筆と刀の混沌戦禍

皐月やえす

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働き蜂

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 部屋一帯に、張り裂けたような鋭い音が響く。

 着物を剥かれ、両腕を枷にはめられ、逞しい胸板や背中をむちで何度も何度も引っ叩かれる。鋭い痛みと焼けるような熱さに、庄右衛門は脂汗をかきながら耐えていた。
 兵次郎は楽しげにむちを手でいじりながら、庄右衛門を眺める。

「ふふふ、四十回打ちのめしても、悲鳴一つあげないなんて……」

 兵次郎が顔を覗き込むと、庄右衛門は歯を食いしばって唸った。苦しんではいるものの、兵次郎への殺意は消えていない。
 兵次郎は笑い声を上げて、庄右衛門の両腕を吊す鎖を緩めた。がく、と膝をつく。ぱたた、と床に汗が垂れた。長いこと苦痛に耐えたせいで、庄右衛門の足元の床には汗の染みが広がっている。



「こっちは流石の君でも声をあげるんじゃないかな?」

 兵次郎が次に手にしたのは、やっとこであった。大振りの持ち手を掴んでわざと重苦しい金属音を立てる。控えていた忍びが庄右衛門の枷を掴み、穴の空いた戸板に枷ごと両腕を嵌め込む。

「これは尋問でもなんでもないから、君はひたすら爪を剥がされるのを耐えるだけだよ」

 戸板の向こうで兵次郎が庄右衛門の手に触れた。やっとこの先端を器用に右の親指の爪と指の間に差し込み、挟む感覚が伝わってくる。そして力を入れた。

「なぜだ……」

 庄右衛門が呟いた。兵次郎が目を向けると、庄右衛門の目がまっすぐこちらを見ている。

「どうして俺を、家族を殺した?忍びである俺や梅吉、助けを呼びに行ってしまうかもしれないマキならともかく、無関係なはるまで手をかけなくても良かっただろう。
汚名を被せたのは裏切ったことをバラされても言い訳ができるように、というのはわかるが……」

 庄右衛門の目に、今は殺意はなかった。疑問と悲しみに沈んでいる。

「俺は愚かにも、あの時お前の元に捕らえられるまで、お前のことを親友だと信じていた……教えてくれ。俺とお前の間に何が起こってしまったんだ?」

 兵次郎はしばらく口をつぐんで見つめ返していたが、やがて静かに微笑んだ。

「ようやく僕を見てくれたね。僕だけを」

 庄右衛門が眉をひそめると、

「はるさんは僕の気持ちに気付いていたみたいだよ。それでも庄右衛門がわかってないってことは、はるさんは僕のために見て見ぬふりをしてくれたみたいだね。自分が死ぬ原因になるとは知らずに……」

と兵次郎がクスクス笑う。

「はるに何かしたのか?」

 庄右衛門が敵意を剥き出しにした途端、兵次郎がやっとこを捻った。べきり、と嫌な音と共に、爪があった場所に凄まじい激痛が走った。庄右衛門はくぐもった悲鳴を漏らす。

「庄右衛門の大事な大事なはるさんだもの。殺すまでは何もしてなかったってば。はるさんのことになるとすぐ頭に血が上るんだから」

 兵次郎が剥ぎたての庄右衛門の爪を指でもてあそびながら、不愉快そうに吐き捨てた。

「それが庄右衛門の唯一嫌いなところ。友達思い、仲間思い、家族思いは良いけど、目の前で奥さんと仲良くされちゃたまったもんじゃない。こっちの気持ちも考えてほしいよね」

 庄右衛門は激痛を紛らすために息を荒げていた。

「……嫁がいない独り身のお前さんの前で、はるの話をしたのは悪かった」

 庄右衛門が呟くと兵次郎は舌打ちをし、次は人差し指の爪を乱暴に剥ぎ取った。予想をしていなかった指に激痛を受け、鋭い悲鳴を上げた。真っ青な顔で痛みに耐える庄右衛門に、兵次郎は言い放つ。

「ほら、ここまで言ってもやっぱりわかっていない。鈍い男だ。僕は……」

 そう言って庄右衛門の髪を掴み、ぐいと顔を近づける。歳は取っても、庄右衛門と違って整った綺麗な顔だ。兵次郎が庄右衛門の目を覗き込む。

「僕はねえ、庄右衛門のことが好きなんだ。友愛とか、親愛とかじゃなく、恋慕なんだ」

 庄右衛門はじんじんくる痛みのせいで聞き間違いをしたのかと思ったが、兵次郎の綺麗な二重の目が熱っぽく見つめてくるのを見て、背筋がひんやりとしてきた。兵次郎の手が庄右衛門の無精髭の生えた顎を愛おしげに包む。

「幼い頃から、ずっとずっと側で君を見てきた。気づいたら、君のことを恋愛対象として見ていたんだ。
君のすごい所も、弱い所も、格好良い所も、だらしのない所も、全部全部知ってるし、全部全部好きなんだ。はるさんだって知らない、庄右衛門の素敵なところもあるよ」

 白くて長い指が頬に触れると、庄右衛門はおぞましさから全身に鳥肌が立ち、避けられる範囲で兵次郎の手から顔を背けた。兵次郎は苦笑する。

「君に男色の気が一切無かったのが残念だけどね。叶うことなら僕が君の伴侶になって、君の子供を産みたいくらいだった。
僕は男ってだけで君の伴侶になれず、はるさんは女ってだけで無条件に君と子供が作れるんだからこの世は不公平だ」

 兵次郎は睨んでくる庄右衛門に悲しそうな顔を向けた。

「それでもね、僕は親友として君のそばにいることができれば良い、と思って何十年も想いを隠していたんだ。でもある時、僕の心に呼応して、この方がついて来たんだ」

 兵次郎が差し出した白い手に、大振りの蜂が乗っている。庄右衛門は息を呑んだ。以前目撃した、蜻蛉御前かげろうごぜんにくっ付いて支配していた蜂の化け物にそっくりだ。

「この方が僕の心の傷を舐めてくれたんだ……一生手に入らないのならば、いっその事ことすべて壊してしまえ、と。その言葉は年々強くなり、僕もその通りだと思い直すようになった」

 庄右衛門は予想外のことが起こりすぎて混乱しかけていた。しかし、この蜂に取り憑かれたせいで、穏やかで心優しい兵次郎が豹変したのなら、辻褄が合うと思った。

(何年もこいつにくっつかれていたんだ……兵次郎はそれでも何年も耐えていたんだ)

 庄右衛門は、もっと早く兵次郎の心の内に気付けていれば、悲惨な事件は避けられたかもしれないと悔やんだ。

「だから僕は全部壊すために、君の家族諸共肉体的にも社会的にも死んでもらったんだ。城主を裏切って殺せと依頼されたのもあるけど、そんなのは二の次。
理由は知らないけれどこの方は大勢の人のむくろを欲していたし、僕は庄右衛門を殺すためこの方の、人を操る力が欲しかったから、協力しあっただけなんだ」

 兵次郎は蜂の背を指で優しく撫でる。庄右衛門は、知らない人を見るような目で兵次郎を眺めていた。
 蜂は羽を震わせて音を出した。兵次郎はそれに耳を傾けていたが、やがて袖の中に蜂が入っていくと、庄右衛門に笑いかけた。

「さて、どうやら外に、君を助けようとするお馬鹿さんが何人も彷徨うろついているみたいだよ。どうせ最後なんだ。二人で楽しもうか」

 白い手がやっとこを掴み直す。庄右衛門に冷や汗がぶわっと湧く感覚が走った。
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