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第一章/出席番号二十二番・中辻柊馬
(四)
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飴と鞭のスパンはとても短い。体育祭が終わると、すぐに中間テストだ。
アカ高では『切磋琢磨』の校訓のもと、テストの結果、学年上位三十名の名前が掲示板に張り出される。
二ーBからは『六位・神林いずみ』『十三位・巻島莉歩』『二十位・逢坂綾人』の三名が名を連ねた。神林さんはさすがとしかいいようがないし、図書委員の二人もイメージ通りといった結果だ。
かくいう俺は三五〇人中、一七六位と、可もなく不可もなしな結果だった。けれど偏差値上位校の医学部を目指すならば、この成績ではまずい。十年後の同窓会で、医者にはなれませんでしたと言うのはあまりに恥ずかしいので、夏休みからは部活と平行して勉強も頑張ろう。
六月に入ると、男子は途端に色めき立つ。衣替え初日の今日、朝練後の部室は夏服の話題、主に透けて見える下着の色で盛り上がっていた。隅に転がる漫画雑誌では、水着のアイドルが微笑んでいるけれど、今日は誰も手に取らない。見せているものと見えてしまうものでは、その価値に雲泥の差があるのだ。
俺も健全な男子高校生であるので、白くて柔らかそうな二の腕や、汗で髪が貼りついたうなじには、否が応でも目がいってしまう。
けれど一人だけ、それを許してくれない女子がいた。
「ねぇ、この委員会まだ終わらないの? あたし早く帰らなきゃいけないんだけど」
本宮さんは【課外活動・クリーン作戦】と書かれた黒板を見てため息をついた。
彼女は今日一日、肩に紺色のブレザーをかけている。夏でも寒いときにはブレザーを着ていいことになっているので、校則上の問題はない。けれど連日の蒸し暑さに誰もがうだっていたから、当然、校内はワイシャツ・ブラウスの白色一色になる。
「しかも【雨天決行(その際は校内に変更・美化委員と学級委員のみが参加)】って。これじゃ普通の掃除と変わらないじゃん。順延にすればいいのに」
「中止、じゃないんだね。体育祭はあんなに嫌がってたのに、掃除はいいんだ?」
「体育祭はギブするだけでテイクがないじゃん」
やはり彼女は要点だけを語る。けれど今の発言にあえて補足をするならば、掃除はギブアンドテイク、つまり『与え合い』――校舎は生徒に場所を提供、生徒は校舎に清潔さを提供――が成り立ってる、だからやる意味があるでしょ、だ。
話せば話すほど、彼女が秩序を乱す理由がわからなくなる。彼女は普通の、どちらかといえば善の意識を持っている人だと思う。だから彼女が秩序というある種のルールを破ることが、最近は不自然に思えてならない。
ブレザーにしろ派手な見た目にしろ、彼女は本当に好き好んでそうしているのだろうか。
委員会が終わると、本宮さんは脱兎のごとく教室を出る。そろそろ昇降口まで一緒に行こう、という流れになってもいいと思うんだけどな。心の中で独りごちて、ふと床を見ると、ポーチらしき物が落ちていた。『L』と『V』の柄、本宮さんの物だ。
いま追いかければ間に合うだろうと、ポーチを手に取ると、隣のクラスの女子に呼び止められる。
「トーマって、本宮さんと付き合ってるの?」
「えっ!? いやいや、ないない!」
「そっかぁ。本宮さんと喋ってる男子ってトーマくらいだし、仲いいから付き合ってるのかと思った!」
そんなふうに思われていたのか。となると、本宮さんのキスマークは俺ということになっているのか!? ……いやいや、これ以上の想像はやめておこう。
「実は前に、本宮さんと男の人が一緒にいるのを見ちゃったからさ、二股だったらヤバイなーって思って!」
これは突っ込んで聞いていいのだろうか。いけないとは思いつつも、口が動く。
「それ、どんな人だった?」
「夜だったし顔はわからないけど、タバコ吸ってたから大人だと思うよー。本宮さんもタバコ吸ってるって噂だしね?」
「それはないよ」
思いの外強くなってしまった声に自分でも驚いて、たぶん、と慌ててつけた。俺は逃げるように教室を出る。
本宮さんの彼氏は、大人。
そうなんだろうとは思っていたけれど、確証に変わるとなんとなく不愉快だった。いつかの『ガキ臭い』発言は、やはり彼氏と比較されてのものだったらしい。
そりゃあ俺には、タバコのカッコよさなんてわからない。けれどタバコなんて百害あって一利なしじゃないか。本当に分別のある大人ならば、わざわざ害のある物になんか手を出さないと思うけど。
早足で廊下を歩いていると、神林さんを見かけた。体育教官室に入っていく。こーちゃんに呼び出しでもされたのだろうか。
そうだ、このポーチは神林さんに託そう。俺にだっていつかは、好きな人や彼女ができるかもしれないのだ。さっきのように本宮さんとの関係を疑われては迷惑千万、今後は必要以上に本宮さんと関わるのはやめよう。
そう決めた俺は、本当に本宮さんの物かを確認するために、ためらいつつもポーチを開ける。中には口紅やマニキュアなどのキラキラした物の他に、プリクラのシートが入っていた。
そこには金髪の男と、俺の知らない顔で笑っている、本宮さんが写っていた。
『ちな・たくちゃん』
『今日は朝までらぶらぶ』
『仲直りのちゅー』
心拍数が上がる。プリクラを持つ手が震える。すれ違う人の気配を感じて、ようやく廊下の隅に身を寄せた。
加工されているので定かではないけれど、彼氏の『たくちゃん』が年上であることは間違いないだろう。オールバックの髪、軟骨に空いたピアス、睨みつけるような目。人の彼氏をどうこう言いたくないけれど、ガラの悪さは見て取れた。
本宮さんも本宮さんだ。普段ならばキスプリなんて反吐が出る、だとか言いそうなのに、ノリノリでやってるのだから笑えてくる。さすがの彼女も、彼氏の前では普通の女の子になるらしい。
俺にはつっけんどんなくせに。八重歯なんか、滅多に見せないくせに。
「失礼します」
早くプリクラを手放したくて、ノックもそこそこに体育教官室に入る。こーちゃんと神林さんが驚いた様子で俺を見た。他の先生は出払っているようだ。
「どうしたトーマ。ああ、委員会だったのか」
「うん。そうなんだけど……」
こーちゃんの机を見ると、書店のランキングコーナーでよく見かける流行りの本が、いくつか積み上がっていた。読書家だなんて意外だ。こーちゃんはどんな日記を書いているんだろうと思って、ふと聞くことがあったことを思い出す。
「こーちゃん、クラスの日記って読んでる?」
「もちろん。毎日チェックしてるぞ」
ならどうして、時野旅人の日記を削除しないのだろう。俺がテストに追われて日記を書けずにいたときも、時野旅人の日記は毎日欠かさず更新されていた。
結果、あの日記はいま一位にいる。
「実は、時野旅人っていう人の日記が、ちょっと気になって」
「中辻君も時野旅人のファンなの?」
――ファン? 俺の言葉に反応したのは神林さんだった。
「あの日記、素敵だよね。抽象的な文章なのに、心の奥深くを的確に突いてくる。私、ああいう日記……いえ、小説が読みたかったの」
珍しく饒舌な神林さんは、ね、先生?と同意を求めた。
「ああ、この企画をやってよかったよ。こういう場所でなら、普段は言えない思いや考えを吐き出せる。十年後の正体明かしが本当に楽しみだな!」
とても言い出せるような空気ではなくなってしまった。仕方なく日記の件は切り上げて、神林さんにポーチの件を頼むと、少し考えてからいいよ、と頷いてくれた。
俺が部活に行くと言うと、神林さんも帰ると言い、俺たちは一緒に体育教官室を出た。こうして神林さんと並んで歩くのは初めてだ。自然と背筋が伸びる。
神林さんにも彼氏がいるのだろうか。想像してみると、スーツと高級時計がよく似合う、まさに大人という言葉そのものの男の人が浮かんだ。そうだ、大人とは洗練された人のことを言うのであって、決してタバコが吸える年上だけが大人ではない。
「まったくチナってば、せっかちなんだから」
神林さんはポーチの中身を見ながら笑う。
「中辻君、もしかしてチナとなにかあった?」
「なにかっていうか、そもそもなにもないよ。本宮さんには彼氏がいるしね」
「珍しいね、中辻君がそういう言い方するの」
指摘されて初めて、自分は今、苛立っているのだとわかった。ばつが悪くなってそうかな、と誤魔化す。
「チナ、今日も早く帰ったよね? あれね、彼氏が怒るからなの」
「怒る?」
「学校が終わったらすぐに帰れって言われてるみたい。彼氏は年上だから、青春真っ盛りのコミュニティーにいるチナのことが心配なんだと思う」
「それって、心配っていうか……」
束縛ではないだろうか。
胸がざわつく。そういえば本宮さんはいつも、『早く帰りたい』ではなく『早く帰らなきゃいけない』と言っていた。
「最近は中辻君がチナと仲良くしてくれて、嬉しいんだ。チナは人を、特に男の人を自分から跳ね除けるようになっちゃったから」
「それも、彼氏のせい?」
神林さんはなにも言わず、ただ困ったように微笑んだ。
翌日、本宮さんはポーチを手に、俺のもとにやって来た。彼女は今日もブレザーを肩にかけている。
「中身見た?」
「悪いけど、見たよ。本宮さんの物っていう確証がなかったし」
正直に答えたのは、彼女がどんな反応をするか見たかったからかもしれない。
「あ、そ。拾ってくれてどーも」
動揺した様子もなく、彼女は早々に自分の席に戻っていった。
ありがとうすら言わない、かわいくない本宮さんも、彼氏がそうさせているのだと思うと怒れない。腹立たしさの矛先は彼女ではなく、彼氏に向かっていた。
人との関わりを遮断させて、自由を奪うことで、彼氏が望む彼女はできあがるのかもしれない。けれどそんな彼女に向けられているのは、心ない陰口や噂だ。
キスマークも男よけのつもりなのだろうけれど、逆効果だ。想像力豊かな高校生男子にとって、それは極上のネタになる。最近では、千円でヤラせてくれるらしいぜ、なんてデマまで出ている始末だ。
見た目を派手にしているのも、金髪の彼氏に合わせているからなのだろう。彼女が秩序を乱す理由は、彼女ではなく彼氏の意思にあったのだ。
「今週の木曜、部活休みなんだけどさ。みんなで遊びに行かない?」
どうにかして本宮さんをクラスの輪に引き込もうと試みる。学校が楽しくて仕方なくなったら、彼女も早く帰ろうとは思わなくなるだろう。
「行かない」
「なにか用事でもある?」
「用事っていうか……」
「チナが行くなら私も行くよ」
神林さん、ナイスアシスト! 本宮さんもこれには揺れたのか、しばらく悩んだ。結局断られてしまったけれど、まだ彼女の中に迷う要素があることはわかった。
その日の夜、俺は日記を更新する。
◆六月十八日『今できること』
医療の現場にいると、一日、ひいては一秒の大切さを実感する。今日ある命が、明日もあるとは限らない。
痛くて、苦しくて、一人ぼっちで、けれど誰にも言えずに悩んでいる。そんな君に、いま、僕ができることはなんだろうか。
世界は広いことを教えてあげたい。笑っていいんだよと言ってあげたい。
◆ハンドルネーム/翔
翌日マイページを開いたら、読者登録数が七から八になっていた。これが本宮さんであってくれたら、嬉しい。
クリーン作戦の日は雨になった。放課後、予定通り美化委員と学級委員だけが清掃要員としてかり出される。ジャージに着替えなくてもいいという通達からして、先生たちは形だけの清掃をしてくれればいいという考えなのだろう。
みんながさっさと終わらせて部活に行こう、帰ろう、と言う中、俺は腕まくりをして本宮さんと指定の廊下に向かう。
「窓拭きっていっても、雨だから外は拭けないね」
「本当、非効率。古新聞もないし」
「古新聞?」
「新聞のインクが汚れを分解してくれるの」
「そうなんだ、知らなかった。本宮さん物知りだね」
「別に、普通でしょ。てか知らないほうがびっくりなんだけど。小中学校で教わらなかったの?」
本宮さんはそっぽを向きながら、手に持った空のバケツをかつん、と蹴る。彼女は照れを隠すとき口数が多くなる。最近知ったクセだ。
バケツに水をためて、高いところを拭けるようにパイプ椅子を二脚持ってくる。上靴を脱いで早速上ろうとする俺に対し、本宮さんは椅子に乗ることをためらっていた。そうか、スカートだもんな。
「俺高いところ拭くから、本宮さんは下拭いてくれない?」
「……いいけど」
「ありがとう、助かる」
本宮さんは俺の右に立ち、窓の隅を拭き始める。
きゅ、きゅ。高さの違う摩擦音が鳴る。俺たちの後ろをたくさんの生徒が談笑しながら通り過ぎていく。トーマ頑張れよ、と何人かに声をかけられた。
みんなの目には、俺たちの姿はどう映っているのだろうか。やはり付き合ってるように見えるのだろうか。
「あの、さ」
きゅ……。本宮さんの手が止まった。
「……なんでもない」
どうしたんだろう、と本宮さんを見下ろしたら、ブラウスの隙間から胸元が見えてしまった。う、わ、と動揺したけれど、見ていることがバレたら殺されそうなので、慌てて窓に視線を戻す。
黒のレース、黒のレース、黒の……いや、忘れろ俺!
煩悩を叩き出そうと、きゅきゅきゅきゅっと夢中で窓を拭く。と、勢い余って雑巾を床に落としてしまった。
何やってんの、と本宮さんは呆れたように言って雑巾に手を伸ばす。いやいやいやダメだ、もう一回下を見たら絶対に黒のレースが見える、見てしまう。俺は椅子にしゃがみ込み、本宮さんと同じ目線まで腰を落とした。
そのとき、ブレザーに隠されていた彼女の二の腕がちらりと見える。
「包帯?」
見えたままを口に出すと、本宮さんは弾かれたように顔を上げた。
「ごめん、見えちゃって。ケガしてるの?」
「あー、まぁ。てかこれ、始業式の日にあんたにつけられた傷なんだけど」
「えっ!?」
「冗談だっつーの」
いたずらっぽく笑った本宮さんは、雑巾洗ってくるわ、と行って立ち去っていく。なんだろう、今の不自然な笑顔は。
「中辻君」
話しかけられて振り向くと、巻島さんが立っていた。
「あっ、突然すみません、これから図書室に行くところで、たまたま……」
「そっか、俺はクリーン作戦だよ」
「あ、はい。存じ上げてます。それであの、いま、本宮さんの包帯が見えてしまったんですけど……」
「巻島さん、なにか知ってるの?」
巻島さんは辺りを気にしながら、隠れるように呟く。
「……体育で着替えるときに、ちらっと見えたんです。腕の包帯と、太ももの痣が。もしかしたら本宮さん、DV、されてるんじゃないかって……」
DV? まさか。でも、あのプリクラに写っていた彼氏ならば、ありえなくはない。
「それに本宮さん、ときどき学校でも泣いてるみたいで。昼休みから帰ってきたら、化粧が寄れてて、目も赤くて。神林さんと神妙な顔して話してることもあって……」
寝耳に水だ。あの本宮さんが泣いていたなんて。
「ごめんなさい、キモいですよね! でも私、人間観察が好きというか……本宮さんのことは、特によく見てたから」
「本宮さん、目立つもんね。それに視野が広いのは長所だと思うよ。教えてくれてありがとう」
俺は椅子から降りて、上靴に足をつっこむ。頭が混乱していた。
けれど、もしも今の話が本当だとしたら、俺は。
「中辻君は、本宮さんのことが好きなんですか?」
藪から棒な質問に、俺は一歩踏み出した状態で固まった。
俺は、本宮さんのことが……好き?
「いやいや、ないない。ほら、同じ学級委員だから放っておけないというか。彼女は誤解を受けやすい人だし、えっと……」
なにを焦っているんだ、俺は。
巻島さんは俺に頭を下げて、呼び止めてすみません、と残して去って行った。彼女がどうして俺にこれを教えてくれたのかはわからないけれど、自分ではどうにもできないからと、俺に託してくれたのかもしれない。やはり巻島さんはいい人だ。
俺は本宮さんがいるであろう、水道に向かった。本宮さんは水道に手を突っ込んで、じゃぶじゃぶと雑巾を洗っている。せっかくかわいくしているピンク色の爪が汚れてしまう。
本宮さんは雑巾を絞り終えると、石鹸で手を洗う。手首から爪の先まで入念に。泡もきれいに洗い流すと、髪の毛を手でまとめて持ち上げた。すると肩からブレザーがずれ落ちる。あらわになった包帯を少し気にするような素振りを見せて、けれどブレザーを腕にかけると、手で首をぱたぱたと扇いだ。絆創膏が三枚に増えている。
本当は暑いのに、彼女はブレザーを脱げない。どうして本宮さんが彼氏のために、なにかを我慢しなければならないのだろう。
「本宮さん」
近付く俺に気付いた彼女は、はっとしたようにブレザーを羽織ろうとする。その手を掴んで止めた。
「こっち、来て」
ちょ、と抵抗する本宮さんを連れて、隣の空き教室に入る。むっとした湿気がこもる教室には、ざああ、と雨の音だけが響いている。
「腕のケガ、誰にやられたの」
「……別に、体育で転んだだけ」
嘘だ。いつもグラウンドの隅でサボってるくせに。
「『たくちゃん』にやられたんだろ」
本宮さんは俺を睨んだ。言い返さないということは、図星だ。
「暴力を振るう男のどこがいいんだよ」
「本気でやられたわけじゃないし、てゆーかたまたまぶつかっちゃっただけ」
どうして彼氏を庇うんだ。本当は嫌だって思ってるくせに。
「キスマークだってそうだ。印をつけないと信頼してくれない、彼女が学校でどんな噂をされるかも想像できないような男の、どこが大人なんだよ。彼女がいつ、どんなときでも笑っていられるようにしてあげるのが、彼氏の役目なんじゃないのかよ」
「なんなの、正義の味方ぶってんの? ウザいんだけど」
本宮さんの手首を掴む手に、じわりと汗がにじむ。
「そうじゃない。女の子が傷つけられてるのを見て放っておけるかよ」
「だからそういうのがウザいって言ってんの! 頼んでもないのにクラスメイトと仲良くさせようとしたり、放課後引きとめようとしたりさぁ、本当、お節介!」
「俺はただ、本宮さんに学校も楽しいって思ってほしいだけで」
「あたしはみんなで仲良しこよしするのが義務みたいな、ガキ臭い学校が嫌いなの! あんたの楽しい基準を、あんたの理想を、あたしに押し付けんな!」
そんなこと、と言いかけて止まる。本当に、そんなことないだろうか?
まずもって、本宮さんが学校が嫌いだという発想はなかった。本宮さんは本当は学校を楽しみたいのに、彼氏や周りの環境がそうさせていないのだと思っていた。
女子はみんなで群れるのが好きで、友達と写真を撮るのが好きで、かわいい物や美味しい物の情報を交換し合うのが好きで……。本宮さんだって例に漏れず、そうなのだと思っていた。
「俺はただ、本宮さんが笑ってくれたらいいと思って――」
果たしてその理想は、誰のためのものだろうか。
まさかここで、毛嫌いしていた時野旅人の言葉を思い出すとは思わなかった。いや、心のどこかで引っかかっていたから、無意識に反発していたのかもしれない。
思えば日記の企画だって、俺は本宮さんが否定的だったことに気づけなかった。やってみれば絶対に面白いからと決めつけていた。
クラスの輪に本宮さんも入れればいいと思っていたけれど、そもそも本宮さんの楽しみは、学校の外にあったのだ。
俺の存在なんて、眼中にもなかったのだ。
「もう、あたしに構わないで」
これでいい、これで。本宮さんは学校の外で、今までどおり楽しくやればいいし、俺は俺で、学校の中で楽しくやればいい。お節介なんか焼かずに、本宮さんのことなんて放っておけばいいんだ。
そう思うのに、俺は彼女を引き留めてしまう。掴んだ細い手首を、離したくないと思ってしまう。
「行くなよ」
「だからっ、あたしが誰とどうなろうと、あんたには関係ないでしょ!」
まったくその通りだ。第一、仮にも心配してあげているのに、この態度はないだろう。
口も悪いし、性格もキツいし、ケバいし、ガリガリ君じゃ満足してくれないし。本当にどこをとってもかわいくない。
なのにどうして、俺は。一体、いつから。
「本宮さんのことが、好きだ」
こんな面倒な君のことを、好きになっていたのだろう。
「関係ないなんて、言わせない」
アカ高では『切磋琢磨』の校訓のもと、テストの結果、学年上位三十名の名前が掲示板に張り出される。
二ーBからは『六位・神林いずみ』『十三位・巻島莉歩』『二十位・逢坂綾人』の三名が名を連ねた。神林さんはさすがとしかいいようがないし、図書委員の二人もイメージ通りといった結果だ。
かくいう俺は三五〇人中、一七六位と、可もなく不可もなしな結果だった。けれど偏差値上位校の医学部を目指すならば、この成績ではまずい。十年後の同窓会で、医者にはなれませんでしたと言うのはあまりに恥ずかしいので、夏休みからは部活と平行して勉強も頑張ろう。
六月に入ると、男子は途端に色めき立つ。衣替え初日の今日、朝練後の部室は夏服の話題、主に透けて見える下着の色で盛り上がっていた。隅に転がる漫画雑誌では、水着のアイドルが微笑んでいるけれど、今日は誰も手に取らない。見せているものと見えてしまうものでは、その価値に雲泥の差があるのだ。
俺も健全な男子高校生であるので、白くて柔らかそうな二の腕や、汗で髪が貼りついたうなじには、否が応でも目がいってしまう。
けれど一人だけ、それを許してくれない女子がいた。
「ねぇ、この委員会まだ終わらないの? あたし早く帰らなきゃいけないんだけど」
本宮さんは【課外活動・クリーン作戦】と書かれた黒板を見てため息をついた。
彼女は今日一日、肩に紺色のブレザーをかけている。夏でも寒いときにはブレザーを着ていいことになっているので、校則上の問題はない。けれど連日の蒸し暑さに誰もがうだっていたから、当然、校内はワイシャツ・ブラウスの白色一色になる。
「しかも【雨天決行(その際は校内に変更・美化委員と学級委員のみが参加)】って。これじゃ普通の掃除と変わらないじゃん。順延にすればいいのに」
「中止、じゃないんだね。体育祭はあんなに嫌がってたのに、掃除はいいんだ?」
「体育祭はギブするだけでテイクがないじゃん」
やはり彼女は要点だけを語る。けれど今の発言にあえて補足をするならば、掃除はギブアンドテイク、つまり『与え合い』――校舎は生徒に場所を提供、生徒は校舎に清潔さを提供――が成り立ってる、だからやる意味があるでしょ、だ。
話せば話すほど、彼女が秩序を乱す理由がわからなくなる。彼女は普通の、どちらかといえば善の意識を持っている人だと思う。だから彼女が秩序というある種のルールを破ることが、最近は不自然に思えてならない。
ブレザーにしろ派手な見た目にしろ、彼女は本当に好き好んでそうしているのだろうか。
委員会が終わると、本宮さんは脱兎のごとく教室を出る。そろそろ昇降口まで一緒に行こう、という流れになってもいいと思うんだけどな。心の中で独りごちて、ふと床を見ると、ポーチらしき物が落ちていた。『L』と『V』の柄、本宮さんの物だ。
いま追いかければ間に合うだろうと、ポーチを手に取ると、隣のクラスの女子に呼び止められる。
「トーマって、本宮さんと付き合ってるの?」
「えっ!? いやいや、ないない!」
「そっかぁ。本宮さんと喋ってる男子ってトーマくらいだし、仲いいから付き合ってるのかと思った!」
そんなふうに思われていたのか。となると、本宮さんのキスマークは俺ということになっているのか!? ……いやいや、これ以上の想像はやめておこう。
「実は前に、本宮さんと男の人が一緒にいるのを見ちゃったからさ、二股だったらヤバイなーって思って!」
これは突っ込んで聞いていいのだろうか。いけないとは思いつつも、口が動く。
「それ、どんな人だった?」
「夜だったし顔はわからないけど、タバコ吸ってたから大人だと思うよー。本宮さんもタバコ吸ってるって噂だしね?」
「それはないよ」
思いの外強くなってしまった声に自分でも驚いて、たぶん、と慌ててつけた。俺は逃げるように教室を出る。
本宮さんの彼氏は、大人。
そうなんだろうとは思っていたけれど、確証に変わるとなんとなく不愉快だった。いつかの『ガキ臭い』発言は、やはり彼氏と比較されてのものだったらしい。
そりゃあ俺には、タバコのカッコよさなんてわからない。けれどタバコなんて百害あって一利なしじゃないか。本当に分別のある大人ならば、わざわざ害のある物になんか手を出さないと思うけど。
早足で廊下を歩いていると、神林さんを見かけた。体育教官室に入っていく。こーちゃんに呼び出しでもされたのだろうか。
そうだ、このポーチは神林さんに託そう。俺にだっていつかは、好きな人や彼女ができるかもしれないのだ。さっきのように本宮さんとの関係を疑われては迷惑千万、今後は必要以上に本宮さんと関わるのはやめよう。
そう決めた俺は、本当に本宮さんの物かを確認するために、ためらいつつもポーチを開ける。中には口紅やマニキュアなどのキラキラした物の他に、プリクラのシートが入っていた。
そこには金髪の男と、俺の知らない顔で笑っている、本宮さんが写っていた。
『ちな・たくちゃん』
『今日は朝までらぶらぶ』
『仲直りのちゅー』
心拍数が上がる。プリクラを持つ手が震える。すれ違う人の気配を感じて、ようやく廊下の隅に身を寄せた。
加工されているので定かではないけれど、彼氏の『たくちゃん』が年上であることは間違いないだろう。オールバックの髪、軟骨に空いたピアス、睨みつけるような目。人の彼氏をどうこう言いたくないけれど、ガラの悪さは見て取れた。
本宮さんも本宮さんだ。普段ならばキスプリなんて反吐が出る、だとか言いそうなのに、ノリノリでやってるのだから笑えてくる。さすがの彼女も、彼氏の前では普通の女の子になるらしい。
俺にはつっけんどんなくせに。八重歯なんか、滅多に見せないくせに。
「失礼します」
早くプリクラを手放したくて、ノックもそこそこに体育教官室に入る。こーちゃんと神林さんが驚いた様子で俺を見た。他の先生は出払っているようだ。
「どうしたトーマ。ああ、委員会だったのか」
「うん。そうなんだけど……」
こーちゃんの机を見ると、書店のランキングコーナーでよく見かける流行りの本が、いくつか積み上がっていた。読書家だなんて意外だ。こーちゃんはどんな日記を書いているんだろうと思って、ふと聞くことがあったことを思い出す。
「こーちゃん、クラスの日記って読んでる?」
「もちろん。毎日チェックしてるぞ」
ならどうして、時野旅人の日記を削除しないのだろう。俺がテストに追われて日記を書けずにいたときも、時野旅人の日記は毎日欠かさず更新されていた。
結果、あの日記はいま一位にいる。
「実は、時野旅人っていう人の日記が、ちょっと気になって」
「中辻君も時野旅人のファンなの?」
――ファン? 俺の言葉に反応したのは神林さんだった。
「あの日記、素敵だよね。抽象的な文章なのに、心の奥深くを的確に突いてくる。私、ああいう日記……いえ、小説が読みたかったの」
珍しく饒舌な神林さんは、ね、先生?と同意を求めた。
「ああ、この企画をやってよかったよ。こういう場所でなら、普段は言えない思いや考えを吐き出せる。十年後の正体明かしが本当に楽しみだな!」
とても言い出せるような空気ではなくなってしまった。仕方なく日記の件は切り上げて、神林さんにポーチの件を頼むと、少し考えてからいいよ、と頷いてくれた。
俺が部活に行くと言うと、神林さんも帰ると言い、俺たちは一緒に体育教官室を出た。こうして神林さんと並んで歩くのは初めてだ。自然と背筋が伸びる。
神林さんにも彼氏がいるのだろうか。想像してみると、スーツと高級時計がよく似合う、まさに大人という言葉そのものの男の人が浮かんだ。そうだ、大人とは洗練された人のことを言うのであって、決してタバコが吸える年上だけが大人ではない。
「まったくチナってば、せっかちなんだから」
神林さんはポーチの中身を見ながら笑う。
「中辻君、もしかしてチナとなにかあった?」
「なにかっていうか、そもそもなにもないよ。本宮さんには彼氏がいるしね」
「珍しいね、中辻君がそういう言い方するの」
指摘されて初めて、自分は今、苛立っているのだとわかった。ばつが悪くなってそうかな、と誤魔化す。
「チナ、今日も早く帰ったよね? あれね、彼氏が怒るからなの」
「怒る?」
「学校が終わったらすぐに帰れって言われてるみたい。彼氏は年上だから、青春真っ盛りのコミュニティーにいるチナのことが心配なんだと思う」
「それって、心配っていうか……」
束縛ではないだろうか。
胸がざわつく。そういえば本宮さんはいつも、『早く帰りたい』ではなく『早く帰らなきゃいけない』と言っていた。
「最近は中辻君がチナと仲良くしてくれて、嬉しいんだ。チナは人を、特に男の人を自分から跳ね除けるようになっちゃったから」
「それも、彼氏のせい?」
神林さんはなにも言わず、ただ困ったように微笑んだ。
翌日、本宮さんはポーチを手に、俺のもとにやって来た。彼女は今日もブレザーを肩にかけている。
「中身見た?」
「悪いけど、見たよ。本宮さんの物っていう確証がなかったし」
正直に答えたのは、彼女がどんな反応をするか見たかったからかもしれない。
「あ、そ。拾ってくれてどーも」
動揺した様子もなく、彼女は早々に自分の席に戻っていった。
ありがとうすら言わない、かわいくない本宮さんも、彼氏がそうさせているのだと思うと怒れない。腹立たしさの矛先は彼女ではなく、彼氏に向かっていた。
人との関わりを遮断させて、自由を奪うことで、彼氏が望む彼女はできあがるのかもしれない。けれどそんな彼女に向けられているのは、心ない陰口や噂だ。
キスマークも男よけのつもりなのだろうけれど、逆効果だ。想像力豊かな高校生男子にとって、それは極上のネタになる。最近では、千円でヤラせてくれるらしいぜ、なんてデマまで出ている始末だ。
見た目を派手にしているのも、金髪の彼氏に合わせているからなのだろう。彼女が秩序を乱す理由は、彼女ではなく彼氏の意思にあったのだ。
「今週の木曜、部活休みなんだけどさ。みんなで遊びに行かない?」
どうにかして本宮さんをクラスの輪に引き込もうと試みる。学校が楽しくて仕方なくなったら、彼女も早く帰ろうとは思わなくなるだろう。
「行かない」
「なにか用事でもある?」
「用事っていうか……」
「チナが行くなら私も行くよ」
神林さん、ナイスアシスト! 本宮さんもこれには揺れたのか、しばらく悩んだ。結局断られてしまったけれど、まだ彼女の中に迷う要素があることはわかった。
その日の夜、俺は日記を更新する。
◆六月十八日『今できること』
医療の現場にいると、一日、ひいては一秒の大切さを実感する。今日ある命が、明日もあるとは限らない。
痛くて、苦しくて、一人ぼっちで、けれど誰にも言えずに悩んでいる。そんな君に、いま、僕ができることはなんだろうか。
世界は広いことを教えてあげたい。笑っていいんだよと言ってあげたい。
◆ハンドルネーム/翔
翌日マイページを開いたら、読者登録数が七から八になっていた。これが本宮さんであってくれたら、嬉しい。
クリーン作戦の日は雨になった。放課後、予定通り美化委員と学級委員だけが清掃要員としてかり出される。ジャージに着替えなくてもいいという通達からして、先生たちは形だけの清掃をしてくれればいいという考えなのだろう。
みんながさっさと終わらせて部活に行こう、帰ろう、と言う中、俺は腕まくりをして本宮さんと指定の廊下に向かう。
「窓拭きっていっても、雨だから外は拭けないね」
「本当、非効率。古新聞もないし」
「古新聞?」
「新聞のインクが汚れを分解してくれるの」
「そうなんだ、知らなかった。本宮さん物知りだね」
「別に、普通でしょ。てか知らないほうがびっくりなんだけど。小中学校で教わらなかったの?」
本宮さんはそっぽを向きながら、手に持った空のバケツをかつん、と蹴る。彼女は照れを隠すとき口数が多くなる。最近知ったクセだ。
バケツに水をためて、高いところを拭けるようにパイプ椅子を二脚持ってくる。上靴を脱いで早速上ろうとする俺に対し、本宮さんは椅子に乗ることをためらっていた。そうか、スカートだもんな。
「俺高いところ拭くから、本宮さんは下拭いてくれない?」
「……いいけど」
「ありがとう、助かる」
本宮さんは俺の右に立ち、窓の隅を拭き始める。
きゅ、きゅ。高さの違う摩擦音が鳴る。俺たちの後ろをたくさんの生徒が談笑しながら通り過ぎていく。トーマ頑張れよ、と何人かに声をかけられた。
みんなの目には、俺たちの姿はどう映っているのだろうか。やはり付き合ってるように見えるのだろうか。
「あの、さ」
きゅ……。本宮さんの手が止まった。
「……なんでもない」
どうしたんだろう、と本宮さんを見下ろしたら、ブラウスの隙間から胸元が見えてしまった。う、わ、と動揺したけれど、見ていることがバレたら殺されそうなので、慌てて窓に視線を戻す。
黒のレース、黒のレース、黒の……いや、忘れろ俺!
煩悩を叩き出そうと、きゅきゅきゅきゅっと夢中で窓を拭く。と、勢い余って雑巾を床に落としてしまった。
何やってんの、と本宮さんは呆れたように言って雑巾に手を伸ばす。いやいやいやダメだ、もう一回下を見たら絶対に黒のレースが見える、見てしまう。俺は椅子にしゃがみ込み、本宮さんと同じ目線まで腰を落とした。
そのとき、ブレザーに隠されていた彼女の二の腕がちらりと見える。
「包帯?」
見えたままを口に出すと、本宮さんは弾かれたように顔を上げた。
「ごめん、見えちゃって。ケガしてるの?」
「あー、まぁ。てかこれ、始業式の日にあんたにつけられた傷なんだけど」
「えっ!?」
「冗談だっつーの」
いたずらっぽく笑った本宮さんは、雑巾洗ってくるわ、と行って立ち去っていく。なんだろう、今の不自然な笑顔は。
「中辻君」
話しかけられて振り向くと、巻島さんが立っていた。
「あっ、突然すみません、これから図書室に行くところで、たまたま……」
「そっか、俺はクリーン作戦だよ」
「あ、はい。存じ上げてます。それであの、いま、本宮さんの包帯が見えてしまったんですけど……」
「巻島さん、なにか知ってるの?」
巻島さんは辺りを気にしながら、隠れるように呟く。
「……体育で着替えるときに、ちらっと見えたんです。腕の包帯と、太ももの痣が。もしかしたら本宮さん、DV、されてるんじゃないかって……」
DV? まさか。でも、あのプリクラに写っていた彼氏ならば、ありえなくはない。
「それに本宮さん、ときどき学校でも泣いてるみたいで。昼休みから帰ってきたら、化粧が寄れてて、目も赤くて。神林さんと神妙な顔して話してることもあって……」
寝耳に水だ。あの本宮さんが泣いていたなんて。
「ごめんなさい、キモいですよね! でも私、人間観察が好きというか……本宮さんのことは、特によく見てたから」
「本宮さん、目立つもんね。それに視野が広いのは長所だと思うよ。教えてくれてありがとう」
俺は椅子から降りて、上靴に足をつっこむ。頭が混乱していた。
けれど、もしも今の話が本当だとしたら、俺は。
「中辻君は、本宮さんのことが好きなんですか?」
藪から棒な質問に、俺は一歩踏み出した状態で固まった。
俺は、本宮さんのことが……好き?
「いやいや、ないない。ほら、同じ学級委員だから放っておけないというか。彼女は誤解を受けやすい人だし、えっと……」
なにを焦っているんだ、俺は。
巻島さんは俺に頭を下げて、呼び止めてすみません、と残して去って行った。彼女がどうして俺にこれを教えてくれたのかはわからないけれど、自分ではどうにもできないからと、俺に託してくれたのかもしれない。やはり巻島さんはいい人だ。
俺は本宮さんがいるであろう、水道に向かった。本宮さんは水道に手を突っ込んで、じゃぶじゃぶと雑巾を洗っている。せっかくかわいくしているピンク色の爪が汚れてしまう。
本宮さんは雑巾を絞り終えると、石鹸で手を洗う。手首から爪の先まで入念に。泡もきれいに洗い流すと、髪の毛を手でまとめて持ち上げた。すると肩からブレザーがずれ落ちる。あらわになった包帯を少し気にするような素振りを見せて、けれどブレザーを腕にかけると、手で首をぱたぱたと扇いだ。絆創膏が三枚に増えている。
本当は暑いのに、彼女はブレザーを脱げない。どうして本宮さんが彼氏のために、なにかを我慢しなければならないのだろう。
「本宮さん」
近付く俺に気付いた彼女は、はっとしたようにブレザーを羽織ろうとする。その手を掴んで止めた。
「こっち、来て」
ちょ、と抵抗する本宮さんを連れて、隣の空き教室に入る。むっとした湿気がこもる教室には、ざああ、と雨の音だけが響いている。
「腕のケガ、誰にやられたの」
「……別に、体育で転んだだけ」
嘘だ。いつもグラウンドの隅でサボってるくせに。
「『たくちゃん』にやられたんだろ」
本宮さんは俺を睨んだ。言い返さないということは、図星だ。
「暴力を振るう男のどこがいいんだよ」
「本気でやられたわけじゃないし、てゆーかたまたまぶつかっちゃっただけ」
どうして彼氏を庇うんだ。本当は嫌だって思ってるくせに。
「キスマークだってそうだ。印をつけないと信頼してくれない、彼女が学校でどんな噂をされるかも想像できないような男の、どこが大人なんだよ。彼女がいつ、どんなときでも笑っていられるようにしてあげるのが、彼氏の役目なんじゃないのかよ」
「なんなの、正義の味方ぶってんの? ウザいんだけど」
本宮さんの手首を掴む手に、じわりと汗がにじむ。
「そうじゃない。女の子が傷つけられてるのを見て放っておけるかよ」
「だからそういうのがウザいって言ってんの! 頼んでもないのにクラスメイトと仲良くさせようとしたり、放課後引きとめようとしたりさぁ、本当、お節介!」
「俺はただ、本宮さんに学校も楽しいって思ってほしいだけで」
「あたしはみんなで仲良しこよしするのが義務みたいな、ガキ臭い学校が嫌いなの! あんたの楽しい基準を、あんたの理想を、あたしに押し付けんな!」
そんなこと、と言いかけて止まる。本当に、そんなことないだろうか?
まずもって、本宮さんが学校が嫌いだという発想はなかった。本宮さんは本当は学校を楽しみたいのに、彼氏や周りの環境がそうさせていないのだと思っていた。
女子はみんなで群れるのが好きで、友達と写真を撮るのが好きで、かわいい物や美味しい物の情報を交換し合うのが好きで……。本宮さんだって例に漏れず、そうなのだと思っていた。
「俺はただ、本宮さんが笑ってくれたらいいと思って――」
果たしてその理想は、誰のためのものだろうか。
まさかここで、毛嫌いしていた時野旅人の言葉を思い出すとは思わなかった。いや、心のどこかで引っかかっていたから、無意識に反発していたのかもしれない。
思えば日記の企画だって、俺は本宮さんが否定的だったことに気づけなかった。やってみれば絶対に面白いからと決めつけていた。
クラスの輪に本宮さんも入れればいいと思っていたけれど、そもそも本宮さんの楽しみは、学校の外にあったのだ。
俺の存在なんて、眼中にもなかったのだ。
「もう、あたしに構わないで」
これでいい、これで。本宮さんは学校の外で、今までどおり楽しくやればいいし、俺は俺で、学校の中で楽しくやればいい。お節介なんか焼かずに、本宮さんのことなんて放っておけばいいんだ。
そう思うのに、俺は彼女を引き留めてしまう。掴んだ細い手首を、離したくないと思ってしまう。
「行くなよ」
「だからっ、あたしが誰とどうなろうと、あんたには関係ないでしょ!」
まったくその通りだ。第一、仮にも心配してあげているのに、この態度はないだろう。
口も悪いし、性格もキツいし、ケバいし、ガリガリ君じゃ満足してくれないし。本当にどこをとってもかわいくない。
なのにどうして、俺は。一体、いつから。
「本宮さんのことが、好きだ」
こんな面倒な君のことを、好きになっていたのだろう。
「関係ないなんて、言わせない」
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