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ノックスの憂鬱 ジャンル:ミステリ
『瀬名瞬は盲いてはならない』
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そこにいたのは、メトロポリタン・ヴァンガードのヴォーカル、葉政京子だった。
「誰と話していたの?」
「彼女です。俺の彼女、探偵の真似事をしたこともあるぐらいの推理小説マニアで、俺が事件に巻き込まれたと知ったら、現場の状況を教えろってうるさくて」
「……そう。少し、話せるかしら」
「ええ、かまいませんよ」
俺と葉政京子は、刑事達に話を聞かれない場所を探した。幸い、もう鑑識もほとんど残っておらず、建物から離れて道路沿いまで出れば十分そうだ。連れだって歩く俺達の姿を見張りの刑事の誰かが見ていたはずだが、咎められることもなかったし、後をつけられることもなかった。外の空気を吸いに出て、世間話でもしていると思ったのだろう。
辺りに人がいないことを確認すると、長く艶やかな黒髪をかき上げながら、葉政が言った。
「それで、彼女は何て?」
「『不可能』だそうです」
「そう……それはよかった」
京子はひとつため息をついた。彼女の白い息が、冷え切った朝の空気の中へ霧散していく。
「どうして、私を庇ってくれたの?」
「それは……貴女と、秘密を共有してみたかったからです」
数時間前、松生がおおむらの部屋に入る数分前におおむらの部屋に入り、そして出て行く彼女の姿を、俺は目撃していた。その時の彼女は、今着ている赤いワンピースではなく、ごくありふれたスウェット姿だった。
「今作っている新曲のことでちょっと話したいことがあって、おおむらの部屋に行ったんだけど、彼、ベロンベロンに酔っぱらってて。私の姿を見るなり、襲い掛かってきたの……」
「え、ちょっと待ってください。おおむらさんは、ノンケなんですか?」
「そう。あんな恰好しているのにね。彼はビジネスゲイだから」
これは驚愕の新情報だ。おそらくこれは鮫ちゃんも知らないのではないか。しかし、本人が隠している以上、無闇に話すべきことではない。それにしても、ノンケかと思えばオネエだったり、オカマかと思えばノンケだったり、随分ややこしいメンバーである。
「それで、ちょっと格闘になって、その、成り行きっていうか……」
「キーボードで頭を殴ってしまった、と」
京子は小さく頷いた。
「殴った後すぐに、キーボードは壊れてないかって確認したの。あれ、彼がとっても大事にしているキーボードだからね。彼の指紋がついていなかったのは、彼が自分で手入れしたからだと思う。でも、逆に私の指紋が目立っていたから、ハンカチで軽く拭いておいた。指紋が拭き取られていたのは、つまりそういうわけ」
「その時、血がついていたことには気付かなかったんですか?」
「うん、自分が触ったところしか見なかったもの。そもそも、彼の頭から血が出てたことにも気付かなかった。そんなに強く殴ったつもりはなかったからね。ついでに言うと、部屋の電気が消えてたのは、出るときにスイッチにぶつかっちゃったから」
指紋が拭き取られていた理由が『キーボードを汚したくなかったから』だったとは。これを刑事が聞いたらどういう顔をするだろう。
「部屋に戻ってすぐ、酒臭くなった部屋着を脱いで、このワンピースに着替えた。テンガの悲鳴が聞こえたのは、ちょうど着替えが終わったころだった」
「事情を知らない人が見たら、これが部屋着なのかと思われてしまいますね」
「まあ、私はよく『変わってるね』って言われるし、これぐらいじゃ多分誰も驚かないよ。部屋に着いてすぐシャワーを浴びてメイクを落としちゃったのが、少し心残りではあるけれど」
そう言って笑う彼女の横顔は、雪のように白く、美しかった。メイクなんてしなくてもこれほど綺麗なのに。
「それから、おおむらが救急車で運ばれていって、それから警察が来て、どうしよう、さっきのことを話してしまおうか、でもファンの子の前でそんな話をしたら彼がビジネスゲイだってことがバレちゃうし、って考えたの。そんなに強く殴ったわけじゃないから、死にはしないだろうとは思っていたんだけどね。あとでこっそり警察の人に話そうって思ってた。そしたら、君が『誰もこの部屋に出入りしなかった』って言いだしたから……」
「ロビーにいる俺に気付きませんでした?」
「気付かなかった。コンタクトを外してたからね。裸眼だと視力は0.1もないの。遠くのものは全然見えない」
「それは意外です。そんなに大きくて鋭い目をしているのに」
「ふふ。眼つきの悪さと視力は無関係だよ。それで、君がそういう証言をしてしまったから、私ももうすっかり言い出せなくなってしまった。だって、そうしたら君は……瀬名君は、もしかしたら罪に問われるかもしれないわけでしょう?」
「まあ、そうなったら、見過ごしましたって平謝りするしかないですね」
京子はこちらに向き直り、息がかかりそうなほど近くまで歩み寄って来て、その大きな瞳で俺の目を見据えた。不思議な拘束力のある視線だ、と思う。
「もう一度聞く。どうして、私を庇ってくれたの? もし、何か見返りを求めようというつもりなら、私は全てを警察に話すつもり」
「見返りなんて求めてません。僕は貴女と秘密を共有してみたかった。ただそれだけです」
彼女に対して、誰が嘘など吐けようか。
京子の瞳の中心に、俺の目が映り込んでいる。
俺は彼女に尋ねた。
「今、コンタクトはつけていますか?」
京子はゆっくりと首を横に振った。
裸眼での視力が0.1にも満たない彼女の水晶体は、きちんと俺の像を結んでいるだろうか。
今この瞬間が、俺にはとても幸福なものに思えた。
彼女は、昨夜、俺が初めて一目惚れをした相手なのだから。
京子は、俺の目を見据えたまま、表情を緩めた。
「わかった。信じましょう」
「よかった……ありがとうございます。おおむらさん、命には別条ないらしいですよ。さっき、刑事が話しているのを立ち聞きしました」
「ええ、私もさっき刑事さんから聞いた。でなければ、こんなに呑気に貴方とお喋りできないよ」
「そうか、確かに」
「でも、不謹慎な言い方かもしれないけど、私もちょっと楽しかった。スリリングで」
「それはよかった。ライブで楽しませて頂いたお礼です。俺、今日のチケット代を出していませんから」
「チケット代の代わりにしては、ずいぶん高くついたね」
不意に、彼女の顔が近付く。
唇に触れる柔らかい感触。
「これ、私からの見返り」
悪戯っぽく笑う彼女の顔は、ステージ上で見せたどの表情よりも遥かにかわいかった。
「じゃあ、今度はまた、どこかのライブで、ね」
そう言い残して、京子は去って行った。
鮮やかな赤いワンピースを身に纏った彼女の後姿、朝日をうけて煌めく長い黒髪が、ずっと目に焼き付いて離れない。寂寞とした空気の中、耳をすませば、彼女の残響がまだ微かに漂っているような気がした。
それからほどなくして、俺達六人は解放された。
メトロポリタン・ヴァンガードのメンバーはそのままおおむらが搬送された病院へ直行したが、彼らが病院に到着した頃には、おおむらは既に意識を取り戻していたらしい。頭部の外傷もそれほど重いものではなく、後遺症も残らなかったそうだ。
高橋刑事は、まだ未練がましく現場の付近をうろついていた。彼はやはりこれが単なる事故だとは思えないようだ。刑事としての彼の嗅覚には敬服すると共に、そんな彼を騙した上、葉政からこっそりご褒美をもらってしまったことに罪悪感を覚えてしまうのだった。
泥酔していたおおむらは、事件、いや事故当時の記憶を全くなくしており、葉政が部屋を訪れたことも覚えていなかったそうだ。数日の入院の後に退院し、音楽活動にも復帰。まるで何事もなかったかのように、数か月後には新曲もリリースされた。
某掲示板に殺害予告を書き込んだ人物は数日後に逮捕されたそうだが、その性別も年齢も公にされることはなかった。
俺と鮫ちゃんに話を戻そう。
元々、ライブの翌日は軽く東京観光でもしてから帰ろうと話していたのだが、図らずもオールしてしまった俺達にそんな体力は残されておらず。『やすらぎ』のオーナーに毛布を貸してもらい、ご厚意に甘えて、応接間で昼過ぎまで休ませてもらった。
民宿『やすらぎ』を辞したのは午後になってから。帰り際、見送ってくれたオーナーには『また来ます』と伝えておいたが、これぐらいの嘘ならば、偽証罪に問われることもないだろう。
そのまま、大した観光をすることもなく、予定通り夕方の新幹線で地元に、日常に帰ってきた。
この事件に関する記述は以上である。
ところで、果たしてこれはミステリ足り得るのだろうか?
ミステリの基本的なルールである、「ノックスの十戒」に照らして考えてみよう。
『犯人は物語の始めのほうで登場している人物でなければならない』
これはクリアしている。
『探偵方法に超自然の能力を用いてはいけない』
本作における探偵役である高橋刑事は、超能力者ではなかった。
『犯行現場に秘密の抜け穴や通路を使ってはいけない』
倉庫のような民宿にそのようなものがあるはずもなく。
『未発見の毒薬や難しい科学上の説明を要する装置を犯行に使ってはならない』
言うに及ばず。
『中国人を登場させてはいけない』
これは人種差別的な意味合いではなく、超能力者を登場させてはいけないという意図だったらしい。
『探偵は偶然や第六感で事件を解決してはいけない』
高橋刑事は一旦言いがかりに走ったことはあったものの、論理的に推理を組み立て、解決することはできなかった。
『変装して登場人物を騙す場合以外、探偵自身が犯人であってはならない』
これもクリア。
『探偵は読者に提出しない手がかりで解決してはいけない』
実は、消去法で考えれば、犯人が葉政であると推測することは可能である。外部からの侵入の可能性は極めて低く、松生と世々には互いにアリバイがあり、鮫ちゃんは自らの記述によって犯行当時爆睡していたと証言している。自発的な共犯者である俺には防犯カメラによるアリバイが成立しており、探偵役である高橋刑事は犯人ではない。
『探偵のワトスン役、つまり物語の記述者は自分の判断を全て読者に知らせなければならない』
屁理屈を言うようだが、俺が『何も見ていない』と発言したのは記述者の大役を鮫ちゃんに渡した章のことである。では、ロビーにいた際の記述はどうか……?
俺は葉政の姿を見かけただけであり、その時に何かを判断したわけではない。見たものを全て記述しなければならない、というルールはない。これまた、墓の下にいるノックスが怒り出しそうな屁理屈ではあるが。
『双生児や一人二役の変装は、あらかじめ読者に知らせておかねばならない』
強いて言えば、真紀の二重人格が該当するだろうか。しかし、本作には片方の人格しか登場しておらず、この限りではないだろう。
かなり苦しい部分もあるが、辛うじてノックスの十戒はクリアしていると言える。では、同じくミステリの基本的なルールである「ヴァン・ダインの二十則」はどうだろう?
『事件の謎を解く手がかりは、全て明白に記述されていなくてはならない』
消去法によって犯人を導くことが可能である以上、これはクリアしていると言えるのではないか。
『作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない』
……あっ。
「誰と話していたの?」
「彼女です。俺の彼女、探偵の真似事をしたこともあるぐらいの推理小説マニアで、俺が事件に巻き込まれたと知ったら、現場の状況を教えろってうるさくて」
「……そう。少し、話せるかしら」
「ええ、かまいませんよ」
俺と葉政京子は、刑事達に話を聞かれない場所を探した。幸い、もう鑑識もほとんど残っておらず、建物から離れて道路沿いまで出れば十分そうだ。連れだって歩く俺達の姿を見張りの刑事の誰かが見ていたはずだが、咎められることもなかったし、後をつけられることもなかった。外の空気を吸いに出て、世間話でもしていると思ったのだろう。
辺りに人がいないことを確認すると、長く艶やかな黒髪をかき上げながら、葉政が言った。
「それで、彼女は何て?」
「『不可能』だそうです」
「そう……それはよかった」
京子はひとつため息をついた。彼女の白い息が、冷え切った朝の空気の中へ霧散していく。
「どうして、私を庇ってくれたの?」
「それは……貴女と、秘密を共有してみたかったからです」
数時間前、松生がおおむらの部屋に入る数分前におおむらの部屋に入り、そして出て行く彼女の姿を、俺は目撃していた。その時の彼女は、今着ている赤いワンピースではなく、ごくありふれたスウェット姿だった。
「今作っている新曲のことでちょっと話したいことがあって、おおむらの部屋に行ったんだけど、彼、ベロンベロンに酔っぱらってて。私の姿を見るなり、襲い掛かってきたの……」
「え、ちょっと待ってください。おおむらさんは、ノンケなんですか?」
「そう。あんな恰好しているのにね。彼はビジネスゲイだから」
これは驚愕の新情報だ。おそらくこれは鮫ちゃんも知らないのではないか。しかし、本人が隠している以上、無闇に話すべきことではない。それにしても、ノンケかと思えばオネエだったり、オカマかと思えばノンケだったり、随分ややこしいメンバーである。
「それで、ちょっと格闘になって、その、成り行きっていうか……」
「キーボードで頭を殴ってしまった、と」
京子は小さく頷いた。
「殴った後すぐに、キーボードは壊れてないかって確認したの。あれ、彼がとっても大事にしているキーボードだからね。彼の指紋がついていなかったのは、彼が自分で手入れしたからだと思う。でも、逆に私の指紋が目立っていたから、ハンカチで軽く拭いておいた。指紋が拭き取られていたのは、つまりそういうわけ」
「その時、血がついていたことには気付かなかったんですか?」
「うん、自分が触ったところしか見なかったもの。そもそも、彼の頭から血が出てたことにも気付かなかった。そんなに強く殴ったつもりはなかったからね。ついでに言うと、部屋の電気が消えてたのは、出るときにスイッチにぶつかっちゃったから」
指紋が拭き取られていた理由が『キーボードを汚したくなかったから』だったとは。これを刑事が聞いたらどういう顔をするだろう。
「部屋に戻ってすぐ、酒臭くなった部屋着を脱いで、このワンピースに着替えた。テンガの悲鳴が聞こえたのは、ちょうど着替えが終わったころだった」
「事情を知らない人が見たら、これが部屋着なのかと思われてしまいますね」
「まあ、私はよく『変わってるね』って言われるし、これぐらいじゃ多分誰も驚かないよ。部屋に着いてすぐシャワーを浴びてメイクを落としちゃったのが、少し心残りではあるけれど」
そう言って笑う彼女の横顔は、雪のように白く、美しかった。メイクなんてしなくてもこれほど綺麗なのに。
「それから、おおむらが救急車で運ばれていって、それから警察が来て、どうしよう、さっきのことを話してしまおうか、でもファンの子の前でそんな話をしたら彼がビジネスゲイだってことがバレちゃうし、って考えたの。そんなに強く殴ったわけじゃないから、死にはしないだろうとは思っていたんだけどね。あとでこっそり警察の人に話そうって思ってた。そしたら、君が『誰もこの部屋に出入りしなかった』って言いだしたから……」
「ロビーにいる俺に気付きませんでした?」
「気付かなかった。コンタクトを外してたからね。裸眼だと視力は0.1もないの。遠くのものは全然見えない」
「それは意外です。そんなに大きくて鋭い目をしているのに」
「ふふ。眼つきの悪さと視力は無関係だよ。それで、君がそういう証言をしてしまったから、私ももうすっかり言い出せなくなってしまった。だって、そうしたら君は……瀬名君は、もしかしたら罪に問われるかもしれないわけでしょう?」
「まあ、そうなったら、見過ごしましたって平謝りするしかないですね」
京子はこちらに向き直り、息がかかりそうなほど近くまで歩み寄って来て、その大きな瞳で俺の目を見据えた。不思議な拘束力のある視線だ、と思う。
「もう一度聞く。どうして、私を庇ってくれたの? もし、何か見返りを求めようというつもりなら、私は全てを警察に話すつもり」
「見返りなんて求めてません。僕は貴女と秘密を共有してみたかった。ただそれだけです」
彼女に対して、誰が嘘など吐けようか。
京子の瞳の中心に、俺の目が映り込んでいる。
俺は彼女に尋ねた。
「今、コンタクトはつけていますか?」
京子はゆっくりと首を横に振った。
裸眼での視力が0.1にも満たない彼女の水晶体は、きちんと俺の像を結んでいるだろうか。
今この瞬間が、俺にはとても幸福なものに思えた。
彼女は、昨夜、俺が初めて一目惚れをした相手なのだから。
京子は、俺の目を見据えたまま、表情を緩めた。
「わかった。信じましょう」
「よかった……ありがとうございます。おおむらさん、命には別条ないらしいですよ。さっき、刑事が話しているのを立ち聞きしました」
「ええ、私もさっき刑事さんから聞いた。でなければ、こんなに呑気に貴方とお喋りできないよ」
「そうか、確かに」
「でも、不謹慎な言い方かもしれないけど、私もちょっと楽しかった。スリリングで」
「それはよかった。ライブで楽しませて頂いたお礼です。俺、今日のチケット代を出していませんから」
「チケット代の代わりにしては、ずいぶん高くついたね」
不意に、彼女の顔が近付く。
唇に触れる柔らかい感触。
「これ、私からの見返り」
悪戯っぽく笑う彼女の顔は、ステージ上で見せたどの表情よりも遥かにかわいかった。
「じゃあ、今度はまた、どこかのライブで、ね」
そう言い残して、京子は去って行った。
鮮やかな赤いワンピースを身に纏った彼女の後姿、朝日をうけて煌めく長い黒髪が、ずっと目に焼き付いて離れない。寂寞とした空気の中、耳をすませば、彼女の残響がまだ微かに漂っているような気がした。
それからほどなくして、俺達六人は解放された。
メトロポリタン・ヴァンガードのメンバーはそのままおおむらが搬送された病院へ直行したが、彼らが病院に到着した頃には、おおむらは既に意識を取り戻していたらしい。頭部の外傷もそれほど重いものではなく、後遺症も残らなかったそうだ。
高橋刑事は、まだ未練がましく現場の付近をうろついていた。彼はやはりこれが単なる事故だとは思えないようだ。刑事としての彼の嗅覚には敬服すると共に、そんな彼を騙した上、葉政からこっそりご褒美をもらってしまったことに罪悪感を覚えてしまうのだった。
泥酔していたおおむらは、事件、いや事故当時の記憶を全くなくしており、葉政が部屋を訪れたことも覚えていなかったそうだ。数日の入院の後に退院し、音楽活動にも復帰。まるで何事もなかったかのように、数か月後には新曲もリリースされた。
某掲示板に殺害予告を書き込んだ人物は数日後に逮捕されたそうだが、その性別も年齢も公にされることはなかった。
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元々、ライブの翌日は軽く東京観光でもしてから帰ろうと話していたのだが、図らずもオールしてしまった俺達にそんな体力は残されておらず。『やすらぎ』のオーナーに毛布を貸してもらい、ご厚意に甘えて、応接間で昼過ぎまで休ませてもらった。
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そのまま、大した観光をすることもなく、予定通り夕方の新幹線で地元に、日常に帰ってきた。
この事件に関する記述は以上である。
ところで、果たしてこれはミステリ足り得るのだろうか?
ミステリの基本的なルールである、「ノックスの十戒」に照らして考えてみよう。
『犯人は物語の始めのほうで登場している人物でなければならない』
これはクリアしている。
『探偵方法に超自然の能力を用いてはいけない』
本作における探偵役である高橋刑事は、超能力者ではなかった。
『犯行現場に秘密の抜け穴や通路を使ってはいけない』
倉庫のような民宿にそのようなものがあるはずもなく。
『未発見の毒薬や難しい科学上の説明を要する装置を犯行に使ってはならない』
言うに及ばず。
『中国人を登場させてはいけない』
これは人種差別的な意味合いではなく、超能力者を登場させてはいけないという意図だったらしい。
『探偵は偶然や第六感で事件を解決してはいけない』
高橋刑事は一旦言いがかりに走ったことはあったものの、論理的に推理を組み立て、解決することはできなかった。
『変装して登場人物を騙す場合以外、探偵自身が犯人であってはならない』
これもクリア。
『探偵は読者に提出しない手がかりで解決してはいけない』
実は、消去法で考えれば、犯人が葉政であると推測することは可能である。外部からの侵入の可能性は極めて低く、松生と世々には互いにアリバイがあり、鮫ちゃんは自らの記述によって犯行当時爆睡していたと証言している。自発的な共犯者である俺には防犯カメラによるアリバイが成立しており、探偵役である高橋刑事は犯人ではない。
『探偵のワトスン役、つまり物語の記述者は自分の判断を全て読者に知らせなければならない』
屁理屈を言うようだが、俺が『何も見ていない』と発言したのは記述者の大役を鮫ちゃんに渡した章のことである。では、ロビーにいた際の記述はどうか……?
俺は葉政の姿を見かけただけであり、その時に何かを判断したわけではない。見たものを全て記述しなければならない、というルールはない。これまた、墓の下にいるノックスが怒り出しそうな屁理屈ではあるが。
『双生児や一人二役の変装は、あらかじめ読者に知らせておかねばならない』
強いて言えば、真紀の二重人格が該当するだろうか。しかし、本作には片方の人格しか登場しておらず、この限りではないだろう。
かなり苦しい部分もあるが、辛うじてノックスの十戒はクリアしていると言える。では、同じくミステリの基本的なルールである「ヴァン・ダインの二十則」はどうだろう?
『事件の謎を解く手がかりは、全て明白に記述されていなくてはならない』
消去法によって犯人を導くことが可能である以上、これはクリアしていると言えるのではないか。
『作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない』
……あっ。
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