綴られた過去の外側で

黎明

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第1話 特別なことなんて、何もない朝

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朝の空気はひんやりしていて、土の匂いがまだ濃かった。

家の戸を開けると、裏道の向こうから足音がひとつ近付いてくる。
振り向かなくても、誰だかわかる速さだった。

「早いな」

背中越しに声が落ちてきて、私は桶を持ったまま肩越しに見る。
深い赤の髪は少し寝癖がついたままで、暗い金色の目が半分だけ細められていた。

「レオンが遅いだけ」

「はいはい。今日も井戸当番は真面目だ」

そう言いながら、彼は当然のように私の横に来て、桶を持ち上げる。
重さを確かめるような間もなく、腕に力を乗せた。

「それ、私のだから」

「知ってる。落としたら怒るだろ」

「当たり前でしょ」

軽い言い合いをしながら、並んで歩く。
道は踏み固められていて、昨日と同じ小石が、同じ場所に転がっている。

特別なことなんて、何もない朝だった。

「今日は仕立て屋だっけ」

「うん。裾、また引っかかるから」

「走るからだろ」

「歩いてても引っかかる」

そう言うと、レオンは小さく鼻で笑った。
声を出さない、癖みたいな笑い方。

この村で、私とレオンはずっとこうだった。
考え方も、物の見方も、だいたい似ている。
違う意見を言っても、言葉が喧嘩にならない距離。

井戸の縁に桶を置くと、水面がわずかに揺れた。
空は澄んでいて、雲も少ない。

「なあ、ルナ」

水を汲み終えたあと、レオンがふいに言った。
視線は水面ではなく、遠くの道に向いている。

「最近、王都の連中が人を探してるって話、聞いたか」

「人?」

「条件がどうとか、血がどうとか。噂話だけどな」

私は一瞬だけ考えてから、首を振った。

「この村には関係ないでしょ」

そう答えた声は、自分でも驚くほど迷いがなかった。
考える前に、切り捨てるような言い方だった。

「まあ、そうだろうな」

レオンはそれ以上何も言わず、桶を持ち直す。

理由もなく、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
不安というほど大きなものではない。
ただ、見ないふりをしたほうが楽だと、体が先に知っている感覚に近かった。

でも、それを言葉にするほどの確信はない。
私は何も言わず、歩き出す。

家に戻る途中、村の子どもたちが走り抜けていく。
笑い声が弾んで、いつもの朝の音が重なる。

私はその中に立っていて、
自分の人生が、この場所から大きく動くなんて想像もしなかった。

少なくとも、このときはまだ。
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