白い紙片が、括り付けられている。矢文であった。
持資が、文をひらく。
「そなた」
持資が、紅皿を見つめた。悲しみの色が消えて、満面の笑みが、浮かぶ。
紅皿は、持資に駆け寄った。
矢文の中は、黄色い山吹の花びらが、仄かな香りを漂わせている。
こたびの山吹は、八重咲きのそれでは、ない。一重咲きのものだ。一重咲きの山吹には、実がつく。半ば、諦めかけていたとはいえ、できることなら恋が実ることを願う、紅皿の想いが込められていた。
紅皿は、眼を伏せながら、言った。
「露置かぬ かたもありけり 夕立の 雨より広き 武蔵野の原……素敵なお歌ですわ」
持資が先日紅皿に託した、自作の歌である。
持資もまた、眼を伏せた。
「夕立の雨が、降りしきるごときこの荒れた世で、そなただけは、穢れも知らず、山吹の花のように、咲いていた……。この想いを、受け止めてもらえるならば、無上の幸せじゃ」
持資は、微笑を浮かべながら、付け加えた。
「そなた。弓矢の道も、かなりの腕じゃな。ますます、好きになったぞ」
紅皿は、歓喜に包まれた。
自分が生きがいと感じているものを、好きな男が認めてくれた。心配する必要は、なかったのだ。
(四)
ここまで話し終えると、紅皿は、そっと眼を閉じた。
大助が、粥をひとくち、啜る。
「で、その後はめでたく、睦まじき仲となったのじゃな」
紅皿は眼をあけて、頷いた。
「ええ。それからは、何かと口実を設けては、お城を抜け出して、会いに来てくれたわ」
「お城の皆様には、内緒だったわけじゃな」
「もちろん。発覚したら、止められるのは、わかり切っていたからね」
紅皿は、右手人差し指を、胸の前に立てた。
「それで……。周りのかたがたに覚られぬよう、編み出したのが、石投げの合図じゃ」
「石投げ?」
大助は一瞬、首を捻り、ぽん、と膝を叩いた。
「さっき砦の前でしていた、アレだね」
紅皿は、頷いた。
「その通りじゃ。持資様がわたしのあばら家へ会いに来るとき、誰かに見られぬようにね。三つの小石で、合図をしたの」
紅皿は懐から、小石をひとつ、取り出した。
松ぼっくりほどの、大きさである。
「あばら家の前に、小さな池が、あってね」
紅皿は、小石を真上に投げ上げた。
天井近くまで、真っ直ぐに上がった小石が降下し、再び紅皿の掌に受け止められる。
「ひとつめは、池に向かって投げる。このとき家の中にいるわたしは、水しぶきを聞いて、持資様が家の前まで来たことを、知る」
「なるほど」
紅皿は、小石を再び投げ上げた。
今度は、放物線を描いた小石が、大助の掌に、収まった。
「ふたつめの水音を聞くと、わたしは、戸を僅かに開けて、隙間から弓を構える」
大助は小石を、投げ上げた。天井近くまで上がった小石が、放物線を描いて、紅皿の掌に、収まった。
「三つめの小石を、姉様が射落とす、という訳じゃな」
「その通りじゃ」
紅皿は小石を掌で転がしながら、頷いた。
「それゆえ、さっきも言うた通り、小石を射落とすのは、神業でもなんでもあらぬ。わたしは、持資様が投げる小石の上がる高さも、早さも、軌道もあらかじめ知っている。ちょっとふざけて、小石を眼を閉じたまま、射落としたことがあるわ」
「眼をつぶったまま、じゃと……。それはやっぱり、すごい。おいらの弓の腕から見れば、何やら別世界のようじゃ」
「神業ではのうて、別世界か」
難しい顔をしていた紅皿が相好を崩し、笑った。
「そこまで、親しくされておったのなら……」
大助が、ひざを進めた。
「いっそのこと、内緒のお付き合いではなく、持資様とめおとになれば、良かったのではないか。正室か、側室か、よくわからぬが……。姉様も、その方が、幸せじゃったのに」
「そうなんだけれど、ね……」
紅皿の眉が、曇った。
「持資様も、めおとになることを、考えてくれたの。でも、持資様は当時、元服したばかりでね。室を迎えるなど、周囲が認めてくれる筈がなかった。そこで」
「そこで?」
「まずは太田家に、奉公することを、勧めてくれたの。いずれ折を見て、室に迎えてくれる前提で」
「でも結局、受けなかったのかな?」
紅皿は、眼を閉じた。
「またとない良いお話では、あったんだけれど……。太田家に入ってしまったら、あばら家には、戻れなくなるでしょ。そうなれば、もし父が戻って来たとしても、会えないままになりは、しないかって、考えてしまったの。それで、一晩、考えさせてくださいと、お返事したの」
紅皿は、虚空を見据えた。
「わたしの運命は、そこで、変わってしまった」
「どんなふうに、変わったの?」
「その晩、寝ているときに、あばら家に久長様の家来たちが、襲って来たの。五人はいたかな。矢をつがえるいとまもなく、あっという間に、拉致されてしまったのよ」
「おなごひとりに五人とは、やり過ぎじゃないか?」
「わたしが敦賀流の使い手だって知っているから、恐かったんでしょうね。でも実際には、わたしはなすすべもなく、この砦に連れて来られてしまった」
襖の向こうからは、相変わらず、大きないびきが、聞こえて来ている。紅皿は、襖を見透かすように、視線を動かした。
「皮肉な、ものよね。父が、戻って来るかもと思って、持資様からのお誘いを保留に、したのに。この砦に来てみたら、父と再会するなんて」
大助は、首をかしげた。
「父様は何で、ここにいたの?」
「兵士の皆様に、敦賀流を教えるためよ」
「じゃあ、姉様が連れて来られたのは……」
「父はあるとき、馬から落ちて、足を傷めてしまってね。敦賀流を、手取り足取り、教えることができなくなってしまったの。それで久長様は、代わりにわたしに教えさせることを、思い立った。わたしはまだ、敦賀流を極めたとはいえないけれど、父が心得を教えて、わたしが実演すれば、いいだろうくらいに、思われたんだわ」
大助は、拳を握った。
「まったく、ひどいじゃないか。せっかく、幸せになれそうだったのに……。無理矢理連れて来て、弓を教えるための、道具みたいに使うなんて」
「ここに来てから、十とせになるけれど……。その間、一度たりとも、外出することは、許されなかったわ。外へ向けて、文を書くことも……。まるで、籠の中の鳥じゃった」
「久長様、まことに、許せぬ」
「結果として、わたしは、持資様の前から、突然、消えてしまったことになる。わたし自身のせいではないにしても、持資様に悲しい思いを、させてしまったことは、間違いなきことじゃ」
紅皿の瞳がうるんで、たちまち涙が溢れはじめた。
「川の向こうでは、だめなの。息がかかるほど近くで、じかにお会いして、お詫びをしたいんじゃ」
「それは、いかぬ!」
大助が、立ち上がった。
「どうして……。どうして。いけないの」
「姉様と持資様は、今は敵と味方じゃ。もし会いにゆけば、間違いなく、捕らえられる。捕らえられれば、命を奪われるか、よくても島流しじゃ」
「まさか……。昔の恋人を、殺したりはしないわ」
「そいつは、甘いぞ」
大助は、声を荒げる。
「持資様が許されても、周りの家臣たちが、厳しい処分を、求めるに決まっておる。十年前と違って、持資様は主君なのじゃ。家内の混乱を防ぐことを、優先させて、姉様を罰する」
大助の眼にも、涙が溢れはじめた。
「おいらには、父母も、きょうだいもおらぬ。頼みになるのは、姉様だけなんじゃ。どうか、どうか……。おいらの前から、おらなくならないでくれ」
(五)
峯雄氏の砦は、川岸に沿った、天然の崖を利用して、建てられている。崖に沿って、幾つかの建物が立ち並んでいるが、一番上に、自然にできた洞穴があった。
洞穴の入り口には、頑丈な鉄柵が嵌められて、外側から錠が、掛けられている。牢屋であった。
灰色の法衣に身を包んだ尼が、眉間に皺を寄せて、紅い唇をきっと結んでいた。じっと動かぬまま、下方に見える砦と川向こうの動きに、眼を凝らしていた。
紅皿である。
東の空は、茜色に染まりかけていた。空を覆う雲の隙間に、僅かな輝きが、見え始める。
闇に包まれていた峯雄砦の周辺が、次第に光に包まれてゆく。
ぼんやりとした光の中から、砦に迫る一群の人影が、その姿を現わしはじめた。人影の間には、幾つもの旗が林立している。旗には、五弁の桔梗の紋が、染め抜かれていた。
太田持資の軍である。
夜のうちに、兵を進めた持資の軍勢は、すでに川に沿って、峯雄砦の目前に戦陣を整えていた。
(これが、矢文に対する、答えなのか)
紅皿は、いぶかった。
矢文で送ったのは、持資に対する、謎かけだった。
今の持資の気持ちは、うかがい知れない。良い返事があるか否かは、まったくわからない。
そのため言葉ではなく、どうとでも解釈できるわけありの形で送るしか、なかった。
(紛れもない……。わたしの気の迷いの姿じゃ)
矢文に託して送ったのは、今いる砦の、絵図だった。あるとき、蔵で見つけたもので、何かの役に立つかと思って、密かに写し取っておいたものだ。
持資は過去のいくさにおいて、僅かな家来のみを伴って自ら斥候に出る。そんな噂があった。
太田家と峯雄家が戦争状態になれば、自分は必ず、川向こうに斥候に来た持資を、矢でもって射ることを命じられるだろう。そのときに備えて、あらかじめ矢文を、用意しておいたのだ。
絵図には、一切文字は書いていない。しかし、周囲の地形や、郭の外形などから、峯雄氏の砦を描いたものだと、ひと目でわかるはずだ。
いくさにおいて、敵の砦の様子をあらかじめ知っているか否かは、大きく勝敗に影響する。
絵図は、最高級の機密のはずだ。
(大事な大事な、絵図を送ったんだ。わたしは気持ちの上では、敵ではない。わかってくれたのでは、ないじゃろうか)
ひょっとしたら、持資は軍勢を送って、自分を助けてくれるつもりでは、ないだろうか。
まさか……。そんなこと、ある訳がない。
紅皿は、自らを嘲笑った。
(そんなこと、あるわけが、あらぬ。持資様は今や、一軍の将じゃ。一軍の将たる者が、敵方にいるひとりの女を助けるために、わざわざ全軍を動かすなんて、あろうはずがない……。わたしの、独りよがりじゃ)
今の持資は、紅皿にとって、余りにも遠い存在である。相手になどしてくれるはずはない。それは紅皿自身が、痛いほど知っている。さればこそ言葉ではなく、絵図に謎を込めて送ったのだ。
(でも、持資様はわたしを、覚えていてくれた)
空高く投げ上げた小石を、弓で射る技は、遠い昔、持資と密会する際に用いた、合図である。それを昨夕再現できたことは、持資が自分を、憶えていた証左ではないか。
(されど……)
紅皿の想いは、さらに反転する。
(されど、十年という歳月は、あまりにも、長い……)
十年の年月は、ふたりの立場を、大きく変えてしまった。十年前、持資は太田家の跡継ぎの少年に過ぎなかったが、今や立派な当主だ。二十代半ばの若さで、関東管領上杉家の家宰として、広大な関東一円を、実質的に治めているのだ。
紅皿のことなど、最早何ほどにも、感じていないかも知れない。
さらに、今の自分の立場もある。
(わたしも、昔のわたしでは、ないのじゃ)
今の自分は、峯雄家の弓の師匠である。持資の敵なのだ。現に昨日も、持資に向け矢を放ったではないか。
(でも……)
仮に、持資が今紅皿のことを何ほどにも、感じていなくとも、十年前ふたりは確かに愛し合っていた。持資は自分のことを想い、失踪した自分を探してくれたはずだ。
(せめて、一目だけでも、お会いしたい)
それで、今の持資の思いが、わかるだろう。待っているのは、失望かも知れないが、僅かな希望も、ある。
砦の物見台は、紅皿のいる牢屋より、低い位置にある。その様子が、紅皿の眼に映る。
「来たか」
物見台に立つ侍が、呟くように言った。
侍は、昨日弓を引いていた若い兵たちとは、出で立ちが異なる。赤糸縅の鎧を身に着け、黒塗りの太刀を帯びている。兜には、金色の鍬形が輝いていた。
「敵襲! 敵襲じゃ!」
武将が砦内に向け叫ぶと、座っていた兵たちが、一斉に立ち上がった。
兵たちは持資の軍が迫って来るのを予期し、待機していたのであろう。
砦の柵に沿って、整然と座っていた兵たちが、立ち上がった。恰も眠っていた巨象が、敵を察知して、動き出したときのようだ。
「弓隊、構えよ!」
武将が再び叫ぶと、兵たちが、背に負うていた矢を取り出し、おのおの弓を番える。
「待たれよ」
川の向こうから、大音声が響いた。紅皿の耳にも、よく聞こえる。
緊迫した空気が流れる中、持資軍の後方から、栗毛の馬に跨り、黒糸縅の鎧を身に着けた、武者が進み出て来た。
「そこなるお方、峯雄家ご当主、久長殿とお見受け申す。拙者は、太田持資が家臣、中村重義と申す」
「昨夕は、御大将自ら斥候とは、まことに御苦労なことじゃったのう」
久長が半ば、揶揄するように言った。
「何の。兵どもの士気を、鼓舞するためには、当たり前のことじゃ」
久長は顎に手をやった。顎から口にかけ、顔面が黒々としたひげに覆われている。
「されど、お主らの御大将のお姿が、今は見えぬの。持資殿は、所詮上杉の狗じゃ。おのれらのことはおのれらで決める、峯雄とは違い、胆力がないのじゃな。さては、いくさに怖気づき、逃げられたか」
重義が、やり返した。
「我が主、持資様は、昨日お主らの軍勢を御覧になって、大したことはない、御自ら手を下すまでもなしとみて、別の戦場へ、出かけられた」
「おのれ、大したことは、ないじゃと」
久長は腰に帯びていた大刀を抜き放った。朝日を受けた刀身が、ギラギラと輝く。
「いや、失礼を申した。そう熱くなられるな。昨日、拝見した尼殿の技は、まことに大したものであった。あの尼殿は、どうした」
「ふん」
久長は、唾を吐いた。
「弓の腕は、大したものでも、実戦には、役に立たぬ。昨日は、無防備な持資殿を、射殺すことも、できたはずじゃった。それを、みすみす逃しおった。謀反の疑いもある故、牢へ叩き込んでやったわ」
「姉様を、牢にじゃと」
弓隊の中にいた、ひとりの少年が、久長のほうへ向き直った。
大助であった。
「不服か」
久長が、一喝した。
「逆らう者は、皆、牢屋行きじゃ」
「姉様の人生を、台なしにしおって。お主だけは、許さぬ」
大助は、弓を手に取って、久長に向けて、矢をつがえた。
「やめて。わたしのことなんか、どうでもいい。久長様に、謝って」
紅皿が、叫んだ。
「危ない」
牢屋の鉄柵を掴んで、あらん限りの声を、上げる。
「後ろじゃ。後ろを、見て」
大助が、振り向きかけた、刹那である。
背後から近付いていた久長の家来が、大助の背中を、槍で深々と、貫いていた。
悲鳴を上げる、力もない。
大助は、弓矢を取り落として、倒れた。
それきり、ぴくりとも、動かない。
「大助……。大助……」
紅皿は、鉄柵の前で、崩れ落ちた。
(六)
「紅皿よ」
紅皿は、涙にくれている。
その思いを遮るかのように、牢の奥から、しわがれた声が、侵入して来た。
「いや、今は尼殿、紅源院(こうげんいん)じゃったな」
そこにいたのは、敦賀流総帥、立花助左衛門であった。
紅皿は、流れるものを拭って、振り返った。
「紅皿で、結構じゃ」
助左衛門は、左の脚を自らの意思で動かす能力を、永遠に失っている。ひとりでは、立ち上がることすら、できない。
「わしも、外の様子が見たい。肩を、貸してくれるかの」
「承知しました」
紅皿はよろよろと、父の横に歩み寄って、寝転んでいた父を、抱き起した。助左衛門は、紅皿に寄りかかりながら、ゆっくりと鉄柵の近くまで、移動してゆく。
(父が怪我さえ、しなかったら……。わたしの人生は、変わっていた)
紅皿は、日ごろから繰り返し考えてしまう「しなかったら」をまたぞろ考えた。
紅皿の記憶にある若い頃の父は、実に颯爽としていた。
京で脚光を浴びた、敦賀流の総帥で、弓の腕にかけては、肩を並べる者は、いなかった。
公家をはじめ、足利幕府の要人たちからも、注目されて、京の女たちの憧れの的であった。
今は、ぼろを纏い、白いものが交じった頭髪と髭を長く伸ばして、脚を引き摺る老人である。
紅皿は、遠い過去に、思いを馳せた。
(こどもの頃は、まことに、幸せじゃった)
和歌を好み、美しく優しい母は、弓の名人の父との仲も良く、人目を寄せ付けるふたりを、公家や武家の貴人たちが、あまた訪ねて来て、家はいつも、雅な空気で包まれていた。物心ともに満ち足りた、夢のような日々であった。
(でも、終わってしまった。祖父の自死で)
母方の祖父は、朝廷内での権力争いに敗れ、自ら命を絶った。悲しみのあまり、心身共に疲れきってしまった母も、病を得て、他界してしまった。
己にも災いが及ぶことを恐れた助左衛門は、京を逃れて、関東へ落ち延びた。
長きに渡って彷徨った末に、武蔵国の野原に、一軒の空き家を見つけて、父娘ふたりで、暮らし始めた。
紅皿、十ニ歳の時である。
(そこに現れたのが、久長様じゃった……)
武蔵国の土豪、峯雄氏の当主久長は、野心家であった。表面、関東管領上杉氏の家宰、太田家に、従う姿を取っていながら、着実に力を付け、叛く機会を窺っていた。その久長が、兵力増強のまたとない道具と見たのが、敦賀流総帥、助左衛門であった。
久長は、知人宅へ出かけた帰路の助左衛門を襲って、峯雄の砦へ拉致した。以来助左衛門は、砦から外出することを禁じられて、敦賀流の師となることを、強要されたのだ。
こうして、紅皿のあばら家でのひとり暮らしが、はじまったのである。
(でも、ひとりになったお陰で、持資様と出逢えた。ともに過ごせたのは、ほんのひととせじゃったけれど)
ひとり暮らしの中、紅皿は持資に出逢った。京での雅やかな暮らしを失い、父が行方不明となって、心細い日々を過ごしていた紅皿にとって、持資との出逢いは、奇跡的ともいえる至福であった。短い間であったが、毎日が楽しく、幸せだった。生きてきて良かった、と心底思えた。
(短かったけれど、かけがいのないときじゃった。これまでのわたしの人生の中で、まことに格別なひととせじゃった)
が、紅皿の預かり知らぬところで、特別な一年は、終わった。
助左衛門が誤って落馬して、重傷を負ってしまったのである。幸い一命はとりとめたが、以来左脚を動かすことが、できなくなった。
こうなれば最早、弓を引くことは、できない。
(白羽の矢が立ったのが、わたしじゃった)
弓を引けなくなった助左衛門は、いくら知識や知恵が豊富でも、自ら敦賀流を、実演することは、できない。娘である紅皿は、幼い頃から、父の手解きを受けて、敦賀流の真似ごと位はできるので、両人を同時に膝元に置けば、敦賀流を峯雄家のものにできると、久長は考えた。
かくして、久長は、紅皿の住むあばら家を、襲わせた。
持資に奉公の返事をするはずだった前日の夜のことだ。峯雄からやってきた五人の兵たちに囲まれ、無理やり駕籠に押し込まれて、紅皿は、峯雄の砦へ連れて来られた。連行の際、持資へ伝言することも、書き置きを残すことも、できなかった。
(思えば、わたしの人生は)
紅皿は、肩に寄りかかっている父の、老いた横顔を見つめた。
(この父と、父がわたしより大切に思う、敦賀流というものに、振り回されて来た人生と、いえるかも知れぬ)
鉄柵の近くに戻って、改めて眼下を見る。
「大助は、痛ましいことと、なったのう。幼き命を散らして、さぞかし、無念であろう」
戦場の片隅に、小さな遺体が忘れ去られたごとく、転がっている。大助少年のものだ。
助左衛門は、しばし、瞑目した。
隣で紅皿も、眼を閉じる。
やがて眼をあけると、助左衛門は、紅皿に向き直った。
紅皿の眼を真っ直ぐに見て、娘の心を、見透かすように言った。
「紅皿……。今日のいくさ、誰のせいで起こっていると思う」
「久長様のせいでは、ないのじゃろうか……。かつて主であった太田家に、反旗を翻したわけじゃから」
「いいや」
助左衛門は、首を振った。
「確かに、いくさをはじめたのは、久長様よ。だがな。今、下のほうで起こっている、凄惨ないくさを、止めることのできた者が、いた」
助左衛門の眼が、鋭くなった。
「それは……」
紅皿は、はっとした。
「…………」
「分かったかの」
「わ……わたしのことじゃね」
紅皿の声が、震えた。
「うむ」
助左衛門が、容赦なく頷いた。
「昨日わたしは、丸腰で無防備な持資様を、射殺すこともできた。なのに何故そうしなかったと、おっしゃりたいのじゃね」
助左衛門は、首を横に振った。
「いや。それはちょっと、違うな」
「どう、違うのじゃ」
助左衛門は、右手の小指を、紅皿の眼前に、翳して見せた。
「『指貫き』だよ」
「ゆびぬき……」
「そう。『指貫き』だ。そなたも重々承知の通り、敦賀流は、人を殺さぬ。精緻な技を用いて、人を殺さずに、大きないくさを、事前に食い止める」
指貫きの技は、紅皿も知っている。眼も霞むような遠方にいる敵の、武器を持つ利き手の小指を矢で正確に狙って、射抜く。若い頃の助左衛門のみが、成し得たという、敦賀流の奥義である。
「昨日、そなたが持資様に対した際、『指貫き』の技を使えれば、大将の負傷を理由として、太田勢は一旦兵を引いたであろう。太田勢が兵を引けば、こちらもときが稼げて、新たな策を、練ることもできた。援軍を頼むことも、できだはずじゃ。それらを全て無に帰さしめてしまったのが、昨日のそなただったのじゃ」
「つ、つまりわたしが未熟ゆえ、今日のいくさを、引き起こしてしまった、と……」
「そういうことになる」
からだは弱っていても、ことが敦賀流に関することとなると、助左衛門は、極めて厳格である。
(確かに、その通りじゃ)
紅皿は俯いて、唇を噛んだ。
(五つのとき弓をはじめて、十九年にもなる。なのにわたしは、いまだ、未熟者じゃ。もし、わたしが『指貫き』の技を使えたならば、持資様の小指を傷つけるだけ。お命に別条はなく、今日のいくさを、を食い止めることができたのに……)
紅皿の眼に、涙が滲んだ
(大助を死に追いやったのも、わたしじゃ)
持資へ向けて放った矢を、わざと外したりしなければ、大助に心の迷いを見抜かれて、身の上話を打ち明けることも、なかったはずだ。何も聞かなけば、大助は今、むくろには、なっていなかっただろう。
(全て、わたしの罪じゃ。わたしが、未熟なばかりに)
紅皿は父を肩から降ろすと、膝を地面に、突いた。
(悔しい。まことに、悔しい。わたしが未熟者でなかったら……)
父と敦賀流に、振り回されて来た人生……。それはそれで、確かだと思う。だが振り回されて来たことが、未熟であることの言い訳には、ならない。人を殺さないはずの敦賀流が、未熟ゆえにかえって、人の命を縮める結果に、なっているのだ。
(敦賀流を、極めたい……。それまでは、どんな苦しみも悲しみも、耐えるんじゃ)
紅皿は眼を伏せ、震える手で、法衣の裾を固く握りしめた。
砦の中では、屈強な持資軍の突入隊が、本領を発揮しはじめていた。
彼らは弓、槍、刀の実力を、日々鍛え上げている。どれを執っても、一流の腕前だ。。
たちどころに、峯雄の武者たちをなぎ倒し、討ち取って、前進を開始した。
持資軍は、動きが速い。
峯雄の武者が、刀を振り上げる。振り下ろすより先に、あっというまに数十本の矢が突き刺さった。
持資軍への突撃を試みた武者が、たちまち両脇から、槍で脇腹を貫かれる。
恰も大河を遡る竜のごとく、持資の兵たちはひとつになって、遮る者たちを、なぎ倒してゆく。
「退け。退くのじゃ」
たまらず武者のひとりが叫ぶと、峯雄勢は、後退をはじめた。
「火をかけよ」
対岸で戦況を見ていた重義から、下知が飛んだ。
それに従い、侍たちが砦の壁に向け、あまたの火矢を放つ。
瞬く間に火が広がり、砦は炎に包まれ始めた。
(七)
細かい雨が、降りはじめた。
ときおり、突風が吹いて、辺りの空気を、震わせている。
「あれは、何じゃろう」
紅皿の隣に座していた助左衛門が、突然上空を、指差した。
小さな黒い塊が、宙を舞っている。
その黒いものは、ゆらゆらと揺れながら、かすかに火のにおいを、漂わせていた。炭化した木片であった。
「まさか」
紅皿は、伏せていた眼をあけて、眼下を見下ろした。
「砦が」
一旦、絶句する。
「砦が、燃えております」
飛んで来た木片は、炎上した砦の燃えかすが、風に乗って、舞って来たものらしい。
炎の回りが、早い。
見る間に、紅蓮の炎が、全てを焼き尽くすように、燃え上がって来ている。黒煙が、巨大な柱のごとく、天を衝きはじめた。
煙は、牢屋の前まで届いて、紅皿の視界は、煙に包まれた。煙を吸い込んだ助左衛門が、咳き込む。
「父上。奥へ、退がりましょう」
紅皿は、素早く助左衛門の肩を抱くと、黒煙に背を向けて、牢屋の奥へ、退こうとする。
「おい」
そのとき、紅皿の背後で、野太い声がした。
紅皿が振り向くと、鉄柵の向こうの煙の中で、人影が蠢いた。
鉄柵の出入り口に掛けられた、錠をあける。
煙の中から、ひとりの男が、姿を現わした。
「ここから出る。砦を、脱出するぞ」
血の付いた大刀を、提げ持っている。
峯雄久長であった。ひとりの従者も、連れていない。
「久長様」
紅皿は、眼を見開いた。
「どうして、ここへ、いらしたのじゃ。砦の中では、まだご一族の方々が、戦っていらっしゃるのじゃろう」
「黙らっしゃい」
久長は、血走った眼を、吊り上げる。
「ご一族の方々を残して、ご自分だけ、逃げるおつもりじゃろうか。それは、峯雄の長として、あるまじきことでは、ありませぬか」
「やかましい」
久長は叫ぶと、紅皿の頬を、平手で叩いた。
紅皿はよろけて、尻餅を突く。
焼けるような痛みが、頬を包む。紅皿は、叩かれた頬を、押さえた。
「わしは、峯雄の長だ。他のやつらが、どうなろうと、わしさえ生き延びれば、峯雄家は、存続じゃ。そなたら敦賀流の親子を手に入れれば、いずこの領主も、戦力が大幅に、伸ばせるからな。手土産にそなたらを、持って行ってやりゃあ、わしの待遇も、良くなる。わしは、どこまでも、おのれの意思で、自由に生きる。秩序にこだわる持資とは、違うんじゃ」
「ふざけないで、くだされ」
紅皿は立ち上がって、久長を睨んだ。
「わたしたちは、そなたの道具では、ありませぬ」
「うるせえ」
久長が再び、紅皿の頬を、平手打ちする。
(この方は、いつも、こうなんじゃ。これまで幾たび、叩かれたことか。暴力を振るえば、人は従うと、思っているのじゃ)
口元に滲む血を、右手で拭いながら、紅皿は思った。
(叩かれても、叩かれても、我慢する。絶対に心までは、従わぬ)
久長は、血の付いた大刀を、紅皿の眉間に向けて、顎をしゃくった。
「いちいち、口答えしやがって。すぐ近くに、馬が繋いである。そこまで親父に肩でも貸して、連れて行け」
紅皿と助左衛門は、黙って顔を見合わせ、頷き合った。
(知らなかった。ここが絵図にあった、点線じゃったのか)
薄暗い抜け道を進みながら、紅皿は、周囲を見渡した。
昨日、紅皿が持資に矢文で送った絵図は、あるとき蔵で見つけて、密かに写し取っておいたものだ。
絵図には、砦が建っている側とは、反対の下り斜面、いわば裏山に、点線が、引いてあった。その点線に当たるのが、今紅皿が、助左衛門および久長と進んでいる、抜け道なのである。
砦の裏山は、大小の草木が、鬱蒼と生い茂っている。抜け道を歩く者を、周りから完全に、隠すことができる状態だ。砦が落ちる際に備えた、逃げ道であることは、明らかであった。
紅皿は先頭に立って、生い茂った草木を掻き分ける役目に当たるよう、久長に命じられている。
峯雄の砦にやって来てから、十年の月日が、流れているが、この抜け道が使われるような、危機的状況に見舞われたことは、ない。草木が生え放題となり、殆ど道の体を、成していなかった。
(恐らく、長いあいだ、人が通ったことは、あらぬのじゃろう)
立ちはだかる草木を、払いのけながら、紅皿は思った。
一行は、なかなか前へ進むことが、できない。
紅皿の背後には、馬に乗った久長と助左衛門が、続いている。
助左衛門は、足が不自由なため、馬上、久長の背中に、懸命にしがみついている。
ときおり、行く手を阻む倒木の前に、紅皿は、立ち止まった。
そのたび、久長から、罵声が浴びせられる。
紅皿の脳裏には、次第に諦めが、広がって行きつつあった。
(持資様は、攻め手の大将じゃ。砦が燃えている、ということは、砦の表側に、おられるのでは、なかろうか)
紅皿は改めて、ため息を吐いた。
(このままわたしが、裏から逃げてしまえば)
紅皿は、歯噛みした。
(再びお会いすることは、叶わぬ)
紅皿の脳裏に、昨日小石を投げ上げた、持資の姿が浮かんだ。
(もし、叶うならば、ほんのひとときで、いい。お会いして、話がしたい。そして、十年前失踪したお詫びが、したい)
「おい」
紅皿のめぐる思いを断ち切るように、後ろから久長が、叫んだ。
「前に見える抜け穴に入れ。隧道になっておる。隧道を抜けたところが、出口の寺じゃ」
(八)
(これで、いいのかも、知れぬ)
紅皿は何度も、自らに言い聞かせていた。
隧道は、完全な闇ではない。ところどころ明かり取りの穴があって、地上から微かな光が、差し込んでいる。
足元を確かめながら、紅皿が先頭で進む。馬に乗った久長と助左衛門が、後に続く。
(これで、いいのかも知れぬ。持資様に二度と会えなくとも……。それが、わたしにとっての、現実なのじゃから)
もう、いかにしても、後戻りはできない。
自分も、父も事実上、久長の手中にあり、身動きはできないのだ。
紅皿の前方に、これまでの情景とは、異なる構造物が、現れた。
上へ登る、石段である。
「ここだ……。ここを登れ」
久長が命じた。そこが、隧道の出口であった。
隧道の出口は、砦の裏山の麓に、位置する。そこに、古寺が建っていて、境内にある観音堂の床が、二重になっていた。隧道の内側からのみ、錠があけられる仕掛けだ。
紅皿は、石段を登り切ると、出口を塞いでいた床板を、押しあけた。
観音堂の中に、ひと気は、ない。
そこには、微笑みを浮かべた、十一面観音の立像が、静かに、佇んでいる。あたかも、辺りを慈悲で、包み込むようだ。
紅皿は、観音堂の床に立ち、合掌した。
久長と助左衛門を乗せた馬が、床に上がった。
観音堂は、さして大きなものでは、ない。
紅皿のすぐ眼の前に、外界へ通じる扉が、あった。
紅皿は、扉を僅かにあけて、外の様子を、窺った。
霧状の雨が、地面を、濡らしている。
境内には本堂、鐘楼など、幾つかの建物が、散在しており、観音堂の前には、広場のような空間が、ある。
広場は、茶色の土で覆われ、その周囲に、あまたの木々か伸びて、辺りを一面の緑で、囲んでいた。
ふいに、茶と緑の世界に、白いものが、横ぎった。紅皿の視界の彼方に、山門がある。白いものは、山門から境内に入って来ると、だんだんと、大きな塊と、なって行く。
暗い抜け穴から、出てきたばかりの眼には、まばゆい光に、見えた。
(何じゃろう)
紅皿は、訝った。
やがてそれは、月毛の馬に跨った、人の姿に変わった。
「あっ」
小さく叫ぶと、一瞬からだが、硬直したように、動けなくなった。
純白の法衣に身を包んだ、持資の姿が、そこにあった。
何故、持資の姿が、ここにあるのか。
攻め手の大将である持資が、ただひとり、秘密の抜け穴の出口で、待っている。通常ならば、ありえないことだ。
あれこれ考えを巡らせるうち、紅皿の脳裏に、浮かぶものがあった。
(わたしが矢文で送った、砦の絵図じゃ……。絵図にあった点線の意味が、持資様には、わかっていたのじゃな)
持資はそれが、砦が落ちた際の脱出路であることを、読み取ることが、できたのであろう。砦が落ちることを見越して、こちらに先回りして来たのに、違いない。
ならば持資は、紅皿が裏山の脱出路から逃げるのを予見し、紅皿に会うために、ここへ現れたのではないのか。
(持資様は、わたしに、会いに来てくれたんじゃ)
嬉しさのあまり、紅皿は一瞬、周りの全てを、忘れた。
「持資様」
ひと声叫ぶと、観音堂の扉を開いて、持資のいる方向へ、駆け出す。
近付いて来る紅皿の姿が、持資の瞳に、映った刹那である。
紅皿の背後で、威圧的な声が、響いた。
「おい、待ちな」
峯雄久長である。
馬を降りて、観音堂の前に、立っている。隣には、同じく馬を降りた、助左衛門の姿が、あった。
久長は、左腕で助左衛門の肩を掴んで、身動きできぬようにしている。同時に、右腕を使って、大刀を助左衛門の喉元に、突き付けていた。
「そなたは、太田持資じゃな」
「いかにも」
馬上、持資が頷いた。
久長が、持資を睥睨する。
「馬から降りて、武器を捨てろ。こいつは、そのおなごの父親じゃ。言う通りにしねえと、この男の命が、ないぜ」
「わかった」
持資は表情を変えず、白馬から降りる。腰に帯びていた白塗りの太刀を、地面に、静かに置いた。
久長と持資との間には、四十間ほどの空間がある。ちょうど中間辺りにいる紅皿に、久長が、顔を向けた。
「そなたは昨日、持資に矢文を送ったと、聞いたぞ。つまり、持資と、通じあっていた。わしの見た通り、峯雄を、裏切っていたわけじゃ」
「裏切りでは、ありませぬ」
紅皿は、首を振った。
裏切ろうと、思っていたわけでは、ない。持資への複雑な想いを込めて、いわば謎かけとして、絵図を送っただけだ。
久長は、唾を吐いた。
「否定したって、無駄じゃ。そなたの態度を見れば、持資と特別な関係にあることが、たやすくわかる」
特別な関係であることは、確かだ。紅皿は俯き、押し黙った。
「わしが背に負うている、弓矢を取れ」
久長は、叫んだ。
紅皿は俯いたまま、立ち尽くしている。
「聞こえなかったのか。わしの背にある、弓矢を取れ」
久長の催促に、紅皿は眼を上げて、久長と助左衛門の立つ方向へ、ゆっくりと歩き出した。
「おかしなことを、考えるなよ。親父の命が、ないぜ」
紅皿が眼前に近付くと、久長は助左衛門のからだを引き寄せて、喉元に迫っている刀の切っ先を、首筋ぎりぎりまで、寄せる。
紅皿は黙したまま、久長が背負っていた弓矢を、手に取った。
「わしから、離れろ。さっき立っていた辺りまで、行け」
久長に言われるまま、紅皿は、持資と久長の中間地点に、戻った。
「弓を、構えろ」
久長が、絶叫した。
「その弓矢で、持資を射殺せ。そなたの腕なら、たやすくできるはずじゃ」
「そんな……」
絶句する紅皿に、久長はさらに、叫び声を浴びせる。
「持資を射殺せ。さもないと、親父が、死ぬことになる」
「やめてください」
紅皿は、叫んだ。
「やめてください。久長様は、父を、殺せないはずじゃ。父を殺せば、敦賀流は、この世から、のうなってしまう。どこかの領主に、敦賀流を手土産に、持って行くのでは、なかったのですか」
「馬鹿馬鹿しい」
久長は叫んで、唾を吐いた。
「敦賀流も、結構じゃけどな。手土産としちゃあ、持資の首の方が、上なんじゃよ。持資は事実上、関東の長官じゃ。それゆえに、敵も多い。恨みを抱く領主のところへ、首を持って行ってみろ。わしは、神様仏様じゃ。望むものは、何でも頂戴できらあ」
久長は口元に、笑みを浮かべた。
「わしも、運がいいぜ。はなっから人質を取った状態で、持資に、巡り会えるなんてよ。いくさで負け知らずの天下の名将が、尼さんの弓で、命を落とすか。いいざまだ」
久長はひとしきり笑うと、厳しい顔に戻って、紅皿に、改めて命じた。
「さっさと弓を、構えろ」
黙していた助左衛門が、口を開いた。
「紅皿。悔いのないよう、決断せよ。ただし……」
取り乱した様子では、ない。落ち着いた口調である。
「そなたが奥義を、極めぬまま、わしが死ねば、敦賀流は、この世から消える。そのことだけは、よく考えよ」
奥義とは、「指貫き」のことに、他ならない。
弓を持したまま、立ち尽くす紅皿を、久長がさらに促す。
「さっさとしろ。親父を眼の前で、殺されてえのかよ」
紅皿は、追い詰められていた。
追い詰められたまま、弓を構えた。
(九)
紅皿は、弓を構えた姿勢のまま、微動だに、できなくなった。
弓を構えなければ、久長はただちに、助左衛門の首に、刀を突き刺すだろう。
(冗談では、あらぬ)
実の父を眼の前で殺されるなど、断じて、容認できない。
(されど)
ならば持資を射殺すのか。紅皿は、自らに問うた。
(できぬ……。できるわけが、あらぬ)
持資は、紅皿にとって、奇跡的な存在だ。生きてきて良かったと、心から思わせてくれた、唯一の人間である。
父の命と、持資の命……。二つのいのちを秤にかけて、どちらかを選ぶなど、紅皿には、到底できない。
(重過ぎる……。わたしには、どちらのいのちも、重過ぎる)
一応、弓を構えてはみたが、ただちに持資へ向けて、矢を放つ気には、なれぬ。
だが一方で、構えてしまった以上、そのまま永久に静止し続けることも、できない。
そのとき、持資の口が、開いた。
「わしは、武士じゃ。いつでも死ぬる覚悟は、できておる。紅皿、わしを射殺せ。父上を、救けよ」
そう言うと持資は、紅皿に、背を向けた。
「わしの眼を見ていては、矢を、放てまい。こうしているから、遠慮なく放て」
持資は背を向けたまま、腕を組み、そのまま静止した。
紅皿は、持資の背中を見つめた。
(この背中じゃ)
ふいに、紅皿の脳裏に、十年前の記憶が、鮮やかに蘇った。
(この背中じゃ……。あのころわたしが、見ておりしは)
十年の歳月は、持資の出で立ちを、相当に変化させている。
が、背中の姿は、大きくは変わっていないように、思えた。
紅皿はその刹那、少女時代の自分に、今の自分を重ね合わせていた。
(さびしかった……)
幼くして母と死に別れた紅皿は、母の想い出の詰まった京を離れ、父に手を引かれて、関東へ下って来た。
やがて父は、失踪してしまって、荒れた茅屋に、独りで住まいすることを、余議なくされた。
誰も寄り付かぬあばら家で、ただ和歌の書籍だけが、紅皿の友であった。
古今の歌書を、全て諳んじてしまうほどに、繰り返し読むことが、紅皿の唯一の、楽しみであったのである。
そんな孤独な日々の中、まるで別世界に住むような、煌びやかな少年が、姿を現した。
少年は色鮮やかな狩衣を身に纏い、紅皿の住む茅屋の近くで、鷹狩を楽しむようになった。
少年の名は、太田持資である。
少年に仄かな憧れを抱きながら、茅屋の扉の隙間から眺めるしか、術を持たなかった紅皿……。彼女に突然訪れたのが、雨の日の蓑の一件であった。
(本当に、幸せじゃった)
以来、持資の愛馬にふたりで乗って、一緒に野山を巡り、海辺で遊んだ。
持資の背中を見つめていたのは、そのときだった。
持資の背中を見つめ、持資の背中に縋りついて、馬に揺られた。
持資の背中の温かさを感じながら、持資と同じ眺めを見ることが、何よりも嬉しかった。
一緒にいても、多くは、語り合わなかった。
多くを語らなくとも、持資は紅皿を、受け入れてくれている。
そのことが、はっきりと、わかったからである。
(何も言葉は、いらなかった……)
紅皿にとって持資は、自分を受け入れてくれる、唯一の存在であったのである。
その持資を射殺すことは、過去の自分を、殺すことに、等しい。
思い惑う紅皿の頭上に、霧雨がなおも、降り続いていた。
紅皿に引かれたまま、静止した弓矢に、雨水が溜まり、滴り落ち始めた。
「早くしろ」
久長の怒声が、飛ぶ。
「頼む。紅皿」
助左衛門のしわがれた声が、聞こえる。
紅皿は、途方にくれた。
(わたしは、どうしたらいい……。どうしたらいいの)
そのときである。
持資の背中が、僅かに動いた。
持資が、懐に手を入れるのが、紅皿の瞳に映った。
小さなものを取り出したのが、見て取れた。
松ぼっくりほどの大きさの、小石である。
持資は背を向けたまま、小石を投げ上げた。
小石は放物線を描いて、紅皿の眼前に落ちる。
勢いがついたそれが、地面にできた水溜りの水を、撥ね飛ばす。水滴が、紅皿の足元を、濡らした。
持資は、ふたつめの小石を取り出し、さらに頭上に、投げる。
「紅皿」
持資は、呟くように言った。
「幸せというものは、おのれの手で、掴み取るものじゃ。誰かが、与えてくれるものでは、あらぬ」
(おのれの手で、掴み取る……)
紅皿は、持資の言葉を、反芻した。
(今のわたしは、どうしようもなく、追い詰められている……。こんなときに、何で幸せが、掴み取れるの)
その刹那、紅皿の脳裏に、稲妻のように走ったものが、あった。
紅皿は、はっとした。
紅皿の眼に、熱いものが浮かんだ。
大粒の涙が、ひとつふたつと、とめどなく流れ始める。
持資が、三つめの小石を、手にした。
三つめというのは、意味がある。
昨日、川を挟んで持資と対したときも、紅皿は、三つめの小石を、射落とした。
十年前、持資と紅皿が、内密に逢っていた際、他の者たちに気付かれぬよう、合図を送っていた。
それが、三つめの小石である。
ひとつめ、ふたつめまでは、物陰に隠れ、投げ上げられた小石を、あえて見送る。
三つめを矢で射落としてから、姿を見せ合う。
それが、ふたりが密会する際の、決まりであった。
持資は、三つめの小石を、投げ上げた。
紅皿の手が、動いた。
ついに、矢が、放たれたのである。
次の刹那、無言のまま、一つの影が、地面に崩れ落ちた。
「よくぞ、成し遂げた……。見事であったぞ、紅皿」
助左衛門が、しわがれた声を、上げた。
(十)
持資は、元いた場所に立ち続けている。
崩れ落ちたのは、峯雄久長であった。久長は、助左衛門に突き付けていた刀を取り落とし、右手小指を押さえ、地面に転がってのたうち回っている。
小指には、紅皿が放った矢が突き刺さっていた。
久長の刀から解放され、地面に転がった助左衛門が手を叩く。
「紅皿。見事であった。完璧な『指貫き』であったぞ。背後におる者の小指を、振り向きざま、たちどころに、正確に射貫く。これこそ、もう一つの『指貫き』の技じゃ」
紅皿は持資の背中に向けていた矢を、久長の小指に向けて、放ったのである。一瞬の早業であった。
「『指貫き』の奥義は、心身ともに、ぎりぎりの状態に追い込まれた時にこそ、真価を発揮する。それができたのじゃ」
助左衛門は頷きながら、紅皿に視線を向けた。
「おまえはもうかなり以前に、敦賀流の奥義を窮めるだけの技を身につけていた。だが、奥義を己のものとするための、心が伴わなかった。そこが未熟だったのよ。だが、今の射撃で全てを掴んだ。わしが教えることは、もはやない」
助左衛門は、目を細めた。
「父上ったら、こんな命がけの時でも、敦賀流のことばかり……」
紅皿は力尽きたように弓を取り落とし、へたり込んだ。
「ともかくも、良かった。今までできたことがない『指貫き』をやるしか、この場を切り抜ける術はなかった」
ほっとする紅皿の前で、久長は苦悶している。
「久長っ。覚悟!」
持資が白塗りの太刀を拾い、久長に向け突進した。
「くそっ」
これを見た久長は、慌てて乗ってきた馬の背によじ登った。
「この尼め。覚えておれよ」
ひとこと、紅皿に向け毒づくと、馬に鞭をくれた。
驚いた馬は、久長を乗せたまま、寺の境内から逃げ去る。
持資は後は追わない。太刀を下げたまま、久長の後姿を見送る。
その時、境内に野太い男の声が響いた。
「殿。殿! ご無事ですか」
観音堂の中から、鎧武者が姿を現した。中村重義であった。
「おう。重義か。戦の首尾はいかがであった」
持資が大声で問うた。
「万全でございます。砦が燃え、峯雄の一族は、ことごとく退散いたしました」
「重義。済まぬが、頼みがある」
「はい。何なりと」
持資は助左衛門に、目を向けた。
「あちらが敦賀流総帥、立花助左衛門殿だ。だいぶ衰弱しておいでだ。城にお連れし、あたたかなお食事でも、差し上げてくれるか」
「承知」
重義は寝転んでいた助左衛門を、軽々と背負った。
持資と紅皿、ふたりの顔を見比べると、ニヤリと笑った。
「では、ごゆるりと」
ひとこと残すと、背中の上の助左衛門とともに、山門の外へ消えた。
残されたのは持資と紅皿、ふたりきりである。
「持資様」
座り込んでいた紅皿が姿勢を正し、両手を地面についた。
「申し訳ありませんでした。十年前、太田家へご奉公に誘っていただいたのに、姿を消してしまって……。峯雄に無理やり、砦に連れて来られて、以来外出も、書状を認めることも許されず……。持資様はいかばかりお心を痛めておいでかと、ずっと悩んでおりました」
「何を言うか」
持資もまた跪き、紅皿の前で手をついた。
「十年前、そなたを守れなかったのはわたしが無力だったからだ。わたしの無力さゆえ、そなたを十年間苦しめてしまった。もしその償いができるならと、そなたの矢を浴びて死ぬのも、辞さぬ覚悟であった」
「そんな、滅相もない」
紅皿は激しく首を振った。
「持資様を射ることは、自分を殺すのと同じこと。絶対にできませんでした……。さりとて『指貫き』の技を、わたしは成功したことがない。本当に一か八かで、久長様の小指を狙って……」
紅皿は地についていた持資の手を取り、固く握った。
「この手で投げてくださった、三つめの小石のお陰です」
紅皿の目頭が、熱くなりはじめていた。
「先刻のわたしにとって一番の幸せは、持資様も父上も傷ひとつ負わせないこと。その幸せを実現するためには、これまで一度も成功したことのない『指貫き』を完璧にしなければならない……。それは無理だと、一瞬諦めそうになりました」
紅皿は首を振った。
「いえ、一瞬じゃない。この十年、わたしは自分の人生を諦めていた。もう一生峯雄の手からは逃れられない。持資様とはニ度と会えないと。でも、三つめの小石が、思い起こさせてくれたのです」
持資は黙したまま、紅皿の眼を見つめている。
「十年前持資様と密会していた時、わたしは今までの人生でただ一度だけ、己の幸せを己で掴み取ろうとしていました。幸せを自分の手で引き寄せようとすること自体が幸せそのものでした……。今持資様が投げてくださった三つめの小石が、その幸せで前向きな気持ちを思い起こさせてくれた。それゆえ至難の『指貫き』の技を成功できたのです」
持資の目にも、涙が浮かびはじめている。
「良かった。わたしもあの時は命がけだった……。三つめの小石に込めた思いがそなたに届かぬなら、わたしは死ぬしかないと。わたしの気持ちを受け取ってくれて、こんなに嬉しいことはない」
持資は紅皿の手を握り返した。
「雨が、止んだな」
ややあって持資は頭を上げ、空を見上げた。
小雨をもたらしていた雲が切れ、日の光が差し込み始めている。
釣られるように紅皿も、空を見つめた。
空を見上げたまま、持資が言った。
「紅皿。これからどうするつもりだ」
「そうですね……」
紅皿は首を傾げ、顎に指を当てた。
「そうですね。昔住んでいた野原のあばら家で、父と暮らします」
持資は紅皿の瞳を見つめ、首を振った。
「それは危険だ。危険過ぎる」
「危険ですか」
「久長のさっきの様子を見たろう。久長は必ずそなたを探し、仕返しを目論むに違いない。例のあばら家ではたやすく見つかってしまうし、襲われたら防ぎようがない」
「では、どうすれば……」
紅皿は、持資の瞳を見上げた。
持資は、右手の掌を紅皿の肩に載せた。
「わたしの城に来ないか」
「江戸城ですか」
「そうだ。江戸城内ならば、久長に見つかる心配はない。わたしがひとりで考え事などをする時に使う庵が城内の外れにある。とても静かなところだ。そこに父上と暮らしてはどうだ」
紅皿はかぶりを振った。
「それはできません」
「何故だ。何故できない」
「わたしはついさっきまで、持資様の敵方にいた女です。わたしが江戸城に行けば、太田家の家中の皆様が大反対するでしょう。そうなったら、わたしのせいで持資様につらい思いをさせてしまいます」
「わたしは気にしない。大丈夫だ」
「いえ。持資様がつらい思いをしているのでは、と思うだけでわたしがつらいのです」
「そなたを危険に曝す方がよほどわたしはつらい」
持資は目を閉じた。
「本当の気持ちを言おう」
ややあって目を開けると、穏やかな口調で言った。
「久長のことは二の次だ」
持資は紅皿の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ただそなたと一緒にいたい。それだけだ」
紅皿は、先刻持資に矢を向けていた時に持資が言った言葉を改めて思い起こしていた。
幸せというものは、自分の手で掴み取るものだ。誰かが与えてくれるものではない。
持資と同じ城の中で暮らせる。それはさっき考えたほんのひとときだけでも持資と話ができれば、という幸せとは異質な、とてつもなく大きなものだ。
(ただわたしと、一緒にいたい……)
紅皿は持資の言葉を、心の中で繰り返した。
自分は無意識にその言葉を待っていた。どんな理屈よりも、自分を愛してくれ、必要としてくれる、ひとことを。
(わたしの本当の気持ちも同じだ。ただ持資様と一緒にいたい)
敵方にいた自分が江戸城に行けば、持資も自分も、つらい思いをするであろう。だがそれでも、一緒にいられることは、無上の幸せのはずだ。
雲が切れ、明るさを取り戻した太陽の光が、紅皿の頬を照らし始めている。
(そうだ。幸せを自分の手で掴み取らなければ……。そうしなければ、生きている意味がわからない)
「どうだ。来てくれるか」
持資の再度の誘いに、紅皿は無言で頷いた。
持資は紅皿を抱きしめた。
「どんなところで、ございますか」
持資の胸の中で、紅皿は問うた。
我が庵は 松原続き 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る
持資は答えとして、自作の歌を口ずさんだ。
「素敵なところでございますね」
紅皿の瞳に、大粒の涙が溢れ始めていた。
柔らかな風が、寺の境内に流れ始めている。
いつまでも抱擁し合うふたりを、木漏れ日が穏やかに包み込んでいた。
(完)
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