ハッピー・ハロウィンク

浦登みっひ

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サキュバスの誘惑

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「う~ん、もうちょっと目元を強調したほうがいいかなあ」

 麻梨丫まりあは僕の顔をまじまじと見ながらそう呟き、真っ黒く縁取られたアイラインにさらにペンシルを走らせる。

 彼女の目を通して見る僕の顔は、既にとんでもないことになっていた。
 顔全体はすっかり白く塗りたくられ、唇には暗い紫の口紅がひかれている。麻梨丫はさらに強調しようとしているらしいが、僕の目元はもうパンダのように黒く塗り潰されていた。しかし、目的はパンダではない。彼女は僕にドラキュラのメイクを施そうとしているのだが――この様子だと、その目論見は失敗に終わりそうである。

 彼女の目を通して見る僕の顔、という状況に違和感を覚えられた方もいるだろう。僕と彼女の体質およびそれに起因する諸々の事情についてはまた別の話で詳しく説明しているので、今は僕たちの現在の状況についてのみ語らせて頂くこととしよう。

 端的に言えば、今日は十月三十一日、つまりハロウィンである。
 日本でも二十一世紀初頭から急速に普及したこの西洋のイベントは、西暦2040年を迎えた現在では、クリスマスやバレンタインと同様の国民的な祭りとして定着している。それぞれが思い思いの仮装に身を包んで街を練り歩く……って、そんなことはわざわざ僕が説明する必要もないだろう。
 ハロウィンに限らず、こうしたイベントは今や経済的に後進国となった日本でも消費活動が活発になる数少ない機会でもあり、様々な場所、様々な媒体でそれに関連した催しが行われる。しかし、ハロウィンにおいて最も盛んなのはやはり仮装であり、仮装して街を歩くことであった。

 普段は引きこもりと言ってもいいぐらいインドア派の麻梨丫も、何故かハロウィンの時期だけは、妙に張り切ってコスプレをして街を歩きたがる。非日常的な雰囲気の中で、いつもと違う自分を演じる、きっとそれが楽しいのだろう。彼女もやっぱり女の子なんだなと実感させられる。

 しかし、僕と麻梨丫は片時も離れられない運命だから、彼女一人で仮装して歩くわけにはいかない。今、僕が黒いスラックスを履き、白いシャツの上にワインレッドのベストと黒いマントを着込んでいるのは、つまりそういう理由である。一緒に歩ければそれでいいのだから、別に僕まで仮装する必要はないと思うのだが、まあいいや。

 ペンシルで僕の目元を思うままに強調した麻梨丫は、うーん、と唸りながら、小声で

『ちょっと、やりすぎたかな』

 と言った。

「聞こえてるよ、麻梨丫」

 僕はささやかな抵抗を試みたが、彼女は全く気にしていない様子だ。

「え? 気のせい気のせい。幻聴だよ。ほら、キバつけて」

 麻梨丫はそう言うと、手元にあったドラキュラの付け牙を取り出して、僕の口に装着した。
 彼女の目を通して見る僕のドラキュラは、伯爵などとは到底名乗れないような間抜けさだった。子供の頃よくテレビに出ていた、なんとかいうエアバンドのグループに、こんな感じの顔のメンバーがいたような気がする。顔は白塗りで、目の周りが真っ黒で……。
 情けない僕の顔をずっと眺めていた麻梨丫が、突然何か思い出したようにパチンと手を叩く。

「あ、そうだ……八雲は目を開けないんだから、このままじゃただのパンダになっちゃうじゃん」

 どっちにしろただのパンダだよ、と言いかけて、僕はすんでのところで口を噤んだ。僕が常日頃どれだけ言いたいことを我慢をしているか、彼女はきっと知らないだろう。ところで、今更ではあるが、八雲やくもというのが僕の名前である。

「ちゃあんとおめめも描いてあげなきゃね」

 そう呟いた麻梨丫のその口調には明らかに悪戯っぽい気配が含まれていたので、僕はとても嫌な予感がした。
 そして、その予感は的中した。彼女は、ずっと閉じたままの僕の瞼に、白塗りの顔料を使って白目の部分を描き始めたのである。

「あぁ……」

 僕は思わず嘆息した。これを嘆かずにいられようか? 誰にだって我慢の限度というものがあり、僕にとってはこれがため息一つ分の限界だったのだ。それでも激昂しない僕の忍耐を、誰か褒めてくれないか――無理か。
 ますます間抜けになってゆく自分の顔を、僕は麻梨丫の目からただただ眺めているしかなかった。

 数分後、麻梨丫はクスクスと笑いながらメイク道具を置いた。どうやらようやく気が済んだらしい。その時僕の顔がどうなっていたかは、あえて語るまい。語りたくもないし。無残な状態になった僕の顔は、明らかに不愉快そうだった。そんな僕の表情に気付いているのかいないのか(いや、こんなメイクをしていたら表情なんてわからないかもしれないが)、ずっと肩を揺らし続けている彼女に向かって、僕は尋ねた。

「何、笑ってるの?」

 麻梨丫は笑いをこらえながら答える。

「え? 笑ってない笑ってない。超真顔だよ」
「……本当かなあ」
「ホントホント。それよりさ、メイクが落ちる前に、外歩こうよ」

 彼女はそう言って立ち上がり、姿見の前に歩いて行った。
 今日の麻梨丫の仮装はサキュバス、いわゆる夢魔、淫魔である。全体的にチープな雰囲気が漂う僕のドラキュラ伯爵と違い、彼女のコスチュームは本格的で、なかなか堂に入ったものだった。
 黒光りする革の衣装は下着かと思うほど布の面積が少なく、かなり刺激的な装いだ。くびれたウエストと綺麗なへそが露わになり、形のよいヒップも半分ぐらいは見えているかもしれない。黒いハイヒールと膝上まであるタイツを履き、胸元には男を誘惑してやまない深い谷間が覗いている。
 背中にはコウモリを思わせる立派な羽根、頭には紫色の可愛らしい小さなツノがそれぞれ生え、薄い紫色の長いウィッグを被っている。もしこんなサキュバスが本当に目の前に現れたら、その誘惑に抗える男はまずいないだろう。

 サキュバスといえば西洋の悪魔だから、日本人がこの衣装を着ても大抵コスプレにしか見えないのであるが、日本人の父親とウクライナ人の母親のハーフで母親の血を濃く受け継いだエキゾチックな容貌の麻梨丫は、サキュバスのコスチュームがとても様になっていた。
 彼女は、姿見の前でくるりと一回りして仮装の出来映えを確かめると、満足したように一度頷いてから僕のところへ戻ってきて、ゆっくり目を閉じた。

「ねえ、八雲。どう? 私のサキュバスは」

 僕は瞼を開き、目の前でポーズを取った麻梨丫を見つめる。

「綺麗だよ、とても」

 これは嘘偽りのない本音だった。今すぐこの場で押し倒したくなるぐらいに彼女は魅力的で、少々低俗な表現を用いるとすれば、とても『そそられた』。しかし、それを実行に移してしまったら、衣装が汚れる、と彼女に怒られてしまうだろう。内なる衝動を必死にこらえ、僕はまた瞳を閉じる。

 そして僕たちは、いつものように手を繋いで、夕暮れ時を越えてネオンが灯り始めた街へと繰り出した。

 大通りでは、既に仮装した多くの人々が往来しており、その人波に揉まれながら、僕たちはあてもなく歩いた。お祭り気分に浮かれた街はいつもとはどこか違っていて、道行く人々も、皆一様に浮ついているように見える。
 現実が辛いからこそ、普段の生活が苦しいからこそ、こうした非日常を感じられるイベントが必要なのだ。生憎僕はそういう感性を持たないが、想像することはできるし、否定するつもりもない。斜に構えて揶揄したり冷やかしたりする輩もいるが、それは余計なお世話というものだろう。

 季節は寒風ふきすさぶ十月の下旬、しかも今日はここ数日の中でも特に冷え込みが厳しい。マントを羽織っている僕はまあなんとか大丈夫だったが、下着みたいなコスチュームに身を包んでいる麻梨丫の肌には、木枯らしかと思うような冷たい風が容赦なく吹き付けてくる。

 だが、それよりも気になったのは、麻梨丫に向けられる周囲からの、主に男からの視線だった。
 彼女の視点になってみると、彼女がどれだけ多くの男の視線を集めているかが、否が応にも体感できてしまう。
 無論、仮装している女性は麻梨丫だけではないし、この寒空の下、肌を露出している物好きな女性は結構いる。しかしながら、美貌とスタイルの良さまでを併せ持つ女性は決して多くはないし、贔屓目を抜きにしても(主観的にそれを行うことがどれほど難しいかという議論はさておき)、麻梨丫より綺麗な女性は一人もいない。だから、周囲を歩く男の視線は麻梨丫一人に集中した。彼女に手を引かれた、ギャグとしか思えない惨めなドラキュラに目を向ける者はごく少数だった。

 率直に言って、僕は苦痛を感じていた。
 僕のみっともないドラキュラ伯爵を笑われたからではない。そんなことはどうでもいい。

 麻梨丫の白い肌を、他の男の視線に晒すのが辛かったのだ。

 もしも僕が彼女と赤の他人で、街中で偶然サキュバスのコスチュームの彼女を見かけたとしたら、絶対に目を奪われるだろうし、卑猥な妄想をしてしまうだろう。それがわかってしまうだけに、彼女をあまり人目に晒したくなかった。
 だから、僕は軽い嘘をついた。

「ねえ、麻梨丫」
「ん? どうしたの、八雲」
「ちょっと、疲れたな」

 麻梨丫の視界がぐるりと回転し、みすぼらしいドラキュラ、つまり僕の姿を捉える。

「え、疲れた? もう?」
「うん……ちょっと、今日は寒いし」

 彼女は少し考えているようだったが、数秒の後、視界が縦に揺れた。麻梨丫が頷いたのだ。

「……じゃあ、お菓子だけ買って、帰ろうか」

 それから僕たちは、帰り道でコンビニに立ち寄り、ちょっとしたコンビニスイーツを買って、部屋に戻った。
 部屋に着いてすぐ、僕はパンダのメイクを洗い流し、窮屈なシャツとスラックスから部屋着のジャージに着替えた。付け牙も、もちろん外した。やれやれ、という感じだ。
 だが、僕の着替えがすっかり終わっても、麻梨丫はまだサキュバス姿のままだった。せっかくここまでキメたんだから、もう少しこのコスチュームで過ごしたい、ということだろうか。漠然とそんなことを思いながら居間に戻ると、麻梨丫は唐突に立ち上がり、こちらへ歩いてきて、その場で僕の体を床に押し倒した。床に絨毯を敷いていてよかった、と思った。フローリングに思い切り押し倒されたら、怪我をしていたかもしれないからだ。

 麻梨丫は目を閉じたまま言った。

「ねえ、さっきの、嘘でしょ?」
「……嘘って?」
「疲れたっていうの。だって八雲、全然疲れてないじゃん」

 まったくもってその通りだった。僕たちは五感を共有しているから、この程度の下手な嘘は簡単にバレてしまうのだ。しかし、今日に限っては、素直にそれを認めたくなかった。

「いや、本当だよ」
「絶対嘘。私の姿を他の人に見られるのが嫌だったんでしょ?」
「ちが……」
「違うって言うの? 私のあられもない姿が大勢の人の目に晒されても、何とも思わない?」

 何だか随分話が変わってきたような気がするけれど、目を閉じたまま凄む彼女の顔がとてもいじらしく思えて、そんな疑問はすぐに吹き飛んだ。やっぱり彼女に嘘は通じない。

「……負けたよ。君の言う通りだ。僕は君の肌を他の男に見られたくなかった」

 麻梨丫は蠱惑的に微笑んだ。もしかしたら、最初から僕にこう言わせるためにこんな露出の多い衣装を選んだのではないか、そう思えるほどに、彼女の表情からは隠し切れない満足感が滲み出ていた。

「よくできました」

 麻梨丫の唇が僕の唇に触れた。彼女の体はとても冷たかった。やっぱり寒かったのだろう。僕は言った。

「先に、シャワー浴びて来たら?」

 しかし、麻梨丫は首を横に振った。

「面倒くさい」

 これはどこまで本当だろう、と僕は考えた。冷えた体を暖めるには、人肌が最も手っ取り早い。軽い口づけはすぐに舌の絡み合う濃厚な接吻へと変わった。僕たちは五感を共有しているから、互いの性感帯も熟知しているし、快感も二倍になる。

 ハロウィンの夜、サキュバスに襲われた僕は、その誘惑に負け、朝までたっぷりと精気を吸い取られた。
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