25 / 26
五日目(3)
しおりを挟む
「性……同一性……障害……?」
仄香は、耳慣れない言葉にとても困惑している様子だった。しかも、今までずっと聾唖者の女だと思っていた人間が、突然男の声を発したのだ。冷静でいられるほうがおかしい。
私は彼女が落ち着きを取り戻すのをじっと待った。仄香が息を整え、次に口を開くまでに要した時間は、一分を優に超えた。
「……つまり、体は男だけど、心は女の子、っていうこと……?」
私は頷いた。乙軒島に来るまで、これは決して嘘ではないはずだった。
「じゃあ、海のこと、女の子だと思っていいんだよね?」
そう言いつつも、仄香の表情には隠し切れない不安が表れている。昨夜の生存者の中で望が唯一の男だと思っていたからこそ、仄香は彼が犯人だと断定したのだが、もう一人の生存者である私が男の体を持っているのならば、その前提は崩れてしまう。単純な計算ではあるが、男が二人いるのなら望が犯人だった可能性は半分まで下がる。もし望が犯人でなかった場合、今彼女の目の前にいる男――つまり私が犯人ということになるのだ。
性同一性障害のカミングアウトはただでさえ重い案件であり、こんな極限状況で唐突に明かされて、すぐに受け入れられるわけもない。
仄香は探るような目つきで私をじっと見る。私はゆったりと頷きながら、手話で答えた。
『私の心は女だよ』
すると、仄香は少しだけほっとした様子で、再び細かく手を動かし始める。
「そんな大事なこと、どうして今まで黙ってたの?」
『ごめん。隠すつもりはなかったんだけど、嫌われるんじゃないかって怖くて、なかなか言い出せなかったんだ』
「嫌いになんかなるわけないじゃん、海のことを……」
そう言うと、仄香はおもむろに立ち上がり、その大きな瞳から珠のような涙を零しながら、私に抱き付いてきた。
「助けてくれてありがとう。私、怖かった……嬰莉ちゃんや霞夜ちゃんや綸ちゃんみたいに、私も望に殺されるんじゃないかって、とても怖かった」
私は戸惑いながらも、仄香の小鹿のように細く頼りない体を包み込むように抱き留める。部屋着のTシャツの胸元が仄香の温かい涙で濡れ、心の奥底まで染み込むようなその涙の温かさに、私は殺人などより遥かに重い罪悪感を覚えた。
誰よりも愛しく、誰よりも大切な仄香を、私は最後まで欺いたのだ。
それから私たちは、リビングに移動して、ゆったりと映画を見ながら過ごした。
柔らかいソファに並んで座り、五人もの人間の命が失われた館で呑気に映画鑑賞。傍から見れば不謹慎な行為かもしれない。しかし、疲れ切った仄香には最早悲しむだけの精神的余裕も残されておらず、休息と気分転換を欲していたのだ。
昨日までは、ソファで項垂れながらも恐怖と緊張のためずっと気が張り詰めていた仄香だったが、今日は心から寛ぎリラックスしているように見えた。昨日の時点ではまだ殺された錦野が犯人だという確証がなかったが、望が死ぬ間際に仄香を襲ったことで、彼女の中では望が三人を殺した犯人だったという確信が持てたからだと思われる。
映画はフランスの恋愛もの。日本語字幕のおかげで私にも内容が理解できた。少し古い映画ではあったが、アクションやサスペンス要素は皆無、耽美で繊細な心理描写と美しい風景が印象的で、とても穏やかな気持ちで鑑賞し終えた。
エンディングを迎え、画面が暗転してスタッフロールが流れ始めたところで、ふと隣を見ると、仄香はいつの間にか小さな寝息を立てていた。今にも私の肩に凭れかかって来そうな、ひどく不安定な姿勢で。
細く柔らかい黒髪と長い睫毛、均整のとれた鼻筋、薄く小さな唇――私の手は我知らずその唇に伸びていた。
緩やかなリズムで上下する肩。唇に触れても仄香は目を覚まさなかった。ほんの少し力を込めたら潰れてしまいそうな、ゼリーのように脆く柔らかい唇の感触。これ以上触れていたら気がおかしくなってしまいそうだ。私は慌てて手を下ろして仄香の姿勢を直すと、ソファを離れてバルコニーへと向かった。
リビングの窓から見える海はとても穏やかで、ここ数日の荒れ模様が嘘のように静まり返っていた。柔らかい光が差し込む窓を開けると、湿気と熱気を帯びた潮風が室内に流れ込んでくる。冷房の効いた室内に比べれば外気温はかなり高いが、都内の篭もったような暑さに比べたら、この潮風はずっと肌触りが良い。
だが、地上へと目を転じれば、砂浜には波によって打ち上げられた無数のゴミが散乱しており、数日前仄香たち四人がスイカ割りをしていた時の落雁のように白く美しい砂浜の面影は微塵も残されていなかった。
仄香との二人きりの時間を楽しみつつも、私は心の内で怯えていた。錦野の話によれば、こちらからの連絡がないことを心配した最寄りの島の住民が、遠からず乙軒島にやってくる。私と彼女の時間はその瞬間に終わるだろう。五件もの殺人が起こったこの島には警察官が大挙して押し寄せ、私と仄香は重要参考人として身柄を拘束される。そして、私はそれ以降二度と彼女に会えないかもしれない。仮にもう一度顔を合わせる機会があったとしても、三人を殺した犯人が私であることを知ったら、仄香は絶対に私を許さないだろう。
だから、美しく青い海を眺めながら、私はその向こうに小さな船影が見えはしないかと、何度も目を凝らした。きっと、このひと時が、私に残された最後の時間だから。
だが、この日は幸い、乙軒島への来訪者はなかった。
他の島でも今回の台風による被害への対応に追われていて、まだこちらまで気を回す余裕がないのかもしれない。現に、台風上陸前に錦野が家庭菜園に設置していた防風用のビニールハウスは、ビニールが破損したり骨組みが曲がっていたり、中には骨組みごと吹き飛ばされているものもあった。中の野菜や花の惨状は言わずもがなである。二人の時間に僅かな猶予が与えられたことを、私は密かに喜んだ。
しかし、カップラーメンで軽めの夕食を摂った後、仄香が発した一言によって、私の心は凍り付いた。
「ねえ、海。今夜も一緒に寝てくれるよね?」
一日の猶予が与えられたということは、もう一晩、彼女と一緒に過ごすということでもある。それが嫌なわけでは決してないのだが――。私は手話で彼女に答えた。
『私は構わないけれど、でも、私の体は男なんだよ? それでもいいの?』
「昨日も一昨日も、この島に来てから今までずっとそうだったじゃない。だから、私は気にしないよ」
『でも……』
本当は、君を異性として意識している。
同じベッドに入った君を襲ってしまいそうで、私は君が眠りにつくとすぐに部屋を出ていた。そして、抑えきれない性的衝動を、あの三人にぶつけてしまったのだ。
しかし、それを言ってしまったら、私の心が既に女ではなくなりつつあることに、仄香は気付いてしまうだろう。あと少し、乙軒島にいる間だけは、このままでいたかった。
だから私は、仄香の提案を受け入れた。
昨日までと同じように、彼女が眠るまで耐えきって、気付かれないように部屋を出ればいい。それぐらいの我慢なら、今の私にもできるはず。
そしてその夜、私たちはここ数日と全く同じように、仄香の部屋のベッドに入った。
だが、仄香は全く眠る気配がなかった。
寝返りを打つこともなく体をこちらに向け、目はずっと瞑っているのに、呼吸はいつまで経っても寝息のリズムに変わらない。閉じられているはずの彼女の瞼から、体中に貼り付くような視線を感じていた。リビングで昼寝したせいで目が冴えているのだろうか。昼過ぎにソファで眠り始めた彼女は、結局夕方近くまでそこで眠りこけていたのだ。
今日は長期戦になりそうだ――そう思い始めたころ、突然、仄香の唇が動いた。
「ねえ、海……」
仄香の大きく見開かれた双眸が、私のすぐ目の前にあった。部屋の照明はもちろん消えており、窓から幽かな月明かりが差し込むばかり。それでも、彼女の瞳の輝きだけは明瞭に視認することができた。
仄香は言った。
「海……ねえ、私はいったい何を信じればいいの……? 仲良しだと思ってたクラスメイト達は本当は友達じゃなかった。海も私に今までずっと隠し事をしてた。どうして? なんでこんなタイミングで、大事なことを明かすの? もう、何もわからない……」
小さく肩を震わせる彼女の体を、私は全く無意識のうちに抱き寄せていた。
しかし、私の胸に顔を埋めながら静かに泣き続ける仄香に、それ以上かける言葉が見つからなかった。誰よりも彼女を裏切っているのは私なのだ。死んだあの四人などとは比べ物にならないほどに罪深く。
私にとって仄香は最も大切な存在。闇に閉ざされていた私の心に、太陽のように明るく、月のように優しく、一筋の光を与えてくれた。だからこそ、彼女との関係を壊したくなかった。他人に対してこんな感情を抱くのは初めてのことだった。
もしかしたら、本当は気付いていたのかもしれない。
私にとって彼女は単なる同性の友人ではないということに。
そして、まるで私の思考を見抜いたかのような彼女の一言が、私の心に突き刺さる。
「私、もう嘘は嫌。他の誰も信じられなくなったとしても、あなたのことだけは信じたい。だから、海、正直に答えて。あなたは、あなたの心は、本当に女の子なの……?」
「……!」
私は絶句した。今この状況、この心理状態で、いったいどう答えろというのか。彼女の柔肌を抱いた私の体は既に生理的反応を始めている。仄香はさらにたたみかけるように言った。
「私は、あなたのこと、特別な友達だって思ってた。ここに連れて来た四人よりずっと。同い年とは思えないぐらい落ち着いてるし、大人っぽいし、とっても物知りだし……私にはないものを、あなたはいっぱい持ってる。皆の前で手話で話すのだって、堂々と内緒話してるみたいで、私はすごく楽しかった。ねえ、何もかもが違うのに、私たち、こんなに仲良くなれたんだよ。障害があろうがなかろうが関係ない。あなたが本当は男の子だったとしても、私はあなたのことが好き。だから、あなたにだけは嘘を吐いてほしくないの」
私の腕の中から、涙に濡れた瞳で見上げてくる仄香に、私はとめどない愛おしさを覚えた。これまで味わったことのない温かい感情が、マグマのように勢いよく湧き上がってくる。
「私、今までどんなことでも隠さずあなたに話してきた。私も、あなたのこと、全て知りたい。それがどれほど残酷なことだったとしても」
私は、彼女への返答の代わりに、彼女の小さな唇に触れた。もうその欲求を止めることはできなかった。
マシュマロのように柔らかい唇の感触。絹のように滑らかな肌は、しっとりと汗ばんでいる。私は彼女の頬を撫で、指先で涙の痕を拭う。
手話は使わず、唇の動きだけで、私は仄香にありのままの想いを伝えた。
「私は、君を愛するのが怖かったんだ」
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
そして、水平線の向こうでかすかに白み始めた空を眺めながら、私は自分のスマートフォンにこの手記を残している。
隣で安らかに寝息を立てる仄香。これまでの時間を埋めるように、私は仄香に激しく愛情をぶつけ、彼女はあるがままの私を受け入れてくれた。
それは、ただ性欲を発散させるためだけに犯した三人への行為とは全く異なっていた。死体を犯す行為は、たしかに一時的に欲求は満たすことはできたが、時間の経過と共に我に返ると、絶え間ない虚無感と疲労感、罪悪感が襲い掛かってきたものだ。
だが、仄香との行為には愛があった。少なくとも、私はそう感じた。
彼女の反応を見るのも楽しかった。死体の温度は時間の経過に比例して急激に下がっていったけれど、仄香の体は感情の高揚に伴って次第に熱を帯び、頬は熟れた果実のように紅潮してゆいった。
事ここに至って、私はようやく思い知った。
あの三人に対して犯した行為には何の意味もなかった。代償行為にすらなっていなかったと。
もっと早く、彼女に全てを打ち明けていればよかったのだ。
そうすれば、きっと――。
そして、ひとしきり行為を終えた今、私を支配しているのはやはり罪悪感だった。
仄香を汚したくないから、その代わりにあの三人を殺し、犯したのではなかったか。仄香は穢れなき処女だった。罪深いこの私が、一生消えない痕跡を彼女に刻み付けてしまったのだ。
だから私は、今のうちに、仄香が目を覚ます前に、この部屋を出て、屋敷を出て、あの蒼く広大な海に沈もうと思う。私と同じ名前を持つ、母なる海へと。
これほど大きな罪を犯しながら、最後にありのままの姿で彼女を愛することができた私は、とても幸福だった。
誰よりも愛しい仄香へ。
ごめんなさい。そして、さようなら。
仄香は、耳慣れない言葉にとても困惑している様子だった。しかも、今までずっと聾唖者の女だと思っていた人間が、突然男の声を発したのだ。冷静でいられるほうがおかしい。
私は彼女が落ち着きを取り戻すのをじっと待った。仄香が息を整え、次に口を開くまでに要した時間は、一分を優に超えた。
「……つまり、体は男だけど、心は女の子、っていうこと……?」
私は頷いた。乙軒島に来るまで、これは決して嘘ではないはずだった。
「じゃあ、海のこと、女の子だと思っていいんだよね?」
そう言いつつも、仄香の表情には隠し切れない不安が表れている。昨夜の生存者の中で望が唯一の男だと思っていたからこそ、仄香は彼が犯人だと断定したのだが、もう一人の生存者である私が男の体を持っているのならば、その前提は崩れてしまう。単純な計算ではあるが、男が二人いるのなら望が犯人だった可能性は半分まで下がる。もし望が犯人でなかった場合、今彼女の目の前にいる男――つまり私が犯人ということになるのだ。
性同一性障害のカミングアウトはただでさえ重い案件であり、こんな極限状況で唐突に明かされて、すぐに受け入れられるわけもない。
仄香は探るような目つきで私をじっと見る。私はゆったりと頷きながら、手話で答えた。
『私の心は女だよ』
すると、仄香は少しだけほっとした様子で、再び細かく手を動かし始める。
「そんな大事なこと、どうして今まで黙ってたの?」
『ごめん。隠すつもりはなかったんだけど、嫌われるんじゃないかって怖くて、なかなか言い出せなかったんだ』
「嫌いになんかなるわけないじゃん、海のことを……」
そう言うと、仄香はおもむろに立ち上がり、その大きな瞳から珠のような涙を零しながら、私に抱き付いてきた。
「助けてくれてありがとう。私、怖かった……嬰莉ちゃんや霞夜ちゃんや綸ちゃんみたいに、私も望に殺されるんじゃないかって、とても怖かった」
私は戸惑いながらも、仄香の小鹿のように細く頼りない体を包み込むように抱き留める。部屋着のTシャツの胸元が仄香の温かい涙で濡れ、心の奥底まで染み込むようなその涙の温かさに、私は殺人などより遥かに重い罪悪感を覚えた。
誰よりも愛しく、誰よりも大切な仄香を、私は最後まで欺いたのだ。
それから私たちは、リビングに移動して、ゆったりと映画を見ながら過ごした。
柔らかいソファに並んで座り、五人もの人間の命が失われた館で呑気に映画鑑賞。傍から見れば不謹慎な行為かもしれない。しかし、疲れ切った仄香には最早悲しむだけの精神的余裕も残されておらず、休息と気分転換を欲していたのだ。
昨日までは、ソファで項垂れながらも恐怖と緊張のためずっと気が張り詰めていた仄香だったが、今日は心から寛ぎリラックスしているように見えた。昨日の時点ではまだ殺された錦野が犯人だという確証がなかったが、望が死ぬ間際に仄香を襲ったことで、彼女の中では望が三人を殺した犯人だったという確信が持てたからだと思われる。
映画はフランスの恋愛もの。日本語字幕のおかげで私にも内容が理解できた。少し古い映画ではあったが、アクションやサスペンス要素は皆無、耽美で繊細な心理描写と美しい風景が印象的で、とても穏やかな気持ちで鑑賞し終えた。
エンディングを迎え、画面が暗転してスタッフロールが流れ始めたところで、ふと隣を見ると、仄香はいつの間にか小さな寝息を立てていた。今にも私の肩に凭れかかって来そうな、ひどく不安定な姿勢で。
細く柔らかい黒髪と長い睫毛、均整のとれた鼻筋、薄く小さな唇――私の手は我知らずその唇に伸びていた。
緩やかなリズムで上下する肩。唇に触れても仄香は目を覚まさなかった。ほんの少し力を込めたら潰れてしまいそうな、ゼリーのように脆く柔らかい唇の感触。これ以上触れていたら気がおかしくなってしまいそうだ。私は慌てて手を下ろして仄香の姿勢を直すと、ソファを離れてバルコニーへと向かった。
リビングの窓から見える海はとても穏やかで、ここ数日の荒れ模様が嘘のように静まり返っていた。柔らかい光が差し込む窓を開けると、湿気と熱気を帯びた潮風が室内に流れ込んでくる。冷房の効いた室内に比べれば外気温はかなり高いが、都内の篭もったような暑さに比べたら、この潮風はずっと肌触りが良い。
だが、地上へと目を転じれば、砂浜には波によって打ち上げられた無数のゴミが散乱しており、数日前仄香たち四人がスイカ割りをしていた時の落雁のように白く美しい砂浜の面影は微塵も残されていなかった。
仄香との二人きりの時間を楽しみつつも、私は心の内で怯えていた。錦野の話によれば、こちらからの連絡がないことを心配した最寄りの島の住民が、遠からず乙軒島にやってくる。私と彼女の時間はその瞬間に終わるだろう。五件もの殺人が起こったこの島には警察官が大挙して押し寄せ、私と仄香は重要参考人として身柄を拘束される。そして、私はそれ以降二度と彼女に会えないかもしれない。仮にもう一度顔を合わせる機会があったとしても、三人を殺した犯人が私であることを知ったら、仄香は絶対に私を許さないだろう。
だから、美しく青い海を眺めながら、私はその向こうに小さな船影が見えはしないかと、何度も目を凝らした。きっと、このひと時が、私に残された最後の時間だから。
だが、この日は幸い、乙軒島への来訪者はなかった。
他の島でも今回の台風による被害への対応に追われていて、まだこちらまで気を回す余裕がないのかもしれない。現に、台風上陸前に錦野が家庭菜園に設置していた防風用のビニールハウスは、ビニールが破損したり骨組みが曲がっていたり、中には骨組みごと吹き飛ばされているものもあった。中の野菜や花の惨状は言わずもがなである。二人の時間に僅かな猶予が与えられたことを、私は密かに喜んだ。
しかし、カップラーメンで軽めの夕食を摂った後、仄香が発した一言によって、私の心は凍り付いた。
「ねえ、海。今夜も一緒に寝てくれるよね?」
一日の猶予が与えられたということは、もう一晩、彼女と一緒に過ごすということでもある。それが嫌なわけでは決してないのだが――。私は手話で彼女に答えた。
『私は構わないけれど、でも、私の体は男なんだよ? それでもいいの?』
「昨日も一昨日も、この島に来てから今までずっとそうだったじゃない。だから、私は気にしないよ」
『でも……』
本当は、君を異性として意識している。
同じベッドに入った君を襲ってしまいそうで、私は君が眠りにつくとすぐに部屋を出ていた。そして、抑えきれない性的衝動を、あの三人にぶつけてしまったのだ。
しかし、それを言ってしまったら、私の心が既に女ではなくなりつつあることに、仄香は気付いてしまうだろう。あと少し、乙軒島にいる間だけは、このままでいたかった。
だから私は、仄香の提案を受け入れた。
昨日までと同じように、彼女が眠るまで耐えきって、気付かれないように部屋を出ればいい。それぐらいの我慢なら、今の私にもできるはず。
そしてその夜、私たちはここ数日と全く同じように、仄香の部屋のベッドに入った。
だが、仄香は全く眠る気配がなかった。
寝返りを打つこともなく体をこちらに向け、目はずっと瞑っているのに、呼吸はいつまで経っても寝息のリズムに変わらない。閉じられているはずの彼女の瞼から、体中に貼り付くような視線を感じていた。リビングで昼寝したせいで目が冴えているのだろうか。昼過ぎにソファで眠り始めた彼女は、結局夕方近くまでそこで眠りこけていたのだ。
今日は長期戦になりそうだ――そう思い始めたころ、突然、仄香の唇が動いた。
「ねえ、海……」
仄香の大きく見開かれた双眸が、私のすぐ目の前にあった。部屋の照明はもちろん消えており、窓から幽かな月明かりが差し込むばかり。それでも、彼女の瞳の輝きだけは明瞭に視認することができた。
仄香は言った。
「海……ねえ、私はいったい何を信じればいいの……? 仲良しだと思ってたクラスメイト達は本当は友達じゃなかった。海も私に今までずっと隠し事をしてた。どうして? なんでこんなタイミングで、大事なことを明かすの? もう、何もわからない……」
小さく肩を震わせる彼女の体を、私は全く無意識のうちに抱き寄せていた。
しかし、私の胸に顔を埋めながら静かに泣き続ける仄香に、それ以上かける言葉が見つからなかった。誰よりも彼女を裏切っているのは私なのだ。死んだあの四人などとは比べ物にならないほどに罪深く。
私にとって仄香は最も大切な存在。闇に閉ざされていた私の心に、太陽のように明るく、月のように優しく、一筋の光を与えてくれた。だからこそ、彼女との関係を壊したくなかった。他人に対してこんな感情を抱くのは初めてのことだった。
もしかしたら、本当は気付いていたのかもしれない。
私にとって彼女は単なる同性の友人ではないということに。
そして、まるで私の思考を見抜いたかのような彼女の一言が、私の心に突き刺さる。
「私、もう嘘は嫌。他の誰も信じられなくなったとしても、あなたのことだけは信じたい。だから、海、正直に答えて。あなたは、あなたの心は、本当に女の子なの……?」
「……!」
私は絶句した。今この状況、この心理状態で、いったいどう答えろというのか。彼女の柔肌を抱いた私の体は既に生理的反応を始めている。仄香はさらにたたみかけるように言った。
「私は、あなたのこと、特別な友達だって思ってた。ここに連れて来た四人よりずっと。同い年とは思えないぐらい落ち着いてるし、大人っぽいし、とっても物知りだし……私にはないものを、あなたはいっぱい持ってる。皆の前で手話で話すのだって、堂々と内緒話してるみたいで、私はすごく楽しかった。ねえ、何もかもが違うのに、私たち、こんなに仲良くなれたんだよ。障害があろうがなかろうが関係ない。あなたが本当は男の子だったとしても、私はあなたのことが好き。だから、あなたにだけは嘘を吐いてほしくないの」
私の腕の中から、涙に濡れた瞳で見上げてくる仄香に、私はとめどない愛おしさを覚えた。これまで味わったことのない温かい感情が、マグマのように勢いよく湧き上がってくる。
「私、今までどんなことでも隠さずあなたに話してきた。私も、あなたのこと、全て知りたい。それがどれほど残酷なことだったとしても」
私は、彼女への返答の代わりに、彼女の小さな唇に触れた。もうその欲求を止めることはできなかった。
マシュマロのように柔らかい唇の感触。絹のように滑らかな肌は、しっとりと汗ばんでいる。私は彼女の頬を撫で、指先で涙の痕を拭う。
手話は使わず、唇の動きだけで、私は仄香にありのままの想いを伝えた。
「私は、君を愛するのが怖かったんだ」
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
そして、水平線の向こうでかすかに白み始めた空を眺めながら、私は自分のスマートフォンにこの手記を残している。
隣で安らかに寝息を立てる仄香。これまでの時間を埋めるように、私は仄香に激しく愛情をぶつけ、彼女はあるがままの私を受け入れてくれた。
それは、ただ性欲を発散させるためだけに犯した三人への行為とは全く異なっていた。死体を犯す行為は、たしかに一時的に欲求は満たすことはできたが、時間の経過と共に我に返ると、絶え間ない虚無感と疲労感、罪悪感が襲い掛かってきたものだ。
だが、仄香との行為には愛があった。少なくとも、私はそう感じた。
彼女の反応を見るのも楽しかった。死体の温度は時間の経過に比例して急激に下がっていったけれど、仄香の体は感情の高揚に伴って次第に熱を帯び、頬は熟れた果実のように紅潮してゆいった。
事ここに至って、私はようやく思い知った。
あの三人に対して犯した行為には何の意味もなかった。代償行為にすらなっていなかったと。
もっと早く、彼女に全てを打ち明けていればよかったのだ。
そうすれば、きっと――。
そして、ひとしきり行為を終えた今、私を支配しているのはやはり罪悪感だった。
仄香を汚したくないから、その代わりにあの三人を殺し、犯したのではなかったか。仄香は穢れなき処女だった。罪深いこの私が、一生消えない痕跡を彼女に刻み付けてしまったのだ。
だから私は、今のうちに、仄香が目を覚ます前に、この部屋を出て、屋敷を出て、あの蒼く広大な海に沈もうと思う。私と同じ名前を持つ、母なる海へと。
これほど大きな罪を犯しながら、最後にありのままの姿で彼女を愛することができた私は、とても幸福だった。
誰よりも愛しい仄香へ。
ごめんなさい。そして、さようなら。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?
すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。
お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」
その母は・・迎えにくることは無かった。
代わりに迎えに来た『父』と『兄』。
私の引き取り先は『本当の家』だった。
お父さん「鈴の家だよ?」
鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」
新しい家で始まる生活。
でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。
鈴「うぁ・・・・。」
兄「鈴!?」
倒れることが多くなっていく日々・・・。
そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。
『もう・・妹にみれない・・・。』
『お兄ちゃん・・・。』
「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」
「ーーーーっ!」
※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。
※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。
※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~
ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。
王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。
15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。
国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。
これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。
放課後の約束と秘密 ~温もり重ねる二人の時間~
楠富 つかさ
恋愛
中学二年生の佑奈は、母子家庭で家事をこなしながら日々を過ごしていた。友達はいるが、特別に誰かと深く関わることはなく、学校と家を行き来するだけの平凡な毎日。そんな佑奈に、同じクラスの大波多佳子が積極的に距離を縮めてくる。
佳子は華やかで、成績も良く、家は裕福。けれど両親は海外赴任中で、一人暮らしをしている。人懐っこい笑顔の裏で、彼女が抱えているのは、誰にも言えない「寂しさ」だった。
「ねぇ、明日から私の部屋で勉強しない?」
放課後、二人は図書室ではなく、佳子の部屋で過ごすようになる。最初は勉強のためだったはずが、いつの間にか、それはただ一緒にいる時間になり、互いにとってかけがえのないものになっていく。
――けれど、佑奈は思う。
「私なんかが、佳子ちゃんの隣にいていいの?」
特別になりたい。でも、特別になるのが怖い。
放課後、少しずつ距離を縮める二人の、静かであたたかな日々の物語。
4/6以降、8/31の完結まで毎週日曜日更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる