桜の樹の下に君を埋めるといふこと

浦登みっひ

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五月十四日~十五日 心美

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 週末、私は再び諸星亘と会った。

 今回は諸星の提案で、一般的なファミレスよりは少し価格帯が高めのレストランで一緒にランチをとることになった。もうデート気取りかと内心ではウンザリしたが、諸星と伊都子を別れさせるという目的を達するまでは、なるべく彼の意に沿うような言動を心掛けなければならない。それに、諸星が私をどう扱おうとしているのかについてよこしまな興味もあった。

 数日前、服にコーヒーを零したときと比べると、彼はまるで別人のようだった。ボサボサに伸びていた髪は短く切り揃えられ、服装もそれなりに清潔感のあるものに変わっている。その姿を見て私は苦笑を禁じ得なかったが、彼はそれすらも好意的に解釈したらしい。男とはかくも単純なものなのだろうか。
 単純なればこそ騙し甲斐もあるのだが、あまり単純すぎても張り合いがない。いっそのこと、この場で直接伊都子と別れるように話した方が早いのではないかとも考えたが、話してわかるような男なら、そもそも彼女が苦労していないはずだとも思う。いや、結局のところ、私は自分の女としての価値を計ってみたかったのかもしれない。まずはこの男を通して。
 私は努めて笑顔を作り、馬鹿な男が好みそうな馬鹿な女を演じ続けた。


 席につき、食事が運ばれてきても、会話は全く弾まなかった。
 諸星が持ち出す話題は今日の天気や料理の味といった極めてありきたりなものだったが、天気なんて見ればわかるし、料理の味は食べればわかる。そこから先に話題を広げていくことができずに、会話が常に単発で終わってしまうのだ。
 この男がどうやって伊都子と付き合い始めたのか、あるいは伊都子がこの男のどこに惚れたのか、私には皆目わからない。だが、痺れを切らした私が文芸方面に水を向けると、態度は豹変した。

「諸星さんって、自分で小説を書かれたりもするんですよね? 文芸部で同人誌を出したとき、諸星さんの作品が一番好評だったと、噂で聞きました」
「え、ええ。はい。将来的にはプロを目指しています」

 この一言で、諸星の目の色がはっきりと変わった。

「どんなお話を書かれているんですか?」
「もちろん純文学ですよ。袴田さんは、普段読書はされますか?」
「え、ええ、時々……」
「今の文壇は堕落しきっている。文学は古くから人間とは何かという哲学的な問いかけをしてきたし、時には社会に対する風刺を行い、時代が刻々と移り変わっていく中で、常に人間の進むべき道、あるべき姿を模索する、いわば思想的道標としての役目を果たしてきました。それがどうです、今は」

 ついさっきまで吃音症のようにたどたどしい会話しかできなかった寡黙な男。しかし、今の彼はまるで別人だった。その声には情熱と気迫があり、確かな説得力を持って、とめどなく言葉が溢れてくる。

「今の文壇は、商業至上主義に染まり、流行におもねり、業界の存続しか頭になく、話題作りのため片手間の芸能人に賞を与えたりしている。社会システムと科学技術が高度に発達し、人類史上で最も人の尊厳と個人の存在意義が希薄になりつつあるこの時代にこそ、文学はその本来の役目を果たすべきなのです。にもかかわらず、文学は生温かく現状を肯定し慰撫するだけの存在に成り下がってしまった。だからこそ、私は……」

 食事が終わるまでずっと、諸星は現代の文壇に対する不満と自分が目指す文学について熱い口調で語り続けた。もしかしたら、伊都子はこの情熱に惚れたのかもしれない。それに、彼には本当に文才があるのかもしれない。批評する能力と文章を紡ぐ才能は必ずしも比例するものではないけれど、私自身、彼の主張と問題提起には少なからず同意させられる部分があったからだ。

 だが、それと伊都子との交際は別次元の問題だ。彼が崇拝する文豪たちは、作家としての才能と人間としての生活能力を必ずしも併せ持たず、中には生活が破綻し不幸な最期を遂げた人物もいる。おそらく諸星亘も、意識的、あるいは無意識的に、その先例をなぞることになるだろう。
 彼に本当に文才があるのなら、伊都子の庇護がなくても、その才能は大きく羽ばたいていくだろう。糟糠の妻と言えば聞こえはいいが、現に身体に傷を負った伊都子の人生はもう半ば破壊されてしまっているのだし、諸星がどこまで彼女のことを考えているかはわからない。むしろ、今私が置かれている状況を考えれば、伊都子のことを居心地のいい止り木ぐらいにしか思っていない可能性が高いのだ。
 伊都子はやはりこの男と別れるべきだ――。

 レストランを出て、クリーニングの済んだ諸星の服が入った紙袋を渡すと、いつもの寡黙な青年に戻った彼は、やや緊張した面持ちで話し始めた。

「あ、あの、袴田さん……」
「はい?」
「もし、袴田さんが嫌でなければ、ですが、またこうして、お食事に誘ってもいいですか」

 かかったな――。
 私は心の中でほくそ笑みながら、それと悟られぬよう、最高に清楚な微笑を浮かべる。

「ええ、喜んで。次は、いつにしましょうか?」
「あ、ああ、ええと……そうですね、次の金曜日かな……」
「金曜日か……その日は、夜しか空いていないのですけれど……」

 ちらりと上目遣いに諸星の表情を窺うと、彼の喉仏がにょろりと動き、生唾を飲み込んだのがわかった。もうひと押しだ。私は処女のように瞳を揺らしながら言った。

「ディナーのお約束でも、いいですか……?」


!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i


 諸星亘との二度目の食事の翌日、昼休みにいつもの物置に向かうと、そこにはいつにも増して憂鬱そうな表情の伊都子がいた。

「こんにちは、伊都子ちゃん」
「あっ、心美ちゃん!」

 私が声を掛けると、彼女は縋るように私の腕を取った。

「ねえ、どうしよう……亘、浮気してるかもしれない……」

 胸の奥にチクリと、待ち針で刺されたような痛みが走る。今更何を狼狽えているのか。二人を別れさせるのが目的なのだから、これぐらいわかりきっていたことではないか。

「浮気って……どうして?」
「昨日、亘から女物の香水の匂いがしたんだ、こう、ふわっと」
「香水……?」
「そう、亘が高校の頃から着てたっていう、古いネルシャツから」

 なるほど、そういうことか。
 彼に直接香水の匂いが移るほど体は近づけていなかったはずだが、あのネルシャツと紙袋は、確かに数時間手元に置いていた。あれならば、匂いが付着していてもおかしくはないかもしれない。

「そうなんだ……でも、勘違いってことはない? 例えばほら、トイレの芳香剤とか……」
「いや、それはないと思う……あんな、甘ったるい花のような匂い……ほんの微かだったから、何の花かまではわからなかったけど、あれは絶対香水だよ」
「電車で近くに座った人の匂いが移ったとか……?」
「電車……? いや、それも考えづらいよ。だいいち、電車に乗るような用事もないはずだし」

 青葉は都内とは事情が違う。混雑するのは朝のラッシュ時ぐらいで、それ以外の時間帯は滅多に満員電車にならないのだ。

 いっそ、その香水の女が実は私で、既に彼と二度も会ったこと、そしてまた食事に誘われたことをこの場で打ち明けてしまおうかとも思った。しかし、諸星に対する彼女の強い執着心を考えれば、それでも説得に応じない可能性がある。
 最悪なのは、彼女が私を逆恨みした場合だ。女は、パートナーに浮気されたとき、自分のパートナーよりも浮気相手の方を憎むことがあるという。
 彼女に嫌われるのを恐れているわけではない。だが、それでは私が今までやってきたことが全て無意味になってしまう。もう少し、あと一歩で、諸星は完全に私の虜になるはずだ。完全に落としてしまってから、私が伊都子の存在を知っていることを仄めかせば、諸星は自ら伊都子と手を切ろうとするだろう。確実に二人を別れさせるためには、諸星の方から別れを切り出させなければ意味がないのだ。
 だから、今はまだ、諸星との関係を彼女に知られるわけにはいかない。

「そっか……わかった。じゃあ今度、彼氏の浮気調査とか、そっち方面に詳しい知り合いに、それとなく聞いてみるね。私で力になれればよかったんだけど、私、恋愛経験がないから……」
「ううん、いいよ。話を聞いてもらえただけでも、少し気が楽になった。ありがとう、心美ちゃん」

 彼女が諸星の浮気に勘付いた――それはつまり、計画を大幅に前倒しする必要が生じたことを意味する。
 急がなければ――どんな手を使ってでも。そう、この次の夜に――。

 そして私は、私にとって何よりも重要な質問をした。

「ところで、伊都子ちゃん、話は変わるんだけど、ちょっと、あなたに聞きたいことがあるんだ……」
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