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夢遊少女は夜歩く ジャンル:ヒューマンドラマ
パラソムニア
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『ソウタ! ソウタ!』
僕を呼ぶ父の怒鳴り声が、耳の奥にまだしつこく粘りついている。
そもそも、僕はこんなところに来たくなかった。僕は田舎の生々しい空気が嫌いだ。粗野で知性に欠ける人間と、その独特の村社会も嫌いだ。田舎というだけで水にまで家畜の臭いが染み込んでいるような気がしてしまうので、朝からほとんど何も口にしていない。そもそも、あの野菜だって家畜の堆肥で作られたに決まっているのだ。
窓の外は見渡す限りの深い森。うんざりするほど延々と同じ風景が続き、気まぐれに歩いてみても、集ってくる虫が気になるばかりでちっとも面白くない。全く、こんなところに好き好んで静養なんかに来る奴の気が知れん。部屋で本でも読んでいたほうが遥かにましだ。
ところで僕は、枕が変わると眠れない性質である。普段からそれほど寝つきのいい方ではないのだが、枕や寝具が変わると神経に障っていけない。その上、ここの枕も敷布も、まあ田舎にしてはそれなりのものを使っているようだけれど、それでも家のものと比べると若干質が落ちる。家では、母が僕の不眠を案じて用意してくれたもっと上質の寝具を着ているだけに、少しでも質が落ちるものに変わってしまうと、布地が皮膚とこすれる感触が厭に気になって、目が冴えてしまうのだ。
父は僕のことを神経症だと言う。神経症。病のようで病でない、なんとも厄介な言葉だ。僕の精神と神経は至って正常、自分で言うのは憚られるが何に対しても真面目だし、勉学にも人一倍熱心に励んでいるつもりだ。成績は常に一番。それなのに、神経症などと診断されてしまうと、それだけでもう狂人のように思われてしまうではないか。たしかに少々潔癖にすぎるきらいはあるかもしれないが、それでも病的というほどではあるまい。僕はただの不眠なのだ。神経が常に冴えているだけだ。
それにしても、この館はやけに寒い。人里から遠く離れた山中にあるせいだろうか。夜になると辺りがシインと静まり返って、一層淋しさを募らせる。まるで冥府にでも迷い込んでしまったかのようだ。昼間はどうにか耐えられたが、夜中の冷え込みは相当骨身に応える。冷たいせんべい布団ではとても眠れたものではない。頭まで布団を被ってがたがた震えながら、まんじりともできぬ夜を過ごしていた。
もう日付は変わっているはずだ。このまま、一睡もできずに朝を迎えるのだろうか。荷物になるからと避けたのだが、こんなことなら、もっと本を持ってくるべきだった。父の部屋まで行けば何か興味深い書物があるかもしれないが、あの男に頭を下げるなんてまっぴら御免。奴の女癖の悪さのせいで、母さんがどれだけ枕を濡らしてきたかを僕は知っている。散々家族を裏切っておきながら、どういう神経で父親面しているのか。鉄面皮とはあの男のためにあるような言葉で、奴のほうが僕よりよっぽど気が狂っている。おそらく奴の神経は丸太より太く出来ているのに違いない。
嗚呼、父親の事なんかを考えてしまったせいで、苛々して余計に目が冴えてしまった。
寒さの所為もあるだろうが、これだけ神経が逆立ってしまうと、矢鱈と尿意を催してしまうものである。なるべく水を摂らないようにしたつもりだったが、それでも腎臓は真面目に働いてしまうらしい。こうなると、最早入眠は絶望的である。便所に行って、用を足してこなければ。
僕は仕方なく布団を跳ね上げた。すると、途端に夜の冷たい空気がチクチクと肌を刺して、僕はぶるりと身震いした。この薄っぺらい掛け布団でも、いくらか寒さをしのぐ役には立っていたようである。明日からは、寝間着を重ね着したほうがいいかもしれない。
さて、厠はどこだったか……と思い出しながら、僕は手持ちの燭台に火を灯し、部屋の扉を開けて廊下に出ようとした。その瞬間。
ぺた、ぺた……
妙な物音と共に、目の前を何か白いものがゆっくりと通り過ぎた。
僕は慌てて扉の陰に身を隠した。心臓がどくどくと脈打っている。いったいあれは何だったのか。もう、家人も寝静まっているはずの時間である。亡霊……いや、まさかそんなわけはない。もしかしたら、何かの見間違いかもしれない。僕は再び、おそるおそる廊下へ首を出した。
それは決して見間違いなどではなかった。
白い寝間着を来た少女の後ろ姿。その肌は磁器のように白く、悠然とした歩様に合わせて腰まである長い黒髪がゆらゆらと揺蕩う。ぺたりぺたりという物音は、どうやら裸足の彼女の足音によるものだった。
「……もし、そこの女の人」
呼び掛けにも応じず、その背中はゆっくりと遠ざかっていく。振り返るどころか立ち止まる気配すら微塵もない。無視されたのか?
ただでさえ神経がささくれ立っていた僕はすっかり頭に血が上ってしまい、小走りで彼女を追いかけて、顔を覗き込んだ。田舎者の分際で、僕を無視するとは何事か――。
しかし、彼女の横顔を目にした僕は、思わず息を呑んだ。腹の底にふつふつと溜まっていたちっぽけな怒りも、一瞬にしてどこかへ吹き飛んでしまった。
その横顔が、あまりにも美しかったからだ。
生気が感じられないほどの頬の白さ。黒真珠のような瞳は、数歩先の床板を瞬きもせずに注視している。少し俯き加減の顎の角度は全くぶれることがなく、まるで菩薩像のような神々しさを放っていた。
「あの、こんな時間に、何をしているのですか」
聞こえない距離ではないはずなのだが、彼女は全く僕の存在に気付いていない様子だった。眉一つ動かさず、こちらに見向きもせずに、ぺたりぺたりと歩を進めている。聾なのだろうか。
ならばと僕は、少し先回りをして、彼女の歩く数歩先の正面に回り込んだ。
正面から彼女の顔を見据えて、僕は気付いた。
この顔には、どこかで見覚えがある。
無論、寝間着姿の泥棒もあるまいし、この館の住人であることは想像に難くない。しかし、こんな女性が果たしていただろうか……。
彼女は一歩一歩こちらへ近づいてくる。その視界には間違いなく僕が映っているはずだ。ほら、今目が合った。
それでも彼女の表情には全く変化がなく、歩様が乱れることさえなかった。そのまま僕の横をすり抜けて、ひたひたと歩いて行く。
あの女性は――僕はようやく思い出した。昼間、父親や他の家人と話しているところをこっそりと見ていたのだ。それにしても、あの時の明るく溌剌とした印象とはあまりにかけ離れている。顔の造形はたしかに同一人物と思われるのだが、まるで別人のようだった。
そうしているうちにも、彼女の後姿はどんどん離れていく。暗闇の中で、真っ白い彼女の寝間着が、弱々しい灯火の光を受けながら、蜃気楼のようにゆらゆらと揺れている。
彼女がどこへ行こうとしているのか、そして何をしようとしているのか。僕は無性に知りたくなった。ごく僅かな逡巡のあと、僕の足は彼女の後を追って歩き出していた。廊下の床板は氷のように冷たく、裸足のままで部屋から出てきてしまったことを今更になって後悔した。
もう手足はすっかり冷え切っていた。寒さに身を震わせながら自問する。いったい僕はどうしてしまったのだろう。あれほど神経を尖らせた尿意のことさえすっかり忘れて。
それからどれぐらい歩いただろうか。彼女は、ある部屋の扉の前でぴたりと立ち止まった。仮面のように無表情なまま、右手の甲を扉の板に当てる。
コンコン、と木製の扉を叩くノックの音が二回。内側からカチリと鍵が開く音がした。夜の静寂の中で、その二つの物音はいやにはっきりと聞こえてくる。彼女はそれを待っていたかのように、握り玉を引いて、扉の中へと消えていった。
それはほんの数分の出来事だったはずだが、彼女の白い寝間着の残像は、消し去ることが不可能なほどにすっかり目に焼き付いてしまっていた。
この部屋は、たしか、あの男の……。
僕を呼ぶ父の怒鳴り声が、耳の奥にまだしつこく粘りついている。
そもそも、僕はこんなところに来たくなかった。僕は田舎の生々しい空気が嫌いだ。粗野で知性に欠ける人間と、その独特の村社会も嫌いだ。田舎というだけで水にまで家畜の臭いが染み込んでいるような気がしてしまうので、朝からほとんど何も口にしていない。そもそも、あの野菜だって家畜の堆肥で作られたに決まっているのだ。
窓の外は見渡す限りの深い森。うんざりするほど延々と同じ風景が続き、気まぐれに歩いてみても、集ってくる虫が気になるばかりでちっとも面白くない。全く、こんなところに好き好んで静養なんかに来る奴の気が知れん。部屋で本でも読んでいたほうが遥かにましだ。
ところで僕は、枕が変わると眠れない性質である。普段からそれほど寝つきのいい方ではないのだが、枕や寝具が変わると神経に障っていけない。その上、ここの枕も敷布も、まあ田舎にしてはそれなりのものを使っているようだけれど、それでも家のものと比べると若干質が落ちる。家では、母が僕の不眠を案じて用意してくれたもっと上質の寝具を着ているだけに、少しでも質が落ちるものに変わってしまうと、布地が皮膚とこすれる感触が厭に気になって、目が冴えてしまうのだ。
父は僕のことを神経症だと言う。神経症。病のようで病でない、なんとも厄介な言葉だ。僕の精神と神経は至って正常、自分で言うのは憚られるが何に対しても真面目だし、勉学にも人一倍熱心に励んでいるつもりだ。成績は常に一番。それなのに、神経症などと診断されてしまうと、それだけでもう狂人のように思われてしまうではないか。たしかに少々潔癖にすぎるきらいはあるかもしれないが、それでも病的というほどではあるまい。僕はただの不眠なのだ。神経が常に冴えているだけだ。
それにしても、この館はやけに寒い。人里から遠く離れた山中にあるせいだろうか。夜になると辺りがシインと静まり返って、一層淋しさを募らせる。まるで冥府にでも迷い込んでしまったかのようだ。昼間はどうにか耐えられたが、夜中の冷え込みは相当骨身に応える。冷たいせんべい布団ではとても眠れたものではない。頭まで布団を被ってがたがた震えながら、まんじりともできぬ夜を過ごしていた。
もう日付は変わっているはずだ。このまま、一睡もできずに朝を迎えるのだろうか。荷物になるからと避けたのだが、こんなことなら、もっと本を持ってくるべきだった。父の部屋まで行けば何か興味深い書物があるかもしれないが、あの男に頭を下げるなんてまっぴら御免。奴の女癖の悪さのせいで、母さんがどれだけ枕を濡らしてきたかを僕は知っている。散々家族を裏切っておきながら、どういう神経で父親面しているのか。鉄面皮とはあの男のためにあるような言葉で、奴のほうが僕よりよっぽど気が狂っている。おそらく奴の神経は丸太より太く出来ているのに違いない。
嗚呼、父親の事なんかを考えてしまったせいで、苛々して余計に目が冴えてしまった。
寒さの所為もあるだろうが、これだけ神経が逆立ってしまうと、矢鱈と尿意を催してしまうものである。なるべく水を摂らないようにしたつもりだったが、それでも腎臓は真面目に働いてしまうらしい。こうなると、最早入眠は絶望的である。便所に行って、用を足してこなければ。
僕は仕方なく布団を跳ね上げた。すると、途端に夜の冷たい空気がチクチクと肌を刺して、僕はぶるりと身震いした。この薄っぺらい掛け布団でも、いくらか寒さをしのぐ役には立っていたようである。明日からは、寝間着を重ね着したほうがいいかもしれない。
さて、厠はどこだったか……と思い出しながら、僕は手持ちの燭台に火を灯し、部屋の扉を開けて廊下に出ようとした。その瞬間。
ぺた、ぺた……
妙な物音と共に、目の前を何か白いものがゆっくりと通り過ぎた。
僕は慌てて扉の陰に身を隠した。心臓がどくどくと脈打っている。いったいあれは何だったのか。もう、家人も寝静まっているはずの時間である。亡霊……いや、まさかそんなわけはない。もしかしたら、何かの見間違いかもしれない。僕は再び、おそるおそる廊下へ首を出した。
それは決して見間違いなどではなかった。
白い寝間着を来た少女の後ろ姿。その肌は磁器のように白く、悠然とした歩様に合わせて腰まである長い黒髪がゆらゆらと揺蕩う。ぺたりぺたりという物音は、どうやら裸足の彼女の足音によるものだった。
「……もし、そこの女の人」
呼び掛けにも応じず、その背中はゆっくりと遠ざかっていく。振り返るどころか立ち止まる気配すら微塵もない。無視されたのか?
ただでさえ神経がささくれ立っていた僕はすっかり頭に血が上ってしまい、小走りで彼女を追いかけて、顔を覗き込んだ。田舎者の分際で、僕を無視するとは何事か――。
しかし、彼女の横顔を目にした僕は、思わず息を呑んだ。腹の底にふつふつと溜まっていたちっぽけな怒りも、一瞬にしてどこかへ吹き飛んでしまった。
その横顔が、あまりにも美しかったからだ。
生気が感じられないほどの頬の白さ。黒真珠のような瞳は、数歩先の床板を瞬きもせずに注視している。少し俯き加減の顎の角度は全くぶれることがなく、まるで菩薩像のような神々しさを放っていた。
「あの、こんな時間に、何をしているのですか」
聞こえない距離ではないはずなのだが、彼女は全く僕の存在に気付いていない様子だった。眉一つ動かさず、こちらに見向きもせずに、ぺたりぺたりと歩を進めている。聾なのだろうか。
ならばと僕は、少し先回りをして、彼女の歩く数歩先の正面に回り込んだ。
正面から彼女の顔を見据えて、僕は気付いた。
この顔には、どこかで見覚えがある。
無論、寝間着姿の泥棒もあるまいし、この館の住人であることは想像に難くない。しかし、こんな女性が果たしていただろうか……。
彼女は一歩一歩こちらへ近づいてくる。その視界には間違いなく僕が映っているはずだ。ほら、今目が合った。
それでも彼女の表情には全く変化がなく、歩様が乱れることさえなかった。そのまま僕の横をすり抜けて、ひたひたと歩いて行く。
あの女性は――僕はようやく思い出した。昼間、父親や他の家人と話しているところをこっそりと見ていたのだ。それにしても、あの時の明るく溌剌とした印象とはあまりにかけ離れている。顔の造形はたしかに同一人物と思われるのだが、まるで別人のようだった。
そうしているうちにも、彼女の後姿はどんどん離れていく。暗闇の中で、真っ白い彼女の寝間着が、弱々しい灯火の光を受けながら、蜃気楼のようにゆらゆらと揺れている。
彼女がどこへ行こうとしているのか、そして何をしようとしているのか。僕は無性に知りたくなった。ごく僅かな逡巡のあと、僕の足は彼女の後を追って歩き出していた。廊下の床板は氷のように冷たく、裸足のままで部屋から出てきてしまったことを今更になって後悔した。
もう手足はすっかり冷え切っていた。寒さに身を震わせながら自問する。いったい僕はどうしてしまったのだろう。あれほど神経を尖らせた尿意のことさえすっかり忘れて。
それからどれぐらい歩いただろうか。彼女は、ある部屋の扉の前でぴたりと立ち止まった。仮面のように無表情なまま、右手の甲を扉の板に当てる。
コンコン、と木製の扉を叩くノックの音が二回。内側からカチリと鍵が開く音がした。夜の静寂の中で、その二つの物音はいやにはっきりと聞こえてくる。彼女はそれを待っていたかのように、握り玉を引いて、扉の中へと消えていった。
それはほんの数分の出来事だったはずだが、彼女の白い寝間着の残像は、消し去ることが不可能なほどにすっかり目に焼き付いてしまっていた。
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