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倒錯文学入水
六
しおりを挟む「結局、あの人は女の愛人と入水して心中をした。
今更、僕との関係を暴きたてて言いふらしたところで、誰も耳を傾けないさ」
自嘲気味に笑い、おちょこを煽った。
おちょこを置くと、かるく目が回り片手で顔を覆う。
徳利を一瓶も空けていないはずがと、妙に思っていたところ「脅そうとしている」と言われて片眼だけ向けた。
「そう受け取られても仕方ないような、回りくどい言い方をしてしまいましたね。
ですが、私は確認をしたかっただけなのですよ。
あなたが蟹崎尚と不倫をしていたのか、を」
異性愛者は既婚の男が、男と浮気をしても「不倫」とは言わないだろう。
それを躊躇せず違和感もなさそうに口にしたということは、そういうことなのだ。
しかも山國屋もまた既婚者とあっては他にも含みを持たせているように聞こえる。
いや、町一番の色男ともてはやされる美丈夫が流し目をしているから、あからさまか。
そうして気を持たせるそぶりをしながらも、一向に口を利かないのに痺れを切らし「なんだ、君は」と忌々しくも僕のほうから言ってやった。
「僕に、君と不倫をしろというのか」
山國屋は肯きもしなかったが、否定もしなかった。
笑みをたたえたまま弓なりに目を細めたのが答えだろう。
僕は山國屋を恋愛対象として見たことはなかったし、高嶺の花といっていい老舗の坊ちゃんに言い寄られたといっても全く心が弾まなかった。
胸糞が悪かった。
今の話の流れからして「前に不倫をしていたのだから、また不倫をしてくれるでしょ?」と言っているように聞こえる。
そう思われても仕方ない疚しい過去があるのには違いないとはいえ、露骨に足元を見られては黙っていられなく「冗談じゃない」と声を荒げようとした。
が、顔を上げたとたんに心臓が強く打って眩暈がした。
先に目が回ったより全身が揺さぶられて、体温が急激に上昇をしていく。
酔いが回るのと似た症状とはいえ、肌が熱く疼き、一方で背筋に冷たい痺れが走るのは酒の影響とは思えない。
この感覚に覚えはあったものを、湿った吐息を飲んで意識しないようにした。
僕が歯を食いしばって堪えているのをいいことに「私は自分の立場を弁えているのです」と山國屋が悠々と語りだす。
「戦争を経て店を畳む老舗は少なくない。
そのような厳しい状況で山國屋を存続させ、次の世代に受け継がせるのが私の使命です。
江戸から明治、明治から大正とこれまでも山國屋は存亡の危機を乗り越えてきましたが、外国の占領化での生き残りはさらに過酷なものになるでしょう。
しかし、私は重圧を感じていないし逃げ出したいとも思わない。
学生のころから課題は難しいほうが熱意を持てていたものでね。
だから良家の妻を迎えることも躊躇いはしなかった。
山國屋五代目であることの運命を呪ったことはないのですよ」
熱で呆けながらも、山國屋の言葉は滞りなく頭に入ってくる。
どうしようもなく体が火照るのに呻きそうになりつつ「子供は」と聞いた。
「私に子種がないということにして妻に打ち明けています。
そうした上で妻には妊娠を装ってもらって一時期、山奥の別荘で過ごしてもらいました。
帰ってくるときには、頃合いよく生まれた親戚の赤ん坊を抱いてきてもらった。
もちろん、これは秘密事項で私たちがもうけた子供ということになってあり、周りはそう信じて疑っていません。
直接的に血は繋がっていませんが、私は子供を大事にしていますし、妻も可愛がっていますよ」
猫かぶりな山國屋のことだ。
その話ぶりからして妻や周りをほんの疑念も抱かせず騙しおおせたのだろう。
山國屋が本性を隠すためにした画策とはいえ、妻を傷つけない方法を取ったのだから、一概に非難はできない。
五代目の運命を背負う覚悟があるというのなら尚更、文句のつけようがないが、だからこそ言いたくなる。
どうして不倫をしたがるのだ。
問い詰めたいところ、一段と動悸と眩暈がひどくなって余裕がない。
明らかに苦しそうな僕を心配することなく「あなたのせいですよ」と山國屋は笑いを含ませ言った。
「私は山國屋五代目として生き抜き、秘めた欲望は墓場まで持っていく自信があった。
しかし、あなたの『恋文の行方』を読んでしまった。
蟹崎尚の作品でないのはすぐに分かりました。
蟹崎尚の名義で違う人間の作品を世に出している。
そのことには別段、何も思いませんでしたが、誰が書いたのかが気になりましてね。
調べてみて、元書生である、あなたの存在を知るに至った。
作者があなたと分かり蟹崎尚と何かあったのかは、容易に想像できました。
それで想像していたら、あたなと不倫をしたくなった」
人のせいで不倫をしたくなったと、恥ずかしげもなく言う山國屋の神経が知れなかった。
本来なら怒るべきところだが「私と不倫しましょうよ」と艶っぽく笑いかけられ、不本意に、そして否応なく体が反応してしまい、それどころではなかった。
まさかと思って、中々、認めまいとしていたとはいえ、着物が擦れるだけで下半身が熱く疼き、声が漏れそうになるなど尋常ではない。
そういえば、編集長も酒には手をつけていなかったなと、思い返しながら、立ち上がろうとして座卓の食器をなぎ払い、畳に倒れてしまう。
畳に擦れたのに「っ!」と辛うじて声は上げなかったものを、全身の足先まで何とも言えない痺れが走って、すぐには動くことができなかった。
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