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エピローグ前編
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漫研の部室でカーテンが切り裂かれた日の夕方、私は瀬名瞬に『あの夜のことで話がしたい』とLINEを送り、彼をサークル棟まで呼び出した。あの夜、とは、一昨年の夏、兄が死んだ夜のことだ。
新歓の時期の金曜の夜。その日のサークル棟は、予想通りほぼ無人だった。
瀬名瞬は指定した通りの時間にやってきた。私はそのまま彼を人気のないサークル棟に連れ込み、無人だった漫研の部室に入った。漫研の新歓がこの日の夜、繁華街にある飲み屋で行われることは、漫研の勧誘を受けた際に聞いていたし、幸い一階の他の部室もしんみりと静まり返っていた。人の出入りが多いようなら今日はやめようか、とも考えていたのだが、お膳立ては完璧。ツイている――そう思った。
私と瀬名瞬は漫研の部室に入り、内側から鍵をかけた。
私は、その場で瀬名瞬を押し倒した。
別荘でのあの夜、私が手に入れ損ねたもの。一年半越しのリベンジだった。
真紀さんの男を組み敷いて、同じ唇を貪る。彼女もこうしてこの男を愛しているのだろうか、と考えると、また一歩彼女に近づけたような気がして、嬉しかった。私の五感は恍惚に満たされ、私を見上げる瀬名瞬の怯えたような瞳もまた、私の嗜虐性を刺激した。
そして私は、瀬名瞬の上に跨った。部室に入ってから五分と経っていなかったかもしれない。
瀬名瞬と体を重ねているという感覚より、彼を通して私と真紀さんが体を重ねている、その想像が、私に得も言われぬ快感を齎した。瀬名瞬はその触媒に過ぎなかったのだ。
これが私にとっての初体験だった。
確かに多少の痛みはあったけれど、体の底から泉のように湧き上がってくる快楽の前では、極めて些細なものだった。
しかし、この後ちょっとしたアクシデントが発生した。馬乗りになった私の体を、瀬名瞬が突然持ち上げたのだ。その理由はすぐにわかった。勢いよく飛び出した彼の体液が、私の青いワンピースの胸の辺りをべっとりと汚したからだ。
その量と粘度は私の想像以上のもので、拭いてもはっきり跡が残ってしまった。着替えの用意もなかったし、かといって、このまま外を出歩くわけにもいかない。どうしよう――途方に暮れて周囲を見回す私の目に飛び込んできたのが、漫研の掃き出し窓にかかっていた大きな白いカーテンだった。
私がそのアイディアを話すと、瀬名瞬は現在物置として使われている元社会心理学研究会の部室から、ハサミとメジャーを持ってきた。私がサークル棟の物置の存在を知ったのはこの時だ。
瀬名瞬が持ってきたハサミとメジャー、非常用に持ち歩いている携帯型の小さなソーイングセット、それらを用いて、私は初めて自分のために服を作った。カーテンの布を裁断して自分の体に巻き、ウエストの部分を軽く絞って、タッセルを肩紐に使い、どうにかワンピースに見える程度の形に仕上げる。違和感はあるが、外はもう暗くなっていたし、家に帰るまでの間ぐらいならこれでどうにか誤魔化せるはずだ。今になってみれば、我ながら無茶なことをしたものだとは思うが、そのスリルが快感だった。
カーテンで即席のワンピースを作った女がいるなんて誰も想像すらしないとは思うが、念のため、私と瀬名瞬は手分けして、残ったカーテンの生地を細かく切り裂き、証拠を隠滅した。細かく切ってばらまいておけば、布の量がワンピース一着分減っていることには気付かれないだろうと考えてのことだ。
汚れた青いワンピースはどうするか迷ったが、瀬名瞬は、これは自分の責任だからクリーニングしてから返す、と言い出した。とは言っても、女物のワンピースをそのまま持ち帰るわけにもいくまい。どうするのかと見ていると、彼はなんと、私の青いワンピースをストール代わりにグルグルと首に巻き始めたのだ。
これには私も思わず吹き出してしまった。そして、彼に対して、単に真紀さんの交際相手であるということ以上の興味を覚えた。この男はやっぱり面白い、と。
サークル棟を出て、そのまま家に帰るつもりだったのだが、真紀さんがまだ経済学部棟にいるはずだと瀬名瞬から聞かされて、どうしても彼女に会いたくなった。
真紀さんは図書室にいた。
以前よりずっと彼女を身近に感じられるような気がした。カーテンで作ったワンピースの縫い目や布端処理はとても拙くて、真紀さんに気付かれないか不安はあったけれど、その緊張感も楽しかったし、私の陰部に残った瀬名瞬の感覚からくる背徳感もまた、私の気分を昂らせた。
これが、漫研部室で起こったカーテン切り裂き事件の全貌だ。
だが、それ以後の瀬名瞬は、以前にも増して私と距離を置くようになった。
もちろん、真紀さんという女性として最高の存在から、彼を容易く寝取れると思っていたわけではない。だが、垢抜けない芋女だった一昨年の私でもあと一歩のところまで行けたことを考えると、性欲に負け、私との関係を続けようとするはずだと予測していた。そうなればもうこちらのもので、蟻地獄のようにゆっくりと少しずつ泥沼に嵌めてやればいい。私と真紀さんの間でもがく彼を嘲笑ってやろうとさえ思っていた。しかし、それは完全な計算違いだった。
私はまだ真紀さんに遠く及ばないのかもしれないという失望感が、初体験を無駄に消費してしまったことへの落胆と相俟って私に襲い掛かってきた。瀬名瞬を狂わせるどころか、逆に自分の中に芽生え始めた彼への執着心に戸惑いながら、そしてもう一つ、日を重ねるごとに増してきた大きな不安が私の心を蝕んで、いつしか私は自暴自棄になっていた。
織原伊都子から諸星の話を聞かされたのは、ちょうどその時期だった。
彼女との親交にかこつけて、彼女のために諸星を寝取ろうという計画は、拍子抜けするほど順調に進んだ。それは瀬名瞬の件で傷付いた私のプライドを多少は癒してくれたが、意味があったとすればただそれだけで、諸星からは何の刺激も得られなかった。だが、中途半端に放り出すのは私の自尊心が許さない。さっさとやることを済ませて終わらせてしまおうと考え、諸星とディナーの約束を取り付けた。
あの日の夜、諸星を眠らせてホテルから出た私は、そこでようやく伊都子からのLINEに気付いた。
とても嫌な予感がした。
『いつもの場所』と言われて思い浮かぶのはサークル棟しかない。一刻も早く大学に着くため、最初はタクシーを使おうと考えた。ホテルから国道までは歩いて一分もかからない距離で、交通量の多い国道まで出ればタクシーはすぐにつかまるはず。
だが、その考えは甘かった。確かに空車のタクシーは何台かいたのだが、国道はずっと渋滞しており、車がほとんど流れていなかったのだ。国道沿いに植えられた欅の並木の下を、私は早足で歩き続けた。
ホテル街を抜け、立体駐車場、コンビニ、ガソリンスタンド、様々なものが私の横を通り過ぎていく。しかし、それでも渋滞は途切れなかった。脇道に入ろうかとも考えたのだが、青葉に来てまだ日が浅い私はこの辺りに土地勘がなく、タクシーを見つけられないまま道に迷うという最悪のケースが頭をよぎった。
国道から西公園前の交差点を左に曲がり、西公園通りを南下する。中心市街地を抜けたため渋滞は多少緩和されていたが、流れが遅いことに変わりはない。地下鉄の駅がある交差点を右に折れると、それまでとは一転して人通りも交通量も少なくなった。周囲の風景も一変し、夜空と見分けがつかないほど暗い森が、見渡す限りに広がっている。
私はふと気が付いた。既にホテルから大学までの道のりの半分以上を歩いてきた。大学までの距離はもう1kmもないはず。ここまで来たら、タクシーを探すよりも走った方が早いのではないか。
ヒールの高いパンプスを脱ぎ、頼りない街灯の明かりの中、私は大学まで走ることに決めた。テニスを辞めて一年余り、体力がどこまで落ちているかは想像もつかない。だが、躊躇している暇はなかった。
もしこれが大通りだったら、『裸足で走るワンピースの女』の目撃情報が青葉市内を駆け巡っていたに違いない。だが、大学へと続く暗い道に人通りは皆無で、車も時折すれ違う程度。暗闇に紛れながら、私はひたすら走った。
大橋を渡り、国際センターを過ぎて、夜でも開いている大学の裏門からサークル棟に入る。
これまで何度か昼休みを過ごし、すっかり見慣れているはずの物置は、窓から差し込む柔らかい月明かりを浴びて、いつもと全く違う表情を見せていた。辺りは完全な静寂に包まれ、スチール棚やパイプ椅子が淡い光を放っている。
しかし、人の気配は全くなかった。
彼女が指定した場所はここではなかったのだろうか。いや、他に待ち合わせられるようなところは……。
だが、部屋の中をよく見ると、壁際に並んでいたスチール棚、その真ん中の一つが横倒しになっていることに気が付いた。自然に倒れるような大きさではなく、明らかに人為的なものだ。怪訝に思いながらその棚の周辺を見てみると、棚が立っていたはずの隙間で、棚の上に渡された長い鉄パイプから垂らされたロープが目に入る。
伊都子はその先に首をくくり、足はぶらぶらと宙に浮いていた。
彼女の死体はまだほんのりと温かく、死んでからまだ間もないことがわかった。
おそらく彼女は、諸星を尾行し、レストランを出てホテルに入る私達の姿を見てしまったのだろう。いや、もしかしたらレストランに入る前からずっと尾行していたのかもしれない。そして、諸星の浮気相手が私だったことにショックを受けて、自ら命を絶ったのだ。私をここに呼び出したのは、きっと私に対する当てつけだろう。
宙吊りになった伊都子の死体を見て、私の心には沸々と怒りがこみ上げてきた。彼女に憎まれることが怖かったわけではない。とことん私と諸星を憎めばよかったのだ。
あんな下らない男のために死ぬことはなかった。
裸足で走ってきた足の裏が、急にジンジンと痛み始めた。
恋人とはいえ、所詮は他人である。他人のためにどうして自らの命を断とうと思えるのか、私にはその心理が全く理解できない。彼女の死は無意味だった。死が無意味だったということは、すなわち、人生そのものが無意味だったということ。織原伊都子は、この世に生を受けて以来二十年弱もの年月をかけて無駄にエネルギーを浪費し、この世に何も残さぬまま、単なる肉塊と化した。
だがこの時、私の脳裏に、あるアイディアが浮かんだ。彼女の死が無意味だったとしても、彼女の死体にはまだ利用価値がある。少なくとも私にとっては。
そう、彼女の死を事件にすればいいのだ。
彼女の死因が自殺であったことを隠すため、私はまず返り血を浴びないよう物置にあったビニールを体に巻き、手斧で彼女の首を根元から切断した。首についた索条痕から、死因が首吊りであると特定されてしまうためだ。また、彼女はほんの少し失禁していたので、汚物と衣服の汚れた部分もどうにかしなければならなかった。
彼女の失禁を隠蔽するため、私は自分が起こしたカーテン切り裂き事件を利用することを思い付いた。
カーテンが切り裂かれた理由については未だ暴かれておらず、特殊な嗜好を持った者による悪戯だと思われている。あれと同じように、衣服全体を切り裂くことで一部が持ち去られているのをカモフラージュできるし、衣服が切り裂かれたのは犯人の特殊な性癖によるものだと思い込ませられる――そう考えたのだ。
私は近くにあったハサミで彼女の衣服の汚れた部分を切り抜き、残りの全てを細かく切り裂いた。その日の彼女の服装は白いシャツと白いジャージ、下着は上下共にピンクで、この色彩が後に重要な効果をもたらすことにも気付かず、私は夢中で彼女の服にハサミを入れ続けた。
部屋の中央に彼女の首のない死体を寝かせ、細かく切り刻んだ彼女の衣服を死体周辺にばら撒く。
月明かりの中に浮かび上がるその光景を見て、私は思わず、美しい、と呟いた。彼女の衣服と下着、その白と薄桃色のコントラストが、地面を覆い尽くす桜吹雪のような錯覚を起こさせたからだ。生きていた頃の彼女より、今の彼女のほうがずっと美しいとさえ思った。
それから私は、切断した彼女の頭部、切り取った衣服と汚物、そして首吊りに使用されたロープをその辺に転がっていた袋に入れ、適当に現場を荒らして自殺の痕跡を消し去った。一連の作業は予想以上にスムーズに終わり、午後十一時少し前、私は伊都子の頭部が入った袋を持って物置を出た。
ホテルからサークル棟まで走ってきた道を、今度は逆に歩いて戻ってゆく。裏門から出て、国際センターを通り過ぎ、平瀬川にかかる大橋へ。そこで私は、彼女の頭部を袋ごと川へと投げ捨てた。
何の感慨も湧かなかった。私はただ肉塊を川へ投棄したに過ぎない。川に生ゴミを捨てた後、私は再び今来た道を引き返し、マンションの自分の部屋へ、のんびりと歩いて帰った。
翌日の昼、私が作った事件に関する真紀さんの考察を聞いて、私は再び、言葉では表し尽くせないほどの恍惚を覚えた。それはたった数分間のことだったけれど、伊都子と出会い、諸星を誑かして、死体を処理した、事件に至るまでの一連の出来事が、その一瞬で報われたような気がした。
しかしそれは、噎せるような白米の臭いによって断ち切られた。
新歓の時期の金曜の夜。その日のサークル棟は、予想通りほぼ無人だった。
瀬名瞬は指定した通りの時間にやってきた。私はそのまま彼を人気のないサークル棟に連れ込み、無人だった漫研の部室に入った。漫研の新歓がこの日の夜、繁華街にある飲み屋で行われることは、漫研の勧誘を受けた際に聞いていたし、幸い一階の他の部室もしんみりと静まり返っていた。人の出入りが多いようなら今日はやめようか、とも考えていたのだが、お膳立ては完璧。ツイている――そう思った。
私と瀬名瞬は漫研の部室に入り、内側から鍵をかけた。
私は、その場で瀬名瞬を押し倒した。
別荘でのあの夜、私が手に入れ損ねたもの。一年半越しのリベンジだった。
真紀さんの男を組み敷いて、同じ唇を貪る。彼女もこうしてこの男を愛しているのだろうか、と考えると、また一歩彼女に近づけたような気がして、嬉しかった。私の五感は恍惚に満たされ、私を見上げる瀬名瞬の怯えたような瞳もまた、私の嗜虐性を刺激した。
そして私は、瀬名瞬の上に跨った。部室に入ってから五分と経っていなかったかもしれない。
瀬名瞬と体を重ねているという感覚より、彼を通して私と真紀さんが体を重ねている、その想像が、私に得も言われぬ快感を齎した。瀬名瞬はその触媒に過ぎなかったのだ。
これが私にとっての初体験だった。
確かに多少の痛みはあったけれど、体の底から泉のように湧き上がってくる快楽の前では、極めて些細なものだった。
しかし、この後ちょっとしたアクシデントが発生した。馬乗りになった私の体を、瀬名瞬が突然持ち上げたのだ。その理由はすぐにわかった。勢いよく飛び出した彼の体液が、私の青いワンピースの胸の辺りをべっとりと汚したからだ。
その量と粘度は私の想像以上のもので、拭いてもはっきり跡が残ってしまった。着替えの用意もなかったし、かといって、このまま外を出歩くわけにもいかない。どうしよう――途方に暮れて周囲を見回す私の目に飛び込んできたのが、漫研の掃き出し窓にかかっていた大きな白いカーテンだった。
私がそのアイディアを話すと、瀬名瞬は現在物置として使われている元社会心理学研究会の部室から、ハサミとメジャーを持ってきた。私がサークル棟の物置の存在を知ったのはこの時だ。
瀬名瞬が持ってきたハサミとメジャー、非常用に持ち歩いている携帯型の小さなソーイングセット、それらを用いて、私は初めて自分のために服を作った。カーテンの布を裁断して自分の体に巻き、ウエストの部分を軽く絞って、タッセルを肩紐に使い、どうにかワンピースに見える程度の形に仕上げる。違和感はあるが、外はもう暗くなっていたし、家に帰るまでの間ぐらいならこれでどうにか誤魔化せるはずだ。今になってみれば、我ながら無茶なことをしたものだとは思うが、そのスリルが快感だった。
カーテンで即席のワンピースを作った女がいるなんて誰も想像すらしないとは思うが、念のため、私と瀬名瞬は手分けして、残ったカーテンの生地を細かく切り裂き、証拠を隠滅した。細かく切ってばらまいておけば、布の量がワンピース一着分減っていることには気付かれないだろうと考えてのことだ。
汚れた青いワンピースはどうするか迷ったが、瀬名瞬は、これは自分の責任だからクリーニングしてから返す、と言い出した。とは言っても、女物のワンピースをそのまま持ち帰るわけにもいくまい。どうするのかと見ていると、彼はなんと、私の青いワンピースをストール代わりにグルグルと首に巻き始めたのだ。
これには私も思わず吹き出してしまった。そして、彼に対して、単に真紀さんの交際相手であるということ以上の興味を覚えた。この男はやっぱり面白い、と。
サークル棟を出て、そのまま家に帰るつもりだったのだが、真紀さんがまだ経済学部棟にいるはずだと瀬名瞬から聞かされて、どうしても彼女に会いたくなった。
真紀さんは図書室にいた。
以前よりずっと彼女を身近に感じられるような気がした。カーテンで作ったワンピースの縫い目や布端処理はとても拙くて、真紀さんに気付かれないか不安はあったけれど、その緊張感も楽しかったし、私の陰部に残った瀬名瞬の感覚からくる背徳感もまた、私の気分を昂らせた。
これが、漫研部室で起こったカーテン切り裂き事件の全貌だ。
だが、それ以後の瀬名瞬は、以前にも増して私と距離を置くようになった。
もちろん、真紀さんという女性として最高の存在から、彼を容易く寝取れると思っていたわけではない。だが、垢抜けない芋女だった一昨年の私でもあと一歩のところまで行けたことを考えると、性欲に負け、私との関係を続けようとするはずだと予測していた。そうなればもうこちらのもので、蟻地獄のようにゆっくりと少しずつ泥沼に嵌めてやればいい。私と真紀さんの間でもがく彼を嘲笑ってやろうとさえ思っていた。しかし、それは完全な計算違いだった。
私はまだ真紀さんに遠く及ばないのかもしれないという失望感が、初体験を無駄に消費してしまったことへの落胆と相俟って私に襲い掛かってきた。瀬名瞬を狂わせるどころか、逆に自分の中に芽生え始めた彼への執着心に戸惑いながら、そしてもう一つ、日を重ねるごとに増してきた大きな不安が私の心を蝕んで、いつしか私は自暴自棄になっていた。
織原伊都子から諸星の話を聞かされたのは、ちょうどその時期だった。
彼女との親交にかこつけて、彼女のために諸星を寝取ろうという計画は、拍子抜けするほど順調に進んだ。それは瀬名瞬の件で傷付いた私のプライドを多少は癒してくれたが、意味があったとすればただそれだけで、諸星からは何の刺激も得られなかった。だが、中途半端に放り出すのは私の自尊心が許さない。さっさとやることを済ませて終わらせてしまおうと考え、諸星とディナーの約束を取り付けた。
あの日の夜、諸星を眠らせてホテルから出た私は、そこでようやく伊都子からのLINEに気付いた。
とても嫌な予感がした。
『いつもの場所』と言われて思い浮かぶのはサークル棟しかない。一刻も早く大学に着くため、最初はタクシーを使おうと考えた。ホテルから国道までは歩いて一分もかからない距離で、交通量の多い国道まで出ればタクシーはすぐにつかまるはず。
だが、その考えは甘かった。確かに空車のタクシーは何台かいたのだが、国道はずっと渋滞しており、車がほとんど流れていなかったのだ。国道沿いに植えられた欅の並木の下を、私は早足で歩き続けた。
ホテル街を抜け、立体駐車場、コンビニ、ガソリンスタンド、様々なものが私の横を通り過ぎていく。しかし、それでも渋滞は途切れなかった。脇道に入ろうかとも考えたのだが、青葉に来てまだ日が浅い私はこの辺りに土地勘がなく、タクシーを見つけられないまま道に迷うという最悪のケースが頭をよぎった。
国道から西公園前の交差点を左に曲がり、西公園通りを南下する。中心市街地を抜けたため渋滞は多少緩和されていたが、流れが遅いことに変わりはない。地下鉄の駅がある交差点を右に折れると、それまでとは一転して人通りも交通量も少なくなった。周囲の風景も一変し、夜空と見分けがつかないほど暗い森が、見渡す限りに広がっている。
私はふと気が付いた。既にホテルから大学までの道のりの半分以上を歩いてきた。大学までの距離はもう1kmもないはず。ここまで来たら、タクシーを探すよりも走った方が早いのではないか。
ヒールの高いパンプスを脱ぎ、頼りない街灯の明かりの中、私は大学まで走ることに決めた。テニスを辞めて一年余り、体力がどこまで落ちているかは想像もつかない。だが、躊躇している暇はなかった。
もしこれが大通りだったら、『裸足で走るワンピースの女』の目撃情報が青葉市内を駆け巡っていたに違いない。だが、大学へと続く暗い道に人通りは皆無で、車も時折すれ違う程度。暗闇に紛れながら、私はひたすら走った。
大橋を渡り、国際センターを過ぎて、夜でも開いている大学の裏門からサークル棟に入る。
これまで何度か昼休みを過ごし、すっかり見慣れているはずの物置は、窓から差し込む柔らかい月明かりを浴びて、いつもと全く違う表情を見せていた。辺りは完全な静寂に包まれ、スチール棚やパイプ椅子が淡い光を放っている。
しかし、人の気配は全くなかった。
彼女が指定した場所はここではなかったのだろうか。いや、他に待ち合わせられるようなところは……。
だが、部屋の中をよく見ると、壁際に並んでいたスチール棚、その真ん中の一つが横倒しになっていることに気が付いた。自然に倒れるような大きさではなく、明らかに人為的なものだ。怪訝に思いながらその棚の周辺を見てみると、棚が立っていたはずの隙間で、棚の上に渡された長い鉄パイプから垂らされたロープが目に入る。
伊都子はその先に首をくくり、足はぶらぶらと宙に浮いていた。
彼女の死体はまだほんのりと温かく、死んでからまだ間もないことがわかった。
おそらく彼女は、諸星を尾行し、レストランを出てホテルに入る私達の姿を見てしまったのだろう。いや、もしかしたらレストランに入る前からずっと尾行していたのかもしれない。そして、諸星の浮気相手が私だったことにショックを受けて、自ら命を絶ったのだ。私をここに呼び出したのは、きっと私に対する当てつけだろう。
宙吊りになった伊都子の死体を見て、私の心には沸々と怒りがこみ上げてきた。彼女に憎まれることが怖かったわけではない。とことん私と諸星を憎めばよかったのだ。
あんな下らない男のために死ぬことはなかった。
裸足で走ってきた足の裏が、急にジンジンと痛み始めた。
恋人とはいえ、所詮は他人である。他人のためにどうして自らの命を断とうと思えるのか、私にはその心理が全く理解できない。彼女の死は無意味だった。死が無意味だったということは、すなわち、人生そのものが無意味だったということ。織原伊都子は、この世に生を受けて以来二十年弱もの年月をかけて無駄にエネルギーを浪費し、この世に何も残さぬまま、単なる肉塊と化した。
だがこの時、私の脳裏に、あるアイディアが浮かんだ。彼女の死が無意味だったとしても、彼女の死体にはまだ利用価値がある。少なくとも私にとっては。
そう、彼女の死を事件にすればいいのだ。
彼女の死因が自殺であったことを隠すため、私はまず返り血を浴びないよう物置にあったビニールを体に巻き、手斧で彼女の首を根元から切断した。首についた索条痕から、死因が首吊りであると特定されてしまうためだ。また、彼女はほんの少し失禁していたので、汚物と衣服の汚れた部分もどうにかしなければならなかった。
彼女の失禁を隠蔽するため、私は自分が起こしたカーテン切り裂き事件を利用することを思い付いた。
カーテンが切り裂かれた理由については未だ暴かれておらず、特殊な嗜好を持った者による悪戯だと思われている。あれと同じように、衣服全体を切り裂くことで一部が持ち去られているのをカモフラージュできるし、衣服が切り裂かれたのは犯人の特殊な性癖によるものだと思い込ませられる――そう考えたのだ。
私は近くにあったハサミで彼女の衣服の汚れた部分を切り抜き、残りの全てを細かく切り裂いた。その日の彼女の服装は白いシャツと白いジャージ、下着は上下共にピンクで、この色彩が後に重要な効果をもたらすことにも気付かず、私は夢中で彼女の服にハサミを入れ続けた。
部屋の中央に彼女の首のない死体を寝かせ、細かく切り刻んだ彼女の衣服を死体周辺にばら撒く。
月明かりの中に浮かび上がるその光景を見て、私は思わず、美しい、と呟いた。彼女の衣服と下着、その白と薄桃色のコントラストが、地面を覆い尽くす桜吹雪のような錯覚を起こさせたからだ。生きていた頃の彼女より、今の彼女のほうがずっと美しいとさえ思った。
それから私は、切断した彼女の頭部、切り取った衣服と汚物、そして首吊りに使用されたロープをその辺に転がっていた袋に入れ、適当に現場を荒らして自殺の痕跡を消し去った。一連の作業は予想以上にスムーズに終わり、午後十一時少し前、私は伊都子の頭部が入った袋を持って物置を出た。
ホテルからサークル棟まで走ってきた道を、今度は逆に歩いて戻ってゆく。裏門から出て、国際センターを通り過ぎ、平瀬川にかかる大橋へ。そこで私は、彼女の頭部を袋ごと川へと投げ捨てた。
何の感慨も湧かなかった。私はただ肉塊を川へ投棄したに過ぎない。川に生ゴミを捨てた後、私は再び今来た道を引き返し、マンションの自分の部屋へ、のんびりと歩いて帰った。
翌日の昼、私が作った事件に関する真紀さんの考察を聞いて、私は再び、言葉では表し尽くせないほどの恍惚を覚えた。それはたった数分間のことだったけれど、伊都子と出会い、諸星を誑かして、死体を処理した、事件に至るまでの一連の出来事が、その一瞬で報われたような気がした。
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