そして何も言わなくなった【改稿版】

浦登みっひ

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仄香

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 朝、目覚めたときにはもう、私の隣に海の姿はありませんでした。

 ベッドに残されていたのは、かすかに漂う彼の匂いと、昨夜の激しさを物語るような生々しいシーツの皺だけ。彼が寝ていた場所のシーツは既に冷たくなっていて、彼の体温もすっかり消えていました。まるですべてが夢だったかのように――。
 ベッドから体を起こし周囲を見渡してみても、やはり彼の姿はどこにもありません。けれど、彼の荷物だけは、昨夜と全く同じ状態で置かれています。化粧台の上のヘアブラシ、部屋の片隅にある赤いキャリーケース、ベッドの脇に置かれたスマートフォン。いずれも彼の持ち物です。
 彼がたしかに実在する人間だったことを確認して、私はほっと胸を撫で下ろしました。なら、海はまだ乙軒島のどこかにいるはず。島の外に出る手段はおろか連絡手段すらないのだから、どこにも行きようがないのです。
 でも、ベッドから出て屋敷の中を探しても、彼の姿はありません。地下室も、屋根裏も、屋敷の外も、隈なく探してみたけれど、人の気配は全くありませんでした。屋敷の外も探し回ってみましたが、結果は同じでした。幾重にも押し寄せる静かな波の音が、寂しさをますますかき立てます。
 彼はいったいどこに行ってしまったのだろう――昨夜の彼の、何か思い詰めたような表情と共に、私の心に言いようのない不安が浮かび上がってきました。いえ、それはむしろ、確信に近い予感と言ってもいいものだったかもしれません。

 彼はとても遠いところへ行ってしまったのではないか。
 そして、もう二度と会えないのではないか。
 
 部屋に戻った私は、海のスマートフォンを手に取り、いけないこととは知りつつも、その電源ボタンに触れました。彼の居場所について何か手がかりが残されていないかと考えたからです。
 スマートフォンには当然ロックがかかっていて、画面にはパスワード入力のためのキーボードが表示されました。私は彼のことを思い出しながら、彼の誕生日、着ていた服や使っていた化粧品のブランド、好きだと言っていた作家や音楽家の名前など、私が彼について知っていることの範囲でそれらしい数字や言葉を手当たり次第に入力してみましたが、そう簡単にロックが解除されるわけもありません。
 やっぱりダメか――諦めかけ、最後にダメ元で入力した『0629』という数字。
 ロックは解除されました。六月二十九日は、私の誕生日です。

 そして私は、彼がメモアプリに残していた手記を読んで、この島で起こったことの真相を知り、彼がきっともう戻ってこないことを知りました。

 事件の真相を知った私は、もちろんとても驚きました。優しかった海が、あんなことをするなんて、と。でも不思議と、彼に対する憎しみは湧きませんでした。望が見せた醜く歪んだ顔に比べたら、海は最後まで私に優しかった。昨夜、彼の腕の中で、私は彼の愛情を感じ、心から安らぐことができたのです。
 彼の全てを受け入れることに、戸惑いはありませんでした。もしかしたら私は、ずっと前から、海が本当は男の子であることを、本能的に気付いていたのかもしれません。
 できることならば、もっと早く、本当のことを教えてほしかった。私は彼の全てを受け入れていたはずだし、私は彼を、友人ではなく恋人としてクラスメイトたちに紹介していた、そんな世界線が存在したかもしれない。だとしたら、誰一人死ぬことはなかったのです。
 でも、乙軒島に来て、私と同じ部屋で夜を過ごしたことによって、彼の中の男性としての意識が目覚めたのなら、やはり無理だったのでしょうか。それも、今となっては、もう確かめようがありません。

 そもそも、彼をクラスメイトたちに引き合わせようとしたのが、おそらく最大の間違いだったのです。私は海にもっとたくさん友達を作ってあげたかった。けれど、私が連れて来たクラスメイトたちは海とどう接したらいいのか迷っているように感じていましたし、私も手話に必死で、海と彼女たちの間を上手く取り持てていませんでした。
 その最たる例が、砂浜でのスイカ割りです。
 思い付きでスイカ割りを提案したのは私でした。でも、冷蔵庫からスイカを取り出して砂浜に運んでいる最中、私は気付いてしまったのです。耳が聴こえず声も出せない海は、スイカ割りに参加することができないのだと。
 そもそも、もし万が一溺れたりして誰も気付かなければ危険だからと、彼は海にも入っていませんでした。ずっと退屈だったに違いありません。その上、こんな仲間外れみたいなことを――。
 やっぱりスイカ割りはやめようと言い出す間もなく、準備はあっという間に整ってしまった。
 スイカ割りを楽しむ私たちの姿を、海は無表情で見つめていました。私は彼に対して申し訳ない気持ちでいっぱいで、激しい後悔に襲われて――。
 その日の夜、彼に昼間のことを謝ると、海は笑って許してくれました。彼は本当に優しかった。クラスメイトたちが内心では彼を邪魔だと思っていたことにすら気付かない、愚かな私に対しても。
 
 と、その時。
 何気なく窓の外を見ると、一艘の白いボートが乙軒島に近付いてくるのが見えました。きっと、錦野さんが言っていた通り、こちらからの連絡がないことを心配した最寄りの島の住民が、様子を見に来てくれたのでしょう。
 波一つない穏やかな青い海のキャンパスに、ボートの軌跡が一筋の白い泡のラインを引いていきます。

 私は屋敷を出て、無数のゴミが打ち上げられた砂浜に立ち、ゆるやかに寄せては返す波へと足を踏み入れました。
 彼が眠っているかもしれない海。水温は意外に温かく、昨夜私を包み込んだ彼の温もりが蘇ってきます。
 海との思い出を胸に抱きながら、私は目を閉じ、静かに祈りを捧げました。
 どんな形でもいい。彼が、どこかで生きていますように。そして、再び会えますように――と。


 それから数分後。ボートに乗ってやってきた中年男性の野太い声によって、静寂は破られました。

「お~い! お嬢ちゃん! 大丈夫だったかぁ~!」
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