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倒錯文学入水
九
しおりを挟む「なんで、性犯罪者がいるんだ」
高級料亭の騒動があって三日後。気を使って訪問を控えていただろう高井が下宿先に現れて、そう第一声を放った。
性犯罪者とは窓際の僕と廊下に立つ高井の間にいる山國屋以外いない。
犯罪者呼ばわりされた山國屋は眉一つ引くつかせることなく、形のいい笑みを浮かべた。
小さく会釈してから口を開こうとしたので咄嗟に「彼も反省しているのだよ」と言う。
「どれだけでも詫びを入れるから、どうかこれまでのように会ってほしいって頼みこまれてね」
もちろん嘘だ。
むしろ僕のほうが山國屋を呼びだして頼みを聞いてもらっていた。
「高井に手出しはしないでくれ」と。
人に一服盛って襲いかかってきたところを蹴り倒された山國屋は面目丸つぶれ。
かといって、仕返しに堅気でない連中を雇って仕向けたり、米軍や官憲を利用して捕まえさせるなんて、そこまで山國屋がするとは思わなかった。
いや、しないと思いたかった。
それに、そうまでしなくても高井を困らせるなら、もっと容易な方法がある。
艶本の編集長をかるく脅せばいい。
僕を騙し生贄として差しだした編集長なら、山國屋の一言で下の人間の首を切るのも辞さないと考えられた。
いくら甥っ子が可愛くても、規制が厳しい今、艶本の生き残りには山國屋は欠かせないのだから。
高井には恩義があるし、編集者として傍にいてくれることを僕は望んでいる。
ただ、もし山國屋が交換条件に僕との関係を迫ってきたなら、断ろうとの意志は強く持っていた。
が、取り越し苦労だったようだ。
僕の頼みを「あなたに乱暴を働いたお詫びになれば」と山國屋は殊勝に聞き入れた。
今までのことがあっては疑わないわけにいかなく、よほど僕が得心のいかぬ顔をしていたからだろう、珍しく困ったように笑い言ってきたもので。
「私は仏も神も怖くありませんが、自分が惨めなのは耐えられないのですよ」
大概、胡散臭く思う山國屋の言葉が、このときは抵抗なく耳に入ってきた。
だから信じようと思ったのだが、苦虫を噛み潰したような顔をしている高井にすれば「あんた、阿呆すぎるだろう」と言いたいのだろう。
図々しい山國屋より、僕への呆れのほうが勝っているようとはいえ、僕に庇われたと知ったら自決しかねないから、呆れられたままでいいのかもしれない。
感情の行き場をなくして、高井が廊下で突っ立っていたところ「あら、高井さん、どうなされたんです?」と時さんの声が聞こえてきた。
何も知らない時さんに「性犯罪者を部屋にあげている野田の気が知れない」とまさか訴えるわけにいかなく、黙って部屋に入ってくる。
座卓を挟んで山國屋の向かいに座りつつ、そっぽを向いた。
高井がぶっきらぼうなのは今にはじまったことでないので、時さんは気にすることなく「ほら、山國屋さんの新作の上生菓子をいただいたんですわ」と湯のみと生菓子が乗った盆を座卓に置いた。
一見、仏頂面の高井が生菓子に見向きもしないながら、喉仏を上下させたのを見て、笑いを噛みしめる。
顔にも言葉にも出さないとはいえ、実は舌が肥えた相当の甘党なのを、僕は編集長伝てで聞き知っている。
新作の上生菓子を土産に持ってきたのが初めてなことからして、山國屋も知っているのかもしれない。
「高井君、僕のお茶と上生菓子を取ってくれよ」と僕が言えば「ほら高井君、先生の好きそうな上生菓子を選んでさしあげて」と山國屋がせっつく。
「あんなことがあった後に」と高井は歯軋りしたいところだろうとはいえ、割り切れないのも悪くないと僕には思えた。
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