アンダンテ

浦登みっひ

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My Funny Valentine ジャンル:恋愛

Masques ―仮面―

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 『嘘』とは、全て、結果論に基づいた幻想である。

 『嘘から出たまこと』と諺にもある通り、現実に起こっている全ての現象は、真実と嘘の間に存在するゆらぎの中で絶え間なく揺れ動いている。それを観察できるようになった時には既に、出発点がどちらだったのか判別する事ができない。
 だから、『真実』そして『嘘』、その何れも、観察者及び観察地点、観察時期といった外的要因によって左右される属性であり、観察する主体、視点、そしてタイミングによって、容易に反転しうるものだ。俺はそう考えている。

 では、『嘘』が幻想であるならば、『真実』もまた幻想なのか?
 答えは否だ。真実と嘘が混じり合う巨大な渦に飲まれて、たとえその小さな一粒を見失ってしまったとしても、それが発生した時点では、必ず真実だからである。だからこそ我々は、その大きな揺らぎの中で唯一、指向性を持つ存在――すなわち人間――を、その時、その場所で、自分、もしくは傍にいる誰かの心の中で発生する真実を、見つけ出して、信じなければならない。

 もしも、読者の依代たるべき物語の主人公が、読者を欺くようなことがあっても……。


 真紀をマンションまで送り届けた後、家へと向かう車中で、俺はそんな事を考えていた。

 今日日、恋愛ドラマでさえやらないようなベタなラブシーンを演じてきたばかりだというのに、我ながら不穏な独白ではないか、とは思う。いや、『演じてきた』という言葉にも語弊がある。やはり、言葉は難しいものだ。真紀と結ばれた事を、俺は心から嬉しく思っている。なにしろ、俺にとっては初めての彼女。ガールフレンド。なんと甘美な響きだろう。好きな女性から告白されて、恋人になって、喜ばないわけがない。しかも、彼女はとびきりの美人なのだ。

 しかし、結果オーライとはいえ、今日のデート代は随分高くついた。
 やはり一番痛かったのは、ディナーのフレンチだろう。ラーメンのおよそ十倍、いや、それ以上である。だが、ああいった食べ物は、安上がりの俺の舌にとって、非常にコストパフォーマンスが悪い。フォアグラやステーキは確かに頬が落ちるかと思うほどだったし、デザートも美味しかったが、それ以外の料理は、俺には今一つピンと来なかった。ガツンと腹が膨れるわけでもなし……。
 いつもなら、この後シメにラーメンでもと思うところなのだが、そんな事をしたら真紀の唇の感触を忘れてしまいそうな気がするので、やめておこう。……などと気障な台詞を吐いてはみたものの、実のところ、懐具合がそれを許さなかった。次の給料日までは、禁断症状が出始めたらカップラーメンで我慢の日々である。トホホ……。まあ、腹が減ったら真紀の手作りチョコレートを食べればいいし、それに、今日はきっと……。

 真紀のマンションから自宅までは、徒歩で10分弱、車ならあっという間の距離だ。もう何千回歩いたかわからない近所の交差点を曲がると、我が家はもうすぐそこだ。
 家の前に設けられた屋根付きの駐車スペースに、バックで車を入れる。パーキング。サイドブレーキ。ライトを消す。エンジンを止める。
 車を降りると、家の前に立っている街灯が、チカチカと明滅しているのが目についた。もう二週間ほどこんな調子で、いつ消えるかと思いながら見ているのだが、なかなかしぶとい奴だ。

「ただいま~」
「あ~、おかえり~」
 玄関をくぐると、台所から母の声が聞こえてきた。
「ちょっと瞬、こんな時間まで、小雨ちゃんをほっぽりだしてどこ行ってたの? さっき来てたわよ、小雨ちゃん」
「ああ……ちょっと、永井先輩に呼び出されちゃってさ」
「また? 昨日もじゃなかった? まあ、ほどほどにしなさいよ」
「はぁい」
「夕飯は?」
「食べてきた」
 永井先輩とは、監獄島の事件の際に、当日足を怪我して不参加になり、命拾いをしたあの人である。その縁……と言えるかどうかはわからないが、サークルが解散した今でも、唯一交流のある先輩だった。昨日大学に行ったのは、本当に永井さんに呼び出しを食らったからだ。

 階段を昇り、二階にある俺の部屋に入る。
 趣味で集めている蝋燭にライターで火を灯し、その明かりを頼りに、俺は窮屈なコートを脱いで部屋着に着替えた。ごく普通のスウェットである。

 蝋燭愛好者である俺は基本的に、蛍光灯の明かりを好まない。白熱灯はいくらかマシという程度。今流行りのLEDは、苦手だ。理由は単純で、明るすぎるからだ。一応、天井には一般的なリング型の蛍光灯をぶら下げているのだが、一人で部屋にいる時は大体蝋燭の明かりで暮らしている。それで困るという事はあまりないが、どうしてもという場合は、床置きの間接照明を使う。暗いと思われるかもしれないが、俺は暗くなれば大抵すぐ眠くなってしまう性質なので、眠ってしまえば関係ないのだ。

 二階の窓からは、明滅する街灯がより近くに見える。俺は窓際に立って、道路を挟んだ向かい側にある家をぼんやりと眺めた。

 玄関の戸が開く。中から、両手に袋を提げた、女のシルエットが姿を現した。俺の幼馴染、そして真紀の親友の小雨である。
 毎年バレンタインデーになると、彼女は大量の義理チョコを持ってうちに来る。そして、その義理チョコを一緒に食べながら、ゲームをして過ごすのが恒例になっていた。これじゃあ、バレンタインの意味がないじゃないか、と毎年言うのだが、彼女の答えは至ってシンプルだ。

「だって、あたしも食べたいんだもん」

 きっと、二階の彼女の部屋の窓から、俺が帰ってくるのを見ていたのだろう。道路を横切って、そのまま我が家の玄関へと歩いてくる。それにしても、こんな時間に彼女を部屋に上げるのは随分久しぶりだ。時刻はもうすぐ十時半になろうとしている。俺は、蛍光灯からぶら下がった紐を引っ張って電気を点け、テーブルに真紀のチョコレートを置き、蝋燭を消して、玄関へと降りた。

「ごめんくださ~い」
 小雨の声だ。
「開いてるよ」
 玄関の引き戸が動いて、ガラガラと音を立てる。
「やっほう。今年も義理チョコ買ってきたよ。一緒に食べよう」
 一般的な女の子と比較すると表情の変化が乏しい彼女は、満面の笑みを浮かべるという事がない。口角が上がり、目尻が少し下がる程度。小雨は、そのにやけたような笑顔で玄関前に立っていた。

 胸元がゆったりと開いたグレーのニットワンピに、足元はサンダル。彼女にしてはラフな格好だ。両手には大きく膨れ上がったビニール袋。先日また髪を短く切って、俺とさほど変わらない長さのショートカットになった。そして、最も大きな変化といえば、彼女が眼鏡をかけている点だろう。落ち着いた雰囲気の真新しい銀縁眼鏡。眼鏡ひとつで、顔の印象は大きく変わるものだ。

 小雨はこの春休みを利用して、バイトで稼いだ金で自動車の教習所に通うことにした……のだが、入校時の視力検査に引っかかってしまい、大急ぎで用意したのがこの銀縁眼鏡である。本人はそれほど乗り気ではなかったそうだが、元々大人びた顔立ちの彼女には、素敵によく似合っている。あとは、また髪を伸ばしてくれたら……。

 両手に提げられたビニール袋には、大量のチョコレートと、同じく大量の……缶チューハイ。……酒?
「おい、これ……酒か?」
「うん、そうだよ。一緒に飲もうかなと思ってさ」
 小雨が酒を飲んでいる姿なんて、これまで一度も見たことがない。昔から真面目な性分の彼女には、全く無縁のものだと思っていたのだが……俺は、少し心配になった。
「小雨……最近、酒飲んでるのか?」
「別に、そんなに飲んでないよ」

 そう答える彼女の頬には、ほんのりと紅が差している。化粧をしている様子はない。

 小雨は、少し酔っていた。
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