倒錯文学入水

ルルオカ

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倒錯手紙墜落・山國屋

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同性愛者であることと山國屋五代目であることは両立できなかった。

家族も家名も資産も保身も捨てられなかった私は、異性愛者のふりをして周りを騙すことを選んだ。

文句のつけようがない縁談を成立させ、器量よしで慎ましい女を娶り、おしどり夫婦と羨ましがられ、親戚の子を実の子のように育て、周りを「これで山國屋も安泰だ」と喜ばせている。

だからといって、私が家族を妻を、周りを騙していることに変わりはなく、許されることでもない。

ああ、だが、そうだ。
野田先生の言うとおり、私は罪を自覚していた。

店のため、誰かのため、仕方なく周りを騙しているのだと、情状酌量をしようとはしなかった。

私は周りを騙したくて騙していた。看板に傷をつけぬよう、無事に引き継げるよう、山國屋五代目として恥じぬ人生を歩まなければならなかったから。

その志は人に誉められるようなものだろう。
志を貫くため人を騙すことになっても、罪に思う必要などないと、慰めてくれる人もいるかもしれない。

それでも、罪を自覚して、いちいち胸を痛めるだけ損だと私は思いたくなかった。
野田先生の隠れた著作「恋文の行方」を読んだとき、無性に苛立ったのは、そう思っていたせいだ。

主人公は岡崎を欺くことに躊躇がなければ、後ろめたそうでもなかった。

岡崎が亡くなり、少しは後悔するかと思いきや、女の変わり身の早さを糾弾するという厚かましさを見せつけた。
そう、罪を自覚するだけ損だと言わんばかりに。

罪を自覚しないほうが得だというのか。

そうだとするなら、損ばかりしている私は、得をしている人間が許せなかった。

不倫を恥じるどころか、経験を踏まえて小説を描き、ひけらかすように雑誌に掲載までした野田先生も。

なかったことにしたほうが、お互いのためだと思い、体よく誤魔化した気になっていただろう友人も。

罪を自覚できないのなら、私が気づかせ思い知らせてやりたかった。

友人は手遅れだったので、代わりに野田先生を標的にしたものの、どれだけ言葉で痛いところをついても、手篭めにして責め苦を与えても、私と同じ心境になってくれなかった。

ただ、私を「まともな人間」と評してくれた。
罪を自覚することが決して無駄ではないと、そう聞こえた言葉に、不覚にも、救われたように思えた。

つい先まで、芯まで冷えていた体の、胸の辺りから熱が広がっていった。
喉にせり上がってくる衝動を飲みこみ「先生」と居住まいを正す。

「さっきより硬くなりました」

私の顔を見ていた野田先生は、見開いた目を下に向けそうになって留まり、眉をしかめ「知るか」とそっぽを向いた。

「というか、僕のせいじゃない」

普段は私の戯言を真に受けない野田先生だが、罪の話から脈略なく下の話になっては、困惑しないでいられないようだ。

顔を背けて肩を縮めているに、身の危険を覚えているのかもしれない。

もちろん、手をだすつもりはなかったとはいえ「ひどいですね」とため息を吐いてみせる、

「さっき、その気がなくても罪を作ることがあるって言っていたじゃないですか。
まさに今の先生がそうなのですよ」

ひい、と悲鳴をあげるようにし、さらに肩を縮めたのを見て、笑いを堪える。

罪作りな野田先生に、だからどうして欲しいとは思わなかった。
責任を取ってしゃぶれと、聞こえるように、わざと言いはしたが、名残惜しくて少し、からかっただけだ。

野田先生は気づいていないようなものの、窓の隙間から、割とやかましい水音と足音が聞こえていた。

少しもしないうちに、階下で戸が勢いよく開けられた音がして、時さんが声を上げる間もなく、四足の獣が突進してくるような荒々しい足音が迫ってきた。

振り返れば、ちょうど襖が開け放たれ、仁王立ちの高井君がお目見えした。
全身ずぶ濡れで、山を転げ落ちてきたかのように、着衣や髪を乱し泥まみれになっている。

まだ慰安旅行中のはずの高井君の神出鬼没さに、ただでさえ驚くところ、見るも無残な有様で登場されたとなれば、言葉もなく目を見張るしかない。
一体、何があったというのか。

野田先生はすっかり呆けているようだが、泥んこの高井君が殺気だって睨みつけてくるのに、私は微笑を返し、立ち上がった。

襖のほうに歩み寄れば、高井君は睨みつけつつも脇に避けて部屋に踏みこみ、すれ違って私は廊下へとでる。

階段に差しかかったところで、一階から心配そうに見上ている時さんがいた。
目が合ったなら笑いかけて、高井君が点々と落としていった泥を避けながら階段を降りていく。

「あ」の、と声を張りそうになった時さんに「しっ」と口に人差し指を当て「野田先生が高井君を本気で怒らせたようだ」と二階のほうに目を向けた。

「時さんも知っているでしょう?
高井君は根が優しい子だ。

野田先生がこれまで、いい加減にしてきたのにも目を瞑ってあげていた。

その優しさに免じて、高井君には怒らせてあげましょう。
なに、野田先生もたまに、お灸をすえられたほうがいいのですよ」

私が指摘したように、高井君が好青年で、野田先生がうつけものと時さんも認識しているらしい。

不安そうにしていたのが「山國屋さんの言うとおりですわ」と気を取り直したようで、真面目腐って肯いてみせた。

時さんに見送られ玄関の戸を閉めると、訪れたときより雨脚が強くなり、訪問時には気がつかなかった隣家の庭の金木犀が目についた。

だが、高井君の汗臭さと泥臭さが強烈だったせいか。
そもそもが記憶に結びついた錯覚でしかなかったのだろうか。

こめかみが痛くなるような甘たるい香りはしなかった。





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