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My Funny Valentine ジャンル:恋愛
Jeux d'eau ―水の戯れ―
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動物園を出た私達は、再び市内へと車を走らせていた。時刻はまだ三時を過ぎたばかり。これからどうするんだろう?
「まだこんな時間か…… どこか希望ある?」
「ううん、今日は全部瞬におまかせ!」
「おまかせか……まあ、今日はせっかく車があるんだし……ちょっと離れてるけど、観覧車のあるショッピングモールでも行く? 近くには水族館もあるし、ご希望とあれば、そちらまで足を伸ばしてもいいよ」
観覧車に水族館……定番デートスポットの詰め合わせみたい。ロマンスがありあまる。
「いいじゃん! 時間があったら両方行きたいなあ」
春休みにバイトもしていない女子大生である私には、時間ならいくらでもあるのだ。
もう一人の私が愛読している森博嗣の小説には、『Time is moneyなんて言葉があるが、それは、時間を甘く見た言い方である。金よりも時間の方が何千倍も貴重だし、時間の価値は、つまり生命に限りなく等しいのである。』という一節がある。ごめんなさい、死にます。
「両方か……じゃあ先に水族館かな。了解、それにしても……」
ルームミラー越しに視線が合う。彼はにやりと笑って言った。
「動物園の後に水族館って、なんかカレーとシチューを一緒に食うみたいな感じがするね」
「……何なの? その比喩……」
動物園を出て約30分。県道を通り、市内を通過し、バイパスを走って川を越えたところに水族館はあった。海が近く、港もあるため、山中だった動物園とは風景も街並も、風の匂いもまるで違う。
駐車場に車を停め、車を降りて辺りを見回すと、ショッピングモールのある方角に、観覧車の上半分がにょきっと頭を出しているのが見えた。
「あ、観覧車ってあれ? 大きいね~!」
「そうそう。水族館の後で乗りに行こうな」
「は~~い」
エントランスを抜けて、最初に私達を出迎えたのは、なんとホヤだった。天井一面が解放された水槽になっていて、降り注ぐ日光の中にホヤの姿がくっきりと浮かび上がっている。
「え~、なに? これホヤ? 生きてる姿は見たことない!」
「俺も、水中にいるのは初めて見るかも」
私にとって水族館は、とても感性を刺激される場所だ。
きっと、水中から見上げる海面はこんな風に見えるのだろう。母なる海、その胎内で、羊水に包まれながらぷかぷかと浮かんでいる。
太古の昔、我々の祖先である原始的な生物達は、海水を透過した青緑の太陽光を受けながら、陸の上の世界をどんな風に想像していたのだろうか。それは例えば、私達が死後の世界に極楽浄土を願うように、或いは雲の上に天国の存在を夢見るような、希望と憧憬、進化への期待……。
「真紀は、水族館も初めてなの?」
瞬の声が、私の意識を現実へと引き戻す。
「ううん、水族館なら何度か行った事があるよ。でも、随分久しぶりかも……」
「ここは俺も初めてだな。去年の夏にオープンしたばっかりだし」
巨大水槽の前で、私達はしばらく言葉を失った。
壁一面を切り抜いたような大きな水槽。実際に東北の海に住まう生物たちが放たれているその中で、何よりも私の目を引いたのは、サバやイワシの大群だった。銀色の体に照明の光を受けてキラキラと輝きながら、まるで群れ全体が一つの生命のように蠢きながら泳ぎ続けている。細かい水泡と共に光の渦となって、その幻想的な光景に、私達はすっかり魅了されていた。
水槽の周辺は意図的に照明が抑えられていて、地底から海中を見上げているような錯覚に陥った。暗闇の中で、水槽から放たれる青い光だけが私達を照らしている。瞬の瞳に映り込んだ青の中を、一匹のエイが横切って行った。
「すごい……」
「綺麗……」
心から感動できるものに出会った時、言葉というものはあまりにも無力だ。心の中に生まれた表象の複雑さを表現しようと思うと、言葉はきまって堅苦しく、また大袈裟になるし、柔らかさを表現しようとすると、単純で幼稚な表現になってしまいがちだ。もしかすると、言葉とは、表現できないものの存在を前提として編まれるものなのかもしれない。言葉は常に暗喩なのだ。
巨大水槽の次のエリアには、タコ、カニ、イソギンチャク、ハゼといった、ユニークな生き物達が展示されていた。うねうねと動くタコの足。カニは、小さなハサミをゆらゆらと小さく動かしながら、水槽の中でぼんやりと佇んでいる。水族館で食べられる生き物を見ると、おいしそう……と思ってしまう事ってないだろうか。不謹慎だとわかってはいるのだけれど、どうしても脳裏をよぎってしまうのだ。あのタコなんて、マリネにしたらきっと……ああ、いけない。お昼を早めにとったせいか、感受性が食欲に取って代わってしまったみたい。頭を切り替えよう。
その次のエリアは、さらに一層風変りだった。
水槽いっぱいにびっしりと生えた海藻。私の身長より長そうな昆布が、水の中でゆらゆらと揺れている。そう、ここは海藻がメインの水槽なのだ。大小さまざま、色とりどりの海藻が、岩に生けられていた。また、海藻を餌とするアワビやウニなども展示されている。
ウニとアワビといえば、東北に来て初めて食堂で食べた「いちご煮」の衝撃が忘れられない。
メニューを見ながら私はそれを、イチゴのコンポートのようなものかな、と考えて、デザートのつもりで注文したのだが、出てきたのはなんとお吸い物。ウニとアワビのお吸い物だったのだ。塩味のシンプルなお吸い物で、汁の中に浮かんでいるウニの卵巣が、朝靄の中の野イチゴに似ているから、いちご煮という名がついているのだと、お店の方に教わった。一口すすると、アワビとウニの濃密な風味が口の中いっぱいに広がって……あ、結局また食べ物の事を考えてしまっている。いきなりお腹が鳴りだしたりしないかと、私は気が気ではなかった。
水族館に到着したのが4時頃だったため、のんびりしていたらあっという間に閉館時間が近付いてきてしまった。チンアナゴやオオグソクムシなど、もっと色々とゆっくり見たいものはあったのだけれど、後半の展示物はほとんどちらりと流し見ただけで、私達はそそくさと水族館を後にした。
「綺麗だったね~。でも、もうちょっとゆっくり見たかったなあ。ねえ、暖かくなったらもう一度ゆっくり見に来ようよ、イルカショーも見てみたいし、ペンギンにも触ってみたいし、フードコートも興味あるし……」
「わかったわかった、絶対また連れてくるから」
「ほんとう? 瞬は嘘つきだから……」
「本当だって……で、どうする? 観覧車も行く?」
「もちろん!」
宵闇に覆われた空の下、七色にライトアップされた観覧車が、ゆったりと回転しながら聳え立っている。花のようにヴィヴィッドなその色彩を、車中から眺めた。さすがに週末の夜だけあって、ショッピングモールへと繋がる道路は混雑しており、車はなかなか前に進まない。車内は暖房が効いているし、水族館で飲み物を買い損ねたので、私は喉の渇きを覚えていた。
「ねえねえ、喉渇いてない?」
「俺もちょっと何か飲みたいなって思ってたところ」
「じゃあ、着いたら先にコーヒーでも飲もうよ」
「了解。たしかチェーンの喫茶店があったはずだけど……そこでもいい?」
ショッピングモールは、多くの家族連れで賑わっていた。ファッション関係のテナントが充実しているため、家族連れに混じって若いカップルの姿も散見される。その人波を縫うようにして、私達は喫茶店へと辿り着いた。
全国展開している大手のコーヒーチェーンで、大学の近くにも店舗がある。私も、瞬や小雨と一緒に何度か利用したことがあった。
瞬はエスプレッソを、私はロイヤルミルクティーとパンケーキを注文し、向かい合ってテーブルに着いた。
おしゃれな店内によく合う、心地よいジャズが耳に流れ込む。ビブラートが美しい、女性の歌声。この曲は……たしか、曲名は『My Funny Valentine』。女性の視点から『バレンタイン』という名の男性の事を歌った、ジャズのスタンダードナンバーだ。ジャズに詳しいわけではないのだが、この曲はテレビで聴いた事があって、なんとなく記憶に残っていた。
瞬は、いつも砂糖をたっぷりとコーヒーに溶かす。とろりと濃厚な茶色い液体、その表面に浮かんだ細かい泡が、カップの中でくるくると回るスプーンにかき乱されていく。
「真紀、パンケーキ好きだよな」
「流行り物に弱いの」
ベリー系のフルーツとホイップクリームが載ったパンケーキ。私はミルクティーを一口飲んでから、それにナイフを入れた。
「結局、パンケーキとホットケーキってどこが違うの?」
「う~ん、色々定義はあるらしいけど……大体、パンケーキのほうが薄いんじゃないかな」
「へぇ。案外適当なんだな」
「そうそう。雰囲気だよ。同じ物でも、英語にしたりフランス語にしたりするだけで、何となく新しく感じるじゃない? そういうこと」
一口大に切ったパンケーキを頬張る。ふんわりとした生地と、ブルーベリー、ストロベリー、そして酸味の勝ったベリー系のソース。さらに、ハニーとホイップクリームが渾然一体となって、口の中で絶妙なハーモニーを奏でている。ふと、唇のあたりに瞬の視線を感じた私は、その交響楽団を急いで飲みこんだ。
「ん、クリームついてる?」
「いや、大丈夫」
「ふふ、おいし~い♡」
私は微笑みながら、必殺の歯痛ポーズを作った。瞬はどぎまぎしながらカップへと視線を落とし、慌ててコーヒーをすする。そうか、もしかして……。
「瞬も一口食べる?」
「……え?」
「だって、そんな物欲しそうに見られたら、聞かないわけにはいかないじゃない?」
「あ、いや、別にそういうわけじゃ……」
瞬の弁解を遮るように、私は再びパンケーキにナイフを入れて、クリームとベリーを載せ、フォークに刺して持ち上げた。
「はい、あ~ん」
「え、ちょ……それはちょっと恥ずかしいよ……」
「あ~んできないならあげません」
そう言って私は、ぷいと顔を背けて見せる。
「わかったわかった……いただきます」
「それでよろしい」
瞬はおずおずと口を開く。その姿が、餌を待っている金魚のようで、私は笑いを堪えるのに苦労した。口の中に差し入れられるパンケーキ。彼はそれを口に含み、フォークから離れる。
「おいしい?」
彼はもぐもぐと咀嚼して、緊張していた表情から、自然と笑みがこぼれる。そんな彼の顔を見ていると、私の口の中にまで、その風味と食感が広がってくるような気がする不思議。
「うん、うまい……ありがとう」
「おそまつさまでした」
私も自然と笑顔になっていた。笑顔は視線だけでも感染するのだ。
こんな単純な事で、私達はこんなにも微笑み合える。誰か、とても気の利く誰かが、今のシーンを写真に収めてくれていないかな。そんな無茶な事まで考えた。
私は今、とても幸せ。
でも、もっと幸せになりたい。そう、強く想った。
「まだこんな時間か…… どこか希望ある?」
「ううん、今日は全部瞬におまかせ!」
「おまかせか……まあ、今日はせっかく車があるんだし……ちょっと離れてるけど、観覧車のあるショッピングモールでも行く? 近くには水族館もあるし、ご希望とあれば、そちらまで足を伸ばしてもいいよ」
観覧車に水族館……定番デートスポットの詰め合わせみたい。ロマンスがありあまる。
「いいじゃん! 時間があったら両方行きたいなあ」
春休みにバイトもしていない女子大生である私には、時間ならいくらでもあるのだ。
もう一人の私が愛読している森博嗣の小説には、『Time is moneyなんて言葉があるが、それは、時間を甘く見た言い方である。金よりも時間の方が何千倍も貴重だし、時間の価値は、つまり生命に限りなく等しいのである。』という一節がある。ごめんなさい、死にます。
「両方か……じゃあ先に水族館かな。了解、それにしても……」
ルームミラー越しに視線が合う。彼はにやりと笑って言った。
「動物園の後に水族館って、なんかカレーとシチューを一緒に食うみたいな感じがするね」
「……何なの? その比喩……」
動物園を出て約30分。県道を通り、市内を通過し、バイパスを走って川を越えたところに水族館はあった。海が近く、港もあるため、山中だった動物園とは風景も街並も、風の匂いもまるで違う。
駐車場に車を停め、車を降りて辺りを見回すと、ショッピングモールのある方角に、観覧車の上半分がにょきっと頭を出しているのが見えた。
「あ、観覧車ってあれ? 大きいね~!」
「そうそう。水族館の後で乗りに行こうな」
「は~~い」
エントランスを抜けて、最初に私達を出迎えたのは、なんとホヤだった。天井一面が解放された水槽になっていて、降り注ぐ日光の中にホヤの姿がくっきりと浮かび上がっている。
「え~、なに? これホヤ? 生きてる姿は見たことない!」
「俺も、水中にいるのは初めて見るかも」
私にとって水族館は、とても感性を刺激される場所だ。
きっと、水中から見上げる海面はこんな風に見えるのだろう。母なる海、その胎内で、羊水に包まれながらぷかぷかと浮かんでいる。
太古の昔、我々の祖先である原始的な生物達は、海水を透過した青緑の太陽光を受けながら、陸の上の世界をどんな風に想像していたのだろうか。それは例えば、私達が死後の世界に極楽浄土を願うように、或いは雲の上に天国の存在を夢見るような、希望と憧憬、進化への期待……。
「真紀は、水族館も初めてなの?」
瞬の声が、私の意識を現実へと引き戻す。
「ううん、水族館なら何度か行った事があるよ。でも、随分久しぶりかも……」
「ここは俺も初めてだな。去年の夏にオープンしたばっかりだし」
巨大水槽の前で、私達はしばらく言葉を失った。
壁一面を切り抜いたような大きな水槽。実際に東北の海に住まう生物たちが放たれているその中で、何よりも私の目を引いたのは、サバやイワシの大群だった。銀色の体に照明の光を受けてキラキラと輝きながら、まるで群れ全体が一つの生命のように蠢きながら泳ぎ続けている。細かい水泡と共に光の渦となって、その幻想的な光景に、私達はすっかり魅了されていた。
水槽の周辺は意図的に照明が抑えられていて、地底から海中を見上げているような錯覚に陥った。暗闇の中で、水槽から放たれる青い光だけが私達を照らしている。瞬の瞳に映り込んだ青の中を、一匹のエイが横切って行った。
「すごい……」
「綺麗……」
心から感動できるものに出会った時、言葉というものはあまりにも無力だ。心の中に生まれた表象の複雑さを表現しようと思うと、言葉はきまって堅苦しく、また大袈裟になるし、柔らかさを表現しようとすると、単純で幼稚な表現になってしまいがちだ。もしかすると、言葉とは、表現できないものの存在を前提として編まれるものなのかもしれない。言葉は常に暗喩なのだ。
巨大水槽の次のエリアには、タコ、カニ、イソギンチャク、ハゼといった、ユニークな生き物達が展示されていた。うねうねと動くタコの足。カニは、小さなハサミをゆらゆらと小さく動かしながら、水槽の中でぼんやりと佇んでいる。水族館で食べられる生き物を見ると、おいしそう……と思ってしまう事ってないだろうか。不謹慎だとわかってはいるのだけれど、どうしても脳裏をよぎってしまうのだ。あのタコなんて、マリネにしたらきっと……ああ、いけない。お昼を早めにとったせいか、感受性が食欲に取って代わってしまったみたい。頭を切り替えよう。
その次のエリアは、さらに一層風変りだった。
水槽いっぱいにびっしりと生えた海藻。私の身長より長そうな昆布が、水の中でゆらゆらと揺れている。そう、ここは海藻がメインの水槽なのだ。大小さまざま、色とりどりの海藻が、岩に生けられていた。また、海藻を餌とするアワビやウニなども展示されている。
ウニとアワビといえば、東北に来て初めて食堂で食べた「いちご煮」の衝撃が忘れられない。
メニューを見ながら私はそれを、イチゴのコンポートのようなものかな、と考えて、デザートのつもりで注文したのだが、出てきたのはなんとお吸い物。ウニとアワビのお吸い物だったのだ。塩味のシンプルなお吸い物で、汁の中に浮かんでいるウニの卵巣が、朝靄の中の野イチゴに似ているから、いちご煮という名がついているのだと、お店の方に教わった。一口すすると、アワビとウニの濃密な風味が口の中いっぱいに広がって……あ、結局また食べ物の事を考えてしまっている。いきなりお腹が鳴りだしたりしないかと、私は気が気ではなかった。
水族館に到着したのが4時頃だったため、のんびりしていたらあっという間に閉館時間が近付いてきてしまった。チンアナゴやオオグソクムシなど、もっと色々とゆっくり見たいものはあったのだけれど、後半の展示物はほとんどちらりと流し見ただけで、私達はそそくさと水族館を後にした。
「綺麗だったね~。でも、もうちょっとゆっくり見たかったなあ。ねえ、暖かくなったらもう一度ゆっくり見に来ようよ、イルカショーも見てみたいし、ペンギンにも触ってみたいし、フードコートも興味あるし……」
「わかったわかった、絶対また連れてくるから」
「ほんとう? 瞬は嘘つきだから……」
「本当だって……で、どうする? 観覧車も行く?」
「もちろん!」
宵闇に覆われた空の下、七色にライトアップされた観覧車が、ゆったりと回転しながら聳え立っている。花のようにヴィヴィッドなその色彩を、車中から眺めた。さすがに週末の夜だけあって、ショッピングモールへと繋がる道路は混雑しており、車はなかなか前に進まない。車内は暖房が効いているし、水族館で飲み物を買い損ねたので、私は喉の渇きを覚えていた。
「ねえねえ、喉渇いてない?」
「俺もちょっと何か飲みたいなって思ってたところ」
「じゃあ、着いたら先にコーヒーでも飲もうよ」
「了解。たしかチェーンの喫茶店があったはずだけど……そこでもいい?」
ショッピングモールは、多くの家族連れで賑わっていた。ファッション関係のテナントが充実しているため、家族連れに混じって若いカップルの姿も散見される。その人波を縫うようにして、私達は喫茶店へと辿り着いた。
全国展開している大手のコーヒーチェーンで、大学の近くにも店舗がある。私も、瞬や小雨と一緒に何度か利用したことがあった。
瞬はエスプレッソを、私はロイヤルミルクティーとパンケーキを注文し、向かい合ってテーブルに着いた。
おしゃれな店内によく合う、心地よいジャズが耳に流れ込む。ビブラートが美しい、女性の歌声。この曲は……たしか、曲名は『My Funny Valentine』。女性の視点から『バレンタイン』という名の男性の事を歌った、ジャズのスタンダードナンバーだ。ジャズに詳しいわけではないのだが、この曲はテレビで聴いた事があって、なんとなく記憶に残っていた。
瞬は、いつも砂糖をたっぷりとコーヒーに溶かす。とろりと濃厚な茶色い液体、その表面に浮かんだ細かい泡が、カップの中でくるくると回るスプーンにかき乱されていく。
「真紀、パンケーキ好きだよな」
「流行り物に弱いの」
ベリー系のフルーツとホイップクリームが載ったパンケーキ。私はミルクティーを一口飲んでから、それにナイフを入れた。
「結局、パンケーキとホットケーキってどこが違うの?」
「う~ん、色々定義はあるらしいけど……大体、パンケーキのほうが薄いんじゃないかな」
「へぇ。案外適当なんだな」
「そうそう。雰囲気だよ。同じ物でも、英語にしたりフランス語にしたりするだけで、何となく新しく感じるじゃない? そういうこと」
一口大に切ったパンケーキを頬張る。ふんわりとした生地と、ブルーベリー、ストロベリー、そして酸味の勝ったベリー系のソース。さらに、ハニーとホイップクリームが渾然一体となって、口の中で絶妙なハーモニーを奏でている。ふと、唇のあたりに瞬の視線を感じた私は、その交響楽団を急いで飲みこんだ。
「ん、クリームついてる?」
「いや、大丈夫」
「ふふ、おいし~い♡」
私は微笑みながら、必殺の歯痛ポーズを作った。瞬はどぎまぎしながらカップへと視線を落とし、慌ててコーヒーをすする。そうか、もしかして……。
「瞬も一口食べる?」
「……え?」
「だって、そんな物欲しそうに見られたら、聞かないわけにはいかないじゃない?」
「あ、いや、別にそういうわけじゃ……」
瞬の弁解を遮るように、私は再びパンケーキにナイフを入れて、クリームとベリーを載せ、フォークに刺して持ち上げた。
「はい、あ~ん」
「え、ちょ……それはちょっと恥ずかしいよ……」
「あ~んできないならあげません」
そう言って私は、ぷいと顔を背けて見せる。
「わかったわかった……いただきます」
「それでよろしい」
瞬はおずおずと口を開く。その姿が、餌を待っている金魚のようで、私は笑いを堪えるのに苦労した。口の中に差し入れられるパンケーキ。彼はそれを口に含み、フォークから離れる。
「おいしい?」
彼はもぐもぐと咀嚼して、緊張していた表情から、自然と笑みがこぼれる。そんな彼の顔を見ていると、私の口の中にまで、その風味と食感が広がってくるような気がする不思議。
「うん、うまい……ありがとう」
「おそまつさまでした」
私も自然と笑顔になっていた。笑顔は視線だけでも感染するのだ。
こんな単純な事で、私達はこんなにも微笑み合える。誰か、とても気の利く誰かが、今のシーンを写真に収めてくれていないかな。そんな無茶な事まで考えた。
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でも、もっと幸せになりたい。そう、強く想った。
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