倒錯文学入水

ルルオカ

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倒錯手紙墜落・高井

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「高井さん!高井さん、どうか目を開けて!」

千代の低く掠れたのと違う。
高い金切り声に耳を打たれて、やおら瞼を開けた。

ぼやける視界には、泣き顔を寄せる坂田が全身、泥だらけで、着衣を乱し髪を解けさせていた。

地面に置く手からは、ぬめりが感じとれるからに、泥に浸っているらしい。
だとしたら、自分も坂田に劣らず汚れて不様になっているのだろう。

「よかった!どこか痛めたところありますか!」と泣き喚きたてるのに応じず、目を細めて全身の神経を研ぎ澄ませる。

頭を打ちつけたから、首の辺りにまだ違和感があったが、他に骨が折れたり、捻挫しているような部分はなさそうだった。

体の痺れは残りながらも、支障なく上体を起こすことができ、坂田が驚いたように身を引いた隙に、ため息を吐いた。
正直、坂田の取り乱しように気が滅入ったものの、嘆息したのは自分に対してだ。

斜面から滑り落ちる前に、坂田に厳しい言葉を向けたのは、八つ当たりだった。

そもそも坂田を恐縮させたのは、仏頂面で全くつれないでいた俺だ。
非難がましく被害者面をしていたのは俺のほうだったのかもしれない。

「高」と呼びかけようとしたところで、俺は顔を向けた。
口を開けたまま、ひっきりなしに涙を滴らせている坂田に「泣くな」と言う。

「体力が奪われる」

散策道で向き合ったときのように、あてつけがましく告げなかったつもりだ。

その真意は伝わったようで、坂田は目を見張りつつも、すぐに手で涙を拭って、毅然とした顔つきになった。

慰安旅行によそ者として混ざるとなれば、そりゃあ肩身の狭い思いをするだろう。
だから、借りてきた猫のようになっていただけで、本来は芯の強い女なのかもしれない。

「どうしますか、私にできることはありますか」ともう泣かずに、はきはきとした口調で聞いてくるのに「とりあえず、立たせてくれるか」と手を差しだす。

腰や足にも痛みや怪我はないようで、立ってもふらつくことがなかった。
この体の具合なら、登ってきた分だけの距離を歩けそうだったが、問題は道から大幅に外れたことだった。

辺りには所狭しと木が並んでいて、見通しが良くない上、三百六十度、景色に代わり映えがない。

このような状況に置かれては、歩いていったところで、すぐに方角が分からなくなるし、上っているのか下りているのかも判断がつかなくなるだろう。

他に道しるべになりそうなものといえば、空模様だけだ。

整備兵のころ、山城にパイロットならではの空の読み方を教えてもらったことがある。
その知識を掘り起こしながら散策道の地図に照らし合わせ、大体の位置や方向を見定めれば、何とかなるかもしれない。

「俺はずっと空を見ながら指示をだす。
だから、指示通りに俺の手を引いて歩いてくれないか」

説明の足らない申し出だったが、坂田は問い返すことなく肯き、俺の手首を握った。

直後には「さあ、いつでも」というように背を向けてみせたのに、俺も早速、空を見上げ「そのまま、しばらく真っ直ぐ」と指示を口にした。

手首を握る力をこめて歩きだした坂田の足取りに迷いはなさそうだったから、すっかり身を預けて、空を見るのに神経を注いだ。

坂田の手は薄く、表面が滑らかで、冷たかった。

似ても似つかないはずが、山城に導かれているような錯覚をしないでいられなかった。




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