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プロローグ
-2 名前の無い魔法使い
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-2
エナンデリア大陸、西州の旧国、エルレーン公国の南部に広がる、『雨の森』
木々の間に見える夕日が、みるみる沈んでいく。
草原に二つの影が伸びる。
一つは男、もう一つは幼い少年。
「まだ歩けるか、ルシ」
ときおり、男は振り返り、遅れ気味になる子供を気遣う。
「平気だよ、ナーダおじさん」
ルシと呼ばれた子供は答える。
大丈夫。こんなの平気。
先月前までいた施設では、まるで人間らしい気がしなかった。
世の中にあふれかえっている戦災孤児のひとりで、どこにでもいる、誰にも必要とされない存在だと、絶えず思わされていた。
でもそれは自分一人の心にしまっておく。
口に出せば、優しい叔父ナーダが悲しそうな顔をしてルシのために人生を取り戻そう、何かしらしてくれようとがんばってしまうから。
もう、違うんだ。
自分は誰にも必要とされないゴミじゃない。
前方を行く、がっしりとした男の背中を、子供は見上げる。
その背中を覆う、着古した外套は砂にまみれて、裾や袖口がすり切れている。
長い長い戦争があった。
戦場で叔父は死の淵をさまよい、終戦を迎えた。
軍を離れ、同じく戦場で亡くなったはずの姉の手がかりを求めて探し歩いた、彼はそう言っていた。
その姉の遺児を、大陸じゅう捜してようやく見つけた。もう心残りはないと、静かに、うれしそうに笑った。
叔父は、自分には名前がないと言った。
「あるものに売ってしまったんだ、名前と魂とを」
だから「何者でもない」ナーダと呼べと。
奇妙なことを言うとルシは思ったが文句は言わなかった。
なにしろ叔父は『魔法師』だという。
彼らは常に自分に厳しく業を課していた。修行にあけくれる変わり者と世間では評判だった。巡礼などに至っては定めて住むところもなく聖地を巡り、生涯、さまよい続けるのだ。
それでもルシには初めてできた家族だ。
灰色の目を細めて、叔父はつぶやく。
「馬を無くさなければよかったんだがな。これでは、次の街まで間に合うか…」
暗赤色の小さな月、『魔の眼』があらわれるまでに、という言葉を、彼は飲み込んだが、もちろん二人とも心得ていた。
いま夕空に半月が淡く白く光っている『真月』に比べて、その半分の大きさもないこの暗い月が空にかかるとき、闇は活気づき、人の心は恐れに満ちて、闇の中に怪しい生き物の姿を見いだす。
たとえ本当は、夜行性の獣が動き出すだけのことで、闇の中に何もなくとも、自らを追い詰めて、時には命を落とす。
日が落ちてから荒野を旅する者などいない。
この二人も、本来はとうに次の街の門をくぐっているはずだった。途中で馬がばてて、前の宿に置いてくるしかなかった。
日が落ち、夕映えの最後の残照が消える。
急速に夜が降りかかってくる。
二人にとって幸いなことが、一つあった。
空にかかっていた半月が、白い輝きを増してきたことだ。
ふいに、叔父が立ち止まった。背中に、みるみる緊張がみなぎった。
「おじさん? どうした?」
叔父は暗い空を見上げていた。
まるで中空に浮かんでいる何かを見つめているようだ。
「ここまで追ってきたのか、赤い魔女」
空を睨み、絞り出すように彼は言う。
「あかい、魔女?」
暗い空に、ルシは何者の姿をも見いだせない。
「くるな、おまえはそこで待っていなさい」
手を振り、子供を押しとどめて、叔父は暗い森へ踏み込んでいく。
「おじさん!待って、危ないよ!」
何もいない空虚な場所に向かって、叔父は話しかけているようにしか見えない。
狂ったのかと不安にかられた。
「この子は関係ないはずだ!放っておいてくれ」
叔父との間には闇が立ちふさがっている。彼の姿は見えず、必死に言いつのる声だけが聞こえる。
「姉は、ヴィア・マルファは死んだ。だから契約は無効のはず。もう終わらせてくれ!」
そして、何かが、彼に答えた。
その声だけが、闇の中、中空からさやかに響いた。
若い女の、あるいは少年の、静かな声が。
「本当に終わらせていいのかな? アンティグアのエルナト。あなたは戦場で、すでに命は尽きていた。私が加護を失ったなら、どうなると?」
「それで構わない。俺がいなければ、あんたは、あの子を見失う。守ることができる。あんたの眼からは」
「非合理的だね」
抑揚のない声の響き。
「それほど言うなら、かなえてあげよう。でも私はあなたを殺すのではない。ただ、あなたの命をつないでいた手を離すだけ。それが末期の望みならば」
「やめて!おじさん!待って!」
事情もわからないのに子供は駆けだしていた。切羽詰まっていた。
女は何を言った?
叔父が死ぬと?
夢中でさしのべた指先が、叔父の、たぶん服のどこかをつかんだ。
その瞬間、ぱしっと払いのけられる。
一瞬、見えた気がした。穏やかに微笑む、優しい叔父の顔。
空に浮かんでいた、赤い髪と目をした若い女。
女もまた微笑を浮かべていた。
寂しげな……そして、慈悲に満ち、同時に無慈悲な、女神のような……。
「忘れないで、北天の星、テルア・ルシ。今は見失っても、必ず見つけ出す。我が王よ、『魔眼』の主……」
その言葉の終わらぬうちに、叔父が何事かを、ルシがまだ知らない魔法の言葉を放った。
そしてあたりは白昼のように明るくなり、熱風が全てを押し包み肌をチリチリと焼いた。
呼吸すれば肺も焼かれたはずだが、叔父が最後に残した小さな『魔法陣』が、ルシを守ったのだった。
目覚めたのは翌日の昼。
森は焼け、叔父の姿も、そしてもちろん、中に浮いていた魔女の姿も、どこにもなく。ルシは独り立ち上がって、平たい石が敷かれた道を進んだ。
消し飛んだかのように森がなくなっていたから、歩く道の上はずいぶんすっきりとしていた。
エナンデリア大陸、西州の旧国、エルレーン公国の南部に広がる、『雨の森』
木々の間に見える夕日が、みるみる沈んでいく。
草原に二つの影が伸びる。
一つは男、もう一つは幼い少年。
「まだ歩けるか、ルシ」
ときおり、男は振り返り、遅れ気味になる子供を気遣う。
「平気だよ、ナーダおじさん」
ルシと呼ばれた子供は答える。
大丈夫。こんなの平気。
先月前までいた施設では、まるで人間らしい気がしなかった。
世の中にあふれかえっている戦災孤児のひとりで、どこにでもいる、誰にも必要とされない存在だと、絶えず思わされていた。
でもそれは自分一人の心にしまっておく。
口に出せば、優しい叔父ナーダが悲しそうな顔をしてルシのために人生を取り戻そう、何かしらしてくれようとがんばってしまうから。
もう、違うんだ。
自分は誰にも必要とされないゴミじゃない。
前方を行く、がっしりとした男の背中を、子供は見上げる。
その背中を覆う、着古した外套は砂にまみれて、裾や袖口がすり切れている。
長い長い戦争があった。
戦場で叔父は死の淵をさまよい、終戦を迎えた。
軍を離れ、同じく戦場で亡くなったはずの姉の手がかりを求めて探し歩いた、彼はそう言っていた。
その姉の遺児を、大陸じゅう捜してようやく見つけた。もう心残りはないと、静かに、うれしそうに笑った。
叔父は、自分には名前がないと言った。
「あるものに売ってしまったんだ、名前と魂とを」
だから「何者でもない」ナーダと呼べと。
奇妙なことを言うとルシは思ったが文句は言わなかった。
なにしろ叔父は『魔法師』だという。
彼らは常に自分に厳しく業を課していた。修行にあけくれる変わり者と世間では評判だった。巡礼などに至っては定めて住むところもなく聖地を巡り、生涯、さまよい続けるのだ。
それでもルシには初めてできた家族だ。
灰色の目を細めて、叔父はつぶやく。
「馬を無くさなければよかったんだがな。これでは、次の街まで間に合うか…」
暗赤色の小さな月、『魔の眼』があらわれるまでに、という言葉を、彼は飲み込んだが、もちろん二人とも心得ていた。
いま夕空に半月が淡く白く光っている『真月』に比べて、その半分の大きさもないこの暗い月が空にかかるとき、闇は活気づき、人の心は恐れに満ちて、闇の中に怪しい生き物の姿を見いだす。
たとえ本当は、夜行性の獣が動き出すだけのことで、闇の中に何もなくとも、自らを追い詰めて、時には命を落とす。
日が落ちてから荒野を旅する者などいない。
この二人も、本来はとうに次の街の門をくぐっているはずだった。途中で馬がばてて、前の宿に置いてくるしかなかった。
日が落ち、夕映えの最後の残照が消える。
急速に夜が降りかかってくる。
二人にとって幸いなことが、一つあった。
空にかかっていた半月が、白い輝きを増してきたことだ。
ふいに、叔父が立ち止まった。背中に、みるみる緊張がみなぎった。
「おじさん? どうした?」
叔父は暗い空を見上げていた。
まるで中空に浮かんでいる何かを見つめているようだ。
「ここまで追ってきたのか、赤い魔女」
空を睨み、絞り出すように彼は言う。
「あかい、魔女?」
暗い空に、ルシは何者の姿をも見いだせない。
「くるな、おまえはそこで待っていなさい」
手を振り、子供を押しとどめて、叔父は暗い森へ踏み込んでいく。
「おじさん!待って、危ないよ!」
何もいない空虚な場所に向かって、叔父は話しかけているようにしか見えない。
狂ったのかと不安にかられた。
「この子は関係ないはずだ!放っておいてくれ」
叔父との間には闇が立ちふさがっている。彼の姿は見えず、必死に言いつのる声だけが聞こえる。
「姉は、ヴィア・マルファは死んだ。だから契約は無効のはず。もう終わらせてくれ!」
そして、何かが、彼に答えた。
その声だけが、闇の中、中空からさやかに響いた。
若い女の、あるいは少年の、静かな声が。
「本当に終わらせていいのかな? アンティグアのエルナト。あなたは戦場で、すでに命は尽きていた。私が加護を失ったなら、どうなると?」
「それで構わない。俺がいなければ、あんたは、あの子を見失う。守ることができる。あんたの眼からは」
「非合理的だね」
抑揚のない声の響き。
「それほど言うなら、かなえてあげよう。でも私はあなたを殺すのではない。ただ、あなたの命をつないでいた手を離すだけ。それが末期の望みならば」
「やめて!おじさん!待って!」
事情もわからないのに子供は駆けだしていた。切羽詰まっていた。
女は何を言った?
叔父が死ぬと?
夢中でさしのべた指先が、叔父の、たぶん服のどこかをつかんだ。
その瞬間、ぱしっと払いのけられる。
一瞬、見えた気がした。穏やかに微笑む、優しい叔父の顔。
空に浮かんでいた、赤い髪と目をした若い女。
女もまた微笑を浮かべていた。
寂しげな……そして、慈悲に満ち、同時に無慈悲な、女神のような……。
「忘れないで、北天の星、テルア・ルシ。今は見失っても、必ず見つけ出す。我が王よ、『魔眼』の主……」
その言葉の終わらぬうちに、叔父が何事かを、ルシがまだ知らない魔法の言葉を放った。
そしてあたりは白昼のように明るくなり、熱風が全てを押し包み肌をチリチリと焼いた。
呼吸すれば肺も焼かれたはずだが、叔父が最後に残した小さな『魔法陣』が、ルシを守ったのだった。
目覚めたのは翌日の昼。
森は焼け、叔父の姿も、そしてもちろん、中に浮いていた魔女の姿も、どこにもなく。ルシは独り立ち上がって、平たい石が敷かれた道を進んだ。
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