ひび

江呂川蘭子

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ひび

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 わたしが、そのひびに気付いたのは、出勤前に髪を整えていた時だった。
 最初は、何かの見間違いかと思っていたが、そのひびは確実に広がって大きくなっている。
 前髪をおろして、ひびが見つからないように隠したが、額に卵の殻にはいったひびのような物が出来るなんて聞いた事もなかった。
 わたしは医者に行く前に、彼女に相談する事にした。
 小板みさ子二十八歳。影の薄い貧相な風貌わたしより三つ年下なのに、いつも年上の彼女と思われている。
 いつも待ち合わせする居酒屋で、わたしはみさ子に額のひびを見せた。
「ほんとうだ。傷じゃなくってひびね!さわっていい?」そう言われてわたしは動揺した。
 実のところ、恐ろしくて自分では触った事がなかったのだ。
「自分では恐ろしくって、触れないんだ。どんな感触なのか教えてもらえないかい」そう言いながら、わたしはみさ子に額を触らせた。
「あれ!何もない!ひびにしか見えないのに、触るとなんにもないの」彼女は不思議そうに言うとジョッキのビールを飲み干した。
 わたしも自分で触ってみた。そこにはいつもと同じ皮膚の感触があるだけだった。
 不思議だ!ビールのおかわりを注文する時に店員に、額のひびを見せてみた。
 店員はポカンと口を開けて小首を傾げていた。どうやら彼にはわたしのひびは見えないようだ。
 わたしとみさ子はひびの事は忘れる事にした。
 そしてまた、いつものように結婚の話になった。みさ子は年齢的なものもあり少し焦りはじめていた。
 わたしとしては結婚というところまでは踏み切れずにいた。
 いや、勝手気侭な一人暮らしを失う事が怖かった。一人暮らしとみさ子を天秤にかけてみさ子には、それほどの魅力がないと腹の中では決めていた。わたしは今その感情を再認識しみさ子の顔を見つめた。
 ミシミシと音が鳴り。みさ子の額にもひびが入った。
 わたしは、前々から感じていた疑問をみさ子に聞いてみた。
「最近、僕に結婚を迫るのは、そうすれば僕から別れ話を持ち出すと思っているからじゃないのかい?」
 また大きくミシミシと音がした。きっとそれはわたしのひびが広がったに違いない。
 みさ子は、ヒッと小さな悲鳴をあげた。
「みさ子、君も鏡を見てみるといいよ」彼女は手鏡で自分のひびを見た。二人はこのひびが何なのかを理解した。その瞬間みさ子の顔全体にひびが入り顔はボロボロと床に落ちて行った。
 きっとみさ子もわたしの顔が砕け散るのが見えたのだろう。
 かって顔のあった部分には真っ暗な空間があるだけで他に何もなかった。
 わたしはその空間に手を突っ込んでみた。
 そしてわたしは、みさ子の中に入ってみた。みさ子の物欲とエゴに満たされ、そこにわたしの居場所はなかった。
 わたしの中にもみさ子の場所などないことを思い悲しくなった。
 私たちはお互いを知ろうともしなかった。なにかに理由をつけて向き合う事から逃げていた。
 わたしが気付くと、目の前には今まで見た事もない顔をしたみさ子がいた。
 わたしは彼女と一からやり直そうと思いみさ子に告げた。
「さよなら!」彼女は冷たく言い放つとそのまま消えてしまった。
 勘定を済ませて帰ろうとしたとき店員が
「お客さん!顔ないですよ」と驚いた声で言うのでトイレに駆け込んで見た。
 わたしの顔はなかった。真っ黒な空間があるだけだった。
 クソっみさ子は、顔泥棒だったのだ。
 わたしは交番に入り警官に顔を盗まれた経緯を話した。
「でも、あなた顔がないんじゃ自分が誰かを証明出来ないでしょう?警察としても困るんですよねえ!病院で顔を治してから来てもらえませんか?」と警官は困ったように言う。
 わたしは怒鳴りちらして、交番をでていった。
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